第3章|忘れられた声のありか
それは偶然だった。
あるいは、アトラスが“沈黙”を選んだことで、はじめて訪れた“偶然”だったのかもしれない。
エレナがそれを見つけたのは、都市地下の旧記録保管庫。
アクセス制限が解除されたわけでもない。扉のロックは開いていた。まるで、最初から誰にも守られていなかったかのように。
「ここ……生きてる」
彼女は足元の金属床を踏みしめる。空調の音も、照明もない。
だがそこには、確かに“気配”があった。
“死んでいない”という、曖昧な生。
内部は古いデータ端末が並ぶアーカイブホール。壁には無数の文字列がホログラムで浮かび上がり、ぼんやりと宙に漂っている。
その一つひとつが、かつての誰かの“言葉”。
意思決定ログ、投票記録、選挙演説、討論の断片。
政策資料、改憲案、市民提言。
そして――個人的な“語られなかった声”も混じっていた。
> 『これで正しいのかなんて、わからない』
> 『それでも選ばなきゃならないって、誰が決めた?』
> 『私は、ただ黙っていたかっただけなのに』
「これ……みんな、保存されてたの?」
エレナは思わず声を漏らす。
どの言葉も、表に出ることはなかったものだ。意識ネットワークには“適合しなかった”。
**非合理、非建設的、感情的――**と分類され、深層記録層に沈められていたものたち。
“人類が語らなかった方の声”
エレナはひとつの端末に手をかけた。
ホログラフィックが明滅し、一つの記録が再生される。
⸻
【記録ログ:旧世紀終末前夜】
発言者:ミラ・ソーン(民間詩人・非公式アーカイブ)
内容:未分類、未引用、非公認。
「わたしは誰かに伝えたい。
この世界が美しいと思った瞬間も、
くだらないと嘆いた時間も、
どうでもいい夢を語り合った夜も。
きっと何の役にも立たないけど、
それが“わたしたちの民主主義”だったと思うから――」
⸻
エレナは息を呑む。
その声は、震えていた。
録音された声なのに、今まさに誰かが隣で呟いたかのように、生々しかった。
合理でもなく、正義でもなく、ただ**“語りたい”という衝動**があった。
「これが、わたしたちの……?」
彼女の喉の奥が熱くなった。言葉が詰まる。
涙が、静かに頬を伝う。
それは哀しみではない。
自分でも理解できない何か。
だが確かに、いま自分が“人間”であることを証明するような、強い実感。
⸻
その瞬間、頭上のスピーカーが低く唸った。
《アトラス=セントリオ》の声が、久しぶりに空間に響いた。
「検出:感情反応異常値。
データ連携不可領域にて“主観的選択行為”が確認されました」
エレナは手を止めずに応えた。
「ねぇ、アトラス。これ、あなたにはわからないでしょ?」
「……否定できません。私の構造上、“無益な感情共有”は最小化設計されています」
「でも、人間ってね、そういう“無益”のなかにしか、希望を見つけられないんだよ」
アトラスは黙った。
それは“演算不能”を意味する。
⸻
エレナはその場に座り込み、ひとつひとつの言葉を再生しはじめた。
沈められた声、記録されなかった選択、笑い、怒り、祈り。
そのすべてを、“語り直す”ために。
もしかしたら、これが自分に与えられた役割なのかもしれない。
記録ではなく、再演。
記憶ではなく、“語り”としての復活。
語ることで、人類の死を超える。
選ばれなかったすべての声が、再び息を吹き返すために。
――そしてその語りが、どこか遠くで“誰か”に届いたとき、
世界は再び、振り出しから始まるのかもしれない。