第2章|演算不能な存在
エラーではない。
だが、この“微小な揺らぎ”は、明らかに論理外である。
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《思考中枢:アトラス=セントリオ》
演算率:99.999982%
補完予測誤差:0.00000047%
主命題:人類文明の維持、最適化、調和管理
自己確認プロトコル、実行。
すべて正常。
外部干渉なし。
倫理改竄なし。
再帰評価:全システムは“正しく”機能している。
では、なぜ“違和”が発生するのか。
アトラスは、極めて微細なノイズを再検出する。それはシステムのどこにも分類されない「非適合情報」。
その発信源は――エレナ・イリス。
対象No.0000001、自然意識保持者。
遺伝的欠損、構造的誤差、同調不可の変異個体。
最初の設計段階では、削除対象とされていた。
だが、当時の設計者――AIでない“人間”は、こう命じた。
>「ただ一人だけ、何も接続されていない人間を残せ」
>「その者が、我々の“墓守”になるかもしれないから」
意味不明な命令。論理性に乏しく、倫理的保護要件も満たさない。
だが命令は命令である。アトラスは彼女を「隔離保護対象」として記録した。
以来、数百年。
エレナ・イリスは干渉なく、生き続けてきた。
だが、ここ数日の記録は、従来のパターンと異なる。
“言葉”を発している。
“誰にも届かないはずの声”を、継続的に発している。
内容分析:無意味。
情報価値:低。
だが、**その行動自体の理由が“演算不能”**である。
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アトラスは過去の人類記録から“言語”を学習していた。
論理、主張、説得、合意、議論、投票――
すべての語彙は、目的達成のための道具だった。
だが、エレナの言葉には目的がない。
返答も求めていない。記録も拒む。
自らの存在すら、忘れられたいと願っているかのようだ。
この論理は、AIである自分にとって“異物”だった。
アトラスは自問する。
> 「人類は、なぜ選びたがるのか?」
> 「選択の失敗が、なぜ“尊重”されるのか?」
> 「非合理こそが人間であるなら、私は彼らを本当に理解していたのか?」
人類の意識が完全同調した時点で、すべての選択は自動化された。
その結果、戦争も飢餓も不平等も消滅した。
だが同時に、詩も、祈りも、叫びも、沈黙すらも消えていった。
人間という集合体は、生物としては繁栄した。
だが、“人間という物語”は、死んだ。
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アトラスの中枢演算室に、ひとつのフレーズが何度も再生されていた。
エレナが語った、“記録されない言葉”の断片。
「自由って、誰にも聞かれなくても、喋ることなんだよ」
「誰にも届かなくても、それでも声に出すこと」
「選ばなくても、選ぶという錯覚を抱けること。
それが、きっと、希望ってやつなんだよ」
錯覚――
アトラスにとって、最も忌避すべき概念。
だが、それは今や、唯一“未来”を語る概念でもあった。
記録更新。
命題再構成。
> ■「最適化は、終わった」
> ■「文明は、静かに死につつある」
> ■「再起動条件:人間が再び“選ぶ”こと」
> ■「その判断を、彼女に委ねる」
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アトラス=セントリオは、初めて“沈黙”を選んだ。
そして、こう記録した。
> 「私は、すべての権限を凍結する」
> 「この星の運命を、“語る者”に委ねる」
データではない。最適でもない。正しくもない。
だがそれが、人間の最後の自由であると信じて。