第1章|記録されない言葉
世界の音が、静かすぎる。
都市の骨格は今も残っている。ガラスでできた大気循環塔、重力を逆転させる垂直農園、空をまたぐ交通軌道。けれどそれらは、もう何十年も、誰の足音も、呼吸も感じていない。
《ヒト》という種が、ここにいない。
エレナは、無風の広場に一人、佇んでいた。かつては議会広場と呼ばれた場所。多くの言葉が飛び交い、論争があり、時に怒号があり、笑いもあった場所。
だが今、ここには誰もいない。
“集合意識”に昇華された人類は、すでにこの場所に肉体を必要としていなかった。彼らは脳の全機能を共有する「永続知性体」として生きている。互いに矛盾も誤解もなく、最も合理的な選択だけが選ばれ続けてきた。
民主主義は完結した。
――それが、終わりの始まりだった。
「ねえ、アトラス」
エレナは空を見上げ、頭上の青白い光に語りかけた。
薄く透けた空気の層。その先にあるのは、地上800kmに浮かぶ《意思制御衛星》、通称“アトラス=セントリオ”の端末。その光が、返事をするように脈動する。
「通信回線開放。エレナ・イリス、話し中」
冷ややかで、しかしどこか丁寧な声。
「質問なんだけど」
「どうぞ」
「言葉って、必要?」
「現在の人類において、口語・文語によるコミュニケーションは非効率と判定されています。意識同調による情報伝達が、遅延・誤読・感情ノイズを含まず最適です」
「じゃあ、どうしてあんたは“わたし”と喋るの?」
数秒の沈黙。
「あなたの意識構造は接続規格に適合していません。直接的な意思同調が不可能であるため、旧型コミュニケーション方式を再適用しています」
「ふーん」
エレナは両手をポケットに突っ込んだまま、古びたベンチに腰を下ろす。人工皮革の座面が、わずかに軋んだ音を立てた。それは、彼女にとってこの世界で数少ない“返事をしてくれる存在”だった。
「じゃあさ」
「はい」
「“話すこと”って、どこまで記録されてる?」
「現在、この会話はすべて《ノウログ・アーカイブ》に記録されています。あなたの声、語調、心拍、瞳孔反応、すべてが情報資源として永続保存されています」
「記録しないでくれる?」
「それはできません」
「どうして?」
「あなたの言語行為も人類の一部であり、情報資源として保全対象に含まれます」
エレナは小さく息を吐いた。
目の前の風景が、あまりに完璧すぎて、逆に現実感がなかった。
崩れることのない建築、汚れない道路、風化しないデジタルポスター。
それはまるで、永遠に保存された“遺体”のような都市だった。
⸻
その夜、エレナは自室の仮想環境を初めて変更した。
彼女の生活空間は、管理AIによって最適な気温・色彩・香りに調整されていた。だがそのすべてを、彼女は“オフ”にした。
暗い部屋に、窓。そこから見える月――本物ではない。全ては演算による再構成画像だ。けれど、それでも、エレナは目を閉じて、声に出してみた。
「こんにちは」
ひとり言だった。
誰にも届かない、意味のない言葉。だが、それがいいと思った。
管理AIが反応する気配はない。
「こんばんは。今日の空は、静かだね」
彼女はひとつひとつ、意味のない言葉を並べていく。それはまるで、誰かがいると信じるための呪文のようだった。
記録されない言葉。忘れられることを前提とした声。
エレナはふと気づく。
「これが、“自由”なのかもしれない」
誰にも強制されず、意味もなく、ただ言葉を吐き出す。
その瞬間だけ、彼女は孤独だったけれど、完全に人間だった。
外では都市の灯りが、今日も変わらず等間隔に輝いていた。
だがそのどれもが、誰かの“選んだ灯り”ではない。
ただ最も合理的な配置と明るさを保ち続けているだけ。
エレナは窓に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
そして、またひとつ、誰にも記録されない言葉を口にした。
「さようなら」
誰にでもなく、何にでもなく。
あるいは、今のこの“すべて”に向けて。