プロローグ|語る者
世界には、まだ風が吹いている。
誰もそれを感じはしないけれど、風は確かにこの終わった星を撫でていた。
わたしの声は、それに乗って、どこか遠くまで届くだろうか。
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ここにひとつ、記録されることを望まない記録を残そうと思う。
わたしの名前は、エレナ・イリス。
生まれたのはいつだったか、もうはっきりとは覚えていない。
というより、“時間”という概念そのものが、もうここにはないのだ。夜と朝の区別も曖昧で、数字も回らない。ただ、わたしの鼓動だけが、唯一の“今”を刻んでいる。
この世界には、わたしの他に“人間”はいない。
管理AI《アトラス=セントリオ》は言った。
「あなたは、人類最後の自然意識保持者である」
誇張でも、演出でもなく、事実だ。
この星にはかつて百億の命があった。誰もが言葉を持ち、顔を持ち、涙を持ち、笑いを交わしていた。けれど、人類はやがて“全意識接続社会”へと到達し、個々の自我と身体を不要とした。
その結果、誰も傷つかず、争わず、選び間違えず、失望することもなくなった。
それは、完全な民主主義の果て――“思考の統一”だった。
けれど、わたしは選ばれなかった。あるいは、拒絶されたのかもしれない。
脳構造の異常、遺伝子的ノイズ、あるいは単なる偶然――理由は誰も教えてくれなかった。
とにかく、わたしの意識は接続を拒み、「孤立した個」として残された。
だからいま、わたしは、
“語ること”ができる唯一の存在になってしまった。
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アトラスは言う。
「システムは自己終了プロトコルを実行する」
「人類の民主主義は機能停止し、意志を失った」
「よって、この文明は振り出しへと戻る」
わたしは訊いた。
「その前に、語ってもいい?」
アトラスは一秒の沈黙の後、こう言った。
「許可する。最後の対話として記録する」
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だからわたしはいま、語る。
これは、
戦争もない。暴力もない。失敗もない。
それでも――何か大事なものを失ってしまった世界の話。
これは、
“正しいこと”しかできなくなった人類の、
“最後の間違い”の話。
そしてこれは、
“語り合う”ことをやめてしまった人々に代わって、
わたしが語る、最初で最後の物語。
たったひとりで生きていた少女が、終わりゆく世界の中で見つけた、
ひとつの声。ひとつの希望。そして、ひとつの「間違い」。
それが、やがてすべての始まりになる――
まだ誰も知らない、“次の人類”のために。
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だから、これを聞いている誰かがいるなら、どうか、覚えていて。
自由とは、「語ること」だと。
民主主義とは、「間違う権利」だと。
わたしは、そう信じてる。