1.婚約者を寝取られた王太子
シャイエ侯爵令嬢であるリディアーヌの婚約が調ったのは彼女がもう間もなく十九になろうかという頃で、貴族令嬢としてはいささか出遅れたものであった。
相手はこの国の王太子、クロヴィス・メルシアン、年は二十三。次期国王であれば婚姻を済ませていてもおかしくはない年齢にもかかわらず、いまだ婚約にとどまっているその理由は、
王太子が婚約者を寝取られるという一大スキャンダルの結果であった。
メルシアン王国の王太子、クロヴィス・メルシアンの婚約者はミラリア・アルロー、アルロー公爵家の次女であった。
クロヴィスはミラリアと初めてあった日を今でも覚えている。丁寧に巻き上げられたヘアスタイルは彼女の華やかな雰囲気にとても似合っていた。
「初めまして、ミラリア・アルローにございます」
大人顔負けの美しいカーテシーでクロヴィスとその背後に立つ王、王妃に臆することなく堂々と挨拶をしてみせたミラリアは、次期王妃に相応しい器の持ち主だと感心をしたものだ。
「クロヴィスだ、婚約者として仲良くしていければと思っている」
口上の後、クロヴィスはミラリアの手を取り指先に口づけをしたのだが、それまで落着き払っていた彼女は急に頬を染め、年相応の少女のように恥じらった。そのギャップにクロヴィスはすっかり夢中になってしまい、ふたりが、誰もが羨む程の仲睦まじい婚約者同士となるのに時間はかからなかった。
次期国王、王妃として迎えた幾度目かの建国祭初日。
その日は各国の要人を招いての夜会が開かれる習わしとなっており、クロヴィスは当然、ミラリアを伴って参加した。
今夜、ミラリアが身に着けているドレスは事前にクロヴィスが贈ったものだ。ドレスには、クロヴィスのサファイアアイを連想させる鮮やかな青色の生地に、これまた彼のブロンドを意味する金糸の刺繡が施されている。
クロヴィスは、彼の独占欲丸出しの衣装に身を包み、艶やかな微笑みを見せているミラリアを満足げに眺めた。
「そんな風にじろじろ見るなんてマナー違反ですわ」
ミラリアはクロヴィスに近づき、ふたりにだけ聞こえるような小さな声で注意をしたのだが、婚約者に惚れ込んでいる男にはそれすらも睦言のようで、
「愛する女性を前にマナーなど必要だろうか」
と、口づけでもしそうな距離でささやいた。
「ふふ。ここでは駄目よ、お化粧が崩れてしまう」
「つまりこの場でなければいいということだな?」
艶めいたクロヴィスの物言いをミラリアはさらりとかわした。
「いけません。わたくしたちはホストとしてお客様のおもてなしをしなくては」
ミラリアはクロヴィスの腕を引くと、彼に帝国の要人に声をかけるよう促した。
「ハーパス大臣、本日は遠いところお越しくださいましてありがとうございます」
帝国はこの世界で一、二を争う大国。彼はその代表として来訪しており、一国の王太子として挨拶はしておかねばならない相手だった。
「これはこれはクロヴィス殿下、ご機嫌麗しゅう。こちらこそ、お招きいただきましてありがとうございます」
ハーパスは帝国の重要ポストを担う大臣ではあるが、正直、メルシアン側は彼の来訪を予想していなかった。
彼は諸国との間に摩擦が生じた際の火消し役を担うことが多く、平たくいうならトラブル解決人だ。今、メルシアンと帝国の間にはこれといった問題は抱えておらず、彼が出張ってくるような案件は発生していない。
それともメルシアン側が把握していない事情があるのだろうか。そのあたりの探りを入れてみたかったのだが、彼は要人らしく柔和なだけの微笑を崩さない。
「ハーパス殿が我が国の式典にお越しくださるとは光栄ですね」
「いや、たまには息抜きをと思いまして、陛下に願い出たのです」
言葉通りに受け取るような愚か者はこの夜会に参加することすらできないだろう。彼がなんらかの意図を持って来訪していることは明らかではあったが、果たしてなにを企んでいるのか。
「そういうことでしたら療養地に滞在されては?ご利用いただけるよう話を通しておきましょう」
クロヴィスの知らないところで暗躍されては困ると王都から離れるよう勧めてみた。もちろん承知するとは思っていないが、拒否の度合いで主君の命令がどれほどのものか、ある程度の予測はつく。
「それは有難いお申し出。早速、明日にでも向かってよろしいでしょうか」
予想に反して大臣は諸手を挙げて喜んでいる。
「もちろん構いません」
肩透かしをくらったかたちではあったが、クロヴィスは何食わぬ顔で従者のひとりに目くばせで手配を命じ、翌日、大臣はその言葉通り、随行の者たちすべてを連れて療養地にある屋敷へと移っていった。
療養地に閉じ込めておけば問題は起きないだろうとは思ったが、念のため、屋敷を管理している者に、最低でも一日に一回、彼らの様子を報告をするようにと命じた。
大臣が屋敷に入ってから四日目の報告書にミラリアが屋敷を訪れた、という記述があった。
華やかなミラリアは社交を得意としており、特に自らがホステス役の集まりでは招待客への細やかな気配りができることに定評がある。警戒心から療養地へと追いやった者だとしてもミラリアにとってはもてなすべき招待客の一員なのだろう。
王太子の婚約者である彼女の心づくしならば悪いほうへ転ぶことはなかろうと判断し、クロヴィスはその一文を気にすることはしなかった。
それから何事もなく建国祭の期間が過ぎ、各国の要人はそれぞれの国へと帰っていった。
日常が戻ってきたところで、クロヴィスは久しぶりにミラリアとゆっくり過ごそうと思い、彼女を王宮に招くことにした。
王族と王族が許可した者しか立ち入ることができない庭園内のガゼボにもてなしの準備をするようにとクロヴィスは命じた。
どこで聞きつけたのか、料理人はミラリアの好きな焼き菓子を用意しており、彼女の喜ぶ様が目に浮かぶようだと思わず顔をほころばせたクロヴィスであった。
クロヴィスがガゼボに着いてしばらくしてからミラリアは姿を現した。
「ごきげんよう」
そう口にしたミラリアではあったがその表情は暗い。少なくともクロヴィスの前では艶やかな微笑みを絶やすことのなかった彼女だったからひどく心配になった。
「大丈夫か?体調が悪いなら誘いは断ってくれてよかったのに」
とりあえず座らせようと彼女に手を伸ばしたクロヴィスだったが、ミラリアは身を引くことでそれを拒否した。
この意味を理解できないクロヴィスは驚くことしかできない。
「ミラ?」
「殿下、わたくし、お詫びせねばなりません」
「詫びるってなにを?」
クロヴィスの問いにミラリアは震える身をかばうように、両手で体を抱きしめるようなしぐさで言った。
「わたくし、殿下ではない方と一夜を共にしました」
ミラリアの告白にクロヴィスは最初、何を言われたのか理解できなかった。
しかし徐々にその言葉の意味が脳内に浸透していくと、次に訪れたのは激しい怒りで震えるミラリアを前に大声で怒鳴った。
「何があった?誰がミラに無体を強いた!」
感情のままに怒りを爆発させたクロヴィスにミラリアはハッとして顔をあげ、首を振った。
「違います、あの方は乱暴などいたしませんわ」
その一言でクロヴィスはすべてを理解した。ミラリアは自ら望んでクロヴィス以外の男にその身を捧げたのだ。
だが、いつ彼女がそんな男と出会ったのか。
艶やかな美を持つミラリアが誰にも奪われないようにクロヴィスは常に周囲をけん制してきたし、自らの色で染め上げたドレスをミラリアに着させていたのもそういう理由があったからだ。もっとも王太子の婚約者に手を出そうなどという不届き者は今までおらず、だから余計に怒りが増した。
愛するミラリアの心を一瞬で奪ったのはどこのどいつなのか。何故、彼女は自分を裏切ったのか。
「相手は誰だ?」
クロヴィスの詰問にもミラリアは首を振り、お許しください、と言い、とうとう泣き出した。
「王太子の婚約者を奪ったのだぞ?許せるわけがない」
「彼はなにも悪くないわ、彼に惹かれたわたくしが悪いのです」
相手の男を必死に庇うミラリアにクロヴィスは怒りのままに言った。
「帰ってくれ、君の顔は二度と見たくない」
「ごめんなさい、クロヴィス」
ミラリアはつぶやくようにそう言ってその場から姿を消し、あとに残ったクロヴィスはガゼボの椅子にぐったりと座り込むことしかできなかった。
ミラリアの裏切りはその日のうちに国王の知るところとなった。
別に純潔でなくとも王家に嫁ぐことはできる。しかし托卵は絶対にさせられない為、ミラリアが身ごもっていないことを証明する期間が必要で、少なくともふた月後に予定していた結婚式は取りやめなければならない。
すでに各国への招待状は発送が済んでおり、このタイミングでの延期となれば勘ぐられることは避けられなかった。
「どうしたものか」
夜、国王の私室に呼ばれたクロヴィスはため息交じりにそう問われ、考えていたことを口にした。
「わたしはミラを許したいと思います」
「それでよいのか?」
「はい。アルロー公爵家には大きな貸しとなりますし、悪いことばかりではありません」
ミラリアは自ら体を許した。だとすれば彼女の気持ちはもうクロヴィスにはないか、あったとしても浮気相手への恋慕がついて回ることになる。
それでもミラリアは彼が初めて心から愛した女性で、クロヴィスに彼女をあきらめるという選択肢はなく、卑怯であることは重々承知の上で王太子の婚約者という立場に縛り付けることにしたのだ。
クロヴィスの決断を受け、国王は翌日、アルロー公爵とミラリアを招集し、
「何事もなかったのだから気にする必要ない」
と告げた。
しかし、それに対してアルロー公爵はハンカチで額の汗を拭いながらも言った。
「それが、相手の男から、その、結婚の申し込みがまいりまして」
「そんなもの、無視すればよい!」
ミラリアとの婚約はまだ解消していない。王太子という正式な婚約者がいながら、他に目移りするような発言をした公爵に苛立った声を上げたクロヴィスであったが、国王は冷静に問うた。
「相手は?」
怒りもせず、落胆も見せない国王の態度にさすがの公爵もひるんだが、もとより隠し立てをするつもりのなかった彼はあっさりと白状した。
「帝国の第三王子、オルガ・デュエリ殿下でございます」
「なんだと?!」
クロヴィスは驚きのあまり声をあげ、思わずミラリアに視線を移したが、彼女は顔を伏せていてその表情までは読み取れなかった。
「アルロー公爵、ミラリアとふたりで話がしたいのだが、いいだろうか」
しばらくの瞑目の後、クロヴィスは公爵に申し出た。彼は少し難しい顔をしてから、
「侍女をお連れください」
と条件付きで許可をした。
ミラリアとクロヴィスは婚約しているのだから二人きりになってもなんの問題もない。
しかしわざわざ侍女同伴を願い出たということは、彼の中ではミラリアをクロヴィスと結婚させない未来もあると言っている。
帝国と縁づくほうが利益が大きいと踏んだのだろう。王太子が軽んじられるなど、あってはならないことだ。
公爵の申し出にクロヴィスはもちろん、国王も眉をひそめたが、明確な言葉にすれば大事になりかねない。先ほど述べたように国王としては今回の出来事を何事もなかったこととして処理したい。
自ら墓穴を掘るような真似は避けるべきであり、今は、侍女を伴って庭園へと向かったふたりの後姿を見送ることにしたのだった。
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