黄昏の別れ
「今まで治療を試みてきましたが、残念ながら、娘さんの声が戻ることはないでしょう」
ある日の診察で、母と一緒に来たミシトにそう告げられた。どこかで分かっていたことだが、それはやはりショックで、心にどうしようもない空虚な穴が開いた心地だった。母とだけ話があると医者の先生は言い、ミシトは診察室を後にする。
筆談用のノートを力無く抱きかかえながらどこへ向かうでもなくとぼとぼと歩く。そのノートには、フィーリエがステージでドレスを着て、歌を奏でる未来の絵を描いていた。本当はその隣に自分も歌姫になって一緒に歌っている絵を描きたかった。でも描けなかった。それは所詮泡沫に消える夢想だから。今日それを改めて痛感した。
歌声が聴こえてきた。ミシトが大好きな、親友の、歌姫の歌が。でもその響きは空虚な穴が開いてしまった今の心の自分には、抱きたくない感情を湧きあがらせるものであった。フィーリエは自分にはないものを持っているという、嫉妬が。しかし足は気付いたら声のする方、中庭に近づいていた。そこには一人、舞い踊りながら歌を奏でるフィーリエの姿が。とても楽しそうな笑顔が見えた。その美しい姿も、歌声も、今のミシトにとっては心を不穏にする不協和音のように感じてしまった。そう感じてしまうことを自覚してより険悪な感情がミシトを襲う。
「あ! ミシト! こっち来なよ!」
フィーリエが遠目でその姿を見ていたミシトを見つけ大きく手を振り快活な声で呼んでいる。今ミシトは、こんな心持でフィーリエの隣には行きたくなかった。嫉妬から毒を吐きそうだったから。しかし吐く声もないという苛立ち。その吐き出せない毒がミシトの内で淀んでいく。淀み溜まっていく毒の様な感情は片手で握るペンのインクに変わり、すべての負の感情をぶちまけてしまいそうであった。ミシトがそうして自分の感情と戦っていると、フィーリエの方から駆け寄りやってきた。その姿はあたたかく眩しく、自分の闇がより際立ってしまうかのようであった。感情が抑えきれそうになかった。
「ミシト! あの時計塔のさ! あの時の事思い出しながら歌うといつもよりとっても気持ちよく歌えるよ!」
──やめて……今はダメなの……そんな明るく照らさないで……。
ノートとペンを握る手に力が加わる。
「ミシトのおかげだよ! またこっそり時計塔に行きたいな! 一緒に! でさ! いつかさ! そこで一緒にさ!」
──やめて……苦しい……言わないで……やめて!
「歌おうよ!」
自分にしか聞こえない叫び声をミシトは上げる。決壊した感情は握ったペンへと染み出し、言葉をノートに書きなぐる。その言葉は自分の中で反芻し響き軋む。
──わたしはあなたみたいにうたえない!
本当は伝えたくなかった想い。しかし書かずにいたら自分が完全に壊れてしまいそうだった。その吐き出した感情が綴られたノートをフィーリエの足元に投げ捨て、走り出し逃げ出した。そのノートの今まで書かれたフィーリエとの会話、楽しい夢の絵は、今のミシトを苦しめる優しい光に変わってしまった。光で浮き彫りになる自分の病んだ影。その影に溺れたくなかった。だから光に近寄りたくなかった。
それ以来、ミシトは病院に足を運ばなくなった。家で塞ぎ込んで過ごすばかりになっていた。母は、娘の心境を察してとやかく言ってくることはなかった。ただ寄り添って優しく頭を撫でてくれた。それはミシトにとって心を安らげていくものであった。たまには外の空気でも吸ってきたら?と母が提案するので、ある日の夕方久しぶりに外へ出た。ノートもペンも持たずに。どのみち誰とも話す心持ではなかったからである。
あまり人通りの多くない道を、俯きながらとぼとぼ歩いていた。どこへ向かうわけでも、どこへ行きたいわけでもなかった。しかし、気づいたら時計塔の元へ辿り着いていた。ここは自分にとってお気に入りの場所。ここの屋上に行ったのはフィーリエと楽しく、仲良く過ごしたあの日が最後であった。ミシトは一人時計塔の内部に入り、階段を上り始めた。屋上から見える、あの黄昏時の橙色を眺め、自分の中の消化できない想いのわだかまりを溶かしてしまいたかった。フィーリエにぶつけてしまった自分の負の想い。その時の事が心にこびりついて離れない。
──フィーリエ……どうしてるかな。
声が出ない自分を受け入れてくれた、美しく心揺さぶる歌声を持つ、ミシトにとってかけがえのない自慢の親友。いつか、ちゃんと謝らなければという想いがミシトに湧きあがる。
屋上に繋がる扉に手を掛けようとしたその時、微かに扉の向こう側から歌声が響いてきた。それは聞き間違う事の無い、親友の美しい歌声。哀しみが響く歌声。扉を開ける手が躊躇する。今は想いを伝えるためのノートもペンも持ってこなかった。何よりフィーリエに会うのが怖かった。彼女が自分を許してくれるかという不安ではなく、またあの時の様な嫉妬が湧きあがってしまうのではないかという恐怖に。
すると、微かに聴こえていた歌声が突然途絶えてしまった。どうしたのだろうと、いまだに扉を開けることが出来ず逡巡してしまったが、脳裏に胸を押さえて苦しむフィーリエの姿が過った。
──フィーリエ!
切迫的な衝動に押され、扉を勢いよく開く。眼前、屋上の端では胸を押さえて苦しむ金髪の少女がいた。
──フィーリエ!
心の内で必死に響かせた言葉を届ける術はない。駆け寄る足音に気づき振り向く、涙が頬をひどく伝う程流れている、金髪の歌姫、フィーリエ。
懸命に伸ばし、彼女を支えようとした手は、空を掴む。声が出ないほど苦しむフィーリエは、無情な重力に逆らうことが出来ず、力なく倒れ、ミシトの視界から消え去る。
手は届かなかった。ミシトは状況を理解できず、むしろしたくないまま必死に時計塔の階段を駆け下りる。途中躓き何段か滑り落ち、赤い額縁の眼鏡を落としても、あちこちに傷を負っても、歯を食いしばって立ち上がり、時計塔の元へ、フィーリエがいる場所へ、足を運び続ける。
──フィーリエ……フィーリエ!
地上に辿り着き、外へと繋がる扉を開ける。そこにはフィーリエが横たわっていた。血が水たまりの様に染み出していた。
「ぁ……ぁ……」
声は出なかった。力なく横たわるフィーリエに近寄り、膝をつき抱きかかえる。血濡れの歌姫を。
──私が……ここの事を教えたせいだ……手が届かなかったせいだ……私が、私が……。
抱きかかえられ、その命の煌めきを失ったフィーリエの血から不思議な紋様が浮かぶ上がり、宙を漂い、ミシトの周りを覆っていた。しかしミシトはその事には気づかない。ただただ親友を自分のせいで失ってしまったという罪の意識が感情を決壊させようとしていた。叫び出しそうであった。
紋様は何かを感じ取ったのか、急に動きを止めた。そして今にも叫び出しそうな白銀色の髪をしたミシトの首元へ流れ始める。紋様が刻まれた。フィーリエの死によって生まれ、この地に残された想いが。
ミシトは自分に紋様が刻まれた事などその時は気づいていなかった。周囲に人々が集まり始めていた。状況を察し、ざわざわ騒ぎ始める者が多く出始めた。
しかしその喧騒は一瞬にして消え去った。歌声が響いたのだ。とてつもなく美しく、悲しい懺悔の歌が。血濡れたフィーリエを抱きかかえた、声の出ないはずだったミシトから。それは感情が決壊した無意識の叫びの歌だった。とてつもなく澄んだ響きが周囲の人々の心まで揺さぶっていく。純粋な悲しみが伝播していく。皆涙を流していた。その中にはこの都市で大きな劇場を運営する者もいた。
新たに誕生した歌姫から少し離れたところに一冊のノートが開かれ落ちていた。そのページにはミシトが描いた金髪でいて素敵なドレスを着て歌う歌姫の姿が。そうしてこうフィーリエの文字で書かれていた。
──しんゆうとのやくそく!
歌声はまだ響いている。その場から立ち去れるものは誰一人としていなかった。




