無茶を
魔女。
それはある日突然この世界に出現した。黒い霧を撒き散らし、犬も猫も人さえも飲み込んで――いや、飲み込ませてしまう。
黒霧を吸い込めば、魔女の眷属に成り下がる。そして、処置も出来ず長くそのままであれば――血すら黒く染まって戻ってこられなくなる。魔女の配下を増やそうと、新しい仲間を増やそうと、こちらに敵意まで持つのだから困ったものだ。
――私はそうなりたくない。
開きっぱなしの口から黒霧を垂れ流しにして、濁った瞳でこちらに向ける殺意はまるでゾンビ映画のそれだ。ゾンビは黒霧なんて吐かないだろうけれど。
ああいうのは現実じゃないと思えた時も、私の両親世代が子供の頃はあったのだろう。だけど、私の生まれたこの世界はゾンビ映画真っ只中だった。人が人に噛みついて霧で感染して、増えていくゾンビ。なんてこった。
そして、そんな腐りかけの世界に生まれ落ちた私はそのゾンビ製造機である魔女と戦うために存在する。
周囲の住民は地下シェルターに避難済みで、私はひと気のない物陰で銃弾を詰めていた。
ピピピ、と小さな電子音が耳元で――正しくは骨を震わせて――聞こえ、マスクについたスイッチに触れる。
『弾はまだあるか』
「もう一体撃ち落とすくらいは、どうにか」
黒霧対策のマスクはそのままマイクにもなっていて、小さくぼそぼそと喋っても相手には十分聞こえる。出来る限り息を潜めながら、状況と魔女の位置を隊に伝える。ちらと影から片目を出すと、そこには魔女が浮いて黒霧を撒き散らしながらゆらゆらと移動していた。
神出鬼没。最近ようやく出てくる前兆を検知が出来るようになったとはいえ、まだまだ精度はお粗末なもの。
今回だってそうだ。一体の魔女が出現との報告を受けて出動、撃破、採取した魔女の欠片を解析に回すって話をしている真っ最中、ど真ん前にあの魔女は現れた。めちゃくちゃに遅れに遅れて手遅れになった『出現の前兆!』といった通信に隊長がブチ切れるよりも先に私たちは散り散りになって逃げ、今は隠れている。
装備品もまだ残っているが十分ではない。それは私だけではなく隊の全員が抱えている問題のようだ。私たち後衛が撃つ、魔女への決定打である対魔女弾も少なければ、前に出て魔女の体力や装甲を削ってくれる近接組のマスクフィルターもそろそろ限界のようだ。
それでも私たちは戦わなければならない。
応援部隊が到着するその時まででいい、戦わなければならない。そうでないと他の誰かが犠牲になってしまう。それだけは、それだけは――。
もう一度影から魔女を見る。魔女はゆらゆらと同じ場所を行き来しているだけだ。
魔女とは呼ぶものの、あれは決して女にはあらず、だ。そもそも人の形すらしていない。
それでも私たちが魔女と呼ぶのは、あれらの共通した姿だ。黒霧を生み出す器官が、スカートだかローブだか、そういったものに見えないこともないのだ。それだけで魔女と呼ぶのはどうかとも思うのだが、箒にも跨がらずふわふわと浮いていたり、魔法とは言わないが有り得ない能力を見せつけてきたりと、ゾンビというよりは確かに魔女である。
と、魔女がローブをぶわりと大きく広げたのが見えた。
「イの五へ向けて、威嚇行動。誰か見つかったか?」
頭に上げていたゴーグルを下ろした。レンズの内側の端っこには地図が見えていて、イの五とエリア分けされた場所が拡大される。
『――っ! そこには、負傷者が!』
その言葉を聞くよりも早く、私は銃を構えていた。銃と連動してゴーグルに照準が現れ、視界の倍率が変わる。黒い霧を吐き出し始めた魔女に素早く照準を合わせ、引き金に指をかける。
「逃げられるか!」
『誰――助け――』
雑音混じりの悲鳴に答えるように、指に力をこめた。
対魔女用の弾丸が真っ直ぐ放たれた。
狙撃用だ、威力も高い。
一呼吸もないうちに着弾。
――ただ、弾丸は魔女の外皮に触れて弾けて粉を撒き散らした。
弾の中身は薬品だ。魔女や黒霧に対抗するために生み出した人類の武器は、私たちが持つこの調合された薬だ。しかし、魔女の中に撃ち込まなければ意味はなく、ああやって外に撒き散らすだけでは魔女には効かない。人のように呼吸でもして吸い込んでくれればいいのだが、そうは簡単には倒れてくれない。
私は着弾を確認してから即座に立ち上がった。踵を返して場所を離れる。
狙撃したことによって魔女が私に気づいた。広がったローブがこちらを向いたのだから、あそこにいる負傷者ではなく私を攻撃対象に移したに違いない。
「狙撃で場所がばれました、こちらを攻撃対象にした模様。イの七から北へ移動します」
『馬鹿野郎! 削りもしねえうちに撃ちやがって!』
隊長の怒鳴り声が骨に響く。
「今のうちに負傷者を別の場所へ! あわよくばもう一発ぶちかましてやります!」
障害物で魔女の視線を切りながら走る。そうしながら銃についた馬鹿でかい、銃弾を放つものとは別のトリガーを握り込んで力いっぱい引いた。ガジョンと機械音がして、銃の形状があっという間に変わる。
視界の邪魔になるゴーグルを額に上げ、階段を転がり落ちるように全力で下った。そのまま飛び出した大通りを猛スピードで駆け抜け、後ろをちらを振り返る。魔女は攻撃を受けて興奮状態なのかゴリゴリとすり鉢で胡麻でも砕いているような鳴き声で私を追ってきている。あまり移動が速いタイプの魔女でないことが救いだ。
『先輩、今、近接組が合流します。先輩は少し離れて――』
「分かってらあ!」
特別仲の良い後輩の声に叫び返し、ぎゅ、と足裏全部を使ってブレーキをかけた。走りながら詰め込んだ弾丸は準備を追えて押し出されるのを待っている。
隊長が長剣を構え、近接組を連れてこちらに走ってきているのが見えた。私は彼らに背を向け、魔女に向き合う。
私の役目は魔女の前に立ってあの邪魔な外皮を引っ剥がすことではない。私は遠く離れた場所で露出した魔女の柔らかそうな場所に向けて、最高の弾丸を食らわせてやるのが役目だ。それがいかに大事な役目であるかも、分かっている。
だけど、みんなが魔女の近くでああやって剣を振るって、私に比べて小さな銃を構えて、霧との恐怖に戦っているのに、私は、私は――。
「喰らえ――!」
狙撃用ではない。一発を押し込む力は弱い。それでも散弾だ。貫けずとも、範囲があればあの邪魔くさい外皮をめくりあげるか、そこまででなくともダメージを蓄積させることが出来るはずだ。そのための調合をしてもらった、止め用ではないダメージ用の弾丸だ。
『先輩!』
引き金を、引く前。
銃口が私を見ていた。
魔女のローブの下から、黒の霧の隙間から、銃身だけがにょっきと伸びて私に狙いをつけいた。
「くそったれ! 真似してきやがった!」
隊長の声と音のない発砲は同時だった。
肩への衝撃、私の体が吹っ飛ぶ。隊長が私を受け止め――ようと手を伸ばしてくれたが、映画のように上手くいくはずもなく、私の体は無様に地べたを鞠のように弾んで転がる。
警告音が耳元に響いていた。マスクの一部が壊れたらしく、フィルターの機能が低下していると機械的な音声が流れる。
気分が悪くなるほど打ちつけた体をずるりと起こす。痛みの中心である左肩を確認すると出血があった。ただ、それよりもまずいことがある。
『無事か!』
私は避難時に乗り捨てられたバンの側で転がっていた。バンにもたれかかって座り、ぜえぜえと息をする。
魔女の視界から外れたか、こちらから姿が見えない。ただ、近接組の戦闘音が近くで聞こえていた。
「無事です! ――でも、傷から霧が……!」
傷口を手のひらで押さえる。魔女の弾丸は肩を貫いたのではと思っていたが、腕をかすっていったに近い様子だった。弾けた皮膚と肉から血が滴る。
ただ、傷口から溢れるのは血だけはなかった。
黒い霧だ。
『――っ! そこに居ろ、動くな! 必ず迎えに行く、耐えろ!』
魔女が放った弾丸だ。黒い霧を含んでいてもなんらおかしくはない。傷口にまとう黒霧はきっと体内にも侵入している。外を漂う霧は私の回りをうぞろうぞろを這い回って入り口を――呼吸器官を探している。
マスクの警告音が煩い。
この霧がマスクを壊すが速いか、傷から入った霧が私を狂わせるが速いか。
無意識に荒くなっていた呼吸に気づいて、深く肺に入れてゆっくりと吐き出す。ここは魔女に近い。黒霧も濃く、魔女が戦うたびに黒霧も舞う。近接組が外皮を剥がして、魔女を弱らせて、そうしてどうにか別の狙撃組が狙うことになるはずだ。
まだ時間はかかる。
――間に合わない。きっと。
そんなことを思う。隊長が来るのは人を隊へ戻す手助けのためか、それとも人として死ねるよう最期の一撃のためか。
死にたくはない。だけど、あの隊長に介錯を願うことが嫌だった。
『負傷者の処置を一先ず完了しました、俺が救出に向かいます。センサーで位置を確認』
『馬鹿言え、近くで戦闘中だぞ!』
『裏から回れそうなルートがあります』
頼りになる後輩の勇ましい声が聞こえる。ただ、その声もだんだんと聞き取るのが億劫になりつつあった。失血というよりは、霧による意識混濁なのではと思う。
『……間に合うかどうか』
『間に合わせます』
ああ。
あいつや隊長に処分されるのなら、せめて意識のある内がいいな……。
私が人であるうちに――。
私が目を覚ますと、白い靄がかかっているように見えた。何度も瞬きをして少しずつ曇りを晴らしていく。
「……先輩? 先輩。気がつきましたか。今、とりあえず応急処置を」
どうやら私が人でなくなるよりも、後輩が猛ダッシュでこちらに来てくれる方が早かったらしい。大汗をかいた後輩は目元に流れるそれに目を瞬かせながら、手元を動かし続けている。
「傷自体は深くありません。パッドで押さえている分で問題もありません、けど」
私の目の前で小瓶の中の液体が混ざる。淡い緑をした液体が振られると無色透明へと変わった。
「傷から霧が侵入。血液はなんとか無事ですが……肺から摂取した場合より進行が早いです。これをまず飲んで――ああくそ。マスク壊れてるじゃないっすかもう」
ちらと乱暴な言葉遣いに戻った後輩に思わず鼻を鳴らす。後輩は後輩で「笑ってる場合じゃありませんよ」とすぐに冷静な口調に戻ったが、視線は次の手を考えて落ち着きがない。
今のようにマスクを外せない場所でも応急処置が行えるよう、このマスクには薬液を摂取するための機構が備わっている。しかし、その瓶を装着する部分が壊れているようだ。
私が片手でマスクを外すと後輩がぎょっとした顔になる。優秀なお前でもそんな顔するんだなあと呑気に思っていられるのは、彼が上手く処置をしてくれたからだろう。痛みがない。
「貸せ」
「――喋らないでください。息も止めて」
私が小瓶をひったくるよりも、後輩が意を汲んでそれを口に流し込んでくれる方が早かった。口の中に液体がさらりと入ってきて、同時に後輩がマスクをぐいと押しつけてきた。マスクの下、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。
「活性はこれで抑えられます。これから中和剤を――」
「……まだ、出られる」
マスクを片手でつけ直す。傷用のパッドに鎮痛薬も組み合わせてくれたか、痛みがない代わりに左腕の感覚も鈍い。
「何を言ってるんですか、駄目ですよ」
後輩は次に必要な薬をてきぱきと、私の様子をみながら作ってくれている。私のバイタルを手元の小さな機械で確認しては次々と薬品を組み合わせていく。
戦闘には出ないこの後輩は治療組として、はっきりいって、めちゃくちゃに活躍している。他の隊からも羨ましがられるほどの腕前をこうやって間近で見るのは初めてではない。私がこうやって倒れる度、後輩は一目散に飛んできてくれるのだ。もちろん私だけではなく、誰が倒れても彼は飛び出すのだが……おかげで、怪我が比較的少ないはずの狙撃組である私も何度も助けられてきた。
だから、その回数を重ねた分、彼は分かっている。
「出られる、だろ」
私がこうやって言い出すことも。
後輩の冷たい目を受け止める。彼の必死の汗がぽたと落ちた。
「……きついの打ちますよ」
私がこうやって言い出すことも見込んでいたか、後輩はすでにそのきついのを調合していたらしい。
やたらと大きな注射器に出来上がった薬を飲み込ませた彼は真剣な目で私を見、そして腕を取った。
「無茶ばっかして、いつか俺が間に合わなくなっても知りませんよ」
太い針がぐいと腕の中に入り込む。
その違和感や痛みに気を取られている間はなかった。体の奥が沸騰するような熱い刺激に私は壊れかけのマスクの中で絶叫した。
各種の数値は通常値にまでようやく下がってくれた。
俺はこの人のおかげで、この人を無茶させた共犯者として隊長から叱られたし、夜通しこのメディカルルームで缶詰になるはめになった。
先輩のご要望通りの薬を用意せず、治療を優先させればいいだけだった話だ。だけど、俺は毎回ああやって先輩の要望に答えてしまう。
――ああやって獣の雄叫びをあげて勇ましく魔女へと立ち向かう先輩の姿が、どうしようもなく――、
「う」
と、壮烈な戦闘を終えてばったりと倒れていた先輩が目を覚ました。眉間に皺が寄っているので、それを人差し指で押して伸ばす。
「う……?」
「おはようございます。大活躍でしたよ」
目を開けたところで人差し指でひっこめ、すっかり綺麗に直した先輩のマスクを目の前で揺らす。傷だらけの、先輩が戦場を転がりまわった分以上に傷のあるマスクだ。
先輩の視線が時計の振り子を追うみたいに揺れる。
「……その言い方だと、なんとかなったか」
あの後、先輩は痛みを飛び越えて立ち上がった。撃たれた場所に落ちたままだった馬鹿でかい銃まで走って拾い上げ、魔女へと踏み出した。先輩はどうしてか魔女を近くで撃ちたがる――先輩が出世しない原因のひとつだ――せいで、隊長には毎回こっぴどく怒られているようだが、その分毎度きちんと撃ち落とす。今回も、もちろん。
ただ、今回の薬は特に強烈だったので――大人しく諦めてくれる先輩ならあんなものを調合する必要はなかっただろうけど、戦闘をご所望の先輩には霧を強引に抑えこめるきつい薬でないと魔女の眷属と化してたに違いなかった――本人は自分がやってのけたことをすっかり忘れているらしい。
無茶だったと思う。俺が薬の割合を少しでも間違っていれば、動けば動くほど活性化する黒霧に飲まれて先輩は――。
それに、動けても先輩が無事でいられる保証もなかった。あの状態の先輩がまともな判断力を持って魔女と相対するとも思えないし。だけど、そんな無茶をするこの人のおかげで魔女はあの後すぐに倒れることになった。
「なんとかなりましたよ。そりゃあもう、俺のおかげで」
無事、先輩が人として戻ってきたことに安堵する。
「お前のおかげで、助かったよ、ありがとう」
「……助けることが出来たよ、では?」
意地悪を言うと、先輩はにいと笑う。
「みんなを、助けることが出来た、のはもちろん。ありがとう。――でも、私は、助かった、で間違いない」
この人は強くて、心配になる。
「でも、ふう、今回のはきつかったな」
「俺はきついのを打つってちゃんと言いました。そもそも体内に霧が回った状態だって言ってるのに動こうとするからそんな目に合うんですよ」
「そんな目に合わせてくれるから、助かるよ」
いつか俺が間に合わない日がくるのでは、と怖くなる。
「優秀な後輩がいると助かるなあ」
「無茶な先輩のせいで隊長に叱られました」
なら打たなきゃいいのに、と先輩は笑った。
打たなければ、きっと不十分な――動けば危険だと分かっていても、先輩は動くだろう。
――もし、そうやって最悪の日が来たら、俺は先輩を殺せるんだろうか。
人でなくなった先輩を真っ先に発見するのは、きっと俺だ。もう手遅れだと判断を下すのも、俺であるはずだ。俺でありたい。
「ま、倒せたなら良かった。ありがとう」
「……いいえ。どういたしまして」
だから、俺はこの人をこれからもずっと見続け、隣を走り続けなければならない。
間に合うために。
人でなくなった時に、見届けるために。
――ただ、その最悪が来ないよう全力を注ぐために、俺は先輩を守り続けるために、俺はこれからもずっと先輩の側にいるだろう。
先輩。強くて無茶ばかりする、命令違反で出世しない先輩。
「それにしても、どんな薬使ったら……」
「元気の出るお薬です」
先輩が笑った。俺も笑う。
先輩、お望みであれば俺は何度でも薬を作りますよ。
――ああやって獣の雄叫びをあげて勇ましく魔女へと立ち向かう先輩の姿が、どうしようもなく、好きなので。