アボカド
彼から別れを告げられたのは、ちょうど1か月前の夜。
私が大好きだった彼はたいして私を好きじゃなかったみたいで、たった一言のラインで私たちの関係は突然終わった。
その一週間後、私は彼の浮気を知った。そして新しい彼女と一緒にいるところを目撃したのは、今からちょうど二週間前。家の近くのスーパーだった。
どこか遠い話だった彼の浮気と新しい彼女。目の前に現れた現実は私をコテンパンにやっつけた。
二年の付き合いだった。片思いの頃を含めれば、五年。
簡単に恋の最長記録を更新できると信じていたし、その先があると思っていた。というか、恋の最長記録はあと一か月で更新される予定だった。
五年間好きだった彼との糸がなんでもない夜にぷつりと切れて、ブロックしてしまえば一生この人と私が話すことも、会うこともない他人になってしまうんだと気づいたとき、なんだかあんまりじゃないかって怒りが湧いてきて、それからどうすればいいんだろうって戸惑って、悲しくなって、この五年間の思い出が全部ゴミになった気がしてむなしくなった。
楽しそうに買い物をする二人に背を向けて、スーパーを出ながら私は引っ越しを決意していた。
引っ越すと決めたその足で不動産屋に行って、新しい家を決めた。
家賃も引っ越し代も、なにも関係ない、私は引っ越す。そう勇んだわりに部屋はなかなか片づかず、引っ越す日はとうとう明日になった。
段ボールだらけの部屋の片づけは永遠に終わらない気がする。
段ボールに詰めたとたんに新しいものが出てきて、片づければ片づけるほどものが増えていく片づけ地獄。いっそのこと片づけないほうがうまくいく気がするんだから、笑えない。
呆れた友達が手伝いに来てくれたのはいいものの、さっきコンビニに行ってしまった。
絶対に酒を買ってるだろうから、これ以上引っ越しの準備は進まないだろう。
まあいっか、まだ明日の朝がある。
私は段ボールをつめる手を止め、窓を開けて、引っ越して以来一度も使っていないと思っていたベランダに足を踏み入れた。
そしてそのベランダに、アボカドは落ちていた。
正確には丸くて黒いアボカドの種だ。
日陰に座っているアボカドには生命のかけらも残されていない。どうしてこんなものがと考えて、すぐに思い出した。
彼と植えたのだ。初めて彼がここに泊まりに来た時に。
アボカドの鮮やかな黄緑色が脳裏に浮かび、かつての柔らかな幸せが頬を撫でた。
こいつだ、と私は思った。
私と彼の関係を、干からびたこのアボカドが呪っていたのだ。
こんなところで彼との幸せのかけらが私たちの結末を予言し続けていただなんて思いもしなかった。
しなしなになったアボカドの種は雨風にさらされ、天日干しされて縮んでいた。周りに土がわずかに散らばっていて、色あせた小さな鉢は日向で横たわっている。
ベランダの狭い空間を何度も転がったのだろうアボカドの種は、くたびれたようにじっと日陰にうずくまっていた。
手を伸ばせば、アボカドはころころと転がってきた。
確かあいつと付き合ってから初めて一緒に迎えた朝に、彼が作ってくれたサラダで使ったアボカドだ。いや、どうだっけ?もしかしたら私が作ったのかもしれない。
アボカドのサラダは全然おいしくなくて、なんでサラダなのにこんなにまずいのか訳が分からなくてお腹を抱えて笑った。でも幸せだったから、私は何度もおいしいと言いながら食べたんだ。
彼はどんな顔をしていただろうか。
食べるのに必死で覚えていないんだから、本当に笑える。
また食べたいからなんて言って、私たちは百均で買ってきた鉢にその辺の土を入れてアボカドをぶっ刺した。たぶん、あの頃の私の頭には花が咲いていた。
それで満足したのか、それ以来彼はこの家に来ても二度と料理は作らなかった。
私も二日くらいはちゃんと水をやっていた気がするけれど、いつの間にか忘れてしまっていた。
この子をちゃんと育てるべきだったのだろうか。あの日を今日はアボカド記念日だねなんて言って、もうちょっと大切にするべきだったのだろうか。
インスタにアボカド記念日なんてハッシュタグを付けて、ネットで育て方を調べて、実がなったら今度は私がサラダを作るね、なんて言って。
バカみたいだ。
まるで浮気相手のまねみたいだし、そんなことができる人間なら最初からこうなっていない。
彼の新しい彼女は私と正反対の女の子だった。
もしも私が彼だったなら、迷わずに彼女を選ぶだろう。というか、そもそも浮気なんてしない。
かわいくてスタイルがよくて、料理もできて、誰にでも平等に優しい。頭も良くて、すごく気が利くし、上品で素敵な人。しかも意外とフレンドリーだ。
完璧な高嶺の花というのが世間からの評価。私も前まではそう思っていた。だけど私の彼と浮気をして私から彼を奪い取ったのだから、今の私から見た彼女の評価は悪女になっている。
本当は彼女が本命で、私が遊ばれていただけなんてことはわかっているし、理解している。
彼のインスタに投稿された私との写真は最初の頃だけで、いつの間にか消えていた。
投稿するのをやめたのだろうと思っていたけれど、私と別れたあとにそれは突然更新を再開した。
幸せそうな写真が頻繁に更新され、アーカイブから私の知らない写真が現れた。それを怒っていると、私と彼が付き合っている間も浮気女とのストーリーは普通に更新していたと友達が教えてくれた。
あの子と彼が付き合っているのを知らなかったのは私だけだった。
何気なく見た写真は私と行くはずだった水族館。
忙しいと言っていた時期は本命彼女との旅行だったし、ドタキャンされたデートの日もきっと全部、他の女といたのだろう。
以来、私は彼らのインスタを知らないでいる。彼らはもうこの世に存在しないと信じて生きていくことに決めた。まあ、本人とスーパーでばったり出会うんだけれども。
彼の分も私はこのアボカドに愛情を込めるべきだった。もっと愛するべきだった。そうしたら、もしかしたらこのアボカドが芽吹いて、そして実ったかもしれない。今からでも、もしかしたら。
くだらない望みを存在ごと忘れていたアボカドに託すなんてこと、きっと彼は鼻で笑うだろう。私だって鼻で笑いたい。あんな奴、全部忘れてしまいたいのに。
「ねえ台所借りていい?」
「…おかえり」
コンビニから帰ってきた友達は段ボールが広げてある床にお菓子を放り投げると、ベランダにしゃがみこむ私を不審そうに眺めてからキッチンに引っ込んだ。
「ツイッターで見つけた超うまそうな酒のつまみ作るから、手伝って」
「おっけー」
手のひらを転がる小さなアボカドを握りしめながら私は立ち上がった。
アボカドの種はひんやりと冷たく、柔らかい。
きっとこのアボカドも彼にはバカにされていたのだろう。そもそもアボカドのこと、彼は覚えているのだろうか。
私は外野からホームに向かって鋭い球を飛ばす野球選手を想像した。
両手を大きく振りかぶり、高々と上げた足が壁を蹴って低くドンッと音が鳴った。私は慌てて場所をずれて窓を大きく開け直し、深呼吸をして体勢を整えた。
再び足を高々と掲げ、両手を天井に突きあげる。
私は指の先で崩れないよう力加減に注意しながら、変なところに飛ばさないようにしっかりと握り締めて、狙いを定めた。
大きく踏み出した足がベランダに飛び出し、不格好なフォームでもアボカドは想像通りの軌道で私の手を離れた。
高く、高く、高く――――…。
ボールが空気を裂いてホームを目指した。
ボールはランナーに迫り、あっという間に追い越していく。キャッチャーが足をホームに押し付けて、小さなボールが飛び込んでくるのを待っている。
あがる歓声、急き立てる悲鳴。うねる熱狂。
飛んでいく、飛んでいく、飛んでいけ――……!
アボカドは公園の雑木林に吸い込まれて消えた。歓声は聞こえず、辺りは静かなままだ。
歓声の代わりに、友達が言った。
「そういえばさっき目の前の公園であのクソ野郎がランニングしてたよ。家近いんだね」
「…うん、近所だよ」
どうかあの日のアボカドが君に当たっていますようにと呪いをかけて、私は窓を閉めた。
部屋はさっきよりもずいぶんと片づいている気がした。