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桜の枝の隙間から

作者: 弥生1981A

 彼女が僕の前から消えて3年目の春になる。


 消えて。そう、彼女の存在自体が消えて無くなってしまったのだ。3年前のある夏の日、僕が仕事から帰宅すると彼女は大量の睡眠薬を飲んで自殺していた。



 そう、今も住んでいるこの部屋で----。



‡‡‡‡

一葉かずは、一緒に住まないか。」

 就職して三ヶ月が経ち、僕は学生時代から付き合っていた浅井あさい 一葉に声を掛けた。

りょうちゃん。・・・うれしい。・・本当に、私でいいの。」

 僕よりも1つ年下の一葉は引っ込み思案と言うよりかは周りを気にしすぎるタイプの女性であった。周りの反応をいつも悪い方へと思いあぐね、その反応を見る前に自分から身を引いてしまうのである。彼女と知り合った大学のサークルでも、僕達が付き合い始めた時でさえ周りの女子達の反応を気にしてキャンパス内で2人だけで会うのに3ヶ月も要したほどだ。小柄で大人しく、話す声も静かで優しい。髪もそのままの色で染める事無く、肩にわずかに着く程度に揃えられた毛先が少しハネているのを指先で触りながら「そろそろ切ろうかな」などと呟くように言う子だった。


 そんな一葉が自殺したのである。


 遺書も、自殺を仄めかすメモや僕との不仲を匂わせるやり取りも何も無いまま事件性は無いとして警察は自殺で処理したのである。僕の知らないグラスがテーブルに在ったにも関わらず。

 僕にはどうしても納得できない事が他にも有った。


 僕達は結婚しようと式場までも決めていたのだ。


「私、和式がいいな。角隠しを被って神様の前で誓いあうのが子供の頃からの夢だったの。」

「だったらここにしよう。」

「涼ちゃんは私の希望のままでいいの。」

「僕は一葉と結婚できればそれでいい。君が卒業したらここを予約しよう。」

 そんな僕の答えに彼女は顔を少し赤らめながら俯き加減で返してきた。

「ありがとう、私もよ。こんな私を選んでくれてありがとう、涼ちゃん。」

 式場の下見の帰りみちで一葉は僕の腕をずっと抱え込む様にして、時々顔を覗かせて笑顔を見せていたのを憶えている。



 だからこそ、僕は彼女の自殺が信じられないままでいる。


 そして、彼女を守れなかった自分を責め続けている。



‡‡‡‡

ガチャ キキーッ


 玄関の鍵が外れドアが開く音と共に声が入って来た。

「涼、居るー。」

「ああ、ここだよー。」

 合鍵を持っている莉子りこが明るく入って来た。そのまま奥の部屋までやって来ると、

「なぁに、まだ荷物詰め終わっていないじゃん。私も手伝うからさ、さっさとやっちゃおうよ。」

「ああ分かった分かった、じゃあ莉子は台所お願い。」

「任せなさい。」


 小坂 莉子。

 僕は明日から彼女のアパートで一緒に暮らす。


 一葉が亡くなって2年経ったとき、仕事帰りの電車で莉子に会った。彼女は電車内でチカンに遭っていて、でも声も出せずにいたのが僕の目に入り犯人の腕を掴んだのがきっかけだった。こんなにも明るくてハキハキと物を言う彼女でもチカンに遭っていた時は怖くて動けなくて何も出来なかったと言っていた。

 3つ年下の莉子は肩に着くか着かないかの、そう一葉と同じ位の長さの髪で、先の方の10cmほどをオレンジ系の明るい色にグラデーションしているのが特徴である。彼女曰く『髪が全部黒いと気分が重くなっちゃうの、風に吹かれた時に毛先の明るいのが見えると気持ちも明るくなれるのよ』らしい。

 あの日の、一葉が亡くなってからというもの、僕は女性を避ける生活をして来た。しかし、莉子をチカンから救った時の、彼女の震えていた指が僕の中の何かを動かした。守らなければという、何処か罪滅ぼし的な何かだったのかもしれない。

 後日、感謝したいからと再会したのが切っ掛けとなった。僕は前の彼女、一葉の事も全て話し、しばらく女性とは付き合わないと決めていると告げたのだが、それでも、事ある毎に僕に連絡を入れては呼び出されゆったりと優しい休日を過ごしている内に莉子を好きになったのかもしれない。

 そんな莉子がこの春大学を卒業して社会人になるのを機に一緒に住む事にしたのだ。


「ティッシュはどこ?」

「ああ、そこに移動した。」

 莉子はティッシュを1枚抜き取ると、それを2回折って綺麗な四角にし、机の上に置くとめている指輪を抜いてそのティッシュの上に置いた。

「指輪、取るの?」

「うん、食器とか傷つけちゃいけないし、涼から貰った大切なモノだから。」

「ふ~ん。」

 それは一緒に住むと決めた時に2人で買い求めた、彼女の誕生石、トパーズを3石並べた指輪である。

「ねえ、風に飛ばされない様にしっかり見ていてね。」

「ああ、分かったよ。」

 アパートの2階にある僕の部屋の窓には縦格子の転落防止柵が付いているだけで直ぐ下には地面が見える。だが、今の季節は丁度目の前に綿を集めて雲にしたような積雲せきうんを上からみているようにモコモコとした満開の桜の花が真横に広がり、この時期だけはベランダの無い、この柵だけの窓に感謝していた。時折吹く風に花びらが舞い込んで来る事もある。


 僕は机の横にある小さな本棚に並んでいる物を段ボールへと詰めていく。

 大学生からそのまま住み続けているこの部屋には、仕事でも使わない本なども多く、莉子と一緒に住むための荷物整理も兼ねて仕分けをしながら詰めているのである。5段ある本棚の上から順に整理して、2段目を終えた時であった。


コトッ


 本棚の後ろ、壁との間に何かが落ちた音がした。


 隙間を覗き、下の方を見ると小さな冊子が見える。


 定規を使って引っ張り出すと、それは【縦長の薄いノート】だった。


 スマホ程の大きさで、その中央にウサギの可愛らしいキャラクターが大きな瞳をこちらに向け、回りにはティーセットや花やイチゴ等が散りばめられて描かれているとても可愛らしいが少し幼い感じのノートである。当然、僕のモノでは無い。

 回りに引っ掛かっている埃を取り、表紙を捲った僕は息を飲んだ。


 懐かしい、見覚えのある少し丸まった小さな文字が目に入ったのである。


 それは、浅井 一葉の字だ。


ШЩШ

 涼ちゃんとお付き合いしてこれが5冊目。

 涼ちゃんはいつも私を楽しくさせてくれる。だから素敵な思い出がい~っぱい。

 きっとこのノートもすぐに埋まっちゃうだろうな。

ШЩШ


 日記ではなく、何か有ったら書き込んでいたようである。

 一葉らしい。スマホではなく、ノートに書き込むといった時間を掛けてゆっくりと思い出しながら、きっと笑顔を浮かべて書いていたのだろう。


ШЩШ

 涼ちゃんに美味しいものを食べさせて上げたいから、お料理教室へ行こう。

 彼には ひ・み・つ♡

 びっくりさせてやるんだから。最初は何を作って上げようかな。

ШЩШ


 一葉の文字と共に彼女の笑顔と懐かしい声までもが聞こえて来る様な気がした。色々な事をただその時の気持ちを込めて書き連ねてある。読みながら僕は笑顔になっていた。


ШЩШ

 お料理教室でお友達ができた。

 本当の名前は判らないけれど、名札には【Rei】と書いてあるのでレイちゃんと呼んでいる。私も名札には【キリ】って書いてあるからお互い様だね。

ШЩШ


 【キリ】って、【桐】だろ。一葉ひとは俳諧はいかいで言う所の桐の事を指すからな、安易な付け方だな。僕は声を出さずに笑っていた。それは、きっと彼女はこの名前に決めるのに何日も何日も悩んで、色々と辞書やらスマホやらの検索を繰り返し、やっと辿り着いた名前なのだろうと思ったからである。一葉とはそう言う女性であった。


ШЩШ

 びっくり! レイちゃんも同じ電車で、3つ先の駅に住んでた。

 駅に着くまで2人でずっと笑ってた。彼女には何でも話せる。それに、年下なのに私よりもお料理が上手なの。手際も良くって憧れちゃうな。涼ちゃんのために私も頑張ろう。

ШЩШ


 このレイちゃんと言う子は一葉が亡くなった事を知っているのだろうか。僕は突然来なくなった仲の良い友達の事をずっとレイという人が心配していたのではないかと思い胸を締め付けられた。

 それ以降も何回も僕との思い出の間にレイという料理教室での友達との楽しい思い出が書き込まれていた。

 そして、僕との新たな生活の始まりが綴られ出した。


ШЩШ

 今日、涼ちゃんから「一緒に住まないか」と誘われた。

 うれしい、とっても幸せ。いいのかな、こんなに幸せで。

 私でいいのかな。涼ちゃんに私は相応しいのかな。 ちょっと心配。

ШЩШ


 ここでノートのページを捲った。

 そこから滑り落ちる何か茶色いまあるくて薄いモノ。

 ひらひらと舞って僕の腿の上に落ちた。

 それはページ同士に押し付けられた桜の花びらだった。

 そうだ、一緒に暮らそうと彼女に言ったのは3月の始めの頃、彼女の卒業が迫った頃だったのを思い出した。一葉は何処か桜が咲いている所でこのノートを開いて書き込んでいたのだろう。舞い降りて来たこの花びらを大切にノートの間に挟んで持ち続けていたのだろうと思うと心が締め付けられる。


ШЩШ

 涼ちゃんに抱きしめられた。不安で涙を流してしまったから。

 抱きしめられて『大丈夫だよ』って言ってくれたのが嬉しい。

 やっぱり涼ちゃんが好き。彼に言葉で伝えたい。でも言えそうにない。

    好きです、大好きです♡  涼ちゃん♡♡

ШЩШ


 僕は一葉の【縦長の薄いノート】に見入っていた。片付けも忘れてだ。


 その時。


コンッ コンッ


「涼兄ちゃーん。」

 玄関先から声が聞こえた。

「涼、香菜かなちゃん来たよー。」

 莉子は僕に話し掛けながら玄関ドアの鍵を開けた。

「香菜ちゃんいらっしゃーい。」

「こんにちは、莉子ちゃんはいつ来たの?」

「30分ぐらい前。来たばっかり。」

 

 香菜は僕の妹で莉子とは同い年である。

 紹介したその時から友達みたいに仲良くなってお互いに「ちゃん」付けで呼び合っている。


 僕は一葉の【縦長の薄いノート】をビジネスバッグに急いで仕舞って、妹の登場を待っていた。

「涼兄ちゃん、ぜーんぜん片付いていないじゃん。途中で本なんか読んでいなかったでしょうね。」

「読んでなんかいないよ。ただ、仕訳けるのって難しいんだ。色々と思い出もあってさ。」

「何言ってんの。明日は引っ越しだよ。莉子ちゃんの所に行くんでしょ。」

 

 春を感じさせるミントグリーンのカーディガンを肩に掛けた香菜が部屋の入口から仁王立ちで睨みつけて来る。

 後ろでは莉子がその軽いオレンジ系の髪先を揺らして笑顔を覗かせた。


 僕は一葉の【縦長の薄いノート】が気になっていたが、監視役ともいえる香菜が事あるごとにこちらに鋭い視線を送って来るので真面目に本棚の整理を行っている。


「そろそろお昼にしようか。」

 一段落着いたのだろう、莉子が台所から顔を覗かせて言う。

「だったらさ、駅前のカフェに行こう。」

 透かさず香菜が答える。まるで友達同士の会話だ。

「駅前の?」

「そう、ちょっと前に出来た『belle fleurベル・フルール』って所。」

「ああ、あの白いお店ね。でも、どーいう意味?」

「ん~~、分かんない。涼兄ちゃん、どーいう意味?」

「確かフランス語で『美しい花』じゃなかったかな。」

「さっすが、無駄に本読んでない。」

「あのなぁ。」

 そんな兄妹のやり取りを莉子は笑顔で見ている。



 『belle fleur』では僕と莉子が向かい合って座り、香菜は莉子の横に座った。

 初めて入ったその店の料理は意外と美味しく、「美味しいね」などと僕と莉子が笑顔で言葉を交わしていると、隣の香菜が嫌味を言う。

「あのぅ、私も居るのですが、お二人だけの世界はやめて頂けませんか。」

 そこで僕達が笑いながら謝ると、香菜も笑ってそれに答えていた。それでも、僕達が2人だけの会話をするたびに香菜は横から会話に入り込み、莉子の興味を引いて行く。

 女性達は軽い食事を終え、デザートへと興味を移しメニューを見ている。

 僕は【縦長の薄いノート】の続きが気になり、一足先にアパートへと戻った。


 ビジネスバッグから【縦長の薄いノート】を取り出し、続きを読み始める。


ШЩШ

 涼ちゃんが指輪を買ってくれた。私の誕生石の小さなルビーが光ってる。

 「一緒に暮らす記念に」だって、あんな目を見たこと無いな。真剣、うん真剣。

 指にはめてもらっちゃった。結婚した気分。うれしい♡

 私の宝物。涼ちゃんが傍に居てくれる気がする。

ШЩШ


 そうだったよな。僕はまだ就職前でお金が無かったから安いのしか買って上げられなかった。確か10金の安い土台が石の所で2本に分かれて、それが捻じってある様な中にルビーの小さな石が嵌めてある可愛らしい、一葉が選んだ物だったな。そう言えば、あのリング、何処に行ったのだろう。彼女が亡くなった時には着けていなかった。


ШЩШ

 一緒に住む日が近づいて来る。 あ~不安。

 私の変な所に気付いてキライにならないかな。 不安だよ。

 今度、レイちゃんに相談しよう。変ね、レイちゃんは年下なのに。(笑)

ШЩШ


 彼女の気持ちが伝わって来る。僕だって不安だった。一葉に見せた事の無い怠惰な僕だっている。嫌われたくなかったのは僕も同じだ。そんな懐かしい感情を思い起こしていた。


ШЩШ

 レイちゃんに笑われた。ヒド~イ。私は不安でしょうが無いのに。

 「髪の毛が真っ黒だからダメ」なんだって、

 「私の様に毛先だけでも明るくしたら気持ちも軽くなる」だって。

 そんな事で不安が無くなるの?

ШЩШ


 「毛先だけでも明るく」、この言葉に一瞬ドキッとして莉子を思い描いたが、今の女の子達ではそれが流行っているのかと思い流して読み進める。


ШЩШ

 今日から涼ちゃんと一緒だ。眠るのも、起きるのも。

 お出かけして戻って来るのも涼ちゃんのお部屋。

    ううん、私達のお部屋。

 部屋に入ったら『おかえり』って言ってくれた。

 『いらっしゃい』じゃなく、『おかえり』って。

       うれしい。私も『ただいま』って言えた。

ШЩШ


ШЩШ

 珍しくレイちゃんから相談を受けた。

 朝の通学の電車で気になる男性が居るらしい。

 恋愛経験者の先輩として相談にのった。

      どーやら私も大人になったようだ。(笑)

 途中から乗って来る、会社務めの人らしい。

 どうやって声を掛けたらいいのか分からないみたい。

      う~ん、私も分からない。(笑)

 レイちゃんにはいつも相談にのってもらってるから、何とかして上げたい。

 今度、涼ちゃんにどんな男の人なのかを見て来てもらおうかな。

 そうだ、レイちゃんを紹介しよう。

 あ~でもどうしよう、

     レイちゃん可愛いから涼ちゃんが好きになっちゃうかも。

ШЩШ


 そんな事を気にしていたのか、バカだな。キャンパス内にだってかわいい子はいっぱい居たのに、僕が選んだのは一葉、君だったのに。何時このノートに書いていたのだろう、一緒に住んでいたのに僕は一葉が書き込んでいる所を見たことが無い。それに結局レイちゃんとか言う女性には会わせてもらえなかった。


ШЩШ

 どうしよう! 指輪が無い。

 涼ちゃんから買ってもらった指輪が無い。

 どこを探しても見つからない。

 私の宝物。

 こんな事、涼ちゃんに言えない。

 確かに机の上に置いたのに、窓の下も探したけど見つからない。


 どうしよう、  涼ちゃん ごめんなさい。

ШЩШ


 一葉、僕に言ってくれればまた買ったのに。言えなかったんだよね。そう、一葉はそんな事簡単に言える様な女性ではない。それは僕が良く分かっている。きっと悩み、とても苦しんでいたのだろう。もしかしたら彼女が自殺した原因もこれなのか。そう思いを巡らせて続きを読んだ。


ШЩШ

 怖い、何だか怖い視線を向けられているみたい。

 ふとした時の視線が怖い。

 あんなに仲良かったのに、どうして。私、何かした?

 涼ちゃんに言っても信じてもらえないだろうな。

 話していると普通だから、私の気のせいかも。

ШЩШ


 誰だ? 誰の事を言っているのだろうか、一葉を自殺に追いやった犯人なのか?


ШЩШ

 びっくり!

 お買い物してたらレイちゃんにバッタリ会っておうちにご招待。

 久しぶりに楽しい気分になれた。

 レイちゃん本当は『ジャスミン』って名乗ろうとしてたらしい。

 でも長いし、ディズニーっぽいから止めたんだって。(笑)

 彼女も私と同じで結構悩んでいただなんて、ちょっと安心。

 涼ちゃんとの写真見て『かっこいい人じゃん』って言ってくれた。

 彼氏が褒められるのってうれしいな。自分が褒められたみたい。

 気分がいいから、涼ちゃんにもっと優しくしちゃおう。

ШЩШ


 ノートへの記入はここで終わっていた。

 僕は思いを巡らす。この中に彼女が死に至った原因が潜んでいないのかなと。


 その時、楽しい会話と共に弾ける笑い声が近づいて来るのが聞こえた。彼女達が戻って来たのだ。僕は例の【縦長の薄いノート】を急いでビジネスバッグへと潜り込ませ、彼女達を待ち受けていた。


ガチャガチャ キキーッ


「ただいまー。」「戻ったよー。」

 笑いながらじゃれ合う様に狭い玄関に2人で入り、靴を脱ぐ時に体をぶつけあっては笑っている。そのまま僕の居る奥の部屋まで来ると、莉子は再び指輪を外して綺麗な四角に折り畳んだティッシュの上に置き、台所へと向かっって行った。

「なぁに、先に帰ったのに何にもしていないじゃん。」

 妹の香菜がまた怒る。

「大丈夫だよ。夕方までには終わるから。」

「その後お掃除も有るんだよ。分かってるの涼兄ちゃん。」

「分かった分かった、そんなに言わなくても。お前結婚したら旦那を尻に敷くタイプだな。」

「ひっどーい、ねえ莉子ちゃん、何か言ってやってよ。」

 すると台所にいる莉子が開いた扉の間から顔を出して笑いながら言う。

「ほーんと仲の良い兄妹なんだから。長年付き合っている恋人同士みたいね。ふふふ。」

「莉子ちゃん甘い。涼兄ちゃんに甘すぎるよ。」

 香菜は話しながら莉子のいる台所へと歩いて行った。


「キャッ」

ゴンッ パリーーン


 何かが割れる音がした。

「莉子ちゃん大丈夫。」

 香菜が慌てて行く。僕も急いで台所へと向かった。


「ごめーん、グラス落としちゃった。」

「莉子ちゃん、怪我は無い。」

「うん、私は大丈夫。涼ちゃんごめんね。グラス割っちゃった。」

 莉子が割ったグラスは少し丸みを帯びた可愛らしい物である。

「ああいいよ、どうせ使ってなかったんだし。」

「お客さん用よね。今度同じの買って来るね。」

 そう言うと莉子は床に膝を突き割れたグラスを持ち上げ、僕を見上げて微笑んだ。


 僕は驚きを隠せない。

(莉子、どうしてそれがお客さん用だと知ってるの。それに何処で売っているのかも。)

(僕でさえ知らなかった、あの日、一葉が命を絶った時にテーブルにあったグラス。)

(目に付かない様に食器棚の奥の方に隠すように仕舞って置いたそれを。)

(捨てる事が出来ずに、ずっと見えない様にしておいたそのグラスをどうして君が知っているの。)


 僕の動揺を悟られない様に本の片付けを行うと言ってその場を離れた。


 本の仕分けと整理を行っているが、僕の頭は莉子の事でいっぱいである。

(そう言えば、料理教室のレイという女性は髪先を明るく染めていた。)

(ジャスミン。漢字で書くと『茉莉花マツリカ』。莉子の『莉』はレイとも読む。)


 疑い出したらきりが無い。莉子がレイという女性ならば、僕と知り合う前にこの部屋には訪れた事が有って、一葉から来客として迎えられ、再び来ようと思えばそれは可能だ。一葉にも気に入られていたのだから何の疑いも無くこの中に入る事が出来ただろう。もしかしたら、電車の中で見ていた社会人って僕の事? いや、そんな事は無いだろう、僕と莉子とは電車内のチカン被害が有ったから出会ったのだから。もしかしたらチカン被害は仕込みなのか、いや、そんな事は無いだろう。でも、僕の見た事も無かった、一葉が自殺した時に初めて見たグラスを売っている店を知っているのは、もしかしたらこの部屋に持ち込んで来たのが莉子だったからなのか。

 ああ、頭の中の整理が付かない。もっとじっくりと【縦長の薄いノート】を読み込む必要が有りそうだ。


 僕は思いを巡らしながら窓の外に広がる満開の桜を見るとも無しに見ていた。


 春の強い風が吹いた。


 満開の桜の花びらが何枚も風に飛ばされて行くのと同時に、それぞれの枝に分かれて揺れるその花盛はなもりの間から垣間見られた枝の所にキラリと光る物が視界に入った。


 それは風に揺れた一瞬の事であり、もう一度見たいと目を凝らしても元の位置に戻った花びら達によってそれは覆い隠されてしまったのである。


「ねえ、涼兄ちゃん、桜なんか見てないで箱詰めしなよ。間に合わないよ。」

 後ろから香菜の少しイラついた声が聞こえた。

 僕は振り向き急いで歩き出す。

「ちょっと用事を思い出した。少し出て来るから。」

 そう言って玄関へ来ると靴を素早く履いた。

「もう、何処へ行くの? ねえ、涼兄ちゃん。」

「直ぐ戻るから。本棚は僕が片付けるから触らないでね。」

 部屋を飛び出し1階へと降りると、大家がいつもの所に置いてある脚立を持って裏庭の桜の木へと向かう。


 部屋から見えた辺りの木の枝の所に見当をつけ、脚立を立てる。ここから見上げても僕の部屋は桜の花たちが邪魔をして見えなかった。


 ゆっくりと登り、枝を上側から覗き込む。


 それはそこに有った。丁度太い幹から別れた枝の、その付け根に出来た窪みの所に。


 手を伸ばし、摘まんで引き抜く。


 金色の指輪。 細い土台が2本に分かれそれを捻じってその中にルビーの小さな石が嵌め込まれた可愛らしい指輪。



 一葉の物だ。 僕が一葉にプレゼントして、彼女が大切にしていた物だ。


 【縦長の薄いノート】に記してあった、何処かに消えてしまっていた物だ。



 それがこんな所に、今更戻って来た。

 握りしめ、胸に押し当てると涙が出て来た。


 この指輪で一葉はどれだけ苦しんだのだろう。どれだけ泣いたのだろう。どれだけ追い詰められたのだろうと。




コンッ  コッ  コ


 何か硬いモノが落ちて来て、それを桜の木が弾く音の後に、地面へと転がる音が続いた。


 その転がった先を探すとそれは有った。



 金のリングにオーバル・ブリリアント・カットのイエロートパーズを横向きにし、それを挟む様に小さなトパーズを1石ずつ並べたもので黄色の綺麗な光を放っていた。



 そう、これは莉子の指輪だ。


 僕と一緒に選んで、一緒に生活する記念に買ったものだ。


 桜の木の根元で僕は思考も体も固まったままでいた。




 その時、気まぐれな春の風が再び強く吹いた。




 桜の花たちが揺らされ、花盛はなもりの枝の隙間から僕の部屋の窓が垣間見えた。




 そこにはミントグリーンのカーディガンを羽織り、

  今まで見たことの無い恐ろしいまでの視線を遠くに向ける香菜が立っていた。

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