希更
希更には流澄を無視できない理由があるように、流澄にも希更を無視できない理由があった。
それは阿莉にも栞奈にも、いや、この世のだれ一人として理解できない理由だった。
希更は裏門を出るとそのまま後宮の表門へと向かった。表の門で近くの女房に女御の部屋までの案内を頼んだ。もちろん、向かうのは流澄の局だ。
局に招かれるようにして入ると、流澄はちょうど女房と一緒に数々の菓子を並べていた。
それを見た希更は呆れたように声をかけた。
「……何をしている」
「あら主上いらっしゃい。何ってお茶会の準備よ?」
希更の問いに事も無げに答えた流澄はちょいちょいと近くにいた女童を手招きした。女童は不思議そうな顔をして流澄に近づく。流澄は菓子の一つを摘まんだ。
「はい、あーん」
「あ、あーん」
あーん、と差し出されたものを女童は条件反射のように口を開けてぱくんと食べた。それからむぐむぐ、うにゃうにゃと幸せにとろけそうな表情で菓子を嚥下した。
「あは、文明開化って良いわね。急速に文化が変化するのも制度ががらりと変わるのも、最初は不満しか生まれなかったわけだけど、こんな美味しい『ちよこれゐと』が手に入るならどうだって良くなると思わない?」
流澄はぽいぽいと手近な女房の口にも菓子を放りこんでいく。女房もむぐむぐと美味しそうに口を動かした。
外つ国よりもたらされたこの菓子は国内への輸入が困難なため、とても高価な品だった。希更の計らいで財閥令嬢になっていなければ、一生のうちに口に入ったかどうか。その菓子を流澄は惜しみ無く、女童や女房の口に放りこんでいる。
希更はこほんと一つ咳払いをする。注目。
「……人払いを」
「はーい」
流澄は軽く返事をすると、女房たちが次々と退出し始めた。女童が一人、名残惜しそうに流澄を見たが、流澄は軽く手を振って、彼女を見送った。
希更は菓子を挟んで流澄の正面に座った。流澄は希更が腰を下ろす前に適当な円座をぽいっと希更に投げた。
菓子に埃が入ったらどうするつもりなのだと希更は渋面になったが、流澄はそんなことお構いなしだ。
円座を敷いた希更に、流澄はさて、と話をふる。
「阿莉ちゃんどうだって?」
「阿莉には話しておらぬ。話したのは栞奈という女房だ」
「ふーん。阿莉ちゃん大切にしてるのね」
にやにやと笑う流澄に、希更は少し拗ねたように口を尖らせる。
「余が阿莉のもとへ通わぬから栞奈は怒っていた」
「通えば良いのに」
「……流澄のことが決着するまで通えないし、そもそも通っても……」
もごもごと口のなかに言葉を納める希更に、流澄はズバリと言い切った。
「夜の営みなんて、希更が自分から行けなくても向こうがどうにかしてくれるでしょう? 仮にも良いところのお嬢様なのだし」
「うぁぁぁぁ………………」
はっきりきっぱり言い切った流澄に、希更は顔を覆う。ちらりと覗く耳は真っ赤だ。
そんな反応をする希更を見て、流澄はさらに追い討ちをかける。
「あんなに真面目に殿方を落とし込む術を昔に習っていたのに、今では落とし込まれる方とかすごく面白いわよね」
「他人事だと思って!!」
「え、だって私たち今は他人じゃないの」
「うぅぅ……」
希更は頭を抱えてうずくまってしまった。まぁまぁ、と流澄は広げられた菓子を一つ持って、希更の横へと座る。
はいこれ、と出された菓子を希更はちらりと見る。
「金平糖……?」
「見た目はね。味は、昔私たちが好きだった砂糖菓子に一番近いわ」
希更は顔を出して、恐る恐る手を伸ばした。口のなかに放れば、確かに懐かしい味がした。
「私たちの世界はもしかしたら、海の向こうだったのかもしれないね」
「それはない。物心ついた時に外つ国のことをいろいろと調べたが、何一つ、痕跡など見つからなかった」
「あらま。仕事早いわねぇ」
いつもは女御と帝として接する二人だが、こうやって人払いをした時だけ、昔から互いをよく知っているように話し出す。
それは二人だけの共有の秘密。
誰にも言ったことはない、二人だけの共通認識。
「ほんとうに不思議。私とあなた、二人で一人だった頃が夢みたい」
「流澄は変わらぬな。明るくて朗らかで、頼もしい」
「何よ、頼もしいって。そういう希更は性別も口調も変わっちゃって、変わりすぎよ」
「なんで自分でも性別がこうなったのか……」
「口調のことは無視か」
「この立場で前のように話したら問題だろう」
「面白いんじゃない?」
「また他人事と!」
二人で話す会話は二人だけのもの。何を言っているのかは本人たちしか分からない。
なぜならそれは、この世界のだれもが理解できないことだから。
───希更と流澄はこの国で生まれたが、それより以前にこことは違う場所で一人の人間として生きていた。
輪廻転生……この国の宗教にそんな言葉がある。魂はあらゆるものに何度でも生まれ変わるという意味。たぶんそれが、今の希更と流澄を表す言葉に最も近い。
この世とあの世を魂が往き来する、というのがこの言葉の真の意味だったが、もし今生きる場所がこの世だとしたら、きっとその前に生きていた場所があの世なのだろう。よく徳のある僧が説くようなあの世とは違っているが、きっとそう。
希更と流澄のいたあの世はとても世俗的だった。例えて言えば、外交でよく関わる外の国々のよう。この国のように「雅やか」な国ではなく、「華やか」な国。
……あの世にいた頃、二人は一人の人間だった。だから、この世で再び巡り合ったとき、互いを認識することができた。
一人だったら自分のなかに知らない他人の記憶があることに恐怖していただけだろう。けれど、二人は巡りあった。
二人は正真正銘一人だった。正しくは一つの体に二つの魂が入っていた。
二重人格。
そう呼ばれ、病人扱いをされた苦い記憶も確かに残っている。その二つの魂が窮屈な体から離れ、個々として生まれ変わったのだ。
その頃の希更と流澄は、この国の新文化でいう伯爵令嬢だった。希更が表の人格で、流澄が裏の人格。つまり希更は貴族の娘としてのあれこれを積極的に学び、身に付けた。
帝に代わる「王」なる身分に嫁ぐことはついぞなかったけれど、それでも令嬢としてあらゆる教養を身に付け、色恋沙汰も経験したた身。希更も流澄も、阿莉が流澄に対して抱く感情を理解しているつもりだ。
「阿莉ちゃんをちゃんと救ってあげなよ、希更」
「分かっている」
阿莉の気持ちは痛いほど、希更は理解できる。
希更は「あの世」なる世界に生きていたとき、婚約者が町娘をめとると言い出し、その町娘に嫌がらせをした。まさに阿莉はその時と同じ心境なのだと、希更は分かる。
それでも。
「……どう接すればよいのか、分からないのだ」
希更は男として接するには女側の事情を知りすぎている。照れてしまってまともに向き合えない。栞奈には十分甘い言葉を囁いているとジト目で言われそうなものだが、わりといっぱいいっぱいなのだ。
顔を真っ赤にする希更に、流澄はため息をついた。そんなことを言い続けて流澄の所に通い積めると悪循環だというのに。
「あなたがそんなんだから、こうやって調子に乗る人がいるのよ」
ちょっと冷たく言えば、希更はすいっと目をそらした。現実に引き戻された気分。
流澄はお菓子の近くに置かれていた一枚の紙をぺらりと手繰り寄せた。義父からの文。
それを希更に渡す。内容はいたって簡単だった。
『商人を遣りますので、美しい反物を阿莉様も手に取れるように』
今度は希更がため息を着く番だった。
「流澄から密やかに人を遣わされたから、急いで阿莉に忠告したわけだが……これか」
「あけすけにもほどがあるわよねぇ……どうする? こんなの露見したら、うちの家、確実に取り潰しだけど。貴族内の謀略策略に慣れないお家だから阿莉ちゃんとこみたいにうまく誤魔化しきれる技術なんて無いわよ」
わざと困らせるように流澄が言うと、希更は口を閉ざして、視線を下にする。泣きはしないが、泣きたくてしょうがなかった。
「こんな世界に、生まれたくなどなかった……」
「そうねぇ……でもこれが私たちの運命なのかもね」
力なく弱音を吐く希更に、流澄はそう言って笑った。希更の好きな、日だまりのような笑顔。希更はいつもその笑顔に救われる。
そしてそれを知るから、流澄もまた彼のためにこう言うのだ。
「大丈夫。これが私たちの運命なら、あなたが幸せになるための道を示すのが私の役目。安心して。あなたがその手のひらに乗せたいもの、全部私が掬ってあげるから」
希更の一番の理解者は自分なのだと、流澄は自負している。