人形の家⑧
その日は寝坊した。
目覚ましの音が夢の中に落ちていた自分まで届かず、寝坊した時にいつも起こしてくれる母さんは、今日に限って仕事が早番で、朝早くから家を出ていたのだった。テーブルにせっかく並べてあった食パンとサラダとベーコンエッグに手をつけること叶わず、僕は家を飛び出した。門限ギリギリで駐輪場に滑り込み、早足で教室に着いた頃には汗だくだった。確かに、ここ最近暖かくなってきたようだ。
そして一限目の授業の半分ぐらいを、夢日記を書くことに費やした。不思議なもので、急に思い出そうとしても断片的にしか記憶の底から掘り起こせないのだが、ノートに書いていくうちにあれもあったこれもあったと次々に内容を書き出すことができた。(ただ、あの花火に照らされた少女の顔を思い出すことは、どうしてもできなかった)。休み時間になり、文字に起こした今日の夢をまじまじと見返した。
やはりよく似ていた。僕とナルとの、思い出の一つに。
「なにこれ、授業のノートじゃないだら」
気づくと席の後ろから、ナルが夢日記を覗いていた。そして僕が反射的に隠すよりも早く、ひょいとノートを僕から取り上げた。
「ぶはっ、夢日記? 乙女チックなことやってるじゃない」
「おまえが紹介してくれた大学の先生に書いてみろって言われたんだよ。いいから返せ」
奪い返そうとノートに利き手でつかみかかるが、ナルは意地悪い顔をして、まるで手を離そうとしない。むきになって両手でノートを引っ張ると、ナルは途端に手をパッと離し、勢い余った僕は椅子からずり落ちた。ナルは「ひいい」と腹を抱えて笑っている。僕は打った腰をさすりながら、席に着きなおした。
「ごめんごめん。ほら、痛めたならこれ貼っとけばいいで」
そう言って湿布(たぶん部活で使うことがあるのだろう)をすぐに出せるのだから、こういうことをされても憎めない。しかし「それでどんなこと書いたの?」だなんて、性懲りもなく次にからかうネタを引き出そうとするナルに僕はむっとして、背中を向けながらぶっきらぼうにこう答えた。
「変な夢だよ。昔小学校の卒業式の後にさ、神社に一緒に行って、そこで僕の引っ越しの話しただろ。夢の中だとそれがおまえじゃなくていつもの白い女の子に代わってたってだけ」
別に話したかなんて細かいことを言う必要もなかろうと、僕は鼻をふんと鳴らした。
すぐに違和感に気付く。ナルが何も言ってこない。
振り返ると、そこにはいつもの愛嬌があるナルはいなかった。眉間に皺を寄せ、強張った表情をしている。めったに見ない顔だった。
「……おぼえてるだら?」
ナルはしばらく黙っていたが、やがてふっといつもの柔らかい表情に戻した。
「あったっけか、そんなの。私って忘れっぽいんだよね~」
教室に佐久間が入ってきた。憂鬱な世界史が始まろうとしている。
「あんたね、夢ばっか気にしてないでちゃんと現実の授業受けたほうがいいよ! 二年生のテストは一年ほど甘くないんだから」
そんならしくないことを言って、ナルは自分の席へ戻っていった。
しかしナルの普段と違う態度が気になって、佐久間の授業が相変わらずばかつまらないのも相まり、現実の授業が頭に入ってくることはなかった。