人形の家④
常和大学梅ヶ谷キャンパス――通称うめキャンは、僕の通っている高校から私鉄で4駅離れた位置にある私立大学である。主に文系の学部が設置されていて、どこもそれなりに頭がよくないと入れない。うちの高校からも結構な数の卒業生が毎年進学しているそうだ。この辺りに住んでいれば、うめキャンという通称は誰だって知っている。
僕はそのキャンパスの広場で立ち尽くしていた。大学棟と緑地エリアと食堂と購買の中心にぎゅうと押し込まれたようなその空間には、午後4時過ぎにも関わらず多くの学生が行き交っている。なんでも毎週木曜日の午後は全学部で授業はなく、代わりにサークル活動を奨励する時間となっているのだそうだ。見渡せば、食堂で地味な男たちがカードゲームに興じる傍ら、あちこちでサークル勧誘が行われている。耳を澄ませば、吹奏楽の音に混じり、下手くそなアカペラがどこからか聞こえてきた。
だが今日はオープンキャンパスに来たのではない。ナルの紹介で、ここの教授に会う約束をしているのだ。
時間は二日前、僕がちゃみかんに行った翌日に遡る。
その日はわざわざ早起きして学校に行って、テニス部の朝練からクラスに戻ったばかりのナルを捕まえた。事の顛末を話すと、ナルは一瞬きょとんとしたあと、急にブフッと噴き出した。
「おまえが廃墟だなんて言うからだら!?」
「ごめんごめん、私も友達から聞いただけだったから」
そう言ってナルは例のでっかい水筒を取り出し、またカパカパと飲み始めた。
「飲む?」
僕はしばらく悩んだ末、水筒をひったくってみた。しかしナルは全然動揺しない。ふーんそれでこの後どうするんだろうなー、とにたにた僕を眺めている。間接キスする度胸があるならやってみろと、目で挑発してくる。
なめんなよ。
僕は目をつむって口をつけた。ナルが「あっ」と小さく声をあげたことなど意に介さず、このばかでかい水筒の中身を一滴残らず飲み干しにかかる。しかし水筒はいくら飲んでも軽くならず、逆に僕の方が中身を口から出すのが早いか鼻から噴き出すのが早いかという状況に陥ったため、諦めて水筒を口から離した。
「ぜえ、ぜえ……ほら」
とうとう飲んでやった。僕は得意げに水筒を返してやった。力なく受け取るナルの顔は、耳まで真っ赤だった。多分僕も似たような顔になっているんだろうけど、恥ずかしさよりも一本取ってやったという優越感が勝った。
ただそうして鼻を高くしているのも束の間、ナルは僕の背中をテニスのフォアーハンドさながらのフォームで勢いよく叩いてきた。それはもうバシイイイイイイッといい音がして、あまりの痛みに体が痺れ、僕は目を見開きながら変なポーズで固まった。
「そ、それで!? 気になってた建物が見つかって満足した?」
やりすぎたと感じたのか、ナルはしかめっ面をしながらも僕の背中をさすってくれた。
答えるなら、もちろんそんなわけがなかった。結局ちゃみかんと僕にどんな繋がりがあるかわかっていないのだから。小さい頃に行ったことがあるなら忘れてるだけかもと思い、帰った後母さんに連れて行ってくれたことがないか聞いてみたが、知らんとばっさり切り捨てられた。そういうわけでその日の夜は頭の中のもやもやが晴れないせいでうまく寝つけず、そして眠りに落ちると夢の中にいた。商店街を白い少女と歩く夢だ。相変わらず少女の顔を思い出すことはできなかったが、ちゃみかんの形をした肉屋の、店員の顔はなぜか記憶に焼き付いていた。どこかで見たような気がするのだけれど、誰だったか。わからないことがまた一つ増えたが、それ以上に気になるのは、ちゃみかんと白い少女が僕の夢に頻繁に現れることだ。
ちゃみかんとは何なのだろう。あの少女は誰なのだろう。
どうして僕は、こんな夢を見るのだろう。
「ひょっとして、専門家に聞けば何かわかるかも」
夢の専門家? 身近にいるものか、そんなん。
「それがいるだよ、うめキャンに。兄貴が授業とってるんだけど、変わった人っぽい。自分が眠たくなったら残りの時間自習にして教壇で寝たり、逆に舟を漕いでる学生に『そんな中途半端じゃだめだ』とか言って枕を貸し与えたり」
「ただの怠けものだらそれ」
「でも頭いいっぽいよ。兄貴に話してアポとってあげよっか?」
何もせずに解決することはない。僕はナルに、手間賃のメロンカスタードパン二つで依頼した。
返事はすぐにきたらしく、先方の反応はというと、面白い症例だから詳しく聞くのが楽しみだと好感触だったそうだ。だからか約束の日もすぐだった。
それにしても、見るほどにキャンパスというのは、同じ外でも公園や商店街と違って隔絶されている、と感じる。整然と並ぶ赤レンガタイルの建物に、学生と教授だけが暮らす空間。異界という点では夢の中と同じかもしれない。
大きく深呼吸をすると、白昼夢から醒めていく。僕は教授のいる棟へと向かった。