春の宵・光の夏⑤
十二年前のその日は、寒波の襲来のせいで三月だというのに真冬並の気温であり、バーのカウンターの席に一人で座る男も、自分が着ていたコートを畳んで膝にかけていた。黒縁の眼鏡をかけたその男性は、獏也が祖母の夏江を見舞いに行った時、病室から出てきた男であった。
バーの入口が開き、初老の男性が中に入ってきた。鍔つきの帽子をとると豊かな白髪が露わになった。老人は眼鏡の男の隣の席に座り、バーなのにカクテルではなく熱燗を注文した。
「通しのナッツには塩かけてくれ、めいっぱいな」
老人の注文に、眼鏡の男はふっと笑う。
「先生、塩分は控えられた方がよろしいのでは?」
「自分の体の診察ぐらい、今の俺でもおまえよりはできる。先生じゃなくなってもな」
ふんと鼻を鳴らす先生と呼ばれた老人の前で、眼鏡の男は一転して沈んだ表情になり、自分の目の前のグラスに目を落とした。
「……それでも、今は先生のお力を借りたいんです」
沈黙が訪れ、その間に頼んだ熱燗とナッツが出てきた。老人は酒を注ごうとする眼鏡の男を「構わん」と抑え、自分でなみなみ注いだお猪口をぐいっとあおった。
「やれることは全部やったのか?」
「国内で認可されている薬はほとんど試しましたが、どれもあの子には強すぎました。外科手術で一度腫瘍を取り除いても再発するうえ、幼い彼女への負担を考えると何度もできるものではありません。海外にいけばあるいは、とは思いますが、かかる費用に対して望みは薄いです。それに――」
眼鏡の男はグラスへ添えていた両手にぎりぎりと力を入れる。
「それに、あの子はもうボロボロです。治療をすればするだけ、生気が抜けおちていくのがわかるんです。今はもう積極的な治療はしていません。あくまで病気の進行を抑えるだけ、緩やかに最後を待っている状態です」
そしてグラスの中身を全部一気に飲み干しテーブルに叩きつけると、眼鏡の男性は老人に向き直って悲痛に声を荒げた。
「先生っ、私はどうしたらいいんでしょうか!? 私は無力です。彼女の死んだ瞳が私に、おまえに医者の資格は無いと、そう訴えかけてきている気がしてならないんです! せめて、せめてですよ!? 治すのが無理でも、これまで生きていて良かったと、穏やかな気持ちで最後を迎えられたら……っ!」
「いっそ、退院させてはいけないのか。余生を家族と過ごせるなら、その子にとっても――」
「親は……もうダメなんです!」
男は俯いて叫んだ。
「最初はよく見舞いに来てくれていましたが、生きられる希望がなくなっていくにつれ、見るたびにやつれていくあの子を見るにつれ、心を病んでしまったんです。もうあの子を見舞う人は誰もいません。帰る場所すらないんです」
なんとか言いきった後、眼鏡の男は堰を切ったように涙を流し始めた。自分の受け持つその少女が、あまりに不憫だったのだろう。男は優秀な医者だが、患者に感情移入しすぎるところがあった。そして彼を一番傍で見てきたかつての上司である老人は、子供のように泣きじゃくる男に呆れながらも、彼の背中をよしよしとさすった。
「ほら、鼻かめ鼻」
老人が差し出したポケットティッシュを眼鏡の男は恐縮して手に取り、四枚ほど一気に抜いてぶびいいいと鼻の中のものを全て吐きだした。少しして男が平静を取り戻すと、老人は「考えがある」と切り出した。
「俺が医者をやめて店を持った理由は、前に話しただろ?」
眼鏡の男はきょとんとする。
「栄養学に興味をもたれたからですよね? 何がきっかけかは存じ上げませんが」
「栄養学は手段にすぎない。俺が興味を持ったのは、人間自身の持つ『生きる力』そのものだ」
老人はいつの間にか飲みほしていた熱燗のおかわりを頼みつつ、「そのきっかけだがな」と、ぽつぽつ語り始めた。
「俺がまだおまえのように青臭かった頃、同じように俺や他の医師の手に負えない患者と出会った。小学生の男の子だ。当時の医療技術じゃどうしようもなくて、どんな病院からも匙を投げられてた。
だけどその子は、家族に愛されていた。ある日見舞いに来た母親が、息子に出された病院食を一口食べてると、凄い剣幕で担当医の俺に喰ってかかってきてな、なんて言ったと思う」
「まずい、ですか? 確かにうちの病院食は、以前はひどいものだったそうですが」
「そんなことは言わなかったさ。けど、母親は自分に作らせてほしいと言った。うちの栄養士のどんな言いつけも絶対守って見せるから、息子の病院食を自分に用意させてほしいと頼み込んできたんだ」
「……許可したんですか?」
「それで腹でも壊されたらこっちの責任にもなりかねないってんで、そりゃあもう反対を受けたけどな。通ったんだよ、なんとか。そうしたらどうだ。どんな薬も効かなかったはずなのに、あったはずの腫瘍は少しずつ小さくなっていって、起き上がるのもやっとだった男の子は、いつの間にか外を出歩けるようになり、一年後には完治していた。あれは奇跡だ!」
老人は興奮した様子でそう言った後、ふっと冷静な表情に戻り、「だがあれには必然性があった」と続けた。
「別に母親の作ったごはんが、とんでもなくおいしかったというわけじゃないんだ。むしろ下手といっていい。だがその子の家庭は共働きで帰りも遅く、できあいの夕飯がしょっちゅうだったそうだ。入院した息子に付き添う時間を作るために母親は仕事をやめた。奇しくもそのおかげで、母親は手料理を作るゆとりが生まれ、それが息子に生きる気力を与えたんだ」
「うちの病院食が良くなったのは、先生が主導で掛け合ったおかげだと聞いたことがあります。そういうわけだったんですね」
「薬膳という考え方は昔からある。しかし、ただ栄養があればいいというだけじゃない。食った患者の心まで満たして、初めて人を癒すことができる、そう教えられた気がしたよ。俺が店を持ったのは、それを実践したかったから。そしていつか、今度は俺の手で、奇跡を起こしたかったからだ」
眼鏡の男は、はっとした。
「まさか先生」
「そうとも」
老人は男の両肩に手を乗せた。
「その子を預けてみないか? 俺の『ちゃみかん』に」
ゲン……獏也の祖父は、にやっと笑った。