春の宵・光の夏③
何も置かれていなかった長机に、緑茶の入った湯のみが3つ用意された。母さんは平静を装って清水さんと世間話をしているが、浮かべている愛想笑いはどこかぎこちなく、突然の来訪に少なからず動揺しているように見える。
「――それで、今日はどういったご用件でいらしたんですか?」
清水さんにあてた質問だったのだろうが、代わりに答えたのはナルだった。
「バクのお願いを聞いてほしいんです! ちゃみかんのこととかカスカちゃんのこと、知ってること全部話していただけませんか!?」
最後まで言いきるまえに、カスカの名前が出た時には既に、母さんは眉をひそめていた。
「そう、やっぱりあの子のことまで思い出してたの。でも全部ってわけじゃなさそうね」
母さんはほっとしたように鼻でふー、と息をついて、口を開いた。
「安心したわ。そして悪いけど、話すわけにはいかないの」
「なんでですか!」
「それが獏也のためなのよ。そもそも鳴子ちゃんはどうして急にこんな話をするのかしら? 獏也に昔あった出来事って言うのは、私達家族の問題であって、鳴子ちゃんは関係ないじゃない?」
「関係ないって――」
おもむろにナルは立ちあがって、叫んだ。
「好きな人の力になりたいって思うのは、変ですか!?」
「「「「えっ」」」」
先生も清水さんも、この場にいる全員がそう口にした……と思ったら、ばあばだけがなぜだか黙って嬉しそうにナルを見上げていた。
いや、そんなことよりも。そんなことよりも。
「ナル、その好きな人って――」
「二度言わす気なの!?」
顔を真っ赤にしながらナルは僕の頭をはたいた。僕はそれ以上目を合わせることができず、たまらず母さんの方に目をやった。
母さんはぽかんとして、僕とナルを交互に見て、なんか感心したようにため息を漏らした。
「いい感じの二人だとは思ってたけど、まさかもうデキてたなんてねー……」
「いや今知った! 今告白された!」
僕が慌てて釈明すると、ナルは今度はグーで僕の頭を殴った。あまりにも痛かったので、これ以上余計なことを言うのはやめた。母さんはますます信じられないという顔で、仁王立ちするナルを見上げた。ナルは母さんを真正面から睨みつけてはいるが、ふと足元に目をやると、膝が震えていた。
「獏也にはもったいないわね、ほんと」
母さんはナルに座りなさいとジェスチャーで示す。ナルは心底安堵したように顔の緊張を解き、ぺたんと腰を下ろした。たぶん、元々この場で告白するつもりなんてなかっただろう。成り行きと勢いで言ってしまったのだろう。だけどそれは、母さんに僕のことを本当に想っていることを伝えるため、全部僕のために奮われた勇気だった。僕はこれからナルに頭が上がらないかもしれない。
母さんは再び深く息をついた。
「そういうことならなおさら話すわけにはいかないの。獏也のことを想うならね」
そんな、とナルが食って掛かろうとしたその時、城見崎先生がナルを手で抑えて、代わりに口を開いた。
「お母様は、過去に何かカスカ君と望月君との間に悲しいことがあって、それを思い出させることは望月君を傷つけてしまう……だから話したくない、そう考えているのですよね?」
頷く母さんに、「それならば」と先生は話を続ける。
「あなたは息子さんを見くびっている」
直接的な物言いに空気が凍る。ナルのおかげで少しはほぐれていた母さんの表情が険しくなってしまった。
「望月君は、あなたが思っている以上に成長しているんです。つらい現実と向き合うことができるぐらいに」
「母親の私が思っていないことを、なぜ赤の他人のあなたがそう言い切れるんです?」
母さんは言葉のとげを隠し切れなくなってきていた。しかし先生は涼しい顔で、次のように言いのけたのだった。
「彼が夢でカスカ君と出会っているからですよ」
おそらく全員の頭にクエスチョンマークが浮かんだであろうことを察し、先生はゴホンと咳払いする。
「夢とは、脅威状況のシミュレーションであるという面があります」
心の底であってほしくないと感じる出来事を、夢の中で体験することで、現実でその出来事が起こってしまった時にも対応できるように訓練している……以前僕に話してくれたとおりに先生は説明した。それはつまり、無意識下で僕がカスカと出会うことを恐れているからだとも。
「しかし一方で、望月君の心は恐怖に打ち勝とうと努力しているのだと思います。私がそう感じた根拠は、彼がカスカ君の夢を見始めた時期です。それは高校生になってからだと聞いています。
こうは考えられませんか? 確かに中学生までの彼はまだ、昔の記憶に向き合うには精神的に幼かった。しかし高校生になったことで、夢の脅威状況シミュレーションを通せば、辛い過去と対峙しても大丈夫なぐらい、きっと望月君の心は成長できると、彼自身の脳が判断したのだとしたら」
母さんは眉間にしわを寄せ、うつむいて考え込んだ。はっきり言って、先生の説明はすべて憶測の域を出ていない。しかし母さんもまた、息子である僕の成長をちゃんと見ているのか、そのうえで辛い過去と直面したときとてもそれに耐えることはできないと、根拠を示すことを求められていたのだった。
「獏也が倒れた件についてはどう説明するんですか。それだけじゃない、あなたがけしかけて見た夢のせいで、ひどく体調を崩したこともあります。これでも大丈夫だといえるんですか」
「強烈なフラッシュバックが、身体にまで大きく作用するのはありうることです。肝心なのは、望月君がそれらより浮かび上がった事実から、目を背けたがっているのか、それとも受け入れようとしているのかではないですか」
答えは言わなくてもわかっていたから、母さんは慌てて別の言い分を探した。
「そもそもっ! 獏也が忘れてしまった過去のことを辛い出来事と心の底で感じているのだとしたら、それを思い出そうとしているのはおかしいじゃないですか! それを寄ってたかって……っ!」
「夢に現れるのは潜在的な恐怖だけではありません。願いも夢の中で形となるのです。それらが一つの夢にでる、というのはそうそうありませんが、望月君の場合はそれが当てはまる気がしてなりません」
そうだ……。
僕はカスカのことを知るのを恐れていた。記憶を取り戻した後もなお、今までと同じ暮らしを送れるのかどうか不安だった。
だけど同じぐらい、僕はカスカともう一度会いたいと思っていたんだ。
やっとわかった。さっきまで僕が抱えていたもやもやした気持ちの正体はこれだ。
自分のことを知りたいっていうのは嘘じゃない。嘘じゃないけど、それ以上に僕は、僕は本当はただ――
「お母さん、実はカスカちゃんはな、まだちゃみかんにいるんだよ」
清水さんの言葉で、母さんとばあばは同時に目を剥いた。ばあばは口に手を当て、涙を流した。母さんはそんなばあばを見ても到底信じられないといった様子だが、それをはっきりと口にできないでいた。
「清水さんの霊感が大変強いことはもちろん承知してますが、いくらなんでも……。彼女が亡くなったのは10年以上前なんですよ!?」
「かわいそうな話でしょう。だからね、最初は私の手であの世に送るつもりだったんですよ。でも息子さんがどうしてもいやだって。自分が彼女の願いを叶えて、未練を晴らしてやりたいんですって。なあ?」
母さんは顔をこちらに向け、「あなたも見えてるの……?」とおそるおそる尋ねた。僕は無言でうなずいた。母さんはその一言でぐしゃっと顔をゆがめ、重々しくため息をついた。
「息子さんが意気込む理由が、近くで見ていたあなたになら、きっとわかるはずだ。意を汲んでやっちゃくれませんか」
母さんはナルに、助けを求めるようにちらと目をやった。ナルもまた、悲しそうに笑みを浮かべるだけだった。「罪な奴だぜおまえはよぉ」と清水さんが僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「あなた達には……」
呟くようにそう言った後、母さんは立ちあがった。見上げた僕の目に映る母さんの顔は、今まで見たことのないものだった。母さんには幾度となく叱られていたから、怒った顔はよく知っているはずだったけど、そこにあるのはよく似ているようで、迷いとか悲しみとか、色々な感情がごちゃまぜになっているようだった。
「見ていないあなた達にはわからないでしょう! あの時の光景を! 地べたに座りこんだ獏也の、この世のすべてに絶望した表情を! 私の目にはそれが焼きついて離れない……今でも夢に見るくらいに。私がもっと気を付けていれば獏也を傷づけることはなかったのにって、ずっとずっと後悔し続けてきた。今度こそ守らなきゃいけないの、私はこの子の母親だから!」
この場で僕の過去を知っているのは、目の前の二人、母さんとばあばだけだった。知る者と知らざる者を、長机が隔てていた。だけど僕が何も言い返せないわけはそれだけじゃなくて、やっぱり母さんは、僕を本当に心配してくれてるんだなというのが伝わってくるからだ。母さんだけじゃない。ナルも先生も清水さんも、みんなが僕のためを想って動いてくれている。
この場にいる全員が、納得し、安心できる結末。そこに導くのはほかでもない、僕の役目じゃないのか。
僕は立ちあがった。立ちあがって母さんの目線に立った。よく見たら、僕そっくりの母さんの大きな瞳には、ほんの少し涙が浮かんでいて、気圧されそうになる。
下唇をぐっと噛んで、臆病な気持ちを追いやり、きっと前を見据えて、負けないように、伝わるように、心の奥底から声を引っ張り上げる。
「今度こそ、カスカの力になりたいんだ」
どうして、「今度こそ」だなんて言葉が思い浮かんだのか。僕が昔カスカに何をしたのか。思い出せないはずなのに、自然と口をついて出た。
だけど、やっと言いたいことが言えたと思った。たったひとつ、僕が今本当に成したいことだった。
母さんは僕の言葉に驚愕した。そして、とても悲しそうな顔をした。やっぱり変わってないじゃない……と独り言のように呟いた。すると急に元の険しい表情に戻り、僕を見据え、僕を説得しようと、その口を開こうとする。
「やめなさい、恵子」
唐突に母さんの名前を口にしたのは、ばあばだった。全員の視線がばあばに集まる。ばあばはまるで動じずに、誰とも目を合わせずに、淡々と言葉を紡ぐ。
「これだけの人が、バク君を慕って集まってくれた。そしてバク君は、自分の気持ちをしっかり表すことができた。もう昔のままじゃないの。わかるでしょう?」
母さんは言い返そうとして、言葉が思いつかなくて、どうしようもなくなって、力なく膝をついた。僕も合わせて座った。ばあばはそこで初めて母さんの方を向いて、やさしく背中をさすった。母さんは緊張の糸が遂に切れたのか、声をつまらせながら泣いた。
「ずっと、あの場所にカスカちゃんがいるような気がしたの。だからどうしても、お店を手放すことができなくて……。バク君、ありがとう。そしてお願いね。カスカちゃんの、力になってあげて」
ばあばの言葉に、僕は力強くうなずいた。周りを見ると、先生も清水さんもナルも、僕の方を向いていた。素直に喜んでくれていたり、優しい眼差しをただ向けてくれていたり、ちょっと寂しそうにしていたり、その表情は様々だったけれど。そのまま少しだけ沈黙が流れて、母さんは自分のポケットをまさぐり、取り出した物を僕の前に差し出した。
それは鍵だった。動物のバクのキーホルダーが結んである、一本の鍵だ。
これはひょっとしなくても、カスカの言ってた……。
「あとは、カスカちゃんに任せるわ」
母さんはそう言って立ち上がると、部屋を出た。階段を上る足音からして、二階の自室へ戻ったのかもしれない。
あらかじめこの鍵を持っていたということは、僕の話次第では、元々渡す気があったということだったのだろうか。
僕は鍵をぐっと握りしめ、天井を見上げた。母さんの自室はこの真上なのだ。
(ありがとう、母さん)
僕は立ちあがって、この場にいる全員に頭を下げて礼を言った。みんな口々に励ましてくれて、とても心強かった。
玄関を出て、自転車にまたがる。ポケットに入れた鍵が、ちゃんと入っているかもう一度確認する。
息を思いっきり吸って、僕は家を飛び出した。




