途切れたフィルム⑥
盆やお彼岸の時期に家族で行く墓参りへは、そういうのをサボると仏様やご先祖様に嫌われて不幸な目に遭うよと母さんに脅されて、毎年いやいや連れてこられてた。ただじいじの命日にまで付き合わされるのはご免だ。母さんにとっては父親で、ばあばにとっては旦那だったかもしれないが、僕にとっては祖父ではなく顔も知らない他人のような気持ちだったのだ。最近までは。
そんな心境の変化から、自由な土曜日の時間を費やして僕もじいじの墓参りについていくと言った時には、「雷がお墓に落っこちてこないでいいけど」だなんて母さんに目を丸くされた。いわく、夕方には天気が荒れるらしい。雨が降る前に僕と母さんとばあばの三人で、じいじのお墓があるお寺に向かった。
お寺は山の中にあり、お墓は割と勾配が強い斜面に沿って立ち並んでいる。パーキンソン病のばあばには危ない道だ。転ばないよう、僕が手をつないでゆっくり上っていく。
「あ、水汲んでくるの忘れた」
じいじのお墓の前に着いてから、母さんはそんなことをのたまう。蛇口と柄杓と桶が置いてある場所は、坂の下だというのに。
「私とばあばの二人の時は、ばあばをここまで一度連れてきた後に汲んでたからなー。獏也、悪いけど行ってきて」
坂は上るときよりも下りるときの方が疲れる。強い勾配に加えて、あちこちに苔が生えているため、転ばないように神経を使うからだ。
そのせいで上った時と同じぐらいの時間をかけて、水汲み場に辿り着いた。やれやれと一息つきながら、蛇口をひねり桶に水を入れて、柄杓をその中に放り込み片手で持ち上げる。そのとき、指の先がくすぐったいなと感じ、桶を持っている方の手を確認した。
ムカデが這っていた。
「あひいいいああっ!」
女子みたいな悲鳴を上げて僕は桶を放り出しムカデを払った。足元に落ちた桶は盛大に水を撒き散らし、僕の靴とズボンを濡らした。桶はそのまま地面を転がり、人の足にぶつかった。
「おいおい大丈夫かい」
「ああっ、す、すみませ――」
顔を上げると、そこに立っていたのはお坊さんだった。黒い袈裟と丸めた頭でそれはすぐにわかる。
だけどその顔には見覚えがあった。
「清水さん!」
サングラスを外した顔を見ていなければわからなかっただろう。涼しげな切れ長の目が僕に笑いかけていた。
「はは、虫苦手かい。まあおまえさんに限った話でもないで、定期的に駆除はしてるんだけど、また増えてきたな」
「清水さん、このお寺の住職だったんですか!?」
「この前名刺渡しただら。ひょっとして、ご先祖様がいる寺の名前を今まで知らなかったとか?」
知らなかった。お寺って似たような名前多くて覚えにくいし、そもそも今まで興味なかったし。
「でもまあ、こうやって墓参りに来るのは、若いのにいい心がけだ。俺がおまえさんぐらいの年のころは、親父の手伝いほったらかしてふらふらしてたでなあ」
そこで一度会話は途切れ、並びあって坂を上った。僕は清水さんにこの前言われたことを思い出していた。死人に想いを馳せても、碌なことはないぜ、と。
だけど僕は、カスカの悩みに正面から向き合いたい。カスカが求める物、解決したいことに、力を貸したい。そしてカスカを、安らかにあの世に送りたい。だからカスカを無理に祓おうとするのはやめてくれ――そう口を開こうとした矢先、清水さんが先に「なあ」と声をかけてきたのでタイミングを失った。
「ちゃみかんにいる幽霊ってさ、ゲンさんじゃないんだろ」
急に図星を突かれて、体がびくっとなる。
「ど、どうして……?」
「おまえさん、嘘が下手だって言われない? ちゃみかんで俺がおまえさんに話をしてる時も、なーんか隠してんなあこいつぅって思ってたぜ俺ぁ」
そういえば、それでナルにからかわれてたような……ナルの勘が鋭いのではなく、僕は本当に隠し事ができないらしい。ショックだ。
「除霊するって言った時もいやそーにしてたしなあ。大方、おまえにはあそこに住んでる幽霊が見えてて、仲良くなったから祓ってほしくないってんだら?」
「最初は、そう思ってました」
僕は立ち止まって、まっすぐ清水さんの目を見た。
「だけど今は違う。僕はただ彼女に幸せになってほしいんです。今はまだ固く殻を閉ざしてるけど、彼女がここにいる意味をいつかちゃんと聞いて、笑いながら帰ってほしいんです」
話を聞く清水さんの表情は、悲しそうにも嬉しそうにも見えて、なんと反対されるかと構えていただけに、逆に自信を失いそうになる。清水さんは沈黙を保ったままで、耐えきれず僕は「どうでしょうか……?」とおそるおそる尋ねた。
「……いいんじゃねえかな」
清水さんはやっと顔を崩し、ふっと笑った。
「俺にはもう、そういう送り方はできなくなっちまったからよ。おまえさんが代わりにやってくれや。わからないことがあったら、いつでも聞くがいいで」
この世を彷徨う霊をあの世に送るには、きっとその人の未練を叶えてあげるか、清水さんのような専門家が祓うしか方法がないのだろう。清水さんは、霊の未練を叶えることの難しさを僕に伝えていた。それは理屈だけでなく、清水さんもそうして霊を成仏させようとしていた時期があったのかもしれない。霊の悩みに真摯に向き合い、力を貸して解決しようとしていた時期が。
改めて考えると、清水さんってすごい人だ。何せ、この世全ての霊の話を聞けるのだから。僕に見えるのはカスカだけ――
「……なんで僕にだけ?」
ナルにカスカは見えていなかった。壁のシミが人の顔に見えて怖いと思ってたときはあったかもしれないが、自分に霊感があるかといえばとてもそうも思えない。一体どうして、僕にだけカスカが認識できるのだろう。
「一言でいえば、縁の強さだ」
そう言って清水さんは再び歩き出した。
「俺みたいに霊感がなくなって、互いに深く想い合っているような関係だと、稀に見えることがある」
どきりとする。それはまるで、僕だけじゃなくて、カスカも僕のことを――
「あーすまん、嬉しそうにしてるところ悪いが、そういうんじゃねえだよ。囚われ合っていると言った方が正しいか。そういう場合、まず霊の方は、相手のせいで成仏ができないでいる」
途端に、僕の心に暗い影が差す。僕のせいでカスカが? カスカの未練とは、僕自身に関係するものだとでもいうのか。
「そして相手の方は、霊となった人の存在が、心の大きな重しになっている。前に進めなくなっちまうんだ。つまりよろしくない関係なのさ」
カスカの存在が、僕の中で。先生曰く、カスカは僕が記憶をなくした原因に関わっているとされている。それが僕のトラウマになっているとも。
今はまだ思い出せないが、もし記憶を取り戻せたとしても、その後僕が今まででと同じように生活できるな精神でいられる保証は、どこにもないのだろう。それほど辛い記憶とは、なんなのか。
「一体どうしたらそのような関係になってしまうんですか」
「そうだな、俺が一度出会ったことがあるのは――」
清水さんはなぜか言い淀んで、僕をちらと見た後、厳かに続きを口にした。
「人を殺した奴と、そいつに殺された人、とかな」
凍りついた僕を見て、清水さんは取り繕うように、その「出会った」ときの話をはじめた。
「昔キャンベラに仕事で、呪われているって噂の交差点に行ったことがある。見通しが悪いわけでもないのに、しょっちゅう事故が起こるんだ。事故った奴は一様にして『女が飛び出してきた』と口をそろえて言う。しかし避けた車を木や看板にぶつけて、ふらふらになりながら外に出てみても、女の姿かたちはどこにも見当たらない。当然だな、そいつは幽霊だったんだから」
「わざと事故を起こしてたんですか」
「悪い奴だろ? でも会って話を聞いてみると、その女も交通事故の被害者だった。酔った車にひかれたんだと。オーストラリアは少し飲んだぐらいじゃ飲酒運転にはならないから、故意じゃないってこともあって加害者の男は軽い刑罰で済んだらしい。女はその男を恨んだ。いつかそいつがもう一度ここを通った時に自分と同じ目に遭わせるため、自分を轢いた車に似てるものはみんな狙って、事故を起こしてたんだ」
「それで、清水さんはどうしたんですか」
「言っただろ、話を聞いた。そしたら自分を轢いた男のところへ連れていけときたもんだから、危害を加えない条件で俺は男の居場所を調べ上げ、会いに行ったんだ」
清水さんは遠い目をして、ため息をつく。
「男の生活はボロボロだったよ。勤めていた会社を辞め、今にも壊れそうなアパートの一室で引きこもっていた。拭い去れない罪の意識が、彼から生きる気力を奪っていたのさ。しかしその罪悪感が、男の目に女の霊を映した。女の死に囚われたままの男の心が、現世に存在しえない者との縁を結んだんだ」
「二人は、どうなったんですか?」
「女は男を許した。今日まで自分の死を悔やんでくれた男の心に救われたのか、男の惨めな姿に復讐するまでもなく満足したのか、それはわからない。だが女は、男を許すと自分の言葉で伝え、成仏した。そして男も、立ち直ることができたんだ」
皮肉な話だ。女性の死に囚われたことが、男と女性を引き合わし、男に生きる気力を与えるきっかけをつくったのだから。
「人の負の感情は強烈だ。彼らの場合、お互いが憎しみと悔恨に囚われあっていた。おまえさんがたは、そうでないといいんだが」
僕とカスカの関係はわからない。だけどもし僕がカスカにひどいことをしていたなら、この結末と違い、決して許されないだろう。
なぜなら僕はこれまでずっと忘れたまま、のうのうと生きていたのだから。
「あら、珍しいですねぇ、こちらにいらっしゃるなんて」
ばあばがやってきて、清水さんに挨拶をした。気づいたら、もうじいじのお墓の前まで戻ってきていた。
「いやあ、これはこれはお久しぶりです。ん? 今日はもしや……」
「ええ、あの人の命日なんです」
「そうでしたか。すると今日で亡くなられて、10年、いや11年になりますか」
どうやら清水さんは、じいじやばあばの知り合いのようだった。じいじは患者に慕われていたというし、ひょっとして清水さんもじいじの診察にかかったことがあったとか――
「ゲンさん、向こうで元気にしてますかねえ」
……え?
「ああ、放っておいて悪かったなおまえさん。この人はな、ゲンさんの奥さんだよ」
ちょっと、待ってくれ……。
「清水さん、彼は私の孫ですよ?」
ゲンさんが、じいじのことだって?
「へえっ!? じゃあおまえさん、おまえさんもしかして――」
じゃあじいじはちゃみかんの店主だったのか? 頭にちくりと痛みが走る。ちょっと待て、じいじは医者じゃなかったのか。いや清水さんは、ちゃみかんを営んでいたのは「老」夫婦だと言った。退職した後に始めたということなのか。
「こんにちは住職さん。ねえばあば、ライターがないんだけど……獏也、あんたどうしたの?」
どうしてレストランなんか? いやそれはたいした問題じゃない。カスカは、カスカとはどういう関係だったんだ。頭がずきずきする。僕はゲンさんのことをカスカのおじいちゃんだと思ってた。だけど違った。赤の他人だったのだ。そしてじいじとばあばが営んでいたというなら、僕がちゃみかんを以前訪れていたとしても全く不思議じゃない。やっぱりそこでカスカと出会って――
「獏也!? 返事をしなさい、獏也!?」
見覚えのない光景が目の前に次々と映る。頭の痛みは増すばかりだ。整然と並ぶ車、出迎える初老のコックとウェイトレス、規則正しく音を立てる置時計、頭が破裂しそうだ、厨房から漏れるみかんソースの香り、物陰から僕を見る白い少女。
「大丈夫かおまえさん!? とにかく、きゅ、救急車を!」
「お母さん、何を話したの!? 獏也に一体何を言ったの!?」
僕はその白い肌や髪があんまりにも綺麗だから、すっかり目を奪われてしまった。前を歩くじいじとばあばと父さんと母さんから離れて、白い少女に近づく。少女はまるで子猫のように、びくっと体をこわばらせ、物影のさらに奥の方へ引きこもる。僕は少女に声を――
「ちがう……」
ちがうわざとじゃないしょうがないんだだってせっかく友達になれたのに全然会えなくてみんながカスカにひどいことしてるって思ったから僕はいいことをするつもりで実際カスカはあのとき手を差し伸べてくれて――
「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうちが」
頭を串刺しにされた。
そう感じるぐらい鋭く強い痛みが、追い打ちをかけるように走った。
目の前の景色はふっと元の墓場に戻り、僕は横向きになりながら誰かの足を見ていた。
たくさんの人の声が聞こえるけど、何を言っているかまではわからない。
視界が薄れてきて、だんだんと眠くなってきて、何も見えなくなったので、僕はそれ以上考えるのをやめた。




