途切れたフィルム⑤
ノックをしてしばらく待っても、一向に出てくる気配がない。試しにドアの取っ手を引っ張ると、鍵はかかっておらず、僕は家主の了解を得ずにちゃみかんの中へ入った。
相変わらずの光景だ。一見寂れているようで、掃除だけはしっかり行き届いている。やはり廃墟だから、見知らぬ人に荒らされたりしただろうし、経年劣化で破損したと思われるものもたくさんある。それでもきっとカスカが、自身のできうる範囲でちゃみかんを保全しているのだろう。
カウンターに置かれたポータブルTVからは、さっきまで見ていたのか、学園ものらしい昔のドラマが垂れ流しになっている。バスに乗ったヒロインを、主人公が信じられない足の速さで追っかけている。
「いるの?」
声をかけても返事はなかった。僕はカスカを探した。二階へ続く螺旋階段の陰や、カウンターの中など、あちこち覗いてみるが見当たらない。仕方がないので、別の部屋を覗いてみることにする。続く扉は二つだけあった。
一つ目を開けると、そこは厨房だった。あまり広くない一室を、流しや冷蔵庫、コンロや食器を入れるケースなどがぐるっと囲むように配置されている。中は日中でも日が当たっておらず、閉じ込められていたひんやりした空気が肌をなでる。染みや錆が浮き放題の空間だが、嫌な臭いは一切なく、整理もきちんとされていて、水とガスが通っていれば今からでも使えそうである。清水さんが言っていた店主のゲンさんは、ここで料理を作っていたのだろう。
カスカはいなかったので、厨房を出て、もう一つの部屋へ続くドアに手をかける。玄関や厨房へ続く扉が自然な木の色だったのに対し、このドアは白く塗られている。一階フロアの全体的に落ち着いた色調の中で、この鮮やかな白色は浮いていた。この奥に、カスカがいるような気がする……。
僕はドアを一度ノックして、返事がないことを確認してから、開けようとした。
しかし鍵がかかっていた。よく見たら鍵穴がついていたから、カスカがいないのなら、ずっと前に外からかけてそのままにしてあるのかもしれない。
僕はため息をついて後ろに振り返ると、カスカが無言で目の前に立っていた。
「うわあっ!」
僕は驚きのあまり尻もちをついてしまった。以前にもこんなことがあったような気がする。カスカもわかっててやったんだろう、意地悪くクスクスと笑っている。
驚くことに、服装はいつもの寝間着ではなく、制服だった。今の時期にはもう暑そうな厚手の紺のブレザーに、チェックのスカート。ブレザーの襟の縁は白いラインが描かれ、うちの学校との制服の共通点はネクタイが赤いことのみ。随分とかわいらしいつくりだがどこの学校か検討もつかない。だけどどこか見覚えがある……と思ったら、今まさにやっているドラマのヒロインが、全く同じ制服を着ていた。
「あっ、に、似合ってるよ。最高、うん」
僕は立ち上がってから言った。女性の服装を褒めるなど、慣れないことをしたせいで体がむずむずする。別にお世辞ではなく本心からそう思って口に出しているのだが、絶対に今の自分はぎこちない笑顔を浮かべている。けれども、ぼっと頬を染め、俯きながら指をいじるカスカの口元は笑っていて、それを見ると僕まで嬉しくなる。
このまま、次の月曜日にひょっこり、僕の学校へ来てくれないだろうか。
一緒に授業を受けて、わからないところを教えあおう。一緒に屋上へ上って、春の風に吹かれながら、フェンス越しにちゃみかんを眺めよう。
そんな勝手な妄想を、自分で頬を張って振り払う。
そして手を下ろした時、カスカの顔がさっと青くなった。
僕も遅れて、自分の片手が痛むことに気づく。手の平を見ると、なぜか切れていた。傷口から血がじわじわと出てきている。頬を指でさわると血がこびりついて、どうやらさっき張ったときについてしまったらしい。それでカスカが驚いたのか。後ろの足元を見るとガラス片が落ちていて、びっくりしてたせいで全然気づかなかったが、さっき尻もちをついたときあれで切ってしまったのだろう。よくよく見たら、白いドアの部屋の前だけ砂利や木の屑などが床にそのままにしてあって、まるでカスカがこの辺りだけ掃除するのを、もっと言えば近づくのを避けているようだった。
怪我をした手の平をもう一度見る。一度頬を触ったせいで、傷口から浮いていた血が散らばって手の平に満遍なくついている。
ずきりと痛みが走った。手ではなく、頭にだ。
どこかで見たような光景だと思った。たしかに、この赤く染まった片手は、あのときの悪夢を彷彿とさせる。白い少女が、血の涙を流しながら僕に向けた手に。
しかし頭の痛みとともに感じたデジャヴは、それとは別の記憶からくるもののような気がする。わからないけど、もっとずっと前。ひょっとして、忘れてしまっているちゃみかんの記憶の断片なのか。
思い出せるかもしれない。この赤い手を見つめ続けていたら、もしかしたら、あるいは。
ガシャン、と床に物が叩きつけられる音で我に返った。
カスカがひどく慌てた様子で、どこかから持ってきた救急箱を開けていた。僕の目の前で、あれでもないこれでもないと、救急箱の中身を次々と外に出している。床に散乱するのはお構いなしだ。
救急箱の中からは、常備薬だけでなく、効能のわからない錠剤や瓶詰の薬液なども出てきた。中でも目を引いたのは、注射器だ。針は折れ、容器も割れていて使い物にならない。ここで使われていたものだとしたら、誰が誰のために使ったというのだろう。
カスカが最終的に救急箱から取り出したのは、消毒液とガーゼとテープだった。有無を言わさず僕の手を取ると、消毒液をつけたガーゼで傷口を拭き、新しいガーゼを傷口に被せテープをぐるぐる巻きつけた。拭いたところですぐには止まらない血液が、ガーゼを赤く染める。カスカは僕の手を包み込むように両手で掴み、親指で傷口を抑え血を止めようとする。
今にも泣きそうな顔をしていた。
大げさだと思った。
だけど彼女の気持ちと裏腹に、僕はすごくどきどきしていた。
いつまでも手を握っていてほしかった。
ガーゼを新しくして、それが先ほどとは違いほとんど血が滲んでこなくて、勢いが収まったのだと理解してから、カスカはようやく安堵した表情になった。カスカは僕から手を離した。彼女の冷たい手の温もりが、僕の手から消えていく。
「カスカ、今日はさ」
僕は怪我をしていない方の拳をぐっと握りしめた。
「もう一度、同じことを聞きにきたんだ」
カスカははっと息を呑んで、答えの代りに、僕に背中を向けた。
「カスカっ」
声をかけてもカスカは振り返らない。そのままカスカは階段を上って二階へ向かった。僕も慌ててついていった。
カスカは、以前僕を案内した位置にある席に座った。僕もカスカと向かい合うように席に着いた。生憎の曇り空で、富士山は綺麗に見えない。
カスカが口を開くのを待っていた矢先だった。
椅子がガタンと揺れた。それは僕のだけでなく、円形のフロアの窓際に沿って配置されたテーブルと椅子全てに同じことが起こった。
そして景色が、ゆっくりと動き始めた。富士山がだんだん遠ざかっていき、代わりに眼下にはちゃみかん正面の駐車場と道路が。
床が動いている。まさか、こんな仕掛けがあっただなんて。外側の壁が全てガラスだったのは、どの席からでもちゃみかんの周りの景色が見れるようにするためだったとは。
そうだ、これはまるで――
『観覧車みたい!』
誰だ、僕の頭の中でとんちんかんなことを言うのは。
『違うよカスカ、メリーゴーランド』
カスカの姿が、一瞬白い少女と重なった。
白い少女の瞳には、6歳の自分が映っていた。
その瞬間だけ、荒れ果てた廃墟が、ばっと彩られたようだった。
ずっと封じ込められていたはずの記憶だった。僕は前にも一度こうして、カスカと向かい合って、この動く床の仕掛けを体験したのだ。
「全部知ってるんだろう」
偶然なものか。カスカは再現してみせたのだ。
僕は身を乗り出し、カスカに詰め寄った。
「毎晩のように君の夢を見てきた。僕は君を知っているはずなんだ。なのにわからない、何も思い出せないんだ。カスカ教えてくれ。君と僕はどういう関係なんだ。どうして僕は忘れてしまっているんだ。昔僕に何があったんだ。君はなぜ死んでしまったんだ。そしてどうしてこの世に留まり続けているんだ。カスカ、ねえカスカ――」
カスカの手が頬に触れた。
お互いの鼻がくっつきそうなぐらい近くに、カスカの顔があった。
「鍵を探して」
初めて聞くカスカの声は、包み込むように、千切れそうに柔らかく、輝くように、消えてしまいそうなほどに透き通っている。
「私には……勇気がないから」
カスカは僕からそっと離れて、席に着いた。
何の鍵かカスカは言わなかったが、僕にはそれが聞かなくてもわかった。
施錠されていた、あの白い扉のものに違いない。僕はあの扉を開けようとする前、そこにカスカがいるという根拠のない自信があった。あの沸き立った気持ちは、僕の封じられている記憶が呼び起こした物のような気がしてならないのだ。ここには何かある、ここで何かがあったのだと。
「約束してほしいんだ」
もうすぐ席が、フロアを一周しようとしていた。霞がかかった富士を背に、僕はカスカへ告げた。
「僕が全部思い出したら、君がこの世に留まる未練を、君が叶えたい願いを、教えてくれるって」
カスカはこれ以上口を開くことはなく、無言で頷いた。
清水さんは、霊の未練を晴らすことは難しいと言った。それは霊が誰からも認識されない、孤独な存在であるからだとも。
だけど僕にはカスカが見えている。カスカに触れる。カスカ一人ならできないことも、僕が協力すればできるかもしれない。
もちろん願いが叶えば、カスカはこの世からいなくなる。
(でも、いいんだ)
カスカが幸せになれるなら。




