人形の家①
恥ずかしくてたまらなくて、午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、僕は屋上に逃げた。入り口の扉を開けると、なりたての四月の風が顔をなでた。太陽が昇り切ってもまだ少し冷たかったが、赤面した頬にはちょうどいい。一息つくと、腹の虫がぐぅと鳴いた。落下防止の金網に体を預け、今朝コンビニで買ったパンの袋を開けて、屋上の入口の扉が開いて、そこから出てきた奴を見て、パンにかぶりつこうとした大口から深いため息がでた。
「なにしにきただ」
「からかいにきただよ」
町川鳴子――ナルは、前髪を揃えて後ろで縛った就活生のような髪型ときりっとした顔つきのせいで、大人びていると周りからよく言われる。ただ僕をからかうときのくしゃっとした笑顔は、無邪気で子供っぽい。
「眠くなるのはしょんねーだら。佐久間の授業がつまらないのが悪い」
ナルは両手に弁当箱と、女子に似つかわしくない二リットルサイズの無骨な水筒を携えていた。ボタンを押して蓋を開けると、長い指で水筒をがっちり片手でつかんで、中身のスポーツドリンクをゴッゴッと豪快に飲んでいく。ナル曰く、休み時間にも昼食にも部活のテニスにも使うから、これでちょうどいい量らしい。
「飲む?」
ナルはにやにやしながら、彼女の唾液がついた水筒をそのまま差し出してきた。僕は飲み口をちらと見た。僕が口をつけずに飲むなんて器用なことができないと知っててやっているのだ。僕はぷいとそっぽを向く。見えないけれど、きっとナルはすごく嬉しそうにしている。僕の困った顔を見るのがこいつの趣味だからだ。
「それにしても間抜けな起き方だったねえ。夢でも見てたの?」
「うん……いつものやつだよ、また」
見始めたのは、ちょうどこの高校に入学してからだっただろうか。夢は誰だって見るものだけど、僕の場合結構な頻度で、見る夢に共通して現れるものがある。それはもう一年以上になる。
真っ白な女の子。白いワンピースに日に焼けてない肌。おまけに髪までもが、透き通るように白い娘。何度も夢に出てくるのに、目が覚めるとどうしても顔が思い出せない。
たとえば近所の商店街にどことなく似た通りの店員さんだったりだとか、あるいはファンタジーの世界でドラゴン退治のお供についていたりとか、白い少女は何かの形で僕の夢に現れる。今度の場合も異世界めいた場所で、少女は僕の婚約者……だったのだろうか。言うと茶化されるのはわかってたから、プロポーズのくだりはナルに説明するとき伏せた。
「ふーん……その娘、結局誰なんだろうね」
依然わからないままだ。首を横に振ると、ナルはなぜか嬉しげに「そ♪」と返事をした。
「わからないのはそれだけじゃない。前にも言ったかもしれないけど、変な建物も出てくるんだ。屋根に白い風車がついててさ。そんなものが現実にあるとは思えないけど」
するとナルはどういうわけか、得意げににやっとした。
「私、それ知ってるよ」
僕は思わず「へっ?」と耳を疑った。
「ここからでも見えるよ。しょっちゅう屋上に来てるのに気付かないなんてね」
まさかそんな答えが返ってくるとは思いもしなかった。あんな変てこな建物が現実にある気がしていなかったし、それが近所にあるとなればなおさら驚きだった。案内するナルの後ろを、逸る足を抑えるようにしてギクシャクついていった。
たどり着いた場所は屋上の、さっきまでいた場所とは反対側のフェンス。いつもいる場所からは学校のグラウンドが見えて、今いるここからは学校の裏手の、何の変哲もない、住宅地と山だけが広がっていた。昼休みになると元気な男子はグラウンドに出て、サッカーとかハンドボールとか警ドロとかやっていて、そっちを見る方がよほど楽しいのだ。
だから僕は、知らなかった。
「見えるら? あそこ」
ナルが指さした先、たくさんある山のうちの一つ。その中腹に、小さく建物が見える。
小さくだから、細かいところまで同じかどうかは分からない。だけどその建物の屋根の上には、山の木々の緑を背にして、真っ白な風車が映えていた。
それだけで十分だった。