寝つけない二人⑧
もちろんノックしたところで誰が応じるわけでもなく、しかしナルの目の前でカスカに話しかけるわけにもいかず、僕らはちゃみかんを去った。家に帰って、夕飯ができるまでぼーっとして、のぼせかけるまで湯船につかって、机上に広げられた宿題には手がつかず、ベッドに横になってもちっとも眠れる気がしなかった。
聞きたいことがたくさんあった。話したいことが山のようにあった。
いてもたってもいられず、真夜中に僕は家を飛び出した。つっ立っていると昼間の日差しの温もりがまだ空気の中に残っているように感じられるが、自転車を走らせると涼風となって頬を縁取るように滑っていく。めいっぱい鼻で息を吸うと、何かの花の甘い匂いがかすめた。マフラーの外れたバイクの唸り声が遠くの方から聞こえてくる。清々走っているんだろうなと思うとうらやましくなって、僕は狭い歩道から車道の真ん中へと飛び出した。田舎だからこんな時間に車はめったに走らない。高揚した気持ちをペダルにぶつけ、もっともっと速く駆けていく。
それまでは何ともなかったのに、ちゃみかんに着いて自転車から下りると、急に心臓がバクバクして痛かった。いや、あれだけ飛ばせば元からこうなっていただろうに、興奮しすぎて気付かなかったのだろう。深呼吸して鼓動が落ち着くのを待った後、僕はちゃみかんを見上げた。
二階の屋根の縁にカスカが座っていた。手を膝に置き、宙に浮いた足をぶらぶらしながら、いつからそうしていたのだろう……じっと空を見上げている。僕は声をかけずに、しばらくの間その様子を眺めていた。
そうしていたらカスカの方が僕に気付いて、驚いたように後ずさった。こんな時間にやって来るとは思いもよらなかったのだろう。
カスカは屋根から飛び降りた。僕は「あっ」と声をあげたが、カスカはなんともなさそうに着地して、僕の目の前にやってきた。
僕が口を開くよりも先に、カスカから手を差し出された。抱えた疑問をぐっと飲み込んで、その手をつかんだ。風にさらされ続けていた僕の手は冷たかったが、カスカの手は輪をかけてひんやりとしていた。
次の瞬間、僕とカスカは宙に浮いていた。まるでこの空間だけ重力が無くなったかのように、ふわっとした挙動で飛んでいた。そしてちゃみかんの屋根の上に着地した。突然フィクションのような体験をしたというのに、僕はひどく冷静だった。カスカが幽霊だと知っていなかったら、こうはならなかったと思う。
屋根の縁に二人で並んで座った。カスカはそのまま空を見上げ始めたので、僕もそれにならった。人の明かりがここには届かないから、夜空を彩る星々がいつもよりよく見えた。明るい夜だった。
「カスカは、どうしてここにいるの?」
僕はカスカの方を見て聞いた。最初の質問はこれにしようと、家にいる間ずっと考えていた。
カスカは俯いて、首を横に振った。「わからないの?」と聞くと、今度は頷いた。
「じゃあ、僕のことも知らないよね」
沈黙が答えだった。僕はカスカに聞こえないぐらいの、小さなため息をついた。
夢で見た少女は、間違いなくカスカだった。
だけどカスカは死んでいる。その原因も、なんでちゃみかんにいるかも、彼女自身何もおぼえていない。
そして僕のことも……僕がそうであるように。
(結局これからも、夢を見続けるのかな)
その後は一言も言葉を交わさず、僕たちはずっと空を見上げていた。
寝つけない二人を、満月が照らしていた。