寝つけない二人⑤
母さんが掃除してくれたおかげで、一時部屋に充満していたゲロのにおいは消臭剤の香りに取って代わった。朝に比べて、体調のほうもよくなっていた。
夢の内容ははっきりと憶えている。白い少女がカスカだということはわかったが、それ以外については思い出したくない。白い少女が出てきた夢が悪夢だったことなど、おぼえている限りこれまで一度もなかった。その揺り戻しなのか定かではないが、ひどく恐ろしい内容だった。それとも、僕があそこでカスカを取り囲む影のような人々を消さなければ、あんなことにはならなかったのだろうか。
それにしても、まさか体調を崩すとは思わなかった。朝は嘔吐だけでなく、熱を測ってみたら38度の高熱だった。ただ食欲はあったから一日様子を見るということで、医者にかからず今日はずっとベッドの上だ。珍しく遠出なんかするから、どこかで菌を貰ってきたんだろうと母さんは若干呆れていたが、僕はあの悪夢のせいじゃないかと疑っている。ただの夢じゃなくて明晰夢での話だから、血の沼もくりぬかれた目の穴も、ずっとリアルに感じられた。心因性の発熱というのは実際にあるらしく、この場合恐怖によって引き起こされたストレスが原因じゃないかと、ボーっとする頭で推測した。
目を閉じるだけでも外の情報がかなりシャットアウトされて、楽な気分になる。そんなわけで今日はずっとそんな風にしていて、そのうち浅い眠りに落ちたり、また覚醒したりを繰り返していた。傍のデジタル時計を見ると、もう学校は放課後になったばかりぐらいの時間だった。今は起きて間もないが……まだ眠い。
部屋のドアが開く音がした。今僕以外でこの家にいるのは、看病するために仕事を休んでくれた母さんだけだ。だから入ってきた人が誰かなんてわかりきっていることなので、閉じた目をそのままにし、ろくに確かめなかった。そして頭の熱がだいぶ引いてきていたので、どれぐらい下がったのか気になり「母さーん、熱測りたいんだけどー」と、体温計をよこせという意味で寝たまんま頼んだ。
おでこにすべすべして固い感触と、人肌の温かさが伝わる。
何事かと目を開けると、文字通り目と鼻の先にナルの顔面があった。前髪を上げて、自分の額と僕の額を合わせていた。
僕は声を上げるよりも先に、反射的にベッドマットを蹴って海老のように後ろへ飛んだ。そのせいで、ベッドのヘッドボードに頭を思いっきりぶつけた。ナルは後頭部を押さえる僕を見下ろしながら、「ひいいい」と腹を抱えてゲラゲラ笑う。病人に対してこの仕打ち。いたたまれない自分に涙が出る。
「おおげさなのよ。熱は下がってたし、そんな機敏に動けるなら明日はもう来れそうね」
「なにしにきただ!」
「からかいにきただよ」
怒髪天を衝く僕と、それを見て嬉しそうにするナル。
「珍しいこともあるもんだなーって思ってね。小学校でも高校でも、遅刻はしょっちゅうしてるくせに欠席だけはしなかったあんたが、風邪引いたなんてさ」
僕はデジタル時計を、今度はわざとらしく見た。
「次期部長が部活ほっぽり出してきたのか。心配かけて悪かったな」
その一言でナルの頬にボッと火がついた。そして僕の腹に、彼女が提げていたビニール袋が叩きつけられた。色々入っているようで、かなりのダメージを受けた。
中を見ると、ゼリーにプリン、茶碗蒸しにのど飴、おまけにマンガ雑誌まで入ってた。病人としては至れり尽くせりだ。やっぱりこういうところがあるから、からかわれても憎めないのだろう。礼を言うとナルはにやっとし、「スポーツドリンクもあるよ」と言ってかばんを漁り始める。予感はしたが、出てきたのはいつものばかでかい水筒だった。
「飲む?」
僕は少し迷った後、無言で手を差し出した。一度やってしまえば、二度目からは間接キスといえど案外抵抗を感じなくなるものだ。ナルは自分で言っておきながら渋々といった様子で水筒を渡してきた。先日の出来事から、はったりではないことをわかっているのだろう。ずしっとくる。部活に出てないからその分の中身が丸々余っているのだ。
一日中寝ていたせいでいつもより力が入らない、が負けてなるものか。僕は腕をプルプルさせながら、飲み口を口元に持っていこうとする。
しかしナルは急に僕から水筒をひったくった。そして何故か僕の代わりにがぶがぶと中身を飲み始めた。
喉の動きが止まった。ナルは口を水筒から離したが、その口の中にはまだスポーツドリンクが残っていることを、蛙のように膨らんだ両頬が示している。ナルはそれを飲み込まずに、唖然とする僕の方を向いた。
そして僕の前に膝をつき、ゆっくりと顔を近付けた。
何をしようとしているかすぐに理解する。僕は逃げようと後ろに下がるが、僕のベッドは部屋の隅に設置してあるせいで、後ろは壁、前はナルに塞がれ、逃げ場はどこにもなかった。
ナルは僕の顔を挟むように両手を壁につき、僕に口移しを決行しようと迫ってくる。僕はパニックに陥っていた。これで僕がナルを押しのけようとしなかったら、ほんとにナルはそのまま僕とキスをするつもりなのか!? いたずら好きなのは知ってるけど、だからってここまで体を張るか!? ナルは一体どこまで本気なんだ!? 薄目をあけて僕に迫るナルの顔は全く平静を装えておらずまるで赤い風船のようだったが、止まる気配は一向に見えない――僕が引かない限りは。
「わかったよナル、参った! 参ったから!」
唇が触れ合うまであと数センチというところでそう叫ぶと、ナルは動きをぴたっと止め、頬袋の中身を一息に飲みこんだ。ゴクンと喉を鳴らす音がはっきりと聞こえた。
「ななな何考えてんだよ! 冗談にしたってやりすぎだら!?」
「……だって」
ナルは僕から顔を離し、恥ずかしそうに目を伏せた。
「もう間接キスぐらいじゃ、バク動じなくなったから、これなら、どうかなって」
「……だったらもっと嬉しそうにしろよ!」
下がってきた熱がぶり返したかと思うぐらい、顔が熱い。だけどこれだけ僕をからかうのに成功しておいて、ナルはちっとも笑っていない。むしろ逆に怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。
ナルはベッドの縁に腰掛けた。ベッドのヘッドボードに背をもたれる僕に対して横向きになるような形だ。
そのまま黙りこんでしまった。なんと声をかけていいかわからない。沈黙の時間が流れた。
引越しを告げた神社での昔日が思い出された。ナルとの間で会話がなくなるのはほとんどない。なぜなら僕が喋らなくてもナルが新しい話題をどんどん振って来るからだ。僕にはそれがとても居心地がよかったし、逆にこうなると何も出来ない自分に嫌気がさした。
情けないことに、結局口火を切ったのはナルだった。しかし発せられたのは、思いがけない言葉だった。
「もうさ、夢のこと考えるのやめない?」
呆然とした。この前まで協力的だったのに、急にどうしたのか。それになぜ今それを言うのか。意図するところがわからず、僕は返事ができなかった。しかしナルは構わず続ける。
「だってさ、自分の見た夢なんて気にする人いないよ普通。夢占い好きな小学生じゃあるまいし。普通は、みんな起きたら忘れちゃうんだからさ。バクちょっとおかしいって。だからもうやめよ?」
「いやそれは白い女の子がいつも出てくるから――」
「だから!!!!! 何なの!!!!!!」
僕は驚きのあまり口をつぐんだ。こんなに激昂したナルは今まで見たことがない。
「だから!? 白い女の子が出て近所のへんちくりんな建物がいつも出てくるからなんだっていうのよ!? だって夢じゃない、全部全部全部! そんなものに夢中になっちゃうぐらい、あんた現実が嫌になっちゃったの!?」
言い返したいことはいっぱいあった。でも今は、感情的に吐露するほどに溜め込んでいた、ナルの気持ちを自由に言わせてあげたかった。
「最近ぼーっとしてること多いし、今日だって熱なんか出しちゃってさあ……あんたが病気で休んだことなんてこれまで一度もなかったのに。心が変になってるから体も弱ってるのよ、きっとそう」
「そんなことない」
「じゃあ納得させて」
ナルは僕の方を向き、強い口調で迫った。しかし端正な顔はくしゃくしゃに歪み、目じりに涙が浮かんでいる。
「バクが白い女の子と向き合う理由を、私に教えて」
それは……彼女が何者なのか知りたかったから。純粋な興味、探求心によるものだ。でもナルの言うとおり、白い少女は夢の住人なわけで、気にしなければそれ以上夢に出てくることはなかったかもしれない。それを一年以上引きずっていた僕は、やはりおかしいだろうか。
だけど成果はあった。へんちくりんな建物はちゃみかんという名前のレストランで、白い少女はそこに住むカスカという女の子の幼い頃の姿だ。
しかしまだ僕とちゃみかん、そしてカスカが一体どういう関係なのかわかっていない。
そうだ。きっと何かつながりがあるから、ちゃみかんも白い少女も夢の中に現れた。一方で、記憶にないそれらを夢に生み出したのが僕の心だなんて、未だに納得できない自分がいる。つまり僕の理性とは別に、白い少女を夢で見せてくる無意識が存在しているのだ。
『ただその夢は私じゃなくて君のものだから、何より君が大事にしてほしい。決して、目を背けないようにね』
城見崎先生の言葉を思い出す。この夢は誰のものでもない、僕のものだ。僕が作り出した。僕の知らない、心の深淵に潜む、もう一人の僕が。
記憶にはない、白い少女とちゃみかん。もう一人の僕はそれらが何か、僕とどういう関係かを知っている。僕は夢の中でそれを必死に探していた。夢を通して、自分自身と対峙していたのだ。
「現実から目を背けてたってわけじゃないんだ、ナル。ただ僕は、自分のことをもっと知りたかった。真っ白な女の子でもへんちくりんな建物でもなく、それらを夢に見せる自分自身のことを」
わかってもらえたとは思えない。実際ナルは眉間にしわを寄せて僕を睨みつけている。だけどナルは何も言わなかった。僕の言葉一つ一つを、頭の中で反芻してくれているように見えた。
やがて顔の緊張をとき、ふっとため息をついた。
「それでいいよ……私もあったから。自分の本当の気持ちがわからなかったこと」
鳴子は一日部屋で膝を抱えた、かつての日を思い出していた。獏也が目の前からいなくなって、獏也のいない時間が過ぎて、獏也のことが好きだと初めて気付いた日のことを。
「病人に大声出して、私こそどうかしてるね。ほら横になって」
ナルはそう言って僕を布団に押し込んだ。気疲れがベッドシーツにしみ込んでいく。さっきまで同じ体勢でくつろいでいたはずだが、数時間は経っているように錯覚した。しかしナルにしては珍しく、殊勝にもすまなそうにしていたので責めようとは思えなかったし、逆にナルに問い詰められたことで、自分の心がまた少しだけわかったような気がした。
そんな風に天井を眺めながら考え事をしていたら、布団越しに胸の辺りを優しく叩かれた。ナルは一定のリズムでそれを繰り返していた。
「眠れないときは、お母さんによくせがんだの。とんとんして、とんとんしてって」
「……僕は園児じゃないぞ」
するとナルはくすっとして
「私は小5までやってもらってた」
思わず噴き出した。どんな相手とも分け隔てなくうまく付き合うことができていたナルは、周囲と比べて僕の目から随分大人びてみえたけど。
「こうされてると、明日はあの娘と仲良くしなきゃとか、今度みんなで遊びに行く場所を考えなきゃとか、だんだん考えられなくなってきてね。気付いたら朝になってるの。バクも、私のせいで色々考えちゃってそうだからさ。今は体を良くするだけでいいでしょ、ね?」
僕は起こしかけた体を戻し、身を任せることにした。最初はむしろ邪魔に感じていた叩かれる感触が、ぽん、ぽん、とリズムに慣れるうち、徐々に心地良くなってくる。
まどろみの中、僕はナルへ視線を向けた。ナルはずっと、優しく微笑んでいた。