寝つけない二人③
ある日、僕は城見崎先生の研究室を訪れていた。経過報告のために来てほしいと、先生から連絡があったからだ。どうやら僕は、僕が先生の智恵を拝借したいように、先生にとっても必要な研究対象となったらしい。
ただ約束の時間ぴったりに訪れてもやはり先生は机に突っ伏していた(備え付けのベッドは相変わらず使われていない)。しかし前回と違い、僕が傍に寄って起こそうとすると、急にガバッと起き上がった。そして焦点の定まらない表情を僕に向け、どういうわけか鼻をすんすんと鳴らした。
「君、臭いな」
漫画であれば、僕の背景には雷が落ちたようなスクリーントーンが貼られているだろう。
「いや、自分の脇をかぐんじゃない。体臭じゃないんだ。君からコーヒーの香りが漂ってくるものでな」
コーヒーなんて飲んだ覚えはないが……と僕は考えて、学校を出る前に職員室に寄ったせいで、担任の先生としばらく立ち話をさせられたことを思い出した。職員室は放課後になると教師が一気に増えて、しかもやたらとコーヒーを飲むものだから、においが染みついて職員室に行ったことがすぐに周囲にわかってしまうのだ。
「あんな泥水を好きだと言う人の気がしれんよ。中にはおいしいと思ってなくても眠くならないように飲んでるなどという輩までいる始末だ。それだったらカフェインの錠剤を飲めば済む話だろうに、香りを撒き散らして周囲への迷惑を顧みないと来ている。近々喫茶店は全面禁煙になるらしいが、むしろコーヒーを飲む人間を隔離するべきだと私は思うね。空気中から同じように摂取させられるなら、カフェインよりニコチンのほうがまだマシだ」
とりあえずここに来る前に職員室に寄るのはやめようと思った。
「それで、どうだね。何かわかったかい?」
椅子の背もたれにギシィと体重を預けながら先生は尋ねた。僕は「いやー……なんとも」と、持っている夢日記をぱらぱらめくる。
「白い女の子は、相変わらずよく出てきますよ。一緒にいることが多いかなーとは思いますけど、それ以外は」
「ふーん、ほかには?」
「うーん……あっ、そうだ。これは自分に関することなんですけど」
どういうわけか、夢の内容を鮮明に思い出せるようになってきていた。具体的に言うと、今までは夢の中でも印象に残るワンシーン以外はすっかり記憶から抜け落ちていたのだが、その前後の内容まで説明できるようになっていた。夢日記一つ一つの内容も明らかに文量が増えてきている。加えて夢日記は見た夢を忘れないように起床直後に書くことを推奨されているが、最近はそんなことをしなくても夢を記憶の中に長時間留めておくことができるようになってきた。
そして現実だけでなく、夢の中の自分にも変化が起きていた。それはたとえば、夢の中で食べたフライドチキンの唾液線を刺激する芳しさやパリッとした皮の食感であったり、馬に乗って駆ける大草原に吹き渡る風の心地よい冷たさや音だったり……視覚的にしか捉えてられていなかった夢の世界を、五感で感じられるようになってきた。言い換えれば、夢にリアリティが出てきたのだ。目を開き自分の部屋の天井が映った時、まるで長い旅行から帰ってきたかのような錯覚に陥る。胡蝶の夢を習った時は「夢は夢だろう」と呆れたものだが、今なら蝶から人間に戻ったときの荘子の気持ちがわかる。
しかし白い少女の顔だけは、どうしても記憶から呼び覚ますことができなかった。何度も夢の中であっているはずなのにだ。たとえば僕がフライドチキンを食べている傍らでハンバーガーを食べていたり、馬の手綱を握る僕の背中にしがみついていたりしていた。マヨネーズで口がべたべたになっていることを指摘されて赤くしていた顔も、もっと早く馬を走らせてほしいと興奮しながらせがんだときのキラキラした瞳も、夢の中ではしっかり見ていたはずだ。なのに、その体験を現実に持ち帰ることがどうしてもできない。
「でも君、素質あるよ。これならすぐに明晰夢を見れるようになる」
なんのことかと僕が尋ねると、先生は僕が夢の内容を記憶できるようになったり、リアルに感じられるようになった一連の変化の原因を教えてくれた。
元々夢の内容を朝起きた時にしっかり憶えているということはあまりないが、それはなぜか。人が物を記憶する仕組みとは、情報が脳の一部分である海馬で短期記憶としてストックされ、そのうち何度も同じ情報が入ってくると長期記憶として側頭葉に保存されるというものだ。また睡眠中にも、海馬でストックされた短期記憶は、前頭葉連合野での記憶整理作業を経た後、重要だと判断されたものだけ側頭葉に保存される。この記憶整理作業中に出てきた記憶の断片を脳が無理やりつなげてストーリーに仕立てたものが「夢」だと言われている(これは『なぜ人は夢を見るのか』という問いに対する一つの解答だが、『どんな記憶の断片が選ばれているのか』という点を説明する願望充足説とはまた別の話である)。
「ちなみに夢の元が記憶である以上、これだけ頻繁に白い少女を夢に見るということは、君が忘れているだけで以前どこかで会っていると考えるのが自然だと、私は思っているよ」
だけど僕には、その記憶がない。だから先生は以前、興味深いと言ったのか。
「しかし夢は、前頭葉連合野で処理されて海馬を経由しないため、記憶することができないのだ。正確に言えば、起床後の数秒間しか憶えていられないのさ。君に夢日記を書かせていたのは、これを回避するためだ」
忘れる前に記録することで、その夢を紙面に保存することができるのはもちろんだが、繰り返すことで以前に見た数々の夢の記憶が身についていく。すると夢を見た時、今までのように漠然と支離滅裂な物語の奔流に流されるのではなく、自分が今何をしているのか把握することができる……言いかえれば自己意識を高められるのだという。これは今まで見た夢の記憶と似通った景色やシチュエーションに遭遇した時、夢を夢だと気づけるからだそうだ。そして最終的には、見ている夢そのものをコントロールできるようになる。このコントロールできる夢を明晰夢という。
「明晰夢を見ている状態というのは、夢の中にいながら、現実と全く同じ行動や思考がとれるということだ。意識的に白い少女の顔を見て憶えようと夢の中で思うことができれば、その記憶を現実に持ち帰ることができる可能性はずっと高い気がしてくるだろう?」
なるほど、たとえばドライブの最中、流れる景色の中にあった、目の端で捉えただけの看板に何が書いてあったかなんていちいち憶えてないだろうが、「あそこの看板になんと書いてあるか」と聞かれれば当然意識して見るし、後から聞かれても答えられるだろう。
「明晰夢を見ようと念じて眠りに入ったほうが、実際に見れることが多いとも言われている。というわけで今日から頑張ってみてくれたまえ。それと、これを渡しておくよ」
そう言って先生が僕に見せたのは、赤と青のカプセルが一錠ずつ入ったポリ袋だった。
「……危ない薬じゃないですよね」
「何言ってるんだ、ただのサプリだよ。脳に働きかけ、明晰夢を見やすくするっていう代物さ。使い方を書いた紙も渡すから読んでおいてくれ」
つまりこれを飲めば、ずっと抱えていた僕の悩みもついに晴れる、と。
それはとても魅力的な提案だった。にもかかわらず、僕はすぐに受け取ることをためらった。こわかったのだ。薬のうさんくささではなく、答えを知ることがだ。だけど答えってなんだ? 少女の顔が、一体何の答えだというんだ?
突如右ポケットから振動がして、軽快なリズムの音楽が流れ始めた。僕の携帯電話からだった。慌てる心臓を抑えながら一旦部屋を出ようとするが、先生が構わないと言ってくれたので、ここで電話を取ることにした。
母さんからの着信だった。
「はいもしも――」
「どこほっつき歩いてんのあんたは!」
携帯電話をつけている反対側の耳から、母さんの怒鳴り声が突き抜ける。
「なんだよ、関係ないだら?」
「ああやっぱり忘れてる。今朝私が頼んだことを復唱しなさい」
体からさーっと血の気が引いていく。
「……醤油ヲ切ラシタカラ、帰ル時ニスーパーデ、イツモノ一番高イヤツ買ッテキテ」
「はいよくできました。あんたが帰ってこないせいで、久しぶりに帰ってくる父さんリクエストの肉じゃがをつくれないんだけど?」
やっちまった。
僕は電話を切り、城見崎先生に礼を言って急いで帰ることを伝えた。しかし先生はその前にと、僕に一つ尋ねた。
「さっき君が使ってた『だら』というのは、このあたりに住んでる人はみんな使うのかい?」
というより、県の方言である。「~だよね?」という推量や確認の際に語尾につけるものだ。
「私がこの大学に赴任したのは昨年のことでね。それまでは周囲も含めてみんな共通語で喋ってたから、方言で喋っている学生を見てると新鮮だし、楽しそうだといつも思うよ」
「楽しいだなんて、勝手に口をついて出てるんですよ。田舎くさいでしょう」
「社会に出ればいやでも喋る機会はなくなるよ。気を許せる相手より、礼儀をはらわなきゃいけない相手の方が多くなるからさ。ただこういう方言って、使う人にとってのアイデンティティの一部だと思うんだ。それを殺すっていうのは窮屈だと思わないかい」
「好きなこと研究してるだけなんだから、先生の方がよっぽど自由じゃないですか」
なぜかむっとした僕はつい、とげのある言い方をしてしまった。だけど先生は思いがけずにやっと笑った。
「やりたくもない事務仕事に、出たくもない大学運営の会議。研究費だって限られてる。ぎちぎちで奔放とは無縁さ。それでも続けられるのは、私の好きな夢の世界に広がりを感じられることがあるからなんだろうね。たとえば、君との出会いがそうだ」
唐突にそう言われて驚く僕に、先生は薬と飲み方を書いたメモ用紙を手渡した。そしてふっと微笑んだ。
「君のような夢体験をした人に、私はこれまで出会ったことがない。夢の研究はまだわからないことがたくさんある、未知数の分野なんだ。君と話していると、新雪を踏みしめる心地よさに満たされるよ」
褒められているのかわからないが、なんだか小っ恥ずかしくて僕は先生と顔を合わせられなかった。わかってはいたが、物事をはっきり言う人だなあとつくづく思う。
「ただその夢は私じゃなくて君のものだから、何より君が大事にしてほしい。決して、目を背けないようにね」
先生は最後に、引き留めて悪かったと謝り、僕を解放した。研究室を出て、鼻で大きく息をつく。先生の言葉が、いつまでも頭から離れない。部屋から出てもしばらく、僕は母さんの頼みごとを忘れて、廊下に立ち尽くしていた。
ポリ袋で眠る赤と青の錠剤は、廊下の電灯の明かりに照らされ妖しい光沢を帯びている。僕は決意をもって、それを見つめ続けていた。