黒の森の奥深くにひそむものについて老人は語る
トゥーアの東に広がる、黒の森の奥へは、決して踏み込んではならぬと。
ゆらりゆらりと踊る焚き火の向こうで、老人は声をひそめ、静かに語り始めた。
曰く、そこは人外の領域であるのだからと。
彼らを統べる、黒の魔法使いが棲んでいるのだからと。
魔法使いは、闇そのものを織ったかのような長衣を身にまとっていた。
左手に掲げるのは、時折火の粉のはじける、輝く真紅の剣だ。
目深に被ったフードに隠れ、顔は見えない。
ただ、その肌だけは死人めいて白いことが判る。
これより先に立ち入るな、と。
低く、まだ少年だった老人に告げた。
警告は、それだけで十分だった。
得体の知れぬ恐怖にかられ、少年は逃げた。
──それから数十年の時が流れた。
あれは夢物語だったのだろうと折り合いをつけていた。
ひどい飢饉の年だった。
老人は獣の姿を求め、ふたたび森の奥まで踏み入ってしまった。
黒の魔法使いは、まだ、そこにいた。
幽鬼のように。記憶の中と寸分たがわぬ姿で。
またきたのかと。
低く、嘲るような声で。
指先に星の光を思わせる輝きが集った。
空中に精緻ななにかが描かれていくのを見た老人は、
深い深い裂け目から地の底を覗き込むような、
根源的な恐怖に打たれ、脱兎のごとく駆け出した。
ほかに道はなかった。
血のような哄笑を浮かべる魔人から逃れるには。
──思えば、と老人は遠くの闇を見つめながら嘆息した。
なぜ彼を「魔法使い」と感じたのだろうか、と。
剣を持つなら戦士ではないか。
立ち居振る舞いは魔物のそれではないか。
思い出しただけで震えがくるほど恐ろしかったのに、
なぜそこに、邪悪さよりも崇高さを感じたのだろうかと。
からりと、薪が崩れる音に気をとられた一瞬で、
老人の姿は夜の中に掻き消えていた。