地の底を彷徨うことになったオッタルの話
その日、トゥーアは大地震に襲われた。鳴動する大地は諸所でひび割れ、何箇所かは陥没すらした。まるで地底の死の国に眠るという冥王が目覚めたかのようだった。少し遅れて黒の森の中からまばゆい光の柱が放たれ、天を貫くのを複数人が目撃した。すわ世界の終わりかと、村人たちは狂乱に陥った。老いも若きも、信ずる者も信じぬ者も、ひたに神へと祈った。……しばらくの間は、神殿へと真摯に礼拝に赴き、少なくはない額の喜捨をする者が増えたという話だ。
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陥没した穴のひとつに、奥深そうな横穴が繋がっていることが判明したのは、ややも事態が沈静化した三日後のことだった。埋めてしまおうという意見も出たが、村の下に得体の知れない空洞があるのも気持ちが悪い、まずは調査をしようという意見も出た。後者のほうがやや優勢であったが、調査隊の人選に難航した。警衛兵のドルンブ、学者のエリクスらは確定として三~五人ほどが適当だろうか。まずはきちんと準備を整え、出発は半月後でどうか、というように話は進んでいった。
ところで、地下の死の国にはとんでもない財宝が蓄えられているという伝説がある。死者に捧げられた副葬品がそこへ流れ着くというのだ。「黄昏の黄金」と呼ばれるそれは、持ち出す者もいないまま、日々増え続けているのだという。迷い込んでこれを見たという人間の話によれば、それは深い深い洞穴を下りに下った先にあったのだそうだ。
もしかすると、この横穴がそうなのではないか。
そのように考えた村人も、幾人かはいたことだろう。だが淀むような地底の闇を目の当たりにすれば、足腰が萎え、とても抜け駆けをしようなどとは考えられなかった。
ただ一人の勇敢な愚か者を除いては。
相談する人々を横目に、村長の三男であるオッタルは、これを好機と考えた。誰にも言うことはなかったが、彼は魔法の力を持っていた。体の周囲に燐光を浮かべることができるのだ。あまり明るくはないが、月のない夜に戸外を歩く程度ならば支障はない。この力を活かすのは、今をおいて他にあるまいと。
彼はそそくさと身支度を整えた。食糧を背嚢に詰め、厚手の上衣を外套代わりに帯で締め、ストールの青銅剣を模した銀の魔除けを首から下げた。枝打ちに使う鉈と水袋を腰に提げ、糸巻きを手に持った。この糸をたどれば、たとえ横穴の奥がどのように複雑であろうと入口まで戻ってこられるという寸法だ。出発は夜半にした。どのみち洞窟内は真っ暗闇なのだから、出入りの際に人目につかないほうがよろしかろう。
こうして彼はただひとり、欲望に背中を押されて、得体の知れない穴の中へと入っていったのだった。
*
洞穴はさほど入り組んではいなかったが、それでも一本道というわけでもなく、岐路に差し掛かるたびに、彼は糸巻きを持ってきたのは正解だったという思いを強くした。もちろん、長くは続かなかった。細く長い糸ではあったが、無限に続くわけではない。終わってしまった糸の端を眺めやり、ひとつ嘆息した彼は、道々の壁に鉈で標を刻んでいく方法に切り替えた。
そうしてどれだけ歩き、ときには這いずったことだろう。暗闇の中では時間の感覚はつかみづらい。もう一昼夜だろうか、それともまだ一刻も経っていないのか。そろそろ戻ったほうがよいのではないか。なにより暑く、湿気が多い。ところどころ温水が染み出していたり、水没している道もあった。このままでは茹り死んでしまうのではないかと、水袋の水を舐めつつ逡巡していたところで、それは唐突に目の前に現れた。
美しい少女だった。
彼女は壁沿いの、一段高くなった床の上へと、そっと横たえられていた。眠っていることは間違いなかった。オッタルの魔法の光を受けて七色に輝いていた。この世のものとも思えぬ光景に、長らく呆然としていたオッタルだったが、やがて気を取り直すと、恐る恐る近づき、そっとその手を取ってみた。
ぽろりと彼女の小指がはずれ、オッタルの掌の中に転げ落ちた。
愕然とする彼の背後で、ざわりと赤い気配が蠢いた。凶悪な暴力の気配。怒り。鉈は少女に触れるときに床に置いてしまった。とっさに身を翻したが、鋭いなにかが背嚢の肩紐と上衣とを切り裂いていた。避けなければ首をもがれていただろう。床を転がり、体勢を整える。少女を護るように立ちはだかった影は、七つ。そのどれもが頑丈そうな鉤爪を持っている。長い毛に覆われている体は、決して大きくはない。だが手狭な洞窟内において、それは逆に利点であるといえる。
ドヴェルグ!
地中に棲まう小人めいた獣!
都会からやってきた学者に聞いた解説が脳裏に浮かぶ。だが、なぜ。彼らは好戦的という話ではなかった。よもや別の魔物なのか。刹那の思考の間に、七人の小人は耳障りな奇声を上げて襲い掛かってきた。こけつまろびつ、踵を返す。肩紐を切られた背嚢を投げ捨て、全力で走る。しかし俊敏ではないと聞いていたはずなのに、彼らはオッタルへと徐々に追いすがってきた。切り裂かれた上衣が風をはらんで邪魔だ。帯を解こうとして手がすべった。取り落とす。
銅で作られた帯留めが、ちりんと地面を鳴らした。
その音に、七人の小人のうち二人が足を止めた。帯留めを奪い合い始める。
ドヴェルグは貴金属を好むという。
これも学者から聞いた話だ。
それならば。
息を弾ませながら、首から下げた魔除けを外そうとする。難しい。もどかしくなり、力任せに銀の鎖を引きちぎる。背後を振り向くや、力の限り放り投げた。
小人たちの頭上を越え、彼らの後方に落ちた魔除けは、しりんと地面を鳴らした。
その音に、五人の小人のうち四人が足を止めた。魔除けを奪い合い始める。
しかし、とりわけ体の大きい、最後の一人の小人は惑わされなかった。耳をつんざく雄叫びを上げて追いついた。大きく振りかぶられた鉤爪は、間一髪で空振りに終わったが、オッタルの代わりに穿たれた硬いはずの地面は、柔いぬかるみのようにえぐられていた。あれに裂かれれば命はあるまい。背筋がぞっと粟立ったが、息が上がってしまうのは如何ともしがたかった。そのうえで蒸し暑いのだ。どうしようもなく速度が鈍る。背後から再度の奇声。焦燥が思考を狂わせる。なにか他に貴金属は持っていなかったか──そこでようやく彼は、少女から奪った小指をいまだ掌の中に握りこんだままだったことに気づいた。
これだ。
これに違いない。
これのためにあのドヴェルグは追ってくるのだ!
オッタルは少女の小指を小人めがけて投げつけると、最後の力を振り絞って走った。もう後ろでなにが起ころうと知ったことではなかった。じきに意思に反して膝が崩れ、地面に倒れた。ここまでかと覚悟したが、追っ手はないようだった。仰向けになって息を整えつつ、汗みずくのままで彼は回想した。
地中に眠る美しい少女と、それを護る七人の小人。
まるで御伽噺だ。乾いた嗤いがこぼれた。そしてようやく周囲が異様に明るいことに気づいた。見れば彼の左手は、一切の熱を発さぬまま、燃えるように白く輝いていた。魔法が変質したのだ。
*
その後、三日三晩地底を彷徨い、ほうほうの体で洞窟を這い出して以後、彼は昼日中も常に左手に手袋をするようになったが、彼がそのような魔法を持っているということは、女たちの噂によってたちまち村中に知れ渡ってしまった。かくして彼は、輝く左手のオッタルと呼ばれるようになったのだ。
(編注:トゥーアの発掘中、この話で取り上げられたものと思しき洞窟が発見された。入口には巨大な岩で封印がなされていた。調査隊が内部へ踏み込むと、奥深くに八体の遺体が見つかった。七体は小さな獣のもので、これはドヴェルグかその亜種であろうと思われた。残る一体が問題だった。骨格から人間の少女と鑑定されたそれは、骨組織のすべてが七色に煌く美しい蛋白石に置き換わっていたのだ。どれだけの年月をかければそんなことが起こりうるのか。あるいはこれは誰かの魔法によるものなのか。ゆるゆると論議は続けられているが、結論は現在に至るも、まだ出ていない)