黒き魔法使いの物語
森から一歩を踏み出そうとしたとき、最後の木の幹から手を離すのが恐ろしかった。目の前には果てしなく広がる空と、どこまでも続く大地しかなかった。まるで中空へと落ちていくようで、しばらくは地面にへばりつくようにしなければ、一歩たりとも動けなかった。同時にひどく心が浮き立ってもいた。澄んだ淡い水色の風の匂いに混じる、濡れてあまやかな浅黄色の香り。遠く、多くのなにかが動いている気配が聴こえる。
冒険が待っている。
旅に出なければならない。
そうして、自分だけの相棒を見つけるのだ。
……旅に出た日のことを、彼はそう述懐していた。
*
これから記すのは、物語だ。
彼の旅路を、自身の記録や伝聞をもとに再構築したものだ。
*
石の仔の旅は、北限の地より開始されたため、必然的に南下していくことになった。最初、人々は優しかった。土地に縛られる者にとって、土地を通り過ぎていく者は無碍にはできないものだ。彼らは神のようなものだ。益をもたらすのであればもてなすべきだし、そうでないのであれば丁重にお引き取り願わなければならない。益とは、なにも金銭のような直截的なものばかりではない。たとえば音楽などの芸事や、遠方の知識といったものも十分な益となる。都落ちした隠者より受け継いだ彼の知識は、少なくとも一夜の宿に換えるには十分すぎた。このとき彼は、人々の大半が読み書きすらできないことに気づいた。
しかし南方へと進むに従い、人々の気配は変わっていった。高い物見の塔と巨大な門のある関所では長く足止めを食らい、その上で、少なくはない路銀を召し上げられた。街道筋で露店を眺めていると、いつの間にか懐の財布が失われていた。落としたのかと思ったが、露店主の女は気の毒そうな顔で、掏られたのだろうといった。旅人を泊めてくれる家はないかと聞くと、素直に旅籠に行くよう促されたが、そのための資金はいましがた失われたところだった。
心の奥底に、なにかが滴ったような気がした。
野宿の生活が始まったが、慣れていたのでさしたる不具合はなかった。食事は道端に生えている野草でも十分だった。問題はなかった。野盗に襲われるまでは。
彼らは夜中に三人組でやってきた。荷物を漁って金目のものがないことを知ると、腹いせに石の仔を蹴り飛ばした。不意打ちに身悶える彼を見下ろし、げらげらと笑うと、腰の短剣を抜いた。石の仔の右目に灼熱感が走り、次いで鮮血が噴出した。うずくまる彼を面白半分にさらに蹴り、罵声と唾を吐きかけると、彼らは夜の中に消えていった。
痛みを堪える石の仔の中で、黒くていびつななにかが、確かに蠢いた。
右目は失明した。体を庇った左腕にはわずかな障害が残った。
それでも彼の旅は続けられた。
石の仔は相棒となる鉱石と互いに呼び合うのだ。目を閉じ、心を静かにすれば、闇の中に広がる光の輪のような波長が見える。それは遥か道の先から発せられている。北限より続いている果ての山脈に沿って進み、途中から中腹まで登る必要がありそうだ。
頭上を巡る月が、幾度も満ちては欠け、欠けては満ちた。
容易な旅ではなかった。命を失わなかったのがいっそ不思議なほどだ。だが、出会う人間のすべてが悪人というわけでもなかった。彼の事を気にかけてくれる善人もいた。食料や衣服をわけてもらったり、ただただ話をするだけでも、彼の心はずいぶんと慰められたものだった。
そして。
ようやく彼は、波長のもとにたどり着いた。かつては鉱山で栄えた町の廃墟だった。廃鉱の奥を、打ち捨てられていた道具を使って掘った。丸一日をかけても腕の長さほどしか掘ることはできなかった。傍目に気の遠くなるような作業だったが、彼にとってはさしたる苦労ではなかった。終着点に向かって進むだけなのだから。
やがて掘り出したのは、一片の曇りなき蒼玉の塊だった。一抱えほどもあろうそれを手にした彼の顔から、不意に表情が消えた。小脇に挟んでいた採掘道具が地面に落ちるより早く、彼の両手は蒼玉をねじりはじめていた。見れば彼の体は淡い燐光に包まれている。蒼玉が伸ばされる。長く、長く、明らかにもとの大きさよりも大きく、彼の身長よりも長く。
──実際には、ほんの一呼吸もかからぬ刹那で。
蒼く透き通る長柄が、彼の手の中にあった。背の高い細木のような外観、先には短い刃が付いている。杖にして槍であった。驚くほど手になじむ。試しに振るってみると、腕の延長であるかのように重さを感じなかった。
これが探し求めた相棒だった。
彼は、涙した。
疲れも、心の澱も、なにもかもが吹き飛んだ。その夜は相棒を抱きかかえて眠った。なかなか寝付けなかった。嬉しさのあまり、帰路にこそ気をつけよという石の仔戦士団の面々や隠者から受けた忠告も、すっかりどこかへ吹き飛んでしまっていた。
*
美しく蒼い相棒を誇らしげに右手に掲げた、みすぼらしい格好の一人旅の男が野盗に襲われるまで、さしたる時間はかからなかった。
*
相棒がりんと鳴る音で目覚めたとき、彼はすでに囲まれていた。長旅の疲れが相棒の警告を遠ざけたのだ。相手は十数人はいるだろうか。野盗だ。嫌な思い出が蘇る。逃げ道はない。彼らは絶妙な距離感をもって包囲している。ならば──彼は相棒の力を借りてひとりを突き、ひとりを殴り、さらに幾人かを薙ぎ払った。自分でも信じがたい強さだったが、数の暴力と、潰れた右目の死角はいかんともしがたかった。
転ばされ、組み伏せられた。
それでも相棒だけは手放さなかった。
舌打ちした野盗のひとりが、斧を振るった。
右腕が、半ばまで切断された。
絶叫を抑えられなかった。
もう一撃。
彼は、
心の奥底から黒く獰猛ななにかが轟音と共に噴き上がったのを、このとき、確かに、知覚した。
隻眼が鬼火を宿す。青白く燃え上がる。魔の焔だ。斧を手にした野盗の体が強張り、びくりと痙攣した。顔から急速に血の気が引いていく。手から斧が落ち、かさりと枯れ枝のように膝をついた。死んでいた。干物のようにひからびていた。残った野盗は言葉もない。なにが起きたのかすら理解できていない。
皮一枚で繋がっていた石の仔の腕は、その大部分が再生していた。時間が巻き戻ったかのようだった。彼は呆然と立ち尽くす別の野盗を睨みつけた。憎しみと怒りを込めた邪視が、その命を啜り上げた。損傷していた右腕は完全に蘇った。相棒を振るう。三人目の野盗の首筋から鮮血が噴き出す。狼狽しつつも応戦する四人目の野盗の攻撃を、彼は避けなかった。避ける必要などなかった。魔法の視線が吸い上げる野盗の命が、瞬く間に彼の傷を塞いでいった。
化け物だ、妖魔だ、魔法使いだと叫びつつ、泡を食って逃げ散る残党を、ことごとく邪視で射殺しながら、彼は哄笑した。驚くほどに晴れやかな気分だった。こんな簡単なことだったのかと。こんな脆い存在にいままで翻弄されてきたのかと。
だが、笑い疲れて相棒に目をやった瞬間、彼の表情は凍りついた。
限りなく透明に近い蒼色をしていた相棒は、いまや血のように赤黒く染まっていた。
*
相棒が変質してしまった彼は、もはや以前の彼ではなかった。己を傷つけた人間を、相棒をこんな姿にしてしまった人間を、憎み、恨み、殺すだけの、幽鬼のような存在になり果てていた。怒りは、彼から一切の抑制を取り払っていた。
出会うを幸いに殺した。
人が羽虫よりも簡単に死んでいくさまに、愉悦さえ覚えた。その中には、かつて彼に救いの手を差し伸べた善なる者も含まれていたが、怨嗟に曇った瞳にはなにも見えてはいなかった。
ただ、心の奥底で白いなにかが、弱々しく、それでも切実に、軋るような声を上げていたが、それもじきに聞こえなくなった。
嗤いながら殺した。
男、女、老人、子ども、戦える者、動けぬ者、一切の見境なく殺した。
命乞いをする声は上物の美酒のように彼を酔わせた。
化け物と呼ばれるたびに、畏れられるたびに、彼の力はいや増した。それは呪詛だ。人の編んだ、人を言葉のままに変容させる力を持つ、黒き穢れだ。なればこそ、今の彼には心地よく響いた。投げつけられる闇のように黒い言葉が、彼を真の怪物へと変えていく。心を、姿を、黒く、黒く、染め上げていく。
逃げ惑う女が、変わり果てた彼にもっとも相応しい名を叫んだ。
そうして彼は、後世にまで名を残す、強大なる「魔王」となったのだ。
*
魔王を止めることは、誰にもできなかった。当然だ。視線だけで矢よりも早く相手の命を奪い、同時に自身の傷を癒してしまうような相手と、誰がまともに戦えるだろう。幾つもの町や村が死体で溢れた。事態を重く見た王は、手始めに辺境伯の軍勢に討伐を命じたが、これは悪手だった。五百を数える兵は瞬く間に全滅した。伯の居城が陥ちるまで、ただの二日しかかからなかった。
王は色を失ったが、さすがに冷静だった。周辺諸国に睨みを利かせられるだけの軍備を残し、王都の誇る軍勢をかき集めると、弓箭兵を主体として再編し、魔王のもとへと向かわせたのだ。
たったひとりの魔王に対し、万を数える軍勢は、見る間に消耗していった。
だが、魔王とても無事では済まなかった。この魔王戦争を生き延びた弓の名手は、後にこう語っている。眉間を、心臓を、急所という急所を射抜いたのに、まだ生きていたと。爪を噛み、震えながらの言葉であったが、彼らの攻撃は決して無駄ではなかった。矢衾となった魔王は、じりじりと辺境伯の居城まで後退していったからだ。
戦いは膠着した。
王座へと通じる道は一本しかない。そこを通るのであれば、必ず魔王の視線に晒されなければならない。それは即ち死ぬことを意味する。たちまち通路は死体で埋まった。兵糧攻めをするべきではないかという声も上がったが、これはすぐに意味がなかろうと判断された。魔王はそれまで滅ぼしてきた集落から、一切の食料を奪っていなかった。おそらく命を吸い取る際に腹も満たされるのだろうと推測されたのだ。それでは遠巻きに監視をし続けるしかないのか。いっそ焼き討ちでもしてはどうか。議論が割れた時、ふらりとひとりの男が訪れた。
彼は、闇そのものを織ったかのような長衣を身にまとっていた。
歩哨に立っていた兵士が止めるのも構わず、泰然と、開きっぱなしの門から城内へと入っていった。死にたがりの勇者気取りだろうかと、兵士はそれきり彼のことを忘れてしまった。思い出すのはしばらく後のことだが、その時には顔さえ覚えていなかった。
*
死体の山が築かれた王座の間で、ふたりの黒き魔法使いは対峙した。
話し合いや駆け引きなどといったものはなかった。魔王にはもはや、そのような理性は残されていなかった。凶悪な邪視を、黒の魔法使いは正面から受け止めた。耳元まで裂けそうな魔王の嗤いが、ややもすると困惑に歪んだ。確かに生命を吸い上げている。なのに、なぜ、目の前に佇むこの男は死なないのか。
疑惑が、魔王に思考を取り戻させた。心の奥底ですっかり潰えていた白い声が、再び何事かを訴えかける。頭を振って黙らせ、隻眼に魔の力を込める。膨大な命の光を吸い込んでいく。それでもなお、男はしおれることなくそこにいる。
なんだこれはという自問に、白き声が自答した。
彼は黒の魔法使いだと。無限の命を持つ上古の精霊のひとりなのだと。
瞳から鬼火のゆらめきが消える。それでもひとたび発動した魔法は止まらない。黒の魔法使いから命を奪い続ける。傷つけられることもないために行き場をなくした力が、魔王の肉体を歪め始める。時を逆回しにするかのように、若返らせていく。右目の傷が癒えたとき、そこにいたのはひとりの純朴な石の仔だった。泣いていた。これまでの己の所業にを思い出し、理解し、いまさらに悔いていた。どうしようもないことだった。死んだ命は、もう戻らない。旅の途中で差し伸べられた優しい手の持ち主を、もう生き返らせることはできない。
嘆きながら、彼はゆっくりと獣の姿に戻っていった。泣き疲れた赤子が眠るように。静かに。やがて小さく固くなったその姿は、水晶のように透明な石球だった。からんと音を立てて傍らに転がった彼の相棒は、空の蒼の色を取り戻していた。
言葉もなく見守っていた黒の魔法使いは、深く、深く息をついた。彼にしても容易な行いではなかったのだ。ひどく衰弱し、重くなった身体を鞭打って屈め、石の仔だった石球を拾い上げる。しばしの間、掌に転がして見つめていたが、やがて
(編注:物語はここで途切れている。続きは散逸してしまったのか、それともここまでしか書かれることがなかったのか。いまなお論争は絶えることがない)