超人
皿洗坂益荒男の上半身が起き上がった。
意識のほとんどはまだ眠りについている。
しかしその本能は強烈な渇きを覚えていた。
さ、さら、皿をくれ・・・
半眠状態の益荒男はゾンビのように歩きながら、うなされるように皿を求め、駆けつけた職員の拘束を破りながら、ついにある部屋に行き着いた。
窓からうららかな秋の日の差し込む白い部屋の中央には、洗い物が山と積まれた流し台が置かれている。
さ、さら・・・!
流し台に飛びつき、壊れた機械のようにがくがくと皿を洗い始める益荒男。
それは尋常の益荒男ではない。
まるでせんべいをばりばりと噛み砕いていくように、乱暴に皿を洗っていく。
実際に手に取る皿を握力で次々に砕いていくがそれを気にする様子もない。
「自分で自分の力をコントロールできていない」
別室でモニター越しに益荒男を見つめるシュミット社長は長い指を顎に置いた。
「心拍数血圧上昇、血中のヘモグロビン濃度低下、過呼吸状態です。体温上昇、瞳孔拡張、極めて危険な状態です」
益荒男の体に貼り付けた様々な機械から無線で送られているデータを読みながら、女性職員の冷たい声が益荒男の危険を知らせる。
「皿を数ヶ月洗っていなかったから禁断症状が出ているのだ」
「中止しますか?」
「つづけてくれ。次期に落ち着くだろう」
シュミット社長の言葉通り、益荒男の動きは次第に滑らかになった。
染み付いたいつもの皿洗いを益荒男の体はすぐに思い出した。
「セロトニン分泌率急上昇、脳活性化率90%越え、皿洗い速度一枚0.2秒を記録、皿洗い後の皿在菌率・・・0%!すごい、すごいわ・・・」
モニター室が興奮に包まれるのを肌に感じて、シュミット社長は高笑いする。
「ふははははは!彼こそ!彼こそ、私が長年もとめていたユーバーメンシュだ!」
ここはどこだ
皿、だ、洗わなくては…
しかしなぜだ、物足りない
何かがちがう
「パラメーター下降。なにが起ったの」
モニタリングの専門家たちが一斉にキーボードを叩きだし、十を超えるモニターに様々なグラフが現れては消えていく。
「意識が戻ったようだな、モニターを続けろ」
シュミット社長はそう言い残すと足早にモニター室を後にした。
◇
益荒男は食べ物屋さんで皿洗いをすることがすきだ。
お客さんにおいしい料理を作るために、道具を洗い回す、おきゃくさんが食べるおいしい料理を乗せるための皿、お客さんが食べ終わって皿が下がってきたとき、その皿を見てお客さんと食べものの様子を想像すること、料理を作る厨房の雰囲気、忙しければ忙しい程、洗い物は多ければ多い程楽しい。
それがここにはない。
皿がなにも訴えて来ない。
なんのために皿を洗っているのか。
益荒男は半覚醒のまま辺りを見渡す、白くて大きい部屋には窓がいくつかとドアが一つ、中央に流し台、そこへ隣の部屋からベルトコンベアが伸びている、そのベルトコンベアの上に洗い物があり、流れてきて流しの中へがちゃがちゃ落ちていく。
益荒男の体は流し台のそばに立ちブラインド皿洗いを続けているが、その瞳はベルトコンベアの来し方の虚空を見つめ、次第に冷たく曇ってゆく。
◇
一人廊下をゆくシュミット社長は確信していた。
(やはり彼は私たちに取って必要な人間だ)
意識不明の益荒男の治療費を負担する代わりにその身元の引き受けを申し出た時、日本の警察は困惑した。
幸い、ヴァッシェナー社には国際企業という信頼と彼らに握らせるだけの金があった。
意識不明の前科者の男にパスポートを作らせ、ミュンヘンに連れてくるなど造作もないことだった。
もちろん善意でやったことではない。
その脳波を解析して、新しい食器洗い器の研究開発をするのがヴァッシェナー社の狙いだ。
益荒男の脳みそから効率的に情報を得るために、彼には夢を見てもらっていた。
そのまま眠り続けてくれていてもよかったのだが、起きたら起きたで本人を自分たちの陣営に引き込めばいいだけだ。
勝算はある。
皿洗益荒男を迎えるというヴァッシェナー社の意向には、シュミット社長の個人的な思い入れもある。
シュミット社長は学生時代からニーチェを信奉していた。
ニーチェが提唱する超人こそ人間の目指すべき姿だと信じている。
日本支社を襲撃した益荒男の身辺を調査するに連れ、シュミット社長は彼への興味を深め、次第にある考えにとらわれていった。
彼の崇高な魂こそ私に相応しい。
彼こそ私に並び立つ人間だ。
私を理解してくれる唯一の人間に違いない。
シュミット社長の直感は、彼の唯一の友人によって裏付けられた。
それはシュミット社長の社長室にかかっている一枚の大きな美しい鏡で、シュミット社長は毎日、その鏡に向かってこう尋ねる。
かがみよ、かがみ (シュピーゲル、シュピーゲル、アンデアヴァント)
世界で一番皿洗いがうまいのはだあれ?
すると鏡はこう答えるのだ。
はい、ヴァッシェナー社のズーパーデュッシェナーが世界でいちばんうまいです
しかし、皿洗坂益荒男はその上を行く可能性を秘めています
この大きな鏡はおとぎ話の魔法ではない。
シュミット社長が作った人工知能搭載検索エンジンで、インターネット上のあらゆる情報から、使用者の質問に最適の解を導き出すスーパーコンピュータ搭載AIなのだ。
◇
シュミット社長が扉を開けた時、益荒男はこちらに背中を向けて立ち尽くしていた。
もう皿は洗っていない。
ベルトコンベアが運んでくる汚れた皿は、ガチャガチャと音を立てて流し台から溢れ出し、床に破片の山を築いていた。
益荒男はそのことを気にも留めない様子で、自分の両手に見入っていた。
その背中にかつてのような堂々とした風格はなく、弱々しく丸まっていた。
「おはよう。
気分はどうだね、益荒男くん」
シュミット社長は流暢な日本語で呼びかけた。
振り向いた益荒男は何も答えない。
数ヶ月の昏睡中に整えられてしまった薄めのつながり眉毛の下、暗く落ちくぼんでしまった目元の中にある、益荒男の黒い瞳には隠しきれない怯えがあった。
「君の命は私が助けた。
私たちヴァッシェナー社は、君のことを尊敬しているからだ。
君の能力を高く買っている。」
対して、シュミット社長の声は朗々と部屋に響いた。
まるで千人の聴衆の前で演説しているようだった。
「我々の研究所に来ないかね。
一生、皿だけを洗っていていいんだ。
それだけではない。
皿洗いに関する知識、化学?歴史?知りたいことならなんでも教えてあげよう。
誰であろうと呼んであげるし、何であろうと取り寄せよう。
一緒に最高の食器洗い機を作ろう。
君に取ってこれ以上の人生がありえるか?」
世が世なら、シュミット社長は独裁者だったかもしれない。
演説の声使いの巧みさは日本語のわからないモニター室だけでなく、シュミット社長本人さえもうっとりしてしまうほどだった。
そこに油断があった。
モニター室が気づいて、部屋の窓の防火シェルターを落とすボタンを押した時、もう遅かった。
益荒男は、強化ガラスを破って、外へ落ちていった。
益荒男はビルの十二階から逃げ出した。