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皿洗坂益荒男  作者: 瓶八
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皿洗いに目覚める

 寿司屋、丸鮨(まるずし)で働き始めてから3年後、皿洗坂益荒男(さらあらいざか ますらお)は、パリもフレンチのシェフになる夢も忘れて、各地の飲食店で無銭飲食を繰り返していた。

 金がないのではない。

 夢破れて東京の闇に染まり心が荒んでしまったのでもない。

 益荒男の目的は、無銭飲食の代価として皿洗いをすることだった。


 丸鮨で働き始めた益荒男は、紆余曲折を経て皿洗いに目覚めた。

 紆余曲折の部分を手短に説明すると次のようになる。


 料理人志望である益荒男は当初、いつまで経っても包丁を握らせてもらえずに、皿洗いばかりさせられることに不満を持っていじけて腐っていた。

 そこを、丸鮨の看板娘であるアルバイト女子大生の町子さんに叱咤されたのである。


 淡い恋心に火の灯った益荒男は、町子さんに教えてもらった皿洗いの特訓に明け暮れ—―—もともとなかった皿洗いの才能を血のにじむような努力でおぎないーーーそれこそ仕事の前や後にも手にアカギレができてそれが裂けて直るまで練習しーーー気がつくと、当初の目的も、町子さんのことも忘れ、皿洗いの奥深さに目覚めてしまっていた。


 以前とは見違えるように皿洗いをマスターした益荒男の成長に丸鮨の大将は感心し、寿司職人の修行を始めることを許したが、益荒男は、皿洗いの道を究めることを理由にこれを断った。


 当惑する丸鮨の従業員たちを尻目に益荒男の皿洗い技術はめきめきと上達した。

 下げられた飯台や丸桶の山がざぶりざぶりとあっという間に洗われ、狭い厨房のちょっとした隙間に美しく並べ乾かされ、また気がつくとツヤツヤと拭き清められて、まるで最初からそこにあったかのようにぴたりと棚に収まっている。

 酢飯を混ぜ終わった大きな木製のタライの風呂桶ほどもあるのを洗うのにたわしをかける様子も、この道うん十年の女将さんに勝るとも勝る胴の入りよう。

 銀ダラの西京焼や、鯛カブトの煮付けなんていう、油でぎとりとしたサイドディッシュが下がってきても、自家製塩辛を盛る高杯や松茸の土瓶蒸し用の土瓶や薩摩切り子の二合徳利なんていう繊細な器が下がってきても、まるで優秀な按摩師が一瞥してその人間の体のツボを心得るようにその器の形状と状態を見極め、無駄な動作の一切ない2STEPで、新品同様に洗い上げてしまう。


 皿を洗うことに、そしてその道を極めることに無上の喜びを見出した益荒男を止めることのできるものは丸鮨にはいなかったし、丸鮨の外にもいなかった。

 あるとき、日本柔道協会の役員が、益荒男に柔道日本代表としてオリンピック強化選手の練習に加わるよう説得するために丸鮨にやってきた。

 なんでも益荒男は中高と全国大会で優勝するほどの実力の持ち主で日本の未来の柔道を背負って立つと目されていたが、推薦で決まっていた名門大学の入学を蹴って行方をくらませてしまい、いままで東京中を探してついにこの丸鮨にいることをつきとめたということだった。

 しかし益荒男はそのオリンピック強化選手の申し出も、皿洗いの道を究めるために修行をしなくてはいけないからという理由で断った。


 やがて、丸鮨の全ての食器と全ての食べもの汚れをマスターしたことを悟った益荒男は、寿司屋以外での皿洗いに興味を持った。


 そこでの無銭飲食である。

 数県にまたがる無銭飲食の遠征を重ね、益荒男は、洋食の汚れ、和食の汚れ、中華の汚れ、多種多様な食器類と調理器具、多種多様な洗い場の形状や厨房での連携のパターンに触れ、大いに刺激を受ける毎日を過ごし、皿洗いを極める道を威風堂々歩いていた。

 多くの飲食店では、益荒男の皿洗い技術の高さに魅了され、あるいは益荒男が皿洗い中に臨機応変に開発するその店の事情により合った皿洗いの方法に喜び、益荒男が店を出るときには店主が見送って、また来てよ、などといわれたりもする。

 もちろん、なかには、ものわかりのわるい店主もいて、皿洗いに至らずに警察の厄介になることがあったし、そのせいで前科ももらっていたが益荒男はとくに気にしなかった。


 益荒男は気にしなかったが、周りの者たちは心配した。

 前途ある、若者の将来が間違った方向へ向かいつつあることを、心優しい丸鮨の従業員は放っておけるはずはない。

 若い頃はいい。

 好きな道をゆけばよい。

 しかし、やがて家庭を持ち、実家の両親が老いた時に、いくら並外れた技術があるとはいえ皿洗いという職業では、安心できる収入を稼げる見込みはない。


 心を鬼にした大将はある日、丸鮨に食洗機の導入を検討していることを益荒男に告げた。



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