三章
三章
東の空が明るくなってきた。普段ならば、人々が起き出す時間帯である。
だが、今の『天国』には人っ子一人見あたらない。民家の窓から覗いてみると、安らかに寝息を立てている者がほとんどだ。
そんな状態の『天国』の中心、天に突き刺す大剣のごとくそびえ立つ皇宮から、微小ながら火の手が立ち上っていた。
数分置きに建物全体が揺れ、最上階へと続く螺旋階段を駆け上っていたレイスはその度に足を止め、揺れが収まるのを待っていた。
「誰かが、戦ってんのか?」
もしそうだとするならば、今すぐにでもこの場を逃げ出したい。本当は戦いたくなのない。そのことは、現在にいたっても何ら変わってはいない。
だがしかし、今この場で逃げたせば、自分がここに来た意味がなくなってしまう。どうしてシルトがこんな場所に来たのかは今でも分かっていないが、ここに彼女がいることは間違いがないのだ。
なら、助けに行かないわけにはいかないだろう。
揺れが収まると、レイスが再び螺旋階段を駆け上がる。二段飛ばしで、最上階を目指す。
爆発事態はレイスが皇宮に足を踏み入れる前から確認出来ていた。彼が皇宮に入ったころから、爆発音は次第に上へと向かっているようだ。
まるで、逃げ続ける何かを負うかのように。
「もしそうなら、急がねえと」
気持ちは焦るが、反対に体は疲労が溜まって来ているのか妙に気だるい。額には大粒の汗が浮かび、足は鉄の棒のように重くなっている。
それでもレイスは足を止めるわけにはいかない。たとえどれだけ疲れ果てようと、彼には目的があるのだから。
だから、とレイスは考える。
(このまま最上階まで突っ走る。シルトが上へ逃げているのなら、あの三角帽子野郎も底にいるはずだ)
そう考えていると、またも爆発があった。レイスが足を止め、壁に手をつく。
今度は結構近い場所のようだ。もうそろそろ、最上階に出るだろうか。
「……よし!」
揺れが収まると、レイスは一気に駆け出した。もう気づかれないようにとかそういうのを気にするのは止めだ。
どんなことをしてもシルトを助ける。
2
最上階への扉を開くと、それまで上ってきた螺旋階段とは一変して氷の世界だった。東の空から昇る太陽の光を受けて、足下に張られた分厚い氷がきらきらと光る。
その氷に足下を取られそうになりながら、レイスが何とか体勢を保つ。
目の前には、二人の人物がいた。
一人は淡い薄桃色のふわふわとした質感の髪と健康的な白い肌が特徴的な少女。レイスの顔を見るなり、驚いたように目を見開いた。
もう一人は先の折れた三角帽子に漆黒のマントを羽織った異国人。水色の美しい瞳が、忌々しげにレイスを睨んでいる。
シルトとブリザード、互いに違う二人の視線を受けて、レイスはにやりと口端を吊り上げた。
「よう、また会ったな」
「レイスさん……どうしてここに……?」
不思議そうに、シルトが問う。レイスは特に気負った様子もなく、
「お前を助けに来た」
そう答えると、レイスは笑みを引っ込めて油断なくブリザードに向き直る。
「もう一度相まみえることになるとは思わなかった」
「そうか? 俺はこうなるんだろうと思ってたぜ」
「よく言う。しかしいいのか? この場に立つということの意味は理解しているだろう?」
「ああ、そのつもりだ」
「ならば何故、ここに来た? 貴様は自殺願望でもあるのか?」
「そんなもんはねえよ。だたてめえをぶっ飛ばしに来ただけだっての」
レイスが言うとブリザードが鼻で笑った。
「貴様にそんなことが出来るのか?」
「出来るさ」
得意げにレイスが言う。
彼の周りを、漆黒の炎がとぐろを巻くようにして現れた。禍々しく、亡者の魂の集まりか牙を剥く大蛇のごとき不吉な炎。
その炎は、ブリザードが操る氷の魔術よりもはっきりと脅威を感じさせる。
シルトは一つ身を震わせると、信じられないものでも見たかのように目をぱちくりさせる。
「レイスさん、それは……?」
「ん? これか? さあな。俺にもよく分かんねえや」
「よく分かんないって……それじゃあ……」
「いいんだよ、今はこれで」
シルトが言いかけたのを、レイスが封じる。
別に世界を救うほどの巨大な力が必要ってわけじゃない。真相の究明が必要ってわけでもない。
ただ、目の前のクソ野郎を殴り飛ばせればそれでいい。レイスに必要なことは、ただそれだけだ。
だから、と彼は一歩を踏み出す。
「この力の正体が何であろうと関係ない。ただ、てめえをぶっ飛ばせればそれでいいんだからよ」
「ふん、貴様ごときに私が倒されるわけがないだろう」
「知らねえのか? 思春期ってのは一秒経つ五とに成長して行くんだぜ?」
「それがどうした?」
「だから、この間の俺と今の俺を一緒にすんなってことだゴラァ!」
一層強く床を蹴ると、レイスの体は弾丸のようなスピードでブリザードへと突進していった。彼の右腕の握り拳が振るわれる。
「ちっ……」
ブリザードは舌打ちして、真横に飛ぶことで何とかレイスの拳をかわした。素早く体勢を立て直すと、第二撃に備えて身構える。
次の瞬間には、レイスの左足が飛んでくる。ブリザードは防御態勢を取るが、ガードの上からでも十分に威力が伝わってくる。皇宮の壁に叩きつけられ、吐血する。
「がっ……はっ……」
「おらおらどうした魔術師ぃ!」
レイスが一瞬でブリザードとの間合いを詰め、拳を放とうとする。ブリザードはすぐさま氷の盾を作り出した。
一瞬で、盾は砕け散った。
だがそれでいい。ブリザードが狙っていたのは彼の攻撃をかいくぐることではない。
レイスが砕いたことで氷の盾が細かく割れた。そのいくつかは、切っ先の鋭い刃となってレイスに襲いかかる。
「ぐっ……」
レイスの腹に、肩に、足に、体のいたるところに氷の刃が突き刺さり、その刀身を真っ赤に染めていく。
「てめっ!」
「戦闘経験が足りないな」
口に溜まった血を吐き捨てて、ブリザードが余裕を浮かべて言う。
次に彼女が行ったのは、巨大な球体を作ることだった。
自分の身の丈より大きな球体はブリザードの体の動きに合わせてレイスの上に落とされる。
レイスは体中に力を込めるが、氷の玉の勢いを殺すことが出来ずにそのまま皇宮の床に落下していく。
ちらり、と後ろを振り返ると氷の刃が剣山のように切っ先をこちらに向けていた。
「死ね」
ブリザードの静かな声が聞こえてきて、一瞬本気で死を覚悟したが、すぐに駄目だと思い直す。
ここで死んでしまったら、こうして戦っている意味がない。
レイスは無理矢理空中で身を捻らせると、氷の玉を剣山目がけて放り投げる。氷の玉は剣山の切っ先を少し欠けさせただけで、刃に当たるとたちまち砕け散ってしまった。
「どんだけかてえんだよ、あれ」
レイスが冷や汗混じりに呟く。
一瞬、時間に治せばコンマ一秒ほど。たったそれだけ目を離している隙に、ブリザードが空中に展開させた氷の足場を蹴ってレイスとの間合いを詰めてくる。彼の頭部を鷲掴みにすると、そのまま力任せに剣山の一つへ押し込む。
あと数ミリで完全に突き刺さるというところで、レイスがブリザードの脇腹を蹴った。ほぼ完治しかけているとはいえ、怪我をした個所を蹴り込まれるとそれなりに痛みが走る。ブリザードが顔をしかめ、横合いへ飛んでいく。
その一連の行動のおかげで氷の刃から逸れたのだろう。切っ先がわずかにレイスの着ている服を破った程度で、大した傷もなくテラスの床へと落下する。
レイスが素早く起き上がった。同時にブリザードの鋭い眼光が彼を睨みつける。
少しの間、二人の間に沈黙が走った。
レイスが口を開く。
「俺達が住むこの国には『魔女の楽園』っつーおとぎ話があるんだ」
「……なにを?」
突然のことに、ブリザードは困惑気味に眉を寄せる。それを無視して、レイスは続けた。
「そのおとぎ話ってのはな、ある魔女が一人の旅人に恋をするんだ。でも、その旅人ってのは死んじまう。そして魔女は旅人を蘇らせようとする」
「…………」
「お前の行動はこのおとぎ話と似たところが多くあるように思えるんだ。お前の目的ってのはその旅人を蘇らせることじゃねえのか?」
ブリザードは臨戦態勢を解き、ぽつぽつと語り出した。
「……私の故郷では魔術師ってのは一般的な存在だったんだ。だが、他から見れば稀少で、そして同時に奇妙だったらしく、大国から孤立していた。でも、私達は幸せだったんだ。故郷に住む者は皆家族みたいなもので、肩を寄せて暮らしていた。そんなある日のことだ。故郷に旅人が一人迷い込んできた。大怪我を負ってひどく衰弱していて、すぐにでも治療を施さなければ死んでしまいそうだった。私達は長の命令ですぐに旅人を助けた。旅人はたちまち元気になり、私達も胸を撫で下ろした。私は長から旅人の世話をするよう命じられ、つきっきりで看病したよ。おかげで、一人で歩き回れるまで回復した。故郷の者達はすごく喜んだ。もちろん、私も含めて。だが、私は皆が思う以上に旅人に対して特別な感情を抱いていたようだった」
「……よう、だった?」
シルトが不思議そうに呟いた。ブリザードはシルトを一瞥すると、更に先を語り続ける。
「私が彼に特別な感情を抱いていたのだと気づいたのは、彼が死んでおよそ一ヶ月がたったころだった。そのころには悲しみも幾分か薄まり、色々と考える余裕というものがあった」
そして、気づいたのだ。自分は旅人を好きだったのだと。
「そう気づくと、私の心の中にとある小さな願いが生まれた」
「願い……」
「そうだ。彼を蘇らせたいという願いが。もう一度会いたいという想いが」
ブリザードはゆっくりと顔を上げ、レイスとシルトへ交互に視線を送る。どちらにも、これ以上ないくらいの殺意が籠っていた。
その背へ、声をかける者がいる。
「なるほど、だから彼女を狙っているわけね」
驚きの表情とともにブリザードが振り返る。レイスとシルトも、声のした方へ視線を投げた。
そこには、ブリザードの衣装と同じような、先の折れた三角帽に黒いマントを羽織った女がいた。
ただブリザードと違うのは紅い双眸。彼女の深紅の瞳に、ブリザードの青い瞳が反射する。
「……ヴァルン」
「はぁい。また会ったわね」
レイスが呟くと、皇宮のテラスへと降り立ちながらヴァルンが親しげに手を振る。ブリザードは警戒を露わにして、慎重に言葉を選びながらヴァルンに噛みつく。
「……何の用だ。貴様が出張ってくる場面では無いはずだぞ、ヴァルン」
「まーそう言わないで、これでも長サマからの勅命で動いているのよ」
「長の? 何故私が狙われなければならない?」
「勘違いしないで。別にあたしはあなたを殺せと言われたわけではないのよ、ブリザード。ただあなたを説得して、連れ戻すよう仰せつかっているだけ」
「どんな言葉をかけられようと、私の意志が変わることはない」
「……でしょうね。あたなが彼に寄せていた想いがそんな軽いものであるはずがない。もしそうなら、長サマがわざわざあたしを寄越すわけがないものそれはあたしや長サマ達も十分承知よ」
「ならば帰れ。貴様と話すことなど何もない」
「はいそうですかっていうわけにはいかないのよ。死人を蘇らせることは掟に反するわ。もし実行してしまったのならその命を絶たなければならばいほどにね」
「覚悟の上だ」
「わかってるわ。でも、考え直さない? 今ならまだ間に合うわよ」
「愚問だな。私が考えを改めると本気で思っているのか?」
「……そう。変える気はないのね」
「無論だ」
ブリザードの決意に満ちた眼光をまっすぐに受けて、ヴァルンは小さく息を吐いた。明らかに乗り気でないのは見てわかる。
「ならしょうがないわね。力づくであなたを止めるしかなくなる」
「貴様に出来るのか? 単純な戦闘においては私の方が実力は上だ」
「私一人ならね。だから、そこのボウヤにも手伝ってもらうわ」
ヴァルンの言葉を受け、レイスが身構える。ブリザードはちらりと彼を振り返り、再びヴァルンに視線を戻す。
「あの素人に手を借りる気か?」
「そうよ。何か不都合が?」
「本気か?」
「彼にはこの上なく協力な力がある。ブリザード、あなたも知っているでしょう?」
「だがその力も十全には振るえていない。むしろ足を引っ張るだけではないのか?」
「そんなことはないわ。やれるでしょう、ボウヤ?」
「……ったりめーだろ。あとボウヤ止めろ」
レイスが唇を尖らせて、反論する。そんな二人のやりとりを黙って見ていたシルトが口を挟んだ。
「……お知り合い、ですか?」
「別に知り合いってほどじゃねえよ。ただ、利害が一致しているってだけだ」
レイスがそっけなく言うが、シルトは納得していないようだった。
「まあいいです。それよりも、二人とも下がっていてください」
シルトが前に出る。
「これはわたしの国の問題です。ですから、わたし一人で解決してみせます」
「あ? 〝わたしの国〟? どういうことだ?」
「この際なのでお話します」
シルトはブリザードとヴァルンの双方から視線を外さないまま、
「わたしは『天国』第三皇女イシリア・リィ・モルテ。将来、この国の皇王になるかも知れなかった女です」
「なるかも……知れなかった?」
過去形なイシリアの物言いに、レイスが眉根を寄せる。イシリアは一度頷くと、さらに口を開く。
「この人の狙いはわたしです。ならば、わたしがこの命を差し出せば全ては解決するでしょう。『天国』に住む民から、これ以上余計な犠牲が出ることもありません」
「それって……」
「はい。わたし一人の命と三億人以上の『天国』の民の命。どちらを優先させるべきかなど、考える必要もありません」
イシリアの髪が風に揺れる。
レイスは彼女の後姿を呆けたように見詰めていた。
なんだ、それは。
確かに三億人以上の国民とたった一人の命。数の上では、どちらを優先させるべきかなど考えるまでもない。こんなものは赤ん坊でも即答できるレベルだろう。問題にすらなっていない。
だが、それは数の上でのことだ。ただの屁理屈に過ぎない。
そんな机の上で出された計算の答えのようなことが、認められるはずがない。しかし、レイスには彼女にかけるべき言葉が見つからなかった。
自分の命と見も知らぬ三億人の人々の命を天秤にかけることのできる彼女の神経が、レイスには理解できなかった。
どちらを優先させるべきか考えるまでもない。そんなことはわかっている。
でも、イシリアの命と三億人以上の『天国』に住まう人々。その二つは天秤にかけられるような者なのだろうか。
そもそも、かけることが許されるのか。
「そろそろ、いいか?」
レイスが俯いて考え込んでいると、横合いからブリザードの冷ややかな声が飛んでくる。レイスはそちらに目を向けると、殺気を込めて睨みつけた。
こいつが、全ての元凶なのだ。こいつを殺せばイシリアは死なずに済む。
「てめえ……」
「死ぬ覚悟ができたのか?」
ブリザードの氷ついた視線がレイスを射抜く。レイスは思わず後退しそうになったが、なんとかその場に踏み止まる。
彼の前に、イシリアが躍り出た。
「レイスさん、下がっていてください。わたしがなんとかして見せますから」
「おい」
レイスの静止も聞かず、イシリアがブリザードへと近づいて行く。
「あなたの狙いはわたしなのですよね。でしたら、わたしの命は差し上げます。その代わり、この人達には手を出さないでください」
「……懸命な判断だな」
コッコッコッ、と靴音を鳴らしてイシリアがブリザードへ近づいて行く。彼女の前に、ヴァルンが立ちはだかった。
「退いてください」
「アンタが考え直してくれたら考えてあげる」
「そういうわけにはいきません。これは、わたしの使命なのですから」
「あたしにも授かった使命がある。ブリザードを無事にあたし達の故郷に連れ帰ることよ」
「……ヴァルン、貴様は私を殺しに来たわけではなかったのか?」
怪訝そうに眉根を寄せるブリザードに、ヴァルンが呆れたたように息を吐いて、
「長サマがそんなことを望むわけがないでしょ。アンタが何に囚われているのかわからないけど、掟破りには厳罰が下されるのよ。だから、こんなところで死んじゃ駄目」
ヴァルンが、一瞬だけブリザードを振り返る。
「……たとえどんな罰であろうと甘んじて受けよう。だが、それはイシリアの心臓をえぐり出してからだ」
「ブリザード……!」
ヴァルンが今度は体ごと振り返った。
「まだわからないの? いくらあなたがあの人が蘇ることを願おうとも、あの人は返って来てはくれないのよ?」
「普通なら、そう思うだろう。しかし、私は見つけたんだ。死者を、彼を呼び戻す術を」
「そんなものはないのよ!」
「貴様にはわかるまい、ヴァルン。いや貴様だけではない。他の誰にも、私のこの気持ちをわかるはずはない。そこを退け。さもなくば貴様もここで死ぬことになるぞ」
「く……退かない。ブリザード、絶対にあなたを人殺しになんかさせない」
ヴァルンが身構える。
たとえ友人が自分に殺意を向けてきたのだとしても、この友人を救って見せる。誰かから命じられたわけではない。自分自身の意志で、悲しい幻想に囚われた哀れな囚人と化した今のブリザードを、ヴァルンは救って見せると誓った。
「長サマ……あたしに力を貸してください」
祈るようにそう言うヴァルンの手には、いつの間にか豪奢な装飾の施された長杖が握られていた。その長杖を握り閉め、ヴァルンがレイスに飛びかかっていく。
「手足の二、三本焼き払ってでも連れて帰る」
「私の邪魔をしようというのであれば、貴様にもここで死んでもらうぞ」
ブリザードが右手を突き出した。
彼女の手のひらに細かい粒子状の氷の粒が集まっていく。氷の粒は十字架の形をした剣へとその形を形成していった。
やがて、その手に握られていた剣を見てヴァルンが目を剥く。彼女が握っているのは、かのアーサー王伝説に出て来る剣。『円卓の騎士』の一人、ランスロットの聖剣。
「『アロンダイト』……」
ヴァルンが呟く。その呟きに、律儀にもブリザードが答える。
「『アロンダイト』の模造品だ。私ごときの能力では、『円卓の騎士』の伝説を完全に復元し、生成することなどできないからな。だが、貴様を殺すにはこれで十分だ」
「……模造品で本気であたしを殺せる気? 冗談でしょう?」
「さて、それはどうかな」
余裕ぶった呟きとともに、ブリザードがヴァルンに向かって突進する。『アロンダイト』の模造剣の切っ先をヴァルンの方に向けている。
「そんな氷の塊!」
ヴァルンが長杖で空中に円を描く。その円の中心へ覆うようにして、赤い炎の壁ができあがった。
摂氏数千度にも及ぶ炎の壁に飲み込まれ、『アロンダイト』は瞬く間に溶けていく。そう思われた。
だが、
「甘いぞヴァルン!」
ブリザードが咆哮にも似た叫びとともに『アロンダイト』を真横に振るう。すると、炎の壁は瞬く間に掻き消え、ヴァルンの眼前にブリザードの顔があった。
一瞬、ブリザード顔をしかめた。傷が開いたのかとイシリアは想ったが、どうもそうではないらしい。
行動と気持ちが一致しない。本当はやりたくないことをやっているときの顔だ。
まだ、迷いがあるのかもしれない。
胸の内にある迷いを断ち切るように、ブリザードが『アロンダイト』を振り下ろす。その刃がヴァルンの顔に触れるか触れないかの距離で、ヴァルンの体がなぎ倒された。
「ぐっ……」
尻餅をついて呻き声を上げたヴァルンは、すぐさま目を開けて眼前を見上げた。
そこには、全身に黒い炎を纏ったレイスがいた。
「二人だけで何盛り上がってんだこの野郎」
怒りに顔を歪めたレイスに、ヴァルンは呆けたような顔を剥ける。
「あなた……」
レイスがブリザードから視線を外さないまま言う。レイスは面白くなさそうに、
「俺の手を借りるんじゃなかったのか? 二人でごちゃごちゃうるせえったらなかったぞ」
ヴァルンが放心状態のようにレイスを見上げている。レイスはヴァルンの視線を無視して、両足に力を込めた。
ダン、と足場を蹴り、凄まじい速度でブリザードへ特攻していく。ブリザードは『アロンダイト』構え、振るう。
レイスが炎を纏わせた拳で『アロンダイト』を弾いた。ブリザードは勢いを殺すことはせず、弾かれた勢いを利用して後退する。
レイスから距離を置き、ブリザードが彼を睨み付ける。
「……確かに貴様の力は脅威的だ。私が知るどの伝説にも当てはまらない。おそらく、魔術的なものではないのだろう」
「へっ、そいつは褒め言葉か?」
「まあ、そんなところだ。だが、一つだけ決定的な欠点がある」
「欠点?」
「そう。それは貴様自身だ戦闘経験が乏しく、また訓練すら受けていない。そこに私が点けいる隙がある」
「それが、どうして欠点になるんだ」
「……技術的にはもちろん、心構えすらできていないということだ。貴様はこう思っている。自分が負けるはずがないと。つまり、命の削り合いをする覚悟ができていない!」
ブリザードが一気に距離を詰める。レイスの脇に入り、氷で作ったナイフを彼の脇腹に突き立てる。
レイスはとっさに身を捻り、ナイフをかわした。しかし、ブリザードに悔しさや焦りといったものは見受けられない。
次の瞬間には、彼女の持つ『アロンダイト』がレイスの肩間を切り裂く。真っ赤な鮮血が噴水のように噴き上がる。
「ぐ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
言葉にならない叫び声を上げて、レイスがその場に膝まずいた。右手で左肩にできた傷口を抑え、痛みに奥歯を噛み締める。
「これではわかったか? どれだけ強大な力を有していようと、貴様自身が弱ければ話にもならないということだ」
ブリザードが冷ややかにレイスを見下して言う。レイスは肩間に走る激しい痛みに彼女の言葉を聞くだけの余裕がなかった。
ぎょろり、と揺れ動く瞳がブリザードを捉える。
「なんだその目は。まだ交戦の意志があるというのか? だが止めておけ、貴様では私にはかてない。絶対に」
言いかけて、ぴくりとブリザードの眉が動いた。素早く身を反転させると、氷の盾を全面に展開させる。
ブァ、とオレンジの炎が凄まじい勢いでブリザードに向かって雪崩のように向かってきたが彼女の寸前で氷の盾に阻まれる。
ブリザードが憎々しげに視線の先にいたヴァルンを睨みつけた。ヴァルンは荒く息を吐きながら肩で息をしていた。
「……確かに、あなたはあたしレベルの魔術師が束になっても敵わないわ。あなたの才能と努力を、あたしはずっと間近で見てきた。あなたが重ねてきた努力も。だからわかる。ブリザード、あなたは強い。でもね」
ヴァルンが長杖を構え直し、
「あたしが、あなたの想いの強さに負けるとは思わない。なぜなら、あたしはあなたを助けにきたのだから」
「ヴァルン……」
「だから、一緒に帰りましょう。ね?」
ヴァルンが長杖を下し、右手を差し出す。彼女の顔には、優しげな笑みがあった。ブリザードはその手を払い除けるように言い放った。
「……もう、無理なんだ」
ブリザードが静かに言う。
その言葉に、ヴァルンは背中が氷つくようだった。
「どういう、意味?」
「そのままの意味だ。見てみろ。これだけのことを私はした。どれほどの贖罪を重ねようと、誰一人として許してはくれないだろう。また、そのつもりもない」
ブリザードは両手を広げ、『天国』の惨状を示す。
彼女の犯した罪は決して許されるものではない。『天国』に住まう三億人以上の人々の命を脅かし、また今もイシリアの心臓を狙い続けている。
これだけのことをした。だから、もはや後戻りはできない。そう言いたいのだろう。
ブリザードは被っていた三角帽子を剥ぎ取り、風に乗せて放る。帽子の下からは、太陽の光を浴びきらきらと輝きを放つ美しいと、淡青色の瞳の美しい女が現れた。
「私はそこの第三皇女の心臓をえぐり出し、瞑王へ差し出す。そして、その見返りとしてあの人の魂を返してもらう」
「まだわからないの、ブリザード! そんなものは単なる言い伝えよ。死んだ人間はいきかえりはしないわ!」
「そんなことはない! 彼は必ず生き返る!」
これまで、あまり感情的になることのなかったブリザードがここに来て声を荒げた。それは、想い人が生き返らないと言われたことへの憤りなのか、それともブリザード自身頭ではわかっているが、理屈以外の部分でそのことを認めたくないのか。
どちらにせよこれ以上好きにさせておくわけにはいかない。
レイスは削れるほど強く奥歯を噛み締めると、怪我をしていない右手を地面について立ち上がる。よろけたが、壁に手をついてなんとかバランスを保った。
ブリザードがヴァルンからレイスに視線を移し、
「まだ立ち上がるのか?」
「悪りいが、これ以上てめえの好き勝手にさせとくわけにゃいかねえんでな」
声が震えていた。
怖いと思う。
目の前にいるのは『天国』の三分の二ほどを氷づけにした魔術師。加えて、たった今『円卓の騎士』の一人、ランスロットの『アロンダイト』を模した剣でレイスの肩を切りつけた張本人。
恐くないわけがない。肩は震え、膝は馬鹿みたいに笑っている。
「……それでも、立ち上がらないといけねえ理由があるんだ」
イシリアがいる。イザナギがいる。その他にも、レイスの友達や見ず知らずの他人、この国に住まう全ての人々がいる。
ここで、拳を握ることを止めるわけにはいかない。
「だから、俺はお前を殺してでもお前を止めるぞ……!」
決意の色に染まったレイスの表情を見て、イシリアを含めたその場の全員が息を飲んだ。
レイスの目を見て、彼の言葉以上のものを感じたのだろう。ブリザードが唇をきつく結び、鋭い眼光を向けてくる。
慌てたように、イシリアが言った。
「レイスさん、何を言っているんですか!」
「なんだ? 俺、なんかおかしなこと言ってるか?」
「殺してでもとか、命の削り合いをする覚悟とか、皆さんおかしいですよ! どうして、そんなことばかり……」
「お前だって、死ぬつもりだっただろう。な、シルト?」
レイスの全体を黒炎が包み込む。その表情には、憤りが浮かんでいた。
「なら、これであおいこだ」
ブリザードが小振りの氷の刃を生成する。同時、レイスの体が勢いよく前へ飛んだ。
「うらぁ!」
雄叫びとともにレイスが拳を放つ。黒炎が辺りに拡散し、ブリザードを包み込んでいく。
完全に黒炎に飲み込まれる寸前、ブリザードは後ろに飛び迫りくる脅威を回避する。次いで、レイスの背後から氷の刃を突き立てる。
「ぐぁ……!」
レイスが苦悶の声を上げ、握りしめていた拳が緩んだ。だが、今度は先ほどのように膝をついたりはしない。
「こっちよ!」
レイスの背後からヴァルンが飛び出す。手にしていた長杖から真っ赤な炎が放たれた。
ブリザードは薄く氷の壁を展開し、炎の軌道を逸らせる。氷が解け、その向こうからレイス蹴りを放つ。
魔術を使う暇がなかった。ブリザードは素早く身を捻り、レイスの飛び蹴りを避ける。そこへ、またも炎の波が襲う。
右手が炎に包まれ、火傷を負う。完全に死んでしまったらしく、右手がだらんと垂れさがった。
「おの……れ……」
ブリザードが忌々しげに歯噛みする。
眉根を寄せ、犬歯を剥き出しにして怒りに震えるその様は、まさに冥界の王に魂を売った悪魔のようだった。
そこへ、レイスがもう一度蹴りつける。それをかわすと、凄まじい音とともに皇宮の壁に大穴が空いた。
レイスが素早くブリザードに向き直り、彼女を睨み付ける。
「もう、観念しろよ。これ以上やっても無意味だろ」
「そうよ。あなたに勝ち目などないわ。おとなしくあたしと一緒に来て。そして罰を受けるのよ」
できれば殺したくはない。その思いは、レイスもヴァルンも共通している。だからこそ、あえて留めを差すことなく説得を試みる。
たとえ無駄だとわかっていてもそうするしかない。
確かに、大切な人達を守るためには彼女を殺すことも心に誓い、言葉にもした。だが、それは必要ならばそうする、と言うだけであって、率先して殺したいわけではない。
レイスはごくりと唾液を飲み下すと、一歩、ブリザードに歩み寄る。
「もしてめえがこれ以上何もせず俺達の前からいなくなるって言うんなら、もう俺が戦う理由はなくなっちまう。こっちとしては、それが一番望ましい結果だ。だから、これ以上俺達の日常を脅かさないでくれよ」
心からの言葉だった。
レイスはこれまで、自分は最強だと信じていた。そうでも思わなければ、やっていられなかったのだ。
退屈な学校、退屈な人々、退屈な日常。
もしそれらが自分にとってなによりも大切だと気づくときがくるのだとすれば、今このときをおいて他にはないだろう。
だから、レイスは懇願する。
俺を退屈で大切なあの日常へ返してくれ、と。
ブリザードは俯いている。美しい銀髪が顔の前に垂れ、その表情を窺い知ることは難しい。
レイスは彼女の前に膝をつき、顔を覗き込む。ブリザードが顔を上げると同時に、『アロンダイト』を横に一線、振るってきた。
「ずあ……」
レイスが後ろへ転がる。左目が切り裂かれ、鮮血があふれ出る。
ブリザードは大きく肩を震わせながら、ゆっくりと立ち上がった。その様は泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「ふざ……けるな」
「ブリザード!」
「ふざけるなぁぁああああああああああああああああ!」
咆哮がこだまする。
彼女の叫び声は空を裂き、空の果てへと消えていく。
ブリザードの眼光がヴァルンを射抜く。その瞳は今までのようなうざったい虫けらを見るようなそれではなく、恨みの籠った、明らかな敵対者へ向けるものだった。
ブリザードが『アロンダイト』の切っ先をレイスへ向ける。荒い呼吸で肩を激しく上下させながら、レイスを見下す。
「私は、彼を取り戻すためなら何でもすると決めた。目的を達成するためならばどんな犠牲もいとわない。何十人何百人と死のうが関係ない。私の命さえ投げ打ってもいい」
ブリザードの声に、段々と震えが混じる。両目の端に透明の滴が溜まり、頬を伝う。
「たった一つ。彼に帰って来て欲しい……それが、私の望みだ……」
最後はレイスの距離でもようやく聞き取れるくらいだった。目尻から流れ出た涙が地面に落ち、氷ついた地面にまだぬくもりの消えない滴が落ちる。その部分だけ微細に溶けた。
ブオンッ、と空を切り裂く音がして『アロンダイト』が振り下ろされる。彼女の話を聞いていたレイスは俯いたまま怪我のない左手を持ち上げる。
肉を裂く音が響き渡った。レイスの手のひらから真っ赤な鮮血が滴り落ちる。が、彼は泣き喚いたりすることなく、力強く『アロンダイト』を握り込む。
指の第一関節からまた血が流れ出た。
驚きとも焦りともとれる表情で、ブリザードが反射的に『アロンダイト』を引き抜こうとする。しかし、彼女の意志とは対照的に、氷の剣はびくともしない。
「……そんなくだらねえことが望みだと?」
「なに?」
レイスの呟きに、ブリザードが剣を引き抜く手を止めて眉根を寄せる。
「くだらないこと、だと?」
「ああ、くだらねえことだろうが。てめえが誰を好きになって、誰のために人生を送りたいと思っているのかなんて俺は知ったこっちゃねえ。だがな、そいつはもうこの世にはいない。死んでるんだよ。そして、死んだやつは蘇らない。ぜってえにな」
語りながら、レイスがゆっくりと立ち上がる。顔を上げ、真正面からブリザードの淡青色の瞳を見つめる。
「はっきり言ってやるぜ。てめえがやろうとしていることは死者への冒涜以外の何ものでもない。たとえそれでてめえが思いを寄せている誰かが蘇ったとしても、きっと悲しむだけだ」
「なに……を……」
ブリザードが一歩、後ろへ後退する。『アロンダイト』を握っていた手から力が抜け、氷の剣が音を立てて地面に落下した。
ぶるぶると、ブリザードの全身が震える。
焦点の定まらない瞳でぐるりと辺りを見回す。
「あ、ああ……ああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
悲鳴にも似た絶叫が迸る。
同時、あれだけの強度を誇っていた『アロンダイト』アメ細工のように割れ、レイスの手を離れた。破片はブリザードの許へと集結し、それまでの剣とはまた別の形を形成していく。
たった一人の人間が自分の死すらいとわず、想い人を蘇らせたいと願った。たとえその方法が間違っていたのだとしても、誰からも理解されなかったのだとしても、生き返って欲しいと願った人がいた。その想いはどれほど鋭い剣でも、どんなに強大な力でもねじ切ることのできない強固な意志となる。そしてその意志は、使い方次第で世間から正しいと采を浴びることもあるだろ。また万人を殺す最悪の凶器にもなるだろう。
武器が人を使うのではなく、人が武器を使うのだというのならば、そこには人の意志が介在しなくてはそもそもにおいて戦闘という行為自体が成り立たない。
そして、凶悪な意志の許に、ブリザードは己の肉体すら武器に変えた。
その身に、幾千の氷の刃を身につけ、背中に生えた翼にも似た何かを大きく広げる。
レイスが、ブリザードの姿に目を見張る。
「ブリザード! 止めて、それは禁術よ!」
レイスの隣で、ヴァルンが叫んだ。だが、既に全身を最悪の凶器と化したブリザードに、彼女を想うヴァルンの声は届かない。
右手が、いやそれまで右手だった部分が振るわれ、巨大な衝撃波を撒き散らしながらレイス達を襲う。レイス達三人はなんとか踏み止まることができたが、衝撃波の影響かテラスの一部に亀裂が走る。
ぴしり、と音を立てて亀裂は瞬く間に全体に広がっていった。やがてレイスの足場が傾き、皇宮から切り離される。
「ぐおおおおおおおおお!」
雄叫びとともに、レイスが飛ぶ。黒い炎が彼の全身を包み、一気に加速した。
ブリザードの前に降り立つと、レイスが素早く落下していったテラスの方に視線をやる。
「シルト!」
叫ぶが、崩れていく音にかき消されているのかイシリアの声は届かない。無我夢中だったとはいえ、彼女を置いて自分だけここに残るなど本末転倒だ。
その場に膝をつき、肩を落とす。
そこへ、ブリザードの左手が勢いよく叩きつけられた。レイスはとっさに防御態勢を取り、なんとか攻撃をかわす。
後方へ数メートル吹っ飛んだレイスは、起き上がりざまに右へ転がった。ブリザードの足だった個所が数秒後にはそれまでレイスがいた場所に小さなクレーターを作る。
下の様子が気になるが、今はブリザードの相手に専念しなければ。
そう思い、素早く立ち上がるとレイスは全身に黒い炎を纏い、一気に地を蹴ってブリザードへ突進していく。
ブリザードは両腕部分をクロスさせてレイスの攻撃を防ごうとしたが、レイスの勢いがあまりにもよ過ぎて、後方へ圧される。
皇宮の中ほどに入ったところで、ブリザードが止まった。レイスを弾き飛ばし、荒く息をつく。レイスの体は皇宮の壁にめり込んでいる。
「私は、ここまでやったぞ! 人間であることを捨てて、それでも彼に還って来て欲しいと願っている! ここまでやってもまだ足りないと言うのか!」
「……足りないんじゃねえよ。無理、なんだよ。なにをやっても、死んだやつが生き返るわけないだろ」
レイスが口の中の血を吐き出し、吐き捨てるようにそう言った。ブリザードは剣と化した右手でレイスを差し、
「そんなことはない! 私は信じている! イシリア・リィ・モルテを殺せば、彼が戻って来てくれると!」
「諦めの悪いやつだな」
「それは貴様だ、少年」
ブリザードは身を低くして、腰を落とした。明らかに、レイスへ特攻を仕かける構えだ。
翼のようなものを羽ばたかせ、一瞬でブリザードがレイスとの距離を詰める。鋭く鋭利にとがった右手が突き出され、レイスの肉体を貫こうとしてくる。
「ああああああああああああああああああああああ――ッ!」
絶叫し、レイスがでたらめに左手を突き出す。左手がブリザードの顔側面に触れた。その瞬間、ブリザードの体は後方へと吹き飛ばされる。
砂ぼこりを上げ、今度はブリザードの体が皇宮の壁にめり込んだ。額から血を流し、右手はだらんと力なく垂れさがる。骨が折れたのか、右足に力を入れようとすると激しく痛んだ。
それがどうした。
瀕死の状態でも、ブリザードは立ち上がる。途切れ途切れに、かすれた息使いが聞こえてくる。
まだ、目的を果たすまで死ぬわけにはいかない。その思だけが、彼女を強く突き動かしていた。
レイスは口許の血を拭いながら、
「てめえ、まだやる気かよ?」
「当然だ。何のためにここまでやってきたと思う。もう一度彼と会うためだ。そのためなら何でもすると言っただろう。この命すら投げ打つと。邪魔すると言うのなら、貴様はここで殺す」
「できると、思ってんのか?」
「無論だ。戦闘経験の浅い貴様と、この世に生を受けてから今までの人生をずっと魔術の終業だけに費やしてきた私とでは雲泥の差がある。私が負ける道理はない」
「その割には、てめえぼろぼろじゃねえか。戦闘経験の浅い俺みたいな素人相手に、何を手こずってやがんだよ」
そう言い、レイスが笑って見せる。
明らかに強がりだと思ったが、ブリザードは一層強く彼を睨みつける。
少年をここまでさせるものはなんだろう。
これまでの戦いの中で、ブリザードの脳裏にそんな疑問が浮かぶ。
戦わなければならない理由があると本人は言っていたが、それはいったいなんなのだろう。
そんなことを考えている余裕などないのに、考えてしまう。一度生じた疑問はそう簡単にきえてはくれない。
一方、レイスの方も限界だった。体もそうだが、なにより心、精神の面で限界が訪れている。
本物の殺し合いを体験して、心底恐いと思った。逃げ出したいと始めて考えた。がくがくと、両足が高笑いを始めている。
そんな状態でも、逃げずに戦っている自分を褒め称えてやりたいとさえ思う。左目は使いものにならなくなり、右手も満足には動かない。こういうふうになっても、なお後ろには引けないのだから嫌になる。
次の一撃が最後になるだろう。
お互いにそう思い、レイスは拳を握りブリザードは右手を構えた。
「最後に、聞いておきたい」
「……何だ?」
ブリザードの言葉に、レイスが眉根を寄せる。
彼の態度など気にする様子もなく、ブリザードは質問の内容を口にする。
「何故、貴様はそこまでしてイシリア・リィ・モルテを守ろうとする?」
「なんだ、んなことか」
「答えろ、何故なんだ。いくら皇女だとはいえ、貴様とは縁もゆかりもないやつだろう? どうして、それこそ命をかけないといけなくなるようなこんな戦いに参加した?」
レイスは構えを解き、さも当然のことのように言う。
「そんなもん決まってんだろ。俺のためだ」
「……貴様のため? どういうことだ?」
「わっかんねーかな。シルトが俺の友達だからだよ。恥かしいからあんま言わせんな」
この場に本人はいないのだが、レイスは気恥ずかしそうに頬を掻き顔を背ける。
ブリザードはわけがわからないといった表情でレイスを見て、
「彼女の名はイシリアだ。シルトなどという者ではない」
「シルトだよ。少なくとも、俺達にとってはな」
彼女の正体が何者かなんて関係ない。シルト・ベフィット。俺達の友達。それだけわかっていれば十分だ。
「くだらねえこと訊いてんじゃねえよ」
レイスが両足に力を込めて飛びあがった。固く握った拳が、ブリザード目がけて放たれる。
その拳を、ブリザードは左腕を使って軌道を逸らせることでしのぐ。一瞬後、腹部に凄まじい衝撃を受け、ブリザードが後方へ飛んだ。
壁に叩きつけられたブリザードは起き上がりざまに横へ跳ねる。
ゴッ、という衝撃音とともに、壁が崩れた。煙幕の奥から、レイスが飛び出してくる。再びブリザード目がけて蹴りを放つ。
「がっ、はっ……」
彼女の体は更に勢いを増す。壁にぶち当たるより先に、レイスが周り込み壁に叩きつける。
「俺達……俺とイザナギにとってはかけがえのない友達なんだ。皇女だからだとか、立場がどうとか、そんなことは関係ねえ。ただ、俺はあいつらを守りたい。あいつらの、笑顔を。だから戦う。だから、てめえを殺す!」
もう、説得の余地はないと思った。なにを言っても、ブリザードが止まることはないだろう。彼女の想いは強く、心は本物だ。
他人がどれだけ無駄だと言い聞かせても、止めようとはしない。だったら、無駄なことをして彼とやらが蘇らずに打ちのめされる前に、この場で殺してやる。
そうすることが、ブリザードのためでもあると思うから。
己を掴むレイスの手のひらの向こうから、ブリザードが苛立たしげに、
「ぐっ……そんなもの――ッ!」
ブリザードが右腕を突き出してくる。鋭利に尖った先端部分が突き刺さり、レイスのはらわたを掻き乱す。
襲ってくる激痛に顔を歪めながら、レイスは下唇を噛み締め必死で耐えた。ブリザードは右腕を引き抜き、鮮血の吹き出す傷口を蹴りつける。
「ごあっ!」
これにはさすがのレイスも呻き声を発して、一瞬ブリザードを掴む手の力が緩んだ。その一瞬の隙をついて、ブリザードが全身を回転させレイスの拘束から抜け出した。
自由となった左腕を振り上げ、レイスの首を絶ち切ろうと振り下ろす。レイスの身を反転させ、すんでのところで両腕をクロスさせて防いだ。だが、攻撃の勢いは殺すことができなかったらしく、床に穴を開けて階下へと落下していった。
ブリザードは空いた穴から身を放り、レイスを追う。
3
「……ここは?」
目を覚ますと、イシリアは上体を起こしてきょろきょろとあたりを見回した。鬱葱とした木々や雑草が彼女を隠すようにしてはえている。
近くから、ヴァルンの声が聞こえる。
「おそらく、あの皇宮っていう場所の裏手にある林でしょうね。木の枝や雑草なんかがクッションになったらしく、お互いに大した怪我は負っていないようよ」
「そういえば、レイスさん達はどうなりました!」
「レイス? あのボウヤのこと? 多分、まだ戦ってるんじゃない? 時折り衝撃音みたいなのが聞こえるし」
「助けに行きましょう……痛っ」
イシリアが立ち上がろうとすると、足首あたりに鋭い痛みが走った。くじいてしまったらしく、立ち上がることもできない。
足首以外にも、顔や胸など、落ちてくる過程で様々な個所を打ち付けたらしく、体中に鈍い痛みが走る。
イシリアは顔をしかめ、歯軋りした。
「こんなときに……」
「諦めなって。今行ってもみすみす殺されるだけよ」
「でも、あそこにはレイスさんが!」
「あんたが行って、なにかできんの?」
「はい。わたしならこの戦いを止められます」
「その代わりに死ぬ気?」
「それは……仕方がありません」
消え入るようにそう言うと、イシリアは顔を俯かせる。ヴァルンが溜息を吐く気配がした。
「そう死に急ぐもんじゃないわよ」
「あなたは魔術師なのでしょう? あの人を止めるためにきた」
「まあ、そうね。その使命も、もう果たせそうにないんだけれど」
「どうして、ですか?」
声は聞こえるが、背の高い雑草に視界を覆われて互いに互いの居場所を確認できない。会話ができているのだから、すぐ近くにいることは間違いないはずではあるのだが。
イシリアは雑草を掻き分け、ヴァルンの声のした方に足を向ける。
ヴァルンは木の幹に寄りかかって、息も絶え絶えだった。額からは血が溢れ、右腕を庇うように左が添えられていた。帽子どこかへ行ってしまったのだろう。金色の前髪が血に濡れてべっとりと張り付いていた。
「どうして、こんな……」
「心配してくれるの? うれいしいねえ」
ヴァルンはおどけたようにそう言って、力なく笑う。イシリアは憤慨して、思わず声を荒げてしまう。
「なにを笑っているのですか! こんな大怪我をして!」
「見た目ほど大した怪我じゃないんだけどなあ……」
ひゅーひゅー、と壊れた笛の音のような呼吸音が耳触りだ。
イシリアは一旦ヴァルンの側から離れると、そこそこ太い木の枝を抱えて戻ってきた。
「なにがお互いに大した怪我も負っていないですか。ぼろぼろじゃないですか」
「いやあ、見た目が派手なだけでそこまで痛みはないんだけれど」
「それは痛すぎで痛覚が麻痺を起しているだけです。すぐに手当てしないと」
応急処置敵に木の枝を添え木がわりにして、イシリアは自らのドレスを引き裂くと骨がおれているらしきヴァルンの右腕に巻き付けていく。他の個所も、イシリアのドレスを当て布が割にしていった。
一通りの応急処置を終えると、イシリアは沈んだ声でヴァルンに言う。
「ごめんなさい……わたしのためにこんなことになって」
「んー……なに言ってのんかよくわからないな」
「あなたが、助けてくれたのでしょう? でなければ、わたしだけこれほど軽傷で済んだ説明がつきません」
「……魔術師だからね、あたしは」
わけのわからない呟き、ヴァルンは木の幹により体を寄りかからせる。
「魔術の原理は自然の法則にちょびっとだけ人の手を加えて、普通では起こしえないことを起こす。ここまではいいね」
「……はい」
「じゃあ、何故あたし達魔術師と呼ばれる存在が生まれたか。それはより人の生活を便利に、そして豊かにするためか。今はどう思っているか知らないけれど、初代の魔術師達はきっとそう思っていたんだろうね。自分達の技術を使って戦争が起きるかも、なんて考えなかった。そりゃ最初はちょっぴり自然の流れを変える程度のことしかできないかったんだと思う。でも技術は進歩し過ぎたのよ。魔術は時代を追うごとに強大になり、その力と可能性は計り知れないものになっていったのよ。そのせいで、魔術は万能だ、魔術師はなんでもできるって間違った解釈を持ったやつらが出てきた」
「……あの人も、間違った解釈を持った人ってことですか?」
イシリアは皇宮を見上げ、不安そうに瞳を揺らした。
ヴァルンは頷くこともせず、
「そうよ。魔術師はなんでもできる。魔術は万能だ。そういった謝った考えが今回のようなことを引き起こす。あの子は、間違ってしまったのよ。もう、取り返しがつかない」
「…………」
イシリアは動けないでいるヴァルンをどうしようかと考えていた。このまま放っておくわけにもいかなし、だけれどレイスにだけ任せておくわけにもいかない。
どうすればいいのか、わからなかった
4
真っ白な粉塵が視界を覆い、一メートル先まで見通すことが困難になっていた。
レイスは吐血すると、すぐさま起き上がり横合いに飛んだ。
一瞬後、凄まじい音と粉塵を撒き散らしながら、ブリザードが落ちてきた。レイスは更に後ろに飛び、彼女との距離を開ける。
粉塵が晴れると、その向こうからブリザードが姿を現した。右腕を振るい、レイスの首と胴体を切り離そうとしてくる。
レイスは身を反らせることでなんとかその攻撃をかわしたが、次の動作に映ることができずに飛んできた彼女の蹴りを脇腹にまともに喰らう。
二転三転と転がり、うつ伏せになって倒れるレイスに向かって、ブリザードが問いかける。
「まだ続けるか? 少年」
「ぐっ……ううっ……ったりめえだろ」
弱々しく震える声でそういうと、レイスは両手を地面をつきふらつきながら立ち上がる。
「てめえこそ、なんだよ。まるで俺を殺したくねえみてえに聞こえるぞ?」
「…………」
「だんまりかよ。まあいい」
レイスは口許を拭い、ブリザードに飛びかかっていく。ブリザードは左腕を横薙ぎに振るった。レイスが体を屈めて避け、彼女の顎目に拳を叩き込もうとする。
それより早く、ブリザードの足がレイスの顎を捉えた。思わず後ろに下がり、膝をつく。
脳が揺さぶられ、まともに立っていられなかったのだ。込み上げてくる嘔吐感をなんとかやりい過ごすと、ブリザードを睨み付ける。
「てめえ……本気で殺す気があるのか?」
「ああ、私の邪魔をするというのであれば私は貴様を殺す。だから、もう引け。そうすればもう貴様に危害は加えない」
「……やっと本性を表しやがったな」
「なに?」
ブリザードは怪訝そうに眉根を寄せ、訊き返す。
「どういう意味だ、それは?」
「どういう意味もこういう意味もねえよ。てめえ、最初から俺を殺すつもりなんてないだろ? 俺だけじゃねえ。イザナギもヴァルンもそれどころか『天国』の三億九千人も」
「理解に苦しむな。私は本気だ。本気で貴様らを殺し、イシリア・リィ・モルテの心臓を奪うつもりだ」
「……そうじゃねえよ。てめえはハナから俺達を殺すつもりなんてなかったんだ」
「根拠のないただの憶測でものを言うな」
「……そうだな、確かになんの根拠もねえよ。だがな、確信はある。現にてめえは俺を殺せてねえじゃねえか。いくら俺の力が強大だからって、言っちまえば素人だ。チャンスならいくらでもあったんじゃねえか? だが、てめえは俺を殺さなかった。つうことはだ。てめえは最初から俺を殺す気なんてなかったってことだ」
「勘違いするな。現に私は貴様を散々に痛めつけてきただろう」
ブリザードが若干苛立った声を出す。レイスは口許を小さく吊り上げて、
「確かにな。ずっと痛めつけられてきた。だが、殺されてはいない。これはてめえなりの配慮ってやつじゃねえのか?」
「……意味がわからない。何故私が貴様に対して配慮しなければならないんだ」
「俺を殺さねえためだよ。てめえは殺すのは最小限度に留めておきてえと考えてる。つまり、殺すのはシルト一人だけで留めておきたいってな」
「……くだらん」
吐き捨てるように言って、ブリザードが右腕の切っ先をレイスに向ける。
「私が貴様を殺さないのは、貴様への慈悲だ。ただ貴様を殺すことはたやすい。だが、苦しませず一瞬で片をつけるとなると話が変わってくる。とても高度な技術と繊細さが不可欠になってくるからな」
「まあ、そんな御託はいい。ようは俺とお前、勝った方が目的を達成できるってわけだ」
「わかりやすい」
ブリザードは翼を羽ばたかせ、ゆっくりと上昇する。ある程度までの高さまでくると、羽ばたきを止め、重力に従って落下していく。
ブリザードは勢いを強め、切っ先をレイスに向けて叫ぶ。
「死ねえ!」
「てめえがな!」
レイスの拳がブリザードの右腕の先端に触れた。パキッ、とアメ細工が壊れるような音がして、彼女の右腕が砕け散る。
「なっ……」
ブリザードが目を剥き、己が右腕のあった個所を見やる。すばやく翼を羽ばたかせて減速すると、転がるようにしてレイスの脇を抜けていく。
振り返り際に左腕でレイスに向かって切りつける。
レイスはその攻撃を避け、黒い炎を纏った右手を握り込む。
「てめえが誰のためをを想って行動したのかなんて知ったこっちゃねえ。それが正しいことなのか間違ったことなのかなんて俺にはわからねえ」
でもな、とレイスが右拳に渾身の力を込める。真っ黒な炎が右手の周りでゆらゆらと揺れている。
「その想いがてめえだけのものだと思ったら大間違いだぜ、くそったれ!」
勢いよく、拳が放たれる。ブリザードの頬にめり込み、頭蓋骨に浸透して脳を揺さぶる。
全力で振り抜くと、ブリザードの体は二転三転と転がり、レイスの経っている場所から数十メートル離れたところでようやく止まった。
朦朧とする意識の中で、ブリザードは顔だけを起こしてレイスを見た。
ぼろぼろになった彼の目を見て、彼女は思う。
もう、無理だよ。ごめんね……。
既にこの世にはいない誰かに向けて、小さな声で謝罪の言葉を口にした。
レイスは、複数の足跡がこちらに向かってきているのを聞いた。
4
目が覚めると、見知らぬ天井が目の前にあった。
レイスは二、三度瞬きを繰り返すと、ベッドから上体を起こして辺りを見回す。
そこは近年の建物にしては妙に古臭い木造りの一室だった。壁のハンガーにはレイスの衣服がかけてあり、その下にはこれまた古臭い肘かけ椅子に腰かけて本を読んでいるヴァルトゥーニの姿があった。
彼女は本を閉じると、相変わらず冷たい印象を与える抑揚の薄い声で口を開く。
「目が覚めましたか?」
ヴァルトゥーニは椅子から立ち上がると、ゆっくりとした歩調でレイスに近づいていく。ベッドの上で四つん這いになり、更に彼へ接近する。レイスは若干身を逸らせ、表情を引きつらせて、
「なに、してんだ?」
体中をまさぐってくるヴァルトゥーニに、レイスが問う。ヴァルトゥーニはあっさりとした調子で答えた。
「身体検査です。もう大丈夫そうですね」
呟くように言って、一人納得したらしく小さく頷いてレイスから離れる。レイスは体中が熱くなるのを感じて、さりげなくかけられていた布団を剥いだ。
「それにしても、大変な目に遭いましたね」
「まったくだ。誰だよ、あんなインチキ野郎の侵入を許したのは」
「それについては素直にごめんなさいと言う他ありませんね。それと、感謝の意も示さなければなりません。あなたがいなければ、この国は滅んでいたでしょう」
言って、ヴァルトゥーニが深々と頭を下げる。レイスは彼女に頭を上げるよう言い、
「んで、ここはどこなんだ?」
「私達の仮住まいです。原因は不明ですが、皇宮の約半分以上が使いものにならないくらい越されていたので」
「……そうか」
ヴァルトゥーニの言葉を受けて、レイスが目を伏せる。少々罪悪感のようなものを感じていた。
結果としてイザナギとイシリアを守ることはできたようだ。ならば、レイスとしてはなにも気にかかることはないはずなのだが。
ヴァルトゥーニは膝の上に置いている本の表紙を撫でながら、
「騒ぎが収まったあと、私は親衛隊員数名と皇宮内に足を踏み入れました。中はこれ以上ないほど荒らされ、とても人が住めるような状況ではありませんでした。魔族区画の住人の半分以上が亡くなったことも悲しむべきことです。ですが、この程度の被害で済んだのですから、むしろ喜ぶべきなのでしょうね。もっと多くの被害が出ていた可能性もあったのですから」
「無理に喜ぶこともねえだろ。あんたが皇族の人間ならなおさらだ。この程度の被害で済んだなんて思っちゃいけねぇ」
「そうですね。しっかりしないといけません」
ヴァルトゥーニは奥深くまで続く深淵のように真っ黒な瞳でレイスを見つめると、右に少しだけ首を傾かせてから不思議そうに尋ねた。
「あなた以外にあの場には誰もいなかったようです。どういうことか説明を願えますか?」
「えっと……」
一瞬上手い言い訳はないだろうかと視線を泳がせてみたが、いい答えが見つからず、正直に言った。
あのあとは足音を聞いたっきり気絶してしまったので、説明をしろと言われてもなにも離すことがない。
とりあえず、あったことをそのまま伝えた方がいいだろうか。
言葉を取り繕ったところで、なにも意味はないだろうとも思ったからだ。
「魔術師を倒すついでに壊れた」
「……そう、ですか」
ヴァルトゥーニが心なしか呆れたように目を伏せた。
レイスは冷や汗を垂らしながら質問する。
「俺はなにか罰を受けるのか?」
「いえ、あなたはこの国を救った英雄です。何も咎はありません。むしろ胸を張っていいことなのだと思います。ただ」
「ただ?」
「魔術師の存在。あなたにはこのことを秘密にしていただきたいのです。でなければ、イザナギさんが悲しむことになるでしょう」
「何故、イザナギが?」
「あなたのことは調べさせてもらいました。彼女が魔術師、および魔術の存在を知れば、あなたにとって色々と不都合があるのではないですか?」
挑発的なヴァルトゥーニに、レイスは考え込むような仕草を取った。
今回のことがイザナギに知られたところで、彼女ならばレイスのことを咎めたりはしないだろう。むしろ、褒め称えるくらいのことはするかもしれない。いや、恐がられて、距離を置かれるだろうか。
どちらにしても、今後のイザナギとの関係性は大きく変わることになるだろう。できることならレイス自身、そういったことは避けたい。
レイスは顔を上げてヴァルトゥーニを見やると、
「脅迫、というわけか」
「どう受け取ってもらおうと自由です。ですが、私どもとしては最大級に親切な処置を施しているつもりです」
「どこがだよ」
レイスがそっぽを向く。ヴァルトゥーニは本を持って肘かけ椅子から立ち上がり、
「イザナギさんには今回のことに関して記憶の処理をさせていただきました。もしあなたがイザナギさんにこの事実を知られたくないというのであれば、今後も私達に協力してください。そうすれば、あなたは平穏な暮らしは約束しましょう」
「皇族にこき使われる人生が平穏な暮らし? 笑わせんなよ」
レイスは嘲笑するように笑みを浮かべると、それっきり黙り込む。
「では、イザナギさんに言ってもよろしいのですね?彼女が知れば、おそらく悲しむことでしょう。魔術師のこと。そして魔術という概念にすら収まらないあなたのその力のこと」
「…………」
ヴァルトゥーニは溜息を吐くと、身を反転させる。部屋の扉の前までくると、ノブに手をかけて開く。
部屋を出ていく間際、ヴァルトゥーニが振り返り、
「今すぐ答えを出せとは言いません。ですが、なるべく早く返答をもらえると助かります。こちらもそれほど暇ではありませんので」
言うだけ言うと、ヴァルトゥーニが部屋から出ていった。レイスはベッドに倒れ込むと、拳を打ち付ける。
「くそっ……」
なんだってんだよ。
5
一時間後。
キシキシと木材が軋む音が鳴り、次なる来訪者の存在を知らせてくる。足音が止むと、次に控えめなノックされる。
「……どうぞ」
遠慮がちに扉が開かれる。入ってきたのは、シルトことイシリア・リィ・モルテだった。
始めて会ったときとは別人のようなきらびやかな衣装を着て現れた彼女を見て、レイスはしばし見惚れてしまった。後ろから、イザナギが顔を出す。
「どうレイス、かわいいでしょ?」
「そ、そんなことありませんよね。ね、レイスさん?」
イザナギが面白そうに、イシリアが恥かしそうにそれぞれ同意を求めてくる。レイスとしてはどう言っていいのかわからず返答に窮してしまう。
「なん、つうか……マジでお姫様だったんだな」
気の利いたことを言えず、当たり障りのない言葉で場を濁す。イザナギが不満そうに頬を膨らませているが、レイスにとってはどうでもいいことだった。
イザナギは肩をすくめ、
「それにしてもびっくりだよね。シルトがまさか皇族だったなんて」
「隠していて申しわけありません。わたしが皇族の者だと人々に知られるのは、色々と不都合なことがありまして」
「いいっていいって。人には言えないことの一つや二つ、誰にでもあるもんよ」
「すみません」
イザナギが白い歯を覗かせて笑い、イシリアが申しわけなさそうに苦笑している。
こういう普通の生活っぽいことしていると何だか心が洗われるようだった。最近妙に現実離れしたことが立て続けに起こっていたからだろうか。
「普通……か」
一昔前の自分ならば、普通だの日常だのといった言葉には嫌悪感のようなものを抱いていただろう。自分は最強で、平和そのものである『天国』の暮らしは自分には相応しくない、と。
だが、今ならよくわかる。普通で不変の日常という もののありがたさを。今回の一件はそのことを骨の髄まで嫌というほどわからせてくれた。
ブリザードとヴァルン。二人の魔術師によって、レイスは今後の人生設計を大きく変更せざるを得なくなった。
「あの、イザナギさん」
イシリアが遠慮がちにイザナギを見た。イザナギはきょとんとした顔をして、
「なに?」
「わたし、レイスさんと少しお話があるのですが、席を外してもらってもよろしいですか?」
「えっ……ああうん。いいけど?」
「ありがとうございます」
イシリアは礼を言い、深々と頭を下げた。なんというか、皇族にしてはやけに腰の低いやつなだなとレイスはヴァルトゥーニの無表情を思い出していた。
イザナギが部屋から出ていくと、イシリアはレイスに向き直る。神妙な面持ちで、言葉を選びながら話し出す。
「ええと……まずは、今回の一件に関してお礼を言わないといけませんね。ありがとうございます」
姉と同じ対応をされて、レイスとしては苦笑する以外なかった。そんな彼の態度を照れていると受け取ったらしく、イシリアは優しげな笑みを浮かべて、
「わたし達皇族の者は今回、しかるべき対応を取ることができませんでした。そのことについてはこちらの不徳の致すところであり、大変真摯に受け止めております。わたし達が適切な対処をしていればここまで被害が拡大することはなかったでしょう」
姉妹そろって後ろ向きだな。
レイスは嘆息し、ごろんと寝返りを打つ。
「これから先、お前らにはやるべきことがたくさんあるんだ。今回のことを真摯に受け止めてるってんなら、態度で示せよ態度で」
「態度で示す、ですか?」
「ああ。生き残った魔族の連中に対してなにができるのか、お前が考えるべきことはそう言うことだと思うぜ」
イシリアに背を向けているため、レイスからは彼女がどんな表情をしているのかわからない。振り返れば見ることができるだろうが、そうするとイシリアからもレイスの顔を見ることができるというわけで、できることならそれは避けたかった。
「……そう、ですね。魔族の方々に対して、わたし程度の力でどれほどのことができるのかわかりませんが、精一杯やってみようと思います」
イシリアの弾んだ声がレイスの鼓膜を震わせた。国やそこに住む多くの人々のために命まで投げ出そうとした彼女の優しさに少しは報いることができただろうか。
できたのであれば、多少なりとも救われるというものだ。
レイスはまぶたを閉じ、左手をひらひらと振る。
「俺はもう少し休む。悪いが出ていってくれ」
「はい、わかりました。あっ、レイスさん、もう一つだけいいですか?」
「なんだよ」
嫌な予感はしたが、気になったので続きを促す。イシリアは恥かしそうに目を伏せると、遠慮がちに口を開いた。
「以前、国のことを考えて行動できるなんて凄いなって言ってくれましたよね?」
「あー……そんなこと言ったかもなあ」
「あの言葉、凄く嬉しかったです」
「改まってそういうふうに言うほどのことじゃねえだろ」
「そんなことありませんよ。わたしは皇女として、自分のことよりもこの国のことを考えて行動するべきだとずっと思っていましたし、そのつもりで行動してきました。なにも特別なことではなく、当然のことなのだと。しかし、あなたは凄いと言ってくれました。たった一言、あなたにとっては何気ない言葉だったのかもしれません。ですが、わたしは凄く嬉しかった。だからレイスさん、あなたにお礼を言いたいのです」
「……別に礼を言われるようなことなんて……」
否定の言葉を探そうとするが思い浮かばない。口元がにやついて余計に振り向けなくなる。
よかった。
素直にそう思う。だけれども、この感情を表に出すことはできない。
もっと、違う方法があったんじゃないか。無駄とはわかっているが、今になってそんなことを考えてしまう。
「そういや、あいつらはどうなったんだ?」
「あいつら、というとあの二人の魔術師ですか?」
「そうそう」
レイスとしては、そこも気になるところだった。
『天国』
「あの方達なら帰られました。レイスさんによろしく、だそうです」
イシリアは軽く会釈すると、レイスの前からいなくなった。
レイスは天井を見上げると、その体制で目を閉じた。
6
「なにしてんの、お前?」
再びレイスが目を覚ますと、イザナギがリンゴをウサギの形に切っていた。リンゴの乗った皿をレイスに差し出し、
「食べる?」
「いらねえ」
「私のウサギが食えんというのか」
「食えねえよしかもウサギじゃねえし」
レイス達が漫才を繰り広げていると横から先ほどまでのきらびやかな衣装を脱いでワンピース姿になっているイシリアがリンゴを一つつまみ口に放り投げた。
「美味しいです」
「当然よ。ささ、レイスも食べて」
「美味しいですよ、レイスさん」
二人に気圧されるように、レイスがリンゴを一口齧る。口の中にリンゴ特有の甘みと酸味が広がり、確かに美味かった。
確かに美味かった、のだが。
「そんな腹減ってねえし、一個でいい」
「そう言わずに食いなって」
「どうぞどうぞ」
イザナギとイシリアが責め立ててくる。
レイスは二人をかわしつつ、部屋から出た。
こういう日常もいいな、とそうレイスは思った。
FIN