二章
二章
ラインズによって自宅に送り届けられて既に三日が経過していた。その間、一度として顔を見せていないレイスを、イザナギは心配していた。
ちゃんとご飯食べているだろうかとか、自分がいなくて眠れているだろうかとか、そんなことばかりが思い浮かぶ。
きっと大丈夫だと自分に言い聞かせるが、効果は薄い。がりがりと頭を掻きむしる。
「もう、なにやってんのよレイスのやつ」
イザナギは自室のベッドに寝転ぶと、小さな手帳を開いた。そこには、幼いころのレイスとイザナギの写真がところ狭しと貼り付けられていた。
「……馬鹿」
イザナギは手帳のページを繰ると、呟くようにそう言った。
早く帰って来て欲しいと願うばかりだ。
2
見覚えのある建物だった。以前、魔族の二人組が店の前でシルト・ベフィットに言いよっていた花屋だ。
「『七色の麗花』……本当にこんなところに侵入者がいるのか?」
「確かな筋の情報だ、信用していいだろう。もしいなかったとしても、何かしら手がかりを残しているかもしれん」
「そうかよ」
レイスは頭の後ろで両手を組み、興味なさそうな顔で『七色の麗花』を見上げる。その様子を横目に見て、アザカが苦々しげに毒づく。
「どうしてキサマのような素人を同伴させねばならんのだ。皇王様のお考えは時折り理解に苦しむ」
「そんなもん、唯一俺が侵入者の魔術師とケンカしてるからだろ? そんなことより、あんま儲かってなさそうな店だな」
全体的に木造の家屋で、鉄類が使われているのが看板くらいだ。その看板も錆びついていて、なんだか寂れた印象を与えてくる。
「無駄口をたたくな。行くぞ」
「へいへい」
親衛隊隊長、アザカ・モリスンに続き、親衛隊隊員達が『七色の麗花』へ足を踏み入れて行く。最後尾について、レイスも店の中へ入って行った。
「失礼。皇王様の親衛隊だ。特例により、こたびの魔族、神族間の問題の捜査を執り行うこととなった。捜査に協力せよ」
アザカが呼びかけるも、反応はない。シン、と静まり返った店内は、異様な緊張間に包まれている。
「どうなっているんだ?」
「単に出かけているだけなんじゃねえか?」
「むう……親衛隊を無碍にするとは許せん……」
「アポなしで来ようとしたのがそもそも間違いなんじゃねえの?」
「連絡を入れて、仮に侵入者がここに潜んでいたとしたら逃げられるだろうが。少しは頭を使え、ガキ」
「そうかよ」
それで家主ともども家にいないんじゃ意味ないだろと思ったが、余計なことを言うとまた面倒なことになりそうだったので大人しく口をつぐむ。
レイスはアザカから目を逸らし、店内を見回した。店内には花に関してそれほど詳しくないレイスでさえ名前くらいなら知っているような花から、聞いたこともないような名前の花まで、たくさんの種類の花がところ狭しと並べられていて、不思議な匂いで満ちていた。
ただ、どこか違和感のようなものをレイスは感じた。どの花にも生気はなく、外から入ってくる光を照りかえし光沢を放っている。
レイスは一本の花を手に取ると、それを色々な角度から観察して、気づいたことを口にする。
「これ、ドライフラワーだ」
「何だと?」
アザカが怪訝そうな顔でレイスを見る。彼の持っていた花をかすめ取るようにして奪い、同じように花を凝視していった。
「確かに凍っている。だが、これがどうしたというのだ?」
「これを見ても何とも思わないのか?」
「なにかおかしな点があるというのか?」
花屋なら、ドライフラワーの一本や二本あると思っているのか。だが、この量はおかしい。
レイスは屯惑するように眉根を寄せ、
「おいおい、本気で言ってんのかよ」
レイスのもの言いに、アザカがムッとしたような表情になる。
「ならば、キサマはなにに気づいたと言うのか?」
「この店は、生花を専門的に扱う店だ。ほんの数十本ってんならこんなのがあっても不思議じゃねえ。だが、見る限りここにある全ての花が凍っちまっているようだ」
「つまり、どういうことだ?」
「つまり、ここに侵入者がいて何らかの方法でこの花達を凍らせた。そう考えるのが妥当だろう」
「だが、何のために?」
アザカがわけがわからないといったふうに眉根を寄せる。その辺りのことを訊かれても困る。レイスだってまだ全部わかったわけではないのだから。
レイスは顎に手を当て、考えをまとめるように言葉を選びながら、
「……おそらく、この花が何かしらのトリガーになっているのだと考えられる」
そう言った直後、まるでタイミングを見計らっていたかのように花が崩れ、小さな棘となってレイスやアザカ、親衛隊員達に襲いかかる。
「くっ……」
すぐさま後ろに飛び、回避行動をとるが後ろからも氷の棘が飛んで着てレイスの背中に突き刺さる。小さく呻き声を上げて後ろを振り向くと、アザカや他の親衛隊員も同じような有様だった。
「……舐めるな!」
アザカは雄叫びとともに腰の剣を引き抜くと、横一文字に振った。
ぶおっ、と風が吹き荒れ、花は棘の形を保っていられないくらい小さく、塵状になって床に舞い落ちる。
一向に溶ける気配のない氷の塵に目を向け、アザカは憎々しげに奥歯を鳴らす。
「ここにいるのは間違いないみたいだな」
「そう思わせるのが狙いかもしれない」
アザカの確信を持った言葉を、レイスがすぐさま否定する。アガサはレイスを睨みつけて、
「貴様、さっきからどういうつもりだ! 私の邪魔をしたいのか!」
「そんなわけないだろ。俺だって早くやつを見つけ出したい。だから、こんなところで足止めを喰らうわけにはいかないんだ」
「では、どうするというのだ?」
アザカは眉根を寄せ、レイスに問う。レイスは思案するように顎に手を添え、虚空を見つめる。
「そうだな……二手に分かれよう。この家を調べるやつらと他の場所を探すやつら。ちょうど十人いるし、五人ずつってところか」
「貴様が仕切るな、と言いたいところだが仕方あるまい。私達にとって最も優先するべきは侵入者の確保だからな」
「見つけ次第殺せ、の間違いだろ?」
レイスが可笑しそうにそう言う。アザカはそんな彼に鼻を鳴らし、
「貴様はどうする? この家を調べるか、それとも……」
「別の場所を調べるさ。ここはあんたに任せる」
「了解した。ただし、こちらが先に侵入者を見つけた場合はすぐさま確保する。そうなってから我々を怨むのなよ?」
「分かってるって」
「健闘を祈る」
アザカは親衛隊の隊長らしく、ビシッと敬礼する。レイスはそんな彼にほんの少しだけ驚き、尊敬の念を抱いた。
「それじゃ、五人借りてく」
「ああ。我が親衛隊は精鋭ぞろいだ。きっと役に立ってくれるだろう」
レイス達の背が見えなくなると、アザカは体ごと店の奥を見る。
「行くぞ、お前達」
おー、とご近所に配慮した声量で親衛隊隊員達が応答する。
(ここには第三皇女、イシリア様がお忍びで来ているはずだ。無事であればいいのだが)
彼女の身を案じ、アザカ引きいる親衛隊が花屋『七色の麗花』に足を踏み入れる。
3
無事とは言い難い。骨は軋み、体中が鉛のように重く気だるい。
それでも、ブリザードは三角帽子を目深に被り直して足場の悪い獣道を歩く。時折り倒れそうになる体を気力だけで支え続ける。
「……まだだ、まだこんな場所で倒れるわけにはいかないんだ……」
荒い息を吐きながら、うわ言のようにブリザードが呟く。その顔には疲れや痛みよりも、使命感が色濃く表れていた。
あの少年にやられた傷はまだ癒えていない。にも関わらず彼女がこんな場所を歩いているのにはそれなりの理由がある。
およそ二時間くらい前。まだブリザードが『七色の麗花』のベッドで横になっていた時だった。五分ごとに行っていた探査術式に、鎧をまとった一団と件の少年の姿が映った。自分の居場所がつきとめられたと思ったブリザードはすぐさま『七色の麗花』内に簡単なトラップをしかけ、部屋の窓から外に出た。彼女が張った罠が時間を稼いでくれているかは定かではない。
それから、ずっと歩いている。もはや、ここがどこだかも分からない。
揺れる視界の向こう側で、関のようなものがあるのが見えた。唇を真一文字に引き結んだ門兵が微動だにせず立っていた。
(……もう、検問が設置してあるのか……)
ブリザードはノイズの走る脳味噌でそう判断した。
考えてみれば、当然のことかもしれなかった。鎧をまとった一団が『七色の麗花』を訪れた時点で、ブリザードの居場所は突きとめられていたのだ。彼女の向かう場所が予想されていたのだとしてもさほど不思議なことではない。
そして、この状況はあまり歓迎すべきことではない。検問が設置されているということは自分の動きが制限されてしまうことだからだ。そうなれば、目的を果たすのは難しくなる。
幸い、門兵の方はまだ気づいていないようだ。このまま引き返せば、あいつに気取られることなくこの場を離れることが出来る。
だが、それがどうしたというのだ。
確かにこの場は無事で済むだろう。が、自分は今お尋ね者の立場だ。もし戻ったところで今の危機的状況は何も変わらない。
鎧の一団がいる分、戻る方が危険かもしれない。
相手は一人だ。速やかに殺せば、見つかることはないだろう。だがそれをしたところでさほど意味はない。むしろ、あの門兵を殺すことで自分の居場所を教える結果にしかならないだろう。
やはり、根本的な部分で変えなければ。そのために、どう行動すればいいのか。
「確か、神族と呼ばれる人達と魔族と呼ばれる人達がいがみあっていたんだったな」
それは、およそ五日ほど前。ブリザードが『天国』に潜入して最初の日に起こした事件だった。魔族の人を数十を人魔術で操り、殺害している。
彼女自身が意図したことではないとはいえ、好機であることには違いなかった。
まだ直接的な武力衝突とはいたっていないが、魔族と神族間の抗争。これが使えるかもしれない。
そう考え、ブリザードは限界を訴える己が体を押して来た道を戻る。塞がったばかりの傷口が開かないよう気をつけながら、ゆっくりと歩いて行く。
種族区画ごとに関が設けられているなどと知らないブリザードは木の陰から見たものを自分を捕まえるために設けられた検問所だと思った。だが、実際は違う。あれは魔族、神族など種族により分け、いらぬ揉め事を極力避けるためにある関だった。
それを検問所だと思ったブリザードは、関を突破するために以前自分が起こした事件を利用しようと考えたのだ。
まず、魔族区画に侵入する手段としては最初に『天国』に入って来たときと同じように外壁を飛び越える、という方法は使えない。それに、あのときは夜も明けないうちに侵入したために自分がどこにいるのか分からなかった。市民の目を皇宮や皇女達から逸らすために起こした事件なわけだが、第三皇女イシリア・リィ・モルテの殺害に失敗し、あの黒い炎を操る少年に撃退され重傷を負った今ではむしろ遠慮したい手段だった。
「もう一度彼を取り戻せるなら……」
そのためなら、自分のことなどどうでもいい。
恋人が死んでしまったあの日から、好きだった彼が死んでからずっとブリザードは彼を蘇らせる手段を探していた。
一緒にいるだけでよかった。ともに笑っていて欲しかった。
ただそれだけを願い、またもう一度あのころを取り戻したいと思っていたブリザードだったが、なかなか見つけることができず、心身ともに疲れ始めていた。
そんなふうにして、徒労とも思える毎日を過ごしていたブリザードは一冊の書物を手に入れた。めくっていくと、彼女が探し求めていたものがそこにはあった。
ついに見つけた。彼を蘇らせる方法が。
が、それは魔術師であるブリザードが見てもあまり現実的とは言い難いものだった。書物に描かれていた内容に、ブリザードは思わず肩を落としたものだ。
しかし、これしかない。これが最後の希望なんだ。
「第三皇女、イシリア・リィ・モルテの心臓が必要だ」
彼女の心臓を冥界の王に捧げることで、たった一人だけ死者の魂を現世に返還してもらえる。が、心臓は正確に本人の物でなければならない。もし仮に違う人物の心臓を差し出せば、返還してもらえるはずだった魂も、彼女の魂も冥界の王に取って喰われてしまう。いくら魔術師とはいえど、冥界の王に叶うわけがない、とそう言い伝えられている。
そんなことは些細なことだ。ブリザードは壁に背を預け、ずるずると腰を下していく。
どうする? 自分は今怪我を負っている身だ。そうアクロバティックなことは出来ない。先日彼女が起こした事件。そいつが使えると思ったがどういうふうに動けば効果的なのかもわからない
「……ちくしょう」
誰にも聞こえないよう、小声で呟く。もともと、彼女の言葉を聞く者などこのこの国にはいない。そのことが、普段滅多に弱音を吐くことのないブリザードの口から泣きごとをあふれさせる
散々苦労して、ここまで這いずり回って、やっと手が届くか届かないかくらいの距離まできたというのに。それでも、まだ足りなかったというのだろうか。届かないというのだろうか。一人では無理だということなのだろうか。
涙なんて、とうの昔に枯れ果てたはずだった。家族と生き別れ、彼が死に、その度に泣いて、涙なんてもう出ないんだと思っていた。
それでも、彼女の目元にはうっすらと透明な滴が溜まって行く。頬を伝い、音もなく地面へ落ちて行く。
「く、そ……」
空はいつの間にか暗くなっていた。瞬く星々が嘲笑うかのように彼女を見下しているようだ。
ブリザードは涙を拭い、右腕に巻かれた包帯を解き、腹の傷が開くのも気にせず地面に手を添えた。
もごもごと小声で詠唱すると、彼女の周りで水の玉が浮き上がった。水の玉は一瞬にして凍りつき、鋭利な刃物のように先を尖らせる。
「もういい」
ブリザードが地面につけた右手を振り上げる。彼女の動きに連動するかのように氷の刃が一斉に解き放たれ、関の前で大欠伸をしていた門兵の命を削ぎ落していく。
血まみれで地面に倒れ伏した門兵を見下し、ブリザードが木の影から身を出す。
(この街の全てを凍らせる。そうすれば、その中にイシリア・リィ・モルテがいるはずだ)
何ともアバウトな、しかし彼女の実力からしてみれば確実性のある選択だった。
ブリザードは頭上に手のひらを掲げ、今度は今までとは違い、一際大きな声で短く叫ぶ。
「凍れっ!」
同時に、彼女の手のひらを中心に凍りの幕が広がって行く。『天国』全てを覆い尽くすのには少し時間がかかるが仕方がない。
じわ、と腹部から血が滲む。ブリザードは顔をしかめるが途中で止めるわけにはいかない。
(私の体よ、もう少しでいいから、目的を果たすまでもってくれ)
4
急に冷え込んで来たな。
レイスは自分の両肩を抱くようにして身を震わせた。周りにいた親衛隊隊員達も同じような動作をする。
「冬……はもう少し先のはずだ」
レイスが怪訝そうな声を漏らすが、答えられる者は誰もいない。お互いに顔を見合わせ、解答を押し付け合っているといった感じだ。
なにが精鋭ぞろいだと思う。
レイスは舌打ちし、この冷え込みの元凶について考える。
(これは自然現象じゃない。だとすれば、あの帽子野郎の仕業か?)
根拠も何もない。推測にすらなっていないあてずっぽうな考えだが、可能性がないこともない。
三角帽子がレイスの家を襲撃したとき、あいつは宙に浮いていた。それだけじゃない。レイスが見たこともないような不思議な力を持っている。
第二皇女、ヴァルトゥーニ・ドゥ・モルテから聞いた『魔女の楽園』の続きを思い出す。
旅人を悼み、丘に墓を建てた彼女は、とある人物によって旅人を死の淵より連れ戻す方法があることを伝えられる。そして、実際にそれを行った魔女は……
「これが、魔術だってのか……?」
レイスは星の瞬く夜空を見上げ、歯軋りする。
半信半疑だったが、これで決心ついた。絶対に侵入した魔術師を捕まえる。今は肌寒い程度で済んでいるが、こんなものが強さを増していったら『天国』の住人は全員凍死してしまう。
(そっちがその気ならやってやるさ)
魔術についてはずぶの素人であるはずのレイスだが、彼には黒い炎がある。怨霊の塊だろうと毒蛇の呪いだろうと関係ない。利用出来るものがあるのなら利用する。国の人々を守るため、というよりはイザナギやイシリアを守るために力を振るうつもりだ。実際、見ず知らずの他人より、そういう身近な人を守るために戦うといった方が、モチベーションが高くなる。
詳しいことは分からない。でも、守るべき者はある。なら、今はそれだけで十分だ。
「絶対に見つけ出す……!」
改めて決意を口にすると、レイスは小さく白い息を吐いた。
レイス達が向かっているのは、以前魔族が殺された事件の起こった場所だ。神族区画でも彼らの遺体は見つかっているのだが、魔法陣らしきものが発見されたあの場所だけだ。
区画ごとに設けられている関の前まで辿り着くと、レイスを始め、その場にいた親衛隊員達も息を飲んだ。
関の交通を管理する門兵が倒れていたのだ。それも、凍りついて既に死んでしまっているようだ。
レイスがその体に触れると、やはり冷たかった。凍っているのだから当然かと思うのだが、先ほど急に空気が冷たくなったことといい、ここだけ他の場所と凍りつき方が違うように感じる。
何というか、早い。そして異様に寒い。
「ここが、冷気の発生源?」
あるいは、それにかなり近い場所。
レイスは考え込むように顎に手を当て、目を見開いたままの門兵を見つめている。が、やがて顔を上げると、
「こんなところにいてもしょうがない。とにかく中に入るぞ」
凍りついた関を無理矢理にこじ開け、レイスが魔族区画に足を踏み入れる。彼に続くように、親衛隊隊員達も関を潜る。
真っ暗。
明かりはなく、自分の足下がうっすらと見える程度だった。
そして漂う、異様な寒さ。
「やっぱり、あの帽子野郎はここにいるんだ」
確信を持ってレイスが呟く。これだけの大規模な力を行使するんだ。術者が近くにいなきゃ出来っこない。少なくとも、『七色の麗花』のときのような遠隔操作では行えないだろう。
魔族の姿は見当たらない。全員、既に死んでいるのだろうか。
レイスは左右に視線を走らせながら、慎重に魔法陣が見つかった場所へと進んでいく。
何かしらの手がかりがあるかもしれない。そう考えたからだ。
もう少しで魔族区画の奥にある森へと到達する。そう思ったときだった。親衛隊隊員の一人が空を見上げて声を張り上げた。
レイスはすぐさま上空を見上げ、憎々しげに舌打ちした。
「あの野郎……」
唇をきつく引き結び、冷たい眼光でもってレイス達を見下してくる三角帽子の姿があった。年齢や性別なんかは分からないが、そんなものは彼にとってどうでもいい。
ふつふつと、怒りが湧きあがってくる。大事には至らなかったとはいえ幼なじみであるイザナギをあんなふうにゴミみたいに放り捨てるなんて許さない。
「てめえ、下りてきやがれ!」
レイスが叫ぶ。
彼の声が聞こえていないわけではないだろうが、三角帽子は何の反応も見せない。ただ黙ってレイス達を見下しているだけだ。
「何とか言ったらどうなんだ!」
「では、一つだけ言わせてもらおう」
年若い少年とも、成熟した女性ともとれる中性的な声色で、三角帽子が言葉を発した。三角帽子の奥から、冷たく、射抜くような視線がレイス達を睨んでいる。
「私の邪魔をしないでもらいたい。私には目的がある。その目的を果たすためならばどんなことでもする。邪魔をするつもりなら、容赦なく貴様らを……殺す」
「邪魔をすれば殺すって、ずいぶんとおかしなことを言うやつだな」
「……何だと?」
三角帽子は表情を変えず、淡々とした調子で言う。
「何がおかしい。私は貴様らを殺せるだけの能力を有している。なんなら、ここの住人達同様、貴様らも氷づけにしてやってもいいのだぞ?」
「はん、お前にゃ無理だよ。忘れたのか、お前は一度俺に負けて逃げたんだぞ?」
「……確かにな」
三角帽子は一度顔を伏せ、
「あのときは貴様の力を見誤っていた……いや、そもそも貴様に私に対抗しうるだけの力があることなど考えてもいなかった」
「負け惜しみはいい。てめえの選択肢は今ここで俺に殺されるか、こいつらに捕まって後で殺されるかの二つだけだ」
レイスが親衛隊の精鋭達を指し示す。親衛隊隊員達はそれぞれに武器を構え、緊張した面持ちで三角帽子を睨み上げている。
ちら、と三角帽子が親衛隊隊員達の方を見る。どことなく余裕の滲む仕草で、
「なるほど、では私から第三の選択肢を示そう」
「何を――」
「『天国』第三皇女、イシリア・リィ・モルテの心臓を差し出せ。そうすれば、この国から出ていこう。この国がどの程度の人口を有しているかは分からないが、たった一人の命と引き換えというのだから、悪い話ではあるまい」
レイスの言葉を遮るようにして放たれたその言葉に、レイス以外のその場にいた全員が目を見張る。
〝第三皇女、イシリア・リィ・モルテの心臓を差し出せ〟目の前の魔女は確かにそう言った。その言葉の意味するところは親衛隊員達には理解できなかったようだ。
だが、レイスはわかった。ブリザードの目的、その一端が。
イシリアの心臓と引き換えに、誰かの魂を呼び戻そうとしている。
レイスでさえイシリアの姉、ヴァルトゥーニに聞かされたときは驚いた。何せ、そんなおとぎ話の中でしか行われなかったようなことを現実にやろうとしている者がいるというのだから。
「……それがお前の目的ってやつか?」
「そうだ。この要求が飲まれなければ私はこの国の全国民を殺し、その後でゆっくりと彼女の心臓を取り出す。どちらにせよ、私に不利益はない」
「くっ……てめえ」
全国民を殺す。その中には当然イザナギやシルトも含まれている。魔族や神族なんかが消えてくれるのは正直ありがたいが、それと引き換えに彼女達を失うのでは対価が釣り合わない。
やはり、ここで動きくらいは止めておくべきだろう。
(だが、あの黒い炎にはムラがある。俺の意志で出せるようなもんじゃねえ)
では、どうする。このままではイザナギ達が……。
考え込んでいたレイスの横を、親衛隊の一人が駆けて行く。
何を、と思った週間には彼の体は既に空高く飛び上がっていた。三角帽子と同じ位置まで飛びあがると、手にしていた剣で斬りつける。
三角帽子はすぐに彼の動きに対応した。氷の盾を生成し、斬りつけて来た剣を弾く。その反動で、彼の体は後方に大きく仰け反った。
そして、自由に身動きのとれない空中ではその体制の意味するところは一つだった。
三角帽子は氷の刃を作り出す。以前見たそれより数段大きく、あんなものが胴体を貫けば即座に死を迎えるだろう。
親衛隊隊員の体を貫く前は月明かりできらきらと綺麗だった氷の刃が、今は真っ赤な鮮血を滴らせて何とか彼の体を支えている。
「な、あ……」
目の前で起きた非現実的な出来事に、頭がついていかない。感情が追いつかない。
見ず知らずの他人のはずだった。今日、利害が一致しただけの細い糸が絡まっただけの関係。
だが、それでも『人間』の死を目の当たりにするというのは、これほどショックなことだったのか。
レイスの周りでは、先に殉職を遂げた兵士に鼓舞されたように残りの親衛隊員達が雄叫びを上げ、三角帽子に向かっていく。
「やめ……」
止めようとしたレイスの言葉など耳に入らない様子で、親衛隊員達が次々に三角帽子に攻撃を繰り出していく。
三角帽子は気だるげに氷の刃に突き刺さったままの兵士を放り捨て、飛びかかってくる親衛隊員達に応戦する。
一秒もかからなかった。
三角帽子が操る氷の刃は様々に形状を変え、親衛隊員達の命を奪っていく。
悲鳴と怒号が入り混じり、レイスの鼓膜を震わせる。目を瞑り耳を覆ってしまいたかったが、体が言うことを聞かずぼうっと突っ立っているだけだった。
親衛隊員達の声が止むと、レイスは焦点の定まらない瞳で三角帽子を見上げる。
体中が、震えていた。
「……どうした、少年。この程度で戦意を喪失していたのでは、私を捕らえることは出来ないぞ?」
三角帽子が、心なしか愉快そうに肩を震わせたような気がした。実際は何もアクションを起こしてはいないが、レイスが勝手にそう思い、勝手に恐怖した。
三角帽子が淡々と言う。
「私には二つの選択肢しか残されていなかったのではなかったのか? それとも、これで分かってもえらたのだろうか、第三の選択肢があるということを」
「…………」
「ふん、この程度か。こんなやつに私は負けたというのか。屈辱だ」
三角帽子は吐き捨てるように言って、レイスに背を向ける。飛び去ろうとしたその背中へ、レイスが声を張り上げた。
「待てっ!」
「何だ?」
三角帽子が、ゆっくりと振り返る。
レイスは三角帽子を見上げて、
「てめえの目的は何だ、どうしてこんなことをする!」
「……それは貴様らも知っているはずだろう?」
三角帽子の陰から氷のような冷たい視線が、レイスを射抜く。氷づけにされたわけでもないのに、全身に力が入らずまったく動かない。
(これが、本物の命をかけたやりとり……)
ちらり、と地面に倒れ伏した親衛隊員達を見やる。どれも、無念に顔を歪ませていた。
レイスは彼らから視線を逸らし、再び上空に視線を投げる。
そこには既に、三角帽子の姿はなかった。
5
見つからない。
早朝からずっと走りっぱなしで、イシリアの体力は限界にきていた。両膝に手をつき、ぜえぜえと荒い息を吐く。
「……どこに行ったのかなあ」
落ち着いてきたでそう呟き、両膝を抱えてうずくまる。
突然いなくなったブリザードを探しておよそ数時間。商店街はおろか魔族や神族、龍人族の居住区画まで回って来たのだが、一向に手応えがない。
まるで排気口に吸い込まれた煙のように忽然と足取りが掴めなくなった。
そこへ、この寒さだ。心が折れそうになる。
まだ冬の時期には遠いだろう。なのに、これほどの冷気だ。考えられることは一つだった。
(魔術師が入り込んでいるのだとすれば一大事です。相手がどんな魔術を使うのか分からない以上、下手にこちらから手は出せません)
一時期、ブリザードが魔術師なのではと考えた。誰にも親衛隊や姉妹しか知らないはずのイシリアの身分を一発で見破ったのだ。なにか魔術の類いを使ったのだろうと思った。すぐにそんなわけがないと首を振る。
魔術師は強大な力を持っている。こと単純な戦闘面に置いて、この国の魔族、神族、龍人族を相手取ったとしても十分互角に渡り合えるくらいには強いはずだ。怪我を負う道理はない。たとえ不意に襲撃されたのだとしても魔術師であるならばあれほどの大怪我を負うことはないはずだ。
しかし、ブリザードは怪我を負っていた。だとすれば、そのことが彼女は魔術師ではないということの証明になるはずだ。
イシリアは人気のない街に視線を彷徨わせる。いつもならこの時間はまだこの辺りは賑わっているはずだが、今は本当に誰もいない。
これも、魔術師の仕業なのだろか。皆死んでしまったのではないかという不安感とともに、そんな考えが頭を過ぎる。。だとすれば、人の上に立つ立場の者として、あまりにも不甲斐ない限りだ。
イシリアはぎり、と奥歯を噛み締め、立ち上がった。
「何にしても、こんなところでジッとしていたのではなににもなりません。行動しなければ、なにもわからない」
ふと、イシリアの頭に花屋『七色の麗花』の店主、アルフレッド・ラザニエルの顔が浮かび上がった。
そういえば、彼はどうしたのだろう。無事、なのだろうか。
イシリアは見えるはずはないとわかってはいるものの『七色の麗花』のある方へ視線を向ける。当然、夜闇に隠れてその輪郭すら捉えることはできなかった。
不安そうに眉根を寄せるイシリアだったが、すぐに前を向いた。アルフレッドはあれでかなりしっかり者なので、無事であるはずだ。心配ないだろう。だが、ここから先彼が生きているという保証はない。自分のせいで、皆を危険な目にあわせるわけにはいかないのだ。
だから早く、ブリザードを見つけなければ。
イシリアが一歩を踏み出す。人気のない商店街をブリザードの名を呼びながら歩いて行く。
それにしても寒い。吐く息が白く、身体中が小刻みに震え出す。
「この寒さの原因は一体何なのでしょう?」
答えを期待していたわけではない。無駄な努力だと分かってはいたが、なにか喋って気を紛らわせていなければ、暗闇の圧迫感とこの異様な寒さで倒れてしまいそうだった。
寒さの原因は『天国』に侵入した魔術師だろう。それはなんとなく予想がつく。つまり、魔術師を説得して術式を解除してもらうか無理矢理に壊すかすれば、この寒さは収まるはずであだ
今はまだ肌寒いと思うくらいで済んでいるが、このまま放っておけば気温は更に下がり、『天国』の人々は凍死してしまうだろう。
そうなってからでは遅い。
「だったら」
ブリザードのことは後回しだ。まずはこの魔術を止める。
第三皇女として、この場を何とかしなくてはいけない。その使命感に駆られ、イシリアは自らの頬を張る。
しっかりしろ、と自分自身に言い聞かせる。
「まずは、この魔術の発生源の特定ですね。確か先生が言うには魔術は大気の流れに干渉して普通では行えないような現象を起こすものだということでした。故に中心となる地点には必ず他の場所よりも変化が濃く、流れが激しいとも。要するに、『天国』で一番寒い場所を見つければ、そこが魔術の発生源だということです」
そう結論を出すと、イシリアは一つ頷き鼻息を荒げて魔術の中心地点の捜査に乗り出す。
『天国』で一番寒い場所。それさえ見つけることが出来れば、『天国』に侵入した魔術師を止めることが出来る。皇王の手に任せれば侵入者は殺されるだろう。
そうなる前に魔術師を説得してこの国から出て行ってもらうしかない。彼か彼女かは分からないが、件の人物が行ったことは決して許されるようなことじゃない。しかし、どんな大罪を犯した者であってもやり直すチャンスというものは与えられるべきだとイシリアは考えている。
そうすることが、この国のためでもあり、侵入した魔術師のためでもある。そう信じ、イシリアはひた走る。
走りながら、魔術の中心点について考えを巡らせる。
魔術師にとって『天国』は一度も訪れたことのない場所のはずだ。でなければ、これほど慎重にことを進めることはないだろう。もっと大胆に、スピーディに全てを終わらせるはずだ。これほど時間がかかることもない。
侵入した魔術師の目的がなんであれ、『天国』を壊滅させればそれで終わりのはずである。悠長に時間をかけてターゲットを探しだす必要はない。そもそも『七色の麗花』で首を締め上げてきたとき、何故あのとき殺さなかったのだろう。意味がわからない。
そこまで考えて、イシリアはぶんぶんと首を横に振ってその考えを頭の中から追い出す。
ついさっき、あの人は魔術師ではないと結論を言ったばかりではないか。こんなふうに考えてしまうなんて、本末転倒もいいところだ。
「どうすれば、分かるんだろう……」
イシリアは魔術師の正体についてから、魔術の中心点について考えを移す。
魔術の中心地を特定する必要がある。が、その方法が分からない。闇雲に走り回ったところで見つけられるとは思えない。頭の中に魔術の中心点としていくつかの場所が思い浮かぶが、いまいち確証を持てない。
「……どうして、こうなるんでしょう」
悲壮感に満ちた声で呟く。結局この程度なのだ。自分に出来ることなど限られているし、できることよりできないことの方がずっと多い。
誰かを助ける、なんて大それたことが本当に出来るとは思えなかった。皇女だからだとか、この国のためだとか、考えてみればイシリア一人の傲慢だったのかもしれない。
そんなふうに意味もなくイシリアが落ち込んでいると、その背中へ声をかける者があった。
「あの……大丈夫?」
イシリアがよどんだ瞳で振り返ると、そこにはいつだったか『七色の麗花』で彼女が魔族に絡まれていたとき助けてくれた人物の幼なじみが心配そうな面持ちで立っていた。
「……イザナギさん?」
泣きそうになっているイシリアを見て、イザナギは更に眉根を寄せる。
「どうしたの? 何かあった?」
「いえ、大丈夫ですよ。それよりどうしたんですか、こんな時間に」
目尻に溜まった涙を拭い、イシリアがイザナギに向き直る。イザナギは気恥ずかしそうに明後日の方向を向いて、
「いや、ちょっとね。レイスの馬鹿がちっとも帰って来ないから探しに行こうかと思って」
「レイスさんが? どういうことです?」
イシリアがぴくりと眉を寄せる。
まさか既に皇宮が落とされたのだろうか。
「うん、この間シルトがレイスの家に来たことあったよね?」
「はい」
「シルトが帰ったあと、私はなんでか知らないけど気絶しちゃって。気がついたらレイスの家が瓦礫の山になっちゃってたんだ。で、そのあとこれも何でか分かんないんだけど皇宮に呼び出されて一方的に色々言われたんだよね。あの馬鹿は事情を知っているみたいだったけど教えてくんなかった。ま、私を巻き込みたくないって思ってんでしょ。あれで心配症なところあるから」
「それで、イザナギさんも心配になってレイスさんを探していた、ということですか。というかイザナギさん、よくご無事でしたね」
イシリアが感心したように言うと、イザナギは小さく首を横に振った。彼女の行動に首をかしげつつどういうことかとイシリアが問うと、イザナギは苦笑して、
「心配っていうよりは一発ガツンと言ってやりたいって感じかな。私を一人にして、いつまでも帰って来ないから、説教してやるつもり」
「心配だったり、不安だったりとかしないんですか? レイスさん帰って来てないんでしょう?」
「んー……まあね。でも、そういうふうに心配したり不安になったりっていうのはレイスに限っては全くの無意味だから。あいつはどんなに傷めつけられようが最終的には笑って帰ってくんの。でも、こっちとしてはそういうのは遠慮したいんだよね。無駄って知りつつもやっぱり心配だからさ」
「結局、心配なんじゃないですか」
「そうだね。だからこそ、あの馬鹿を探しに行こうなんて血迷ったこと考えちゃったのかも。放っておけばいいのに」
それができたらどんなにいいか。イザナギは口には出さず、心の中だけでそう思った。
「……でも、羨ましいです」
「羨ましい? 何が?」
イシリアの不意の言葉に、イザナギは不思議そうに問い返した。イシリアは月明かりで出来た自分の影に目を落として、静かに口を開く。
「そんなふうに誰かのために行動出来ることが、です」
「そう? こんなの普通じゃない?」
「そんなことないですよ。少なくとも、わたしには出来ないことです。わたしは大勢を気遣うこと出来ても、イザナギさんみたいに特定の誰かを想うことは出来ないんです。……イザナギさんみたいに特定誰かを想うことが出来たのだったら、わたしももっと強くあれるのでしょうね」
「私は、そんな強くなんかないよ……」
「そんなことはないですよ。十分、強い人だと思いますよ」
照れてそっぽを向くイザナギに優しく微笑みかけるイシリア。彼女の笑顔の中に少しだけ悲しげな色があることがイザナギには気になった。だが、その寂しげな表情の理由を聞く気にはなれない。
たぶん、訊いても答えてくれるとは思えなかったから。
「それより、何だか寒くない?」
話題変換とばかりに、イザナギが両肩を抱き、あからさまに震え出す。
確かに、彼女と会う前と今では気温に大分差がある。
イシリアは数秒考えたあと、
「緊急事態ですから仕方ありません。イザナギさん、今から言うことをよく聞いていてください」
「えっと……なに?」
「いいですか、今この国では大規模な魔術が行使されようとしています。今わたしやイザナギさんが感じている寒さの原因はその魔術のせいなんです」
「まじゅつ? なにそれ?」
イザナギがわけが分からないといった表情で疑問を口にする。イシリアはイザナギの質問を無視して続けた。
「今は詳しく説明している暇はありません。イザナギさん、ハリケーンの中心地を探るにはどういう方法があると思いますか?」
「ハリケーンの中心! 無理無理、そんなの分かるわけないじゃない! 第一、この寒さとハリケーンは関係ないんじゃ……」
「確かに、ハリケーンとは直接関係ありませんが、だいたい同じことです。魔術とは人間が自然現象に働きかけ、その流れに干渉して普通では起こしえない現象を起こしたり、とても手に入りそうもない莫大なエネルギーを生み出したりします。ですが、そこには必ず中心となる起点となる場所があるはずです。そこへ行けばこの寒さの発生原因を取り除くことが出来るかもしれません」
「でも、急にハリケーンとか言われても……」
イシリアの説明を聞いて、イザナギは唸り声を漏らす。いまいち理解出来ない部分が多いが、周囲の状態を見るにどうやら一大事らしいことは理解できる。
「……つまり、この寒さは人為的に起こされたものってこと?」
「そうです」
「そしてこの寒さを沈めるためにはどこを中心として寒くなっているのかを探しだして発生源をどうにかしないといけない、と?」
「そのとおりです」
イザナギはイシリアを見やり、ニッと笑む。
「馬鹿にしてる?」
「へっ……?」
予想外のイザナギの言葉に、イシリアは戸惑いを隠しきれない。
なにか、気に障るようなことを言ったのだろうか。
「その程度、小学校の理科の実験じゃない」
「はっ……?」
「小学校のときやんなかった? 線香に火をつけてその煙で空気の流れを調べるってやつ」
「聞いたことはあります」
「あ、そう」
イザナギは適当に相槌を打って、その辺りの生えている雑草を一束掴むと引っこ抜いた。地面がぬかるんでいたためか、すんなりと抜けた。
「火、持ってない?」
「すみません、持ってません」
「しょうがないわね。それじゃあ……」
イザナギはきょろきょろと辺りを見回し、その辺りに倒れていた民間人のジャケットからライターを取り出した。
「駄目ですよそんな」
「今は緊急事態なんでしょ? だったら仕方がないじゃない。大丈夫、ちょっと借りるだけよ」
言って、イザナギはライターの火を点け雑草に点火する。雑草は一瞬燃え上がったがすぐに火は消え、あとには細い煙がゆらゆらと流れていく。
煙は『天国』の外に向かっていた。
「ということはあっちね」
イザナギが煙の方向とは逆の方向を指差した。その先は、
「魔族の方が住んでいる……」
イシリアは彼女が指差した方角に駆け出す。その背を、イザナギが呼び止めた。
「ちょっと待って。私も行く」
「イザナギさんは帰ってください。あとは一人で大丈夫ですから」
「どうして?」
「危険なんです。ですから、家で大人しくしていてください」
「そんなこと――あっ、待って」
イザナギの言葉を待たず、イシリアが駆け出す。イザナギは彼女のあとを追うようにして走り出した。
このまま、彼女を一人行かせてはいけない。理由はわからないが、イザナギは強くそう思った。
しばらく走っていると、魔族区画の前にある関に辿り着いた。関を管理しているはずの門兵が大欠伸をしているところで氷ついている。イシリアは両目を見開き、言葉を失った。
「これは……」
あとからザナギも追いつく。目の前に広がる光景に二人は思わず息を飲んだ。
彼女達の前に広がっていたのは、氷づけにされた門兵と一面氷の世界と化した魔族区画の風景だった。家々は白くなり、まったくの言っていいほど人の気配がしない。
「もうこんなに……」
イシリアが悲痛な面持ちで呟いた。魔族区画の惨状が、それだけ衝撃的だったのだろう。
イザナギは恐怖に表情を歪め、氷づけにされた魔族区画を見やる。
「いったい、この国で何が起こっているの? どうして、こんな……」
「原因は分かりません。ですが、永くこの場所に留まれば、わたし達もこの人と同じ運命をたどることになるでしょう」
「なら、早く逃げよう!」
イザナギがイシリアの手を引いてその場から離れようとする。するり、とイシリアの手がイザナギから滑り抜ける。
「シルト……?」
「わたしは、行けません」
「どうして!」
「この魔術を止める方法を、わたしは知っています。だから、止めないといけない」
「え……?」
イザナギが驚いたように目を見張る。イシリアはイザナギを一瞥して、魔族区画への入り口である関を潜って魔術の中心地へと足を踏み入れた。
イシリアの背中に、イザナギが叫ふ。
「どうしてあなたが行かなければならなのよ!」
「……これは、わたしにしか出来ないことだからです」
静かにそう答えたイシリアに、イザナギは何も言えなかった。
ただ、彼女の背中を黙って見送っていただけだった。
6
苦しい。
ブリザードは自らの腹部に手を当て、小さく呻いた。先ほどの小競り合いが影響しているのだろう。巻かれた包帯の下からじわりと血が滲む。
ブリザードは血のついた手のひらから地上へと視線を向ける。正確な高さはわからないが、結構な高さのところを彼女は浮遊していた
だが、これ以上飛び続けることは傷口を更に開くことになりかねない。ここらで休息を取らなければ第三皇女イシリアの心臓をえぐり出すという目的に支障をきたす恐れもある。
近場の林の中に着地すると、ブリザードは側にあった気に体重を預け痛みに顔を歪めながら小刻みに息を吐く。
「ぐう……またか」
先ほどから痛みが止んだかと思うと、また痛み出すというのを繰り返している。その度にこうして休んではいるが痛みは段々と強くなってきている気がする。はやくしないと、と気持ちだけが焦っている。
第三皇女イシリアの居場所も掴めていない。おそらくは『天国』中央にそびえ立つ皇宮で何百人もの兵士に守られているのだと思うが、それも確証があるわけではない。
百パーセント正確な、とまでは言わないが、それなりにアテになる情報が欲しい。完全にアウェイであるこの国で、そういった情報が手に入るわけがないかと額に玉の汗を浮かべながら自虐的な笑みを浮かべる。それどころか、先刻ブリザードが発動した魔術が既に『天国』の約六十パーセントを覆っている。『天国』側もそろそろ異変に気づいて、なんらかの手を打っているころだろう。
ブリザードはぎり、と奥歯を噛み締める。
「一体、どうすれば……」
ブリザードは膝を抱えるようにして座り込んだ。両膝に頭を埋め、しゃくり上げる。
目的を果たすためならば何でもすると決めた。どんな困難でも耐えると誓った。だが、今は目的を果たすという根幹そのものが水泡に帰す可能性が高い。
『天国』全体に魔術を行使したところまでは、また修繕の余地はあった。あの時点なら、やり直すことも可能だっただろう。
「……でも、もう駄目だ」
ブリザードの脳裏を、徒労という二文字が過ぎ去って行く。
そう、全ては徒労だったのだ。目的を果たそうと努力することも、目的そのものを果たすことすらも。
ブリザードの目尻に透明の滴が溜まった。目元を離れ、真っ直ぐに落下し地面にシミを作った。
もう諦めてしまおうか。何もかも、消し去ってしまおうか。
ブリザードは幼子のように泣きじゃくりながら、そんなことを考える。普段の彼女からは想像の出来ない、弱々しい姿。
一しきり泣いたあと、ブリザードは目許の涙を拭い、決意に満ちた表情を浮かべる。
「……まだ、こんなところで止まれない!」
幾百万の兵力や今だに正体不明の力を持つあの少年など、懸念するべき問題は多々あるが、その程度の細事にいちいち気を配ってはいられない。
少なくとも、あの少年についてはあまり警戒しなくていいだろう。
あの少年は実戦経験などほとんどなさそうだった。先の小競り合いで戦う理由を見失っているようでもあった。
決意や信念などなくとも戦いに参戦することは出来るが、そういう者は往々にして先に死んで逝く。
戦いにおいて最も大事なのは戦闘技術や狡猾な戦略などではなく、執念にあるとブリザードは考えている。誰にも譲れない思いを持つ者は戦場で長生きするものだ。自身が生きていなければ、目的や成し遂げたいことがあったとしてもそれらを果たすことは出来ないのだから。戦闘技術なんかはそういったものをより確実にするためのものに過ぎない.
故に、ブリザードがこの戦いにおいて負ける道理などありはしない。彼女には執着すべき心念があり、それに追随する戦闘力がある。もしブリザードを負かす者がいるとすれば、それは彼女より強い思いを持った者のみだろう。
だから、とブリザードはゆっくりと立ち上がる。
「イシリア・リィ・モルテ。貴様を殺す……」
抑揚の薄い声で、ブリザードが呟いた。氷のように冷たい瞳で冷気の満ちた夜空を見上げる。
今度こそ、目的を果たすために。
7
月の光が反射してきらきらと美しく輝く凍った血液を見つめて、レイスは白い息を吐いた。虚空に消え去る吐息をよどんだ瞳で見つめていたが、やがて顔を俯かせる。
甘かったのかもしれない。
目の前に広がる光景を見て、レイスは頭の片隅でぼんやりとそう思った。
地面に倒れ伏した皇王直属の親衛隊員達は皆それぞれに様々な表情を浮かべて死んでいた。滲みでる悔しさや無念さが、隊員達に共通している。
レイスは生気の欠けた目で手足が千切れていたり胴に風穴の穿たれた親衛隊員達を見下げている。それから、視線を氷に覆われた魔族区画へと移し、小さく口を開いた。
「無理、だろ」
自分には特別な力がある。自分には他人には出来ないことが出来る。自分にはイザナギや大切に思う人達を守ることができる。
それらは全て、レイスの勝手な思い上がりに過ぎなかった。結局、レイスに誰かを守ることなど出来ず、特別な力もなく、自分よりも強大な力を持つ者の前にあっさり敗れた。
戦わずして、敗れた。
地面に転がり無念の表情を浮かべる親衛隊員達を見て、レイスは率直にそう思った。
力の発現にムラのあるレイスと違い、三角帽子は己の力を掌握し、コントロールできていた。そうして、顔色一つ変えずに他人を殺すことができるのだ。
勝てるわけがない。
今回レイスが生き残ったのは、三角帽子がレイスのことを取るに足らない存在だと思ったからだ。商店街で魔族に絡まれていたシルトを助けたときと同じ。見くびられ、見下されて生き残ったに過ぎない。
「……何でだよ……」
悔しさの滲む声でレイスが呟いた。
漂う血の匂いと皮膚を撫でていく冷たい風がレイスの心を凍らせ始めていた。
もう、戦うことはできない。
レイスは夜空を見上げた。地球全体を飲み込んでしまいそうなほどの巨大な月が彼の足下を煌々と照らしていた。
一つだけ、わからないことがある。あれだけ強大な力を持っていながら、何故一つのことにこだわるのか、ということだ。
お前の目的は何だ、そうレイスが問うと、三角帽子はこう答えた。
お前は既に知っているはずだ、と。
だが、レイスは三角帽子の目的に心あたりなどない。少し前に第二皇女、ヴァルトゥーニに『魔女の楽園』の、レイス達一般人でさえ知る有名なおとぎ話。その続きを聞かされてなお、レイスにはあの三角帽子の考えていることがわからない。
――魔女は旅人の死を悼み、彼の墓を作り一生弔って暮らすことに決めました。
「……分からねえ」
――ある日魔女の前に冥界の王が現れ、告げました。
「分からねえ」
――『お前の大切に思う人と一人だけ蘇らせてやろう。ただし条件がある』
「分からねえ!」
――『西の国の皇女の心臓を持って来い。そうすればお前の大切な者は再びお前の前に現れるだろう』
「全然分かんねえよ!」
どうしてここまでするのか、どうしてこんなことをするのか、一体何が目的なのか。
あのおとぎ話と同じように死者を蘇らせる方法があるというのか。
レイスには、見当もつかない。
「ならば、教えて上げましょうか?」
謳うように、そう言う女の声が聞こえた。レイスがゆっくりと振り返る。
そこには、飛び去って行った三角帽子と同じような格好をした人物がいた。やつと同じく表面上からは性別の判断すら難しいが、声から辛うじて女であろうという想像はつく。
レイスが覇気のない声で女に問うた。
「誰だ、お前は?」
「あたしの名はヴァルン。魔術師よ」
ヴァルンと名乗った女はおかしそうに笑い、レイスに向かってわざとらしく一礼する。
レイスは眉根を寄せ、怪訝そうに、
「……魔術師? そいつが俺に何のようだ?」
「いやー、何の用っていうかね、ちょっと協力して欲しいことがあんだよね」
「協力して欲しいこと?」
「そう」
「……止めてくれ。もう俺に戦う気力はない」
「さっきの騎士サマ達の奮闘ぶりにビビッちゃった?」
ヴァルンはおどけたように首を傾げ、にっこりとほほ笑む。それから、やれやれと肩をすくめ、首を振る。
「あの程度のことで戦意を喪失しているようじゃ、キミの実力も底が知れてるねえ。ねえ、自称最強の痛々しいレイス・トライトンくん」
「なにが言いてえんだ?」
「別に。ただ少し間違っちゃったかなーって」
「間違った? なんの話だ?」
「いいのいいの。気にしないで、こっちのことだから」
ヴァルンはけらけらと笑い、
「あんたみたいな弱虫のことなんかアテにしちゃってたあたしって馬鹿みたいだなーって思っただけだから」
「どうとでも言ってくれ。実際、俺は最強なんかじゃなかった。最強ってのはどんな敵にも、どんな状況でも常に先頭に立って勝ち続ける者を言うんだ。今の俺じゃそこに立つのは無理だ」
「無理……ね。ま、その境界を決めるのはキミ自身だし、あたしが口出し出来るようなことでもないんだけどいいの?」
ヴァルンは目を細めると、唇を指でなぞった。妖艶さを演出したつもりだったが今のレイスには効果が薄い。
レイスは体ごとヴァルンに向き直り、
「何がだ?」
「ブリザードは確実に第三皇女サマを殺すよ。たとえどんなに時間がかかろうと、どれだけの深手を負っていようと必ずね。あの子はそういう子なの。あ、ちなみにブリザードっていうのはさっきのやつの名前ね」
ブリザード。氷のように冷たい女。
ヴァルンが口にしたそれは、人の名前というよりもその人物の印象を表しているように思えてならない。
確かに、イメージぴったりだとレイスは思う。
レイスはブリザードが飛んで行って方に視線を向けて、
「俺にはどうしようもない。皇女を守るなんてハナから無理な話だったんだ」
「あ、そ。ならしょうがない。あたし一人でも何とか頑張ってみるよ」
ヴァルンは小さく息を吐き肩をすくめる。そうしたあと、蔑むような視線をレイスに向けた。
「なんていうか、ホントただのガキじゃん?」
「……ああ、そうだ。俺はただの青くさいガキだった。特別なものなんて何一つ持ち合わせちゃいない。誰かを守るだけの力なんざありはしない。どこにでもいる。ただのガキだ」
「……もういいよ」
ヴァルンは呆れたように言って、軽く地面を蹴る。ふわり、とその体が浮き上がった。
「あたし一人であの子を止められるかどうか分かんないけど、やってみるしかないね。何せ、死んだ人間を蘇らせようなんて馬鹿なことをしようとしているんだから」
「死人を、蘇らせる?」
「じゃーねー少年。生き延びられたらいいねー」
そう言い残して、ヴァルンは飛び去って行った。ブリザードが飛んで行ったのと同じ方向だ。
レイスはその場に立ちつくし、これからどうしようかと思案する。
「とりあえず、帰るか」
もはや自分に出来ることなど何もないのだから、あとはやってくれると言っているやつにやらせておけばいい。それとも、この場で倒れ込んでみようか。このまま凍えて死んでしまうのもありかもしれない。どちらを選ぶにしても、もうこんな殺し合いに関わるのは嫌だ。
もし生きてこの場を乗り越えられたのなら、明日からは真面目に学校に通おう。
そう心に誓い、レイスは帰路につく。
前方に、見知った顔が二つ現れた。
「……イザナギとシルト?」
よく目を凝らすと、辛うじてその二人だと分かった。二人は滑らないよう気をつけながらレイスの方に向かって走って来ている。レイスは立ち止まり、二人の到着を待つ。
「レイス、どうしてアンタがここに?」
「お前らこそ、何でこんなところにいるんだ?」
膝をつき、荒い息を吐いているイザナギに向かって、レイスが問う。が、その問いに答えたのはイザナギではなく隣で同じように胸に手を当て呼吸を整えているシルトだった。
「わたし達はこの寒さの原因でもある魔術を止めに来たんです」
「魔術……何でお前がそのことを?」
「詳しい話はあとです。まずはこの魔術の中心点を探してください。そこを破壊すれば、一先ずはこの寒さも収まるはずです」
「……分かった」
そのくらいならやってもいいだろうと思い、レイスは首を縦に振った。
三人は分かれて周囲の林や建物の中などを捜索する。岩の陰や建物と建物の隙間など、思い付く限りのあらゆる場所に目を向ける。
数分後、イザナギが声を上げた。
「あった、あったよ!」
「本当ですかイザナギさん! すぐに行きますから下手に触らないでください!」
レイスとシルトがイザナギの下に集う。
集まったのは魔族区画の関からそう遠くない場所にある林の中。ちょうど関の門兵からは見ない位置だ。
「ほら、これでしょ?」
そうイザナギが指差したのは空中で浮く丸い物体だった。青白く発光し、なにか煙のようなものを吐き出し続けている。
「これが、中心点?」
イザナギが不思議そうな声を漏らす。イシリアは神妙な顔つきで頷くと、
「これで間違いないと思います。では、さっそくこの術式の破壊に入りたいと思います」
シルトは球体の前に手をかざすと、目を瞑り聞き覚えのない言葉を発する。
今はもう誰も使う者のいない古代の碑文の一節を――
パキッ、と硝子が割れるような音がして、球体に亀裂が走った。亀裂は序除に大きくなり、やがて球体全体を覆い尽くす。
やがて、球体だったものは砂粒のような粒子となり、消えて行った。事態がいまいち飲み込めないイザナギと終始気のないレイスは黙ってその光景を見ていた。
イシリアがホッと安堵の息を吐いて、
「これで、この魔術は止まるはずです」
「えっと……一見落着ってことでいいの?」
「はい。一先ずは、といったところですが」
シルトが沈鬱そうな表情で関の前で凍っている門兵を振り返る。その顔には、この事態を食い止められなかったという自責と深い悲しみが現れていた。
そのことを察したのだろう。イザナギがシルトに近寄り、肩に手を置いた。
「大丈夫。シルトのせいなんかじゃないから」
事態をよくわかっていないはずなのだが、なにかよくないことが起こっていることはわかっているらしい。
イザナギの言葉に、イシリアは自虐的な笑みを浮かべる。
「ですが、わたしは止められたはずなんです。こうなる前に」
打ち震えた声でそう言うシルトの言葉に、レイスの眉がぴくりと動いた。
「どういうことだ?」
「…………」
レイスがシルトに向かって問いかけるが、シルトは顔を逸らして彼を見ようとはしない。そんな彼女に、更にレイスが詰め寄る。
「こうなる前に止められたって、どういうことだ!」
ほとんど怒鳴るようにしてレイスが声を張り上げる。だが、やはりシルトは答えない。罪悪感に満ちた表情でレイスから目を逸らしている。
二人の間に、イザナギが割って入った。
「止めてレイス! こんなところで怒鳴ったって意味ないでしょ!」
「お前は下がってろ! シルト、何か方法があるなら教えてくれ」
「そんなものないのよ! あったのだとしたらとっくに手を打ってるわ」
必至になってシルトを庇うイザナギ。彼女の背に隠れて、シルトは考え込むように俯いている。
「……一つだけ、方法があります」
その呟きに、レイスとイザナギが固まった。
シルトは意を決したように顔を上げ、レイス達を見る。
「一つだけ方法があります」
「どんな方法だ」
レイスが訊くと、イザナギは弱々しく首を振った。まるで、尋ねて欲しくなかったみたいに。
「この方法を使えば、今この国を蝕んでいる災厄を止めることは出来ます。そして、三億人以上の国民の命を救うことが出来るでしょう」
「だったら教えてくれ。俺に出来ることは――」
「ありません」
言いかけたレイスの言葉を遮るようにして、シルトが静かに言う。そこには、ただ悲しみだけが映っていた。
「これはわたしにしか出来ないことであり、わたし以外の誰かに手伝ってもらうわけにはいかないんです」
「どういう、こと?」
イザナギが両目を見開き、肩を震わせている。彼女に対し、シルトが柔らかく微笑みかける。
「大丈夫です。すぐに元の生活に戻れますよ」
「何をする気だ、シルト?」
レイスがシルトの腕を掴む。
大方の予想はついている。だが、口にすることは憚られる方法だ。
シルトはレイスの手に自分の左手を添えて、
「少しの間でしたが、仲良くしてくれて凄く嬉しかったです。本当はもっとお話したかったんですが」
シルトが、レイスの手に添えた左手に力を込める。
すると、彼女の手の甲に不思議な文様が浮かび上がった。
太古の失われし文字。
浮かび上がった文字は眩いばかりの光を発し、レイスとイザナギを包みこんでいく。
暖かな日差しの下、寝そべっているような感覚に囚われた。気持ちのいい眠気がレイスを襲い、瞼が重くなって行く。
やがて意識が遠のき、二人はその場に膝をつく。シルトの顔を見上げていたが、視界がぼやけ真暗になった。
そうして、レイスは深い眠りに落ちた。
8
気持ち良さそうに寝息を立てるレイスとイザナギの二人を見下し、イシリアはほうっと息を吐いた。
正直言って以外だった。ついこの間あったばかりの二人が自分のことをあれほどまでに心配してくれているなどということは。
イザナギの方は理屈なんてなく、本能に近い部分で心配してくれているのかもしれない。
だが、レイスは違うようだ。
ある程度状況を理解して、自分の持つ力の一端を目の当たりにしてもあんなふうに接してくれている。それは、すごく貴重なことなのかもしれない。
こんな二人が、自分の正体を知ったらどう思うだろう。今までずっと騙していたのだと伝えたらどんな顔をするだろう。
考えるだけで、胸が痛くなる。
イシリアは顔を上げ、『天国』中央にそびえ立つ皇宮を見上げる。同時、皇宮から爆発音が轟いた。
「行きましょう」
イシリアが皇宮に向かって駆け出す。
もし自分の推測が正しければ、侵入した魔術師の狙いは自分の心臓だ。あのおとぎ話のように、心臓を冥界の王に差し出し、その代わりに生き返らせたい誰かがいるのだろう。そうしたところでその誰かが生き返ることはないと分かっている。だが、それで魔術師の気が済むのなら、喜んでこの身をさし出そう。
たった一人の皇女と三億人を超える国民の命。どちらを優先するべきかなどとうに答えは出ている。ましてや、あそこには彼女の父親を初めとする家族がいる。家族を失うことはなんとしても避けたかった。
イシリアが商店街まで戻って来ると、身を裂くような寒さが彼女を襲う。確かに魔術の源泉は破壊したはずだ。だが魔術により生み出されたものがすぐに消えるわけじゃない。
しかしなんだ、この異様な寒さは。まるで先ほどまでの魔族区画のようだ。いや、それ以上かもしれない。
とにかく、急がないと。
イシリアは商店街を一気に駆け抜けると、皇宮へと舞い戻る。さっきから走り通しでさすがに疲れて来たが、ここで立ち止まるわけには行かない。
扉を開けて中に入る。
階上へと続く螺旋階段をかけ足で上り、爆音の聞こえた階を目指す。途中で立ち止まり、呼吸を整えまた上る。
そんなことを繰り返して、イシリアは目的の階にようやく辿り着いた。
勢いよく扉を開けると、視界の先に先の折れた三角帽子と黒いマントを羽織った誰かがいた。
その誰かは片手で吊り上げていたイシリアの姉であり第二皇女でもあるヴァルトゥーニをゴミのポイ捨てでもするかのようにその辺りに放り投げた。
「姉様!」
イシリアは慌てて駆け寄り、ヴァルトゥーニを抱き起こす。目立った外傷は見当たらず、規則的に呼吸もしている。死んではいないようだ。
そのことにホッと安堵の息を吐きつつも、イシリアは三角帽子を睨み付ける。
「どうしてこんなことをするのですか!」
「やはり、お前だったのか……」
イシリアの叫びに答えることなく、三角帽子がゆっくりと振り返る。三角帽子を取り去り、その相貌をイシリアの前にさらけ出す。
見覚えのあるその顔に、イシリアは目を見張った。
「あなたは……!」
彼女の目の前にいたのは、ブリザードだった。
9
目が覚めたときには、既にシルトの姿はどこにもなかった。
レイスはその場であぐらを掻き、イザナギが目を覚ますのを待っている。
ほどなくして、イザナギが小さな呻き声とともに上体を起こした。きょろきょろと、辺りを見回す。
寝起きでぼうっとしていた頭が徐々に覚醒して来たらしく、イザナギがレイスに詰め寄る。
「シルトは!」
「分からない。俺が目を覚ました時にはもいなかった」
レイスがイザナギと視線を合わせないままに答えた。イザナギは眉根を寄せ、俯く。
「そう……シルト、この状況を打開する方法を見つけたって言ってたけどそれって何なんだろう……?」
「さあな。俺に分かるわけがないだろ」
レイスは足下に淡く映し出された自分の影に目を落としながら、呻くようにそう言った。そんなレイスの態度に、イザナギは違和感を覚え、
「どうしたの? 元気ないみたいだけど」
「ん? 何でもねえよ」
「そう? なら、早くシルトを助けに行こう」
「助けにって、どこに行くんだよ」
嘲笑するように口の端を点け上げるレイスを見て、イザナギはやはりおかしいと思った。いつもの彼じゃないような気がする。こんな状況なのだからしょうがないと言えばしょうがないのだろうが、それにしても変だ。
よほどショックなことでもあったのだろうか。いつもは無駄に自信過剰なレイスが今度ばかりは冷静でいる。
いや、冷静でいるというよりは怯えている。
イザナギはそんなレイスを見て、言い知れぬ焦燥感に駆られていた。何故だか、このままでは行けない気がする。
レイスに何か言わなければ、そう思うが適当な言葉で出てこない。どうすればいい、と半ばパニック状態になる。
シルトのことも心配だ。だが、今のレイスを放って彼女の許へ行くわけにはいかない。放って行けば、もう二度とレイスに会えない気がするから。
だから、イザナギは考える。この問題に、自分なりの答えを見つけるために。
「分から、ないよ……」
呟きは夜の空へと消え、月が西へ傾いていた。
夜明けまでに時間がない。
イザナギはレイスの手を掴み無理矢理立ち上がらせる。背後に周り、彼の背中を押して歩かせる。
「なんだよ」
レイスが抗議の声を発したが無視した。今の彼には何を言っても無駄だと判断したからだ。
しばらく歩くと、商店街へと辿り着いた。中央にそびえ立つ皇宮はところどころに穴が空き、黒焦げになっている。
イザナギはその場にへたり込むと大きく息を吐いた。
レイスがイザナギをとがめるように言う。
「どうしてこんなところに連れて来た」
「……シルトは、たぶん皇宮にいるから」
「分からねえぞ。もしかしたら別の場所にいるかも知れねえ。そんで、今こうしている間にもシルトは……」
「あれを見てまだそんなこと言ってるの!」
イザナギが皇宮を指差し声を張り上げた。つられて、レイスも見上げる。
「あそこにシルトがいる、絶対に! なんであの子があんなところにいるのかは分かんないけど、今シルトは危険な目にあってるのよ!」
「……俺にどうしろってんだよ」
レイスが吐き捨てるようにそう言うと、イザナギは彼の胸倉を掴み思いっ切りねじり上げる。
「そんなことはアンタが考えなさいよ! 自分で考えて、死ぬほど悩んでそんで答えを出しなさい! それが、自身過剰で厚顔無恥な私の幼なじみ、レイス・トライトンよ。今のアンタなんかレイスじゃないわ!」
「俺が行ったって、どうせ……」
助けることなんかできやしない。そう言いかけて止めた。レイス自身としても、あまり考えたくないことだったからだ。だから、それ以上なにも言うことはできない。
イザナギは皇宮を見上げ、
「大丈夫、レイスならできるよ。私にはわかる」
「……どうしてだ?」
レイスが問うと、イザナギは胸倉から手を離し、トン、と軽く押した。
優しげな声が、レイスの耳に届く。
「私のレイスは、最強無敵で、どんな窮地でも乗り越えられて、助けを求めてる人を放っておけなくて……そんで最強だからだよ」
今最強って二回いったぞ。そうツッコもうかとも思ったが、やめた。今口を開けば、出てくる言葉はきっとあとで思い出すと恥かしさで悶えそうな歯の浮いた台詞だろうから。
だから、レイスはゆっくりと目を閉じ、一つ一つ言葉を選ぶように言う。
「……まだ俺にはなにが正解かなんてわかんねぇ。死んだやつを生き返らせたいっていうやつがいて、その思い自体はきっと馬鹿にできるようなものじゃないだろうから。でも、あったこともない誰かのために行動するやつのことも見過ごすことはできねぇ。俺はどうすればいいんだろう。それすらもよくわかんなくなっている」
「うん」
「でも、わかんねぇからって先延ばしにしてしてたら目の前の非劇を喰い止められねェんじゃねぇかって思う。だから、俺はわかんなくっても行動することが大事なんだって思ってんだ」
「うん……そうだね」
イザナギはレイスの前に踊り出ると、彼の手を取り引いていく。
向かう場所は、『天国』皇宮。この国で一番重要な場所。そして、レイスとしてはこの上なく関わりを持ちたくない場所だった。
これ以上この事件に関しては関わりたくなかった。
また、血を見る羽目になるだろうから。
「嫌だなあ……」
レイスは頭上を見上げ、心底嫌そうに呟いた。
こんなのは自分が望む〝闘い〟じゃない。拳と拳を交えて殴り合い、どちらが負けても互いに健闘を讃え合う。そういう勝負を望んでいた。
だが、今のこれは何だ? ただの殺し合いだろう。
主義主張は違えど、振るう力は違おうとも、分かりあえると思っていた。レイスが望む〝闘い〟が繰り広げられると信じていた。
「でも、違ったんだ……」
小声で、吐き捨てるようにレイスが呟く。その言葉が聞こえていたはずだが、イザナギは何も言わず黙って彼の手を引いて皇宮の入り口へ向かう。
中に入ると、誰もいなかった。常駐しているはずの警備兵ですら今の異常な状況に逃げ出したのだろう。無理もない。
本当はレイスも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。殺し合いに参加したい者などいるはずがないだろう。
レイスが両足に力を込める。唐突に表れた抵抗感に、イザナギが思わず後ろに仰け反る。
握られていた彼女の手を振り払い、
「……もう、いい」
「えっ……?」
予想外だとでもいうように、イザナギが目を丸くする。そんなイザナギに、レイスはどこか晴れ晴れとしたような表情を向ける。
「ここからは俺一人でいい」
「どうして?」
「危険だからだ。上にいるのは『天国』をこんな形にしやがった魔術師だ。きっと凄く強い。お前を守りながらシルトを助け出すなんてそんな芸当、俺にできると思うか?」
イザナギは少し考える素振りを見せ、緩く首を振る。
「無理だね。アンタはそんな気用なやつじゃない。一つのことにまっすぐに突っ走っていくタイプだもんね」
「その通り。よくわかってんじゃねぇか」
「何年アンタの幼なじみやってると思ってんのよ。レイス、アンタのことでわからないことなんて私にはないの」
「ああ、そうだな。だったら、俺が帰るまで待っててくれるよな?」
レイスの言葉に、イザナギが黙り込む。彼女の両肩が微細に震えている。
本当は一緒に行きたいんだろう。一緒に行って、シルトを助けたいと思っているのだろう。
だが、もしそう言えばレイスに迷惑をかけることになる。それは、イザナギの望むところではなかった。
今、この状況で言わなければならばいことがあるはずだ。どんな言葉をかけたところで、自体が好転するわけではない。そんなことはわかっている。でも、そんなこととは別にイザナギの心がなにかを言いたがっている。
しかし、なにを言えば……?
黙り込んでいるイザナギをどう思ったのかレイスが彼女の顔を覗きこみ、
「どうした、イザナギ?」
レイスの顔が目の前に映し出される。なにか言わなければと気持ちは焦るのに、上手い言葉が見つからない。
どうして……。
「なぁ、俺帰ったら久々にイザナギのオムレツ喰いてぇな」
「なによ、突然」
唐突にそんなことを言うレイスに、イザナギは思わず笑んでしまった。さっきまでの感動的な雰囲気が台無しである。
「なぁ、作ってくれないか、オムレツ」
「べつにいいけど、それって死亡フラグじゃない?」
「へ……?」
にっこり、とイザナギが微笑む。彼女の表情に、レイスも口の端を吊り上げた。
目の前で親衛隊を殺されて、その惨劇を目の当たりにして、自分にはこんなふうに殺し合うことなんて出来ないと思った。確かに不思議な力があるかもしれない。それは強大なものなのだろう。でも、意識的に力を振るうことを拒絶したかった。戦う、なんていう選択肢は選びたくなかった。
「でも、それはただ逃げているだけなんだな」
「……逃げることは悪いことじゃないよ。ちゃんと戻ってきてくれさえすれば、私、オムレツ作って待ってるよ」
レイスの手に自分の手を重ね、噛み締めるように目を閉じ、イザナギが言う。
彼女の頬を一筋の涙が伝う。それを拭って、レイスがイザナギの肩に両手を置いた。
「んじゃ、行ってくる」
「……うん、ぜったい、帰ってきて」
「ああ、必ず、俺は生きて帰ってくる」
そう言って、レイスはイザナギから手を離す。目の前の皇宮に目をやり、今だ黒煙の立ち上る個所を見やる。
その表情は、先ほどまでの彼とは段違いだった。
「シルトは絶対に助ける。たとえ、どんなことをしても」
レイスが階上へと続くらせん階段に向かう。その背を、イザナギは黙って見送っていた。
何も言わずとも分かる。
レイスはまた、自分の許へ帰ってきてくれる、と。