一章
読了の感想をお願いします。この作者はメンタル藁波ですので、やんわりと伝えていただけると助かります。
一章
『天国』。
総人口三億九千万人を誇る巨大国家。その名の通り、ありとあらゆる人種の人々が住む、まさに天国のような国である。
人口の約九十パーセントを神族、魔族、龍人族が締め、残りの十パーセント程度はそれ以外人々が暮らしている。いらぬ争いを招かぬよう種族ごとに区分が決められているなど、様々な配慮が施されている。そのおかげか、『天国』は建国以来四百年もの間、恒久的に平和を保って来ており、いつしか中央にそびえ立つ皇宮は『全種混合の剣』と呼ばれ、人々のシンボルにもなっていた。
そんな『天国』の学生、レイス・トライトンはいつものように今日も学校をサボり、河原で横になって寝息を立てていた。
「あー、こんなところにいた!」
彼の頭上から、そんな声が聞こえて来た。レイスがうるさく思いながら片目を開けると、色素の薄い灰色の髪に、同系色の大きな瞳をした幼なじみの少女、イザナギが見るからに怒っていますといった表情でずかずかとレイスの下に近づいてくる。
レイスは見えそうで見えないイザナギのスカートの中を少し不満に思って、
「なんだよ、うるさいな」
「なんだよじゃないわよ。アンタ、また学校サボったわね」
「そっちだってサボっているじゃないか」
「サボってないわよ。ちゃんと制服着てるでしょ。それに、今は昼休みなの。わざわざ抜けだして探しに来てみれば、アンタはいったいこんなところで何をやっているのよ!」
「昼寝してるように見えない?」
「見えるから問題だって言ってんの!」
イザナギはレイスの隣に腰を下すと、吹き付ける風を気持ちよさそうに目を細めながら、
「アンタ、今の自分の立場分かってんの? このままじゃ留年よ留年」
「あんまよくわかってない」
ごろんと寝返りを打ち、レイスは興味なさそうにそう言った。イザナギは溜息を付いて、こめかみ辺りを抑える。
「まったく、アンタは」
「仕方がないだろ」
きちんと制服の袖に腕を通し、毎日まじめに学校に通っている幼なじみにレイスは何の気なしに言う。
「何も面白いとは思えないんだから。何もかも、全部」
「アンタが楽しもうとしないからでしょ。楽しいわよ、学校生活」
「そうかもしれないけど、面白くないんだから行く気になんかなれないだろ」
レイスの寂しげな口調に、イザナギが一瞬だけ押し黙る。気まずい沈黙が、二人の間を漂う。
「時間、大丈夫なのか?」
再び寝返りを打ち、レイスがイザナギの腕時計を指で指し示す。イザナギは腕時計を見て、慌てた様子で立ち上がった。
「やば、もうすぐで昼休み終わっちゃう。レイス、明日は来なきゃ駄目よ、学校」
「気が向いたらな」
「もう」
去って行くイザナギの背中を見上げながら、レイスは小さく息を吐いた。
もともと、学生生活というもの自体がレイスに向いていないのだ。友と語らい、笑いあい、切磋琢磨する自分を容易には想像できない。無理に想像しようとすれば、頭痛と目眩に襲われる。
将来、使うことがないであろう数式や意味のわからない古代文字なんかを習ってどうするというのだ。まったくの無駄としか思えない。
こういった子供の屁理屈のような理由で、レイスは毎日暇を持て余しているのだった。ならば学校へ出向けば少しは暇もまぎれるのではないかと考えたこともあったが、イザナギの学校での話を聞いていると、それ以上に面倒臭いことが待っていることが分かった。
レイスにとって学校とは、動物園の猿を閉じ込めておく檻のようなものだ。教師という飼育員の手で教育を施され、立派な社会常識という芸を身につけさせられ世に放たれる。そうなっては、自分という一個の存在を確立するのは難しい。
「折角たくさんの種族が一緒に暮らす国だってのにな」
今の教育制度に対し大きな不満がある。他の種族との交流を避け、同じ種族の者同士でしか学校に通わせない。これでは、国という大きな器の中に小さな国がいくつもあるだけではないだろうか。たとえいがみ合ったとしても同じ学校に通わせるべきなんじゃないだろうか。そうして小競り合いの中でこそ、成長できるのではないだろうか。
「でも、これってやっぱガキの考えってやつかな」
レイスは立ち上がり、一つ大きく伸びをする。イザナギと話していたらすっかり目が覚めてしまった。もう一度寝るような気分でもない。
とりあえず商店街でもぶらつこうかとレイスは河原から商店街へと向かう。
1
アーケードを通り、商店街内へ。そこは、たくさんの種族の『人間』が行き交う『天国』を象徴するような場所だった。多くの商店が軒を連ね、食べ物から生活必需品まで、全ての物がここででそろうようになっている。細かく区分けされた『天国』内で唯一、他の種族と交流を持てる場でもある。
が、当然のようにレイスはここに買い物に来たわけではない。
というより、目的がない。
何か面白いことがないだろうかと思いきてみただけなのだ。だが、商店街はいつもと同じように賑わっているだけ。何もありはしない。まあそれでも学校に行くよりはマシかと思い、当てもなく商店街を彷徨って行く。
少し歩くと、一見の花屋の前がざわついていた。看板を見上げると『七色の麗花』という丸っこい文字が躍っていた。店の前に、人だかりができている。
なにか揉めているようだったが、野次馬に隠れてレイスの位置からではその様子を窺うことは出来ない。
レイスは人混みを割って進み、騒ぎの元凶に目を向ける。
酒に酔っている思しき黒い翼を広げた魔族が二人、花屋の娘に言いよっていた。レイスは素早く周囲に視線を走らせるが助けようとする者は一人としていない。
「ま、魔族相手だし当然と言えば当然の反応か」
魔族は交戦敵な者が多く、その戦闘能力も神族を覗けばぐんを抜いている。この場に神族がいない以上、誰も手出しは出来ないだろう。
そして、レイスはそのことが気に喰わない。
正義感からそう思うのではない。
そういうふうに、恐れおののく対象が自分ではないことが、だ。
「おい、そのくらいにしとけよ」
「ああ? なんだお前は?」
だから、レイスは前に出る。
誰もが恐れる存在が自分ではない誰か。その常識を塗り替えるために。
「黙れクソ魔族が。とっととそいつからその汚い手を離せ」
「正義の味方気取りかクソガキ」
「だったら、早く学校に行ってヒーローになれる方法を教えてもらうんだな」
「学校はそんなこと教えちゃくれねえんだよ。いつも、どうでもいいようなことばかりを頭に叩き込んで来ようとする」
ちりっ、と黒い火花のようなものが見えた気がした。野次馬に徹していた大人達は後ろへ下がり、恐怖に彩られて目でレイスを見る。
そのことに、レイスは背筋がぞくりと震えるのを感じた。
地面を蹴り、魔族の二人組へと飛びかかって行く。通常の三倍は速度が出ていたと思う。だが、それでも魔族相手では、互角程度でしかない。
圧倒的とは言えない。恐れの対象とはなれない。
が、レイスは自分が負けることなど考えてはいない。
こいつらを叩きのめし、この場に置いて誰が一番強いのかを教えてやる。その思いが、彼を前へ前へと推し進める。
なぜなら、自分こそが最強なのだから。
2
結論から言えば、レイスは負けた。
レイスを取り巻く不可視の力は魔族達に飛びかかって行く寸前で突如として消え、同時にレイスも失速。そのまま地面に倒れ込んだ。数秒間は沈黙があったが、彼が勢いを失ったと見るや、魔族の二人組は蹴る殴るでレイスに確実なダメージを与えていった。殺されなかったのは、完全に彼らの気まぐれだろう。
空は既に仄暗くなっていた。大慌てで駆け付けて来たイザナギの手により、現在バンソーコーを貼り付けるなどの応急的な処置が施されている最中だった。
応急処置の最中に、イザナギが呆れたように言う。
「ったく、アンタ馬鹿なんじゃない。魔族相手に喧嘩売るなんて。下手すれば死んでたかもしれないのよ」
「いちち……しょうがねえだろ。あいつらムカついたんだから」
「それにしても、アンタが人助けねえ。案外いいとこあるじゃない」
勘違いだ、と思ったが、口には出さないでおくことにする。言ったところで無意味だろう。
応急処置を終え、イザナギが薬箱を直しにリビングを出て行く。その背を、レイスともう一人、淡い桃色の髪の少女が見送っていた。
先ほど花屋で魔族に絡まれていた少女だ。
少女が沈痛な面持ちで謝罪の言葉を口にする。
「すみませんでした。とんだトラブルに巻き込んでしまって」
「気にすんな。俺が勝手にやったことだ」
「でも、そのせいであなたは怪我をされました。何かお詫びをさせてください」
「お詫びっていわれてもなあ……」
レイスが虚空を見上げ、考える。
特に必要な物もないし、欲しい物もない。困った。
レイスが唸っていると、イザナギがリビングに戻って来て、
「気にしなくていいわよ。こいつが勝手にやったことだから」
「お前が言うか」
「あによ」
レイスとイザナギの二人に「気にしなくていい」と言われて、少女は心なしかしょんぼりしたようだった。そのことに、二人とも気付かない。
「では、せめて怪我が治るまでわたしに身の周りのことを任せていただけませんか?」
「何故そうなる! 第一、そんなに大した怪我はしてないし、日常生活に不自由することもないからそういうのもいらねえな」
「そう……ですか」
少女はあからさまに肩を落とし、頭を垂れた。その様子に、レイスとイザナギは何だかこちらが悪いことをしているような気がしてきた。もちろん気のせいなのだが。
イザナギがレイスに耳打ちする。レイスも小声で応じた。
「ちょっと、何とかしなさいよ」
「何とかってどうしろっていうんだ」
「そんなもん、アンタが考えればいいじゃない」
「つっても、お詫びなんて言われても正直困るだけだぞ。こちらとら今のままで不自由はないんだから」
「そんなこと言ったって、このままじゃ収まり付かないでしょ」
「うーん……」
考え込んでいると、ゆらりと少女が立ち上がった。どうしたのかと思い目を向けると、リビングを出て、玄関で靴を履いていた。
「帰るのか?」
「はい……ここにいてもわたしは何の役にも立てそうもありませんから。むしろ、お二人を苦しませている元凶にすらなっているのです」
「や、苦しんでるわけじゃないから」
イザナギが手を振り必死に否定する。少女は振り返り、潤んだ瞳をレイスに向けてきた。
レイスは溜息を吐き、
「俺、料理とか苦手なんだよな」
「何よ、いきなり?」
「どうしたのですか?」
二人が同時にレイスを見る。レイスは気恥ずかしそうに後頭部を搔くと、ぶっきらぼうな口調で言った。
「だからさ、飯作ってくれるやつがいると助かる、かな……」
イザナギと少女から顔を背け、頬を搔く。少女は嬉しそうな、イザナギはいたずら好きの子供のようなにやにやした笑みをそれぞれ浮かべ、レイスを見つめて来る。
「な、何だよ……」
「アンタもそんなこと言うようになったのね。俺のために飯を作ってくれだなんて」
「誰もそんなふうに言ってねえだろ、ただ、飯を作ってくれるやつがいたら助かるって言っただけだ!」
レイスが掴みかかるようにしてイザナギに顔を寄せる。イザナギはにやにやを引っ込めないっまま、おどけたように言う。
「悪かったわよ。そうよね。ご飯作ってくれる人がいたらいいわよね。アンタ料理とかからきしだし」
「だから、苦手なだけだって言ってんじゃねえか。まったくできねえわけじゃねえよ」
「じゃあアンタが一番得意な料理って何よ?」
「……それは……」
言い淀むレイスに、イザナギが得意げに笑んだ。
「ほら、やっぱり無いんじゃない」
「ぐう……」
レイスとイザナギが漫才を終え、少女に向き直る。
「というわけでどうだろう。もちろん嫌ってんなら断ってくれても……」
「やります、やらせていただきます!」
少女がきらきらと瞳を輝かせ、レイスに近寄る。レイスは思わず身を反らせた。
「お、おう……よろしく頼む」
「じゃあ、さっそく今夜からですね」
「えっ、いや明日からでいいんだが」
「大丈夫です。お料理は得意ですから。任せてください」
少女は靴を脱ぎ、大慌てで台所へと向かう。が、二、三歩行ったところで立ち止まり、振り返って小首を傾げた。
案の定、
「キッチンはどこですか?」
「まあ、そうなるわね」
レイスの代わりに、イザナギが少女に歩み寄る。こっちよ、と台所へと誘う。
玄関先で突っ立っているのもなんなので、レイスも台所へと向かった。
そろりと顔を覗かせると、既にエプロンを装着した少女の傍らで、イザナギが何か話していた。言葉は聞きとれるのだが、内容がいまいち理解出来ない。あれがガールズトークというやつなのだろうか。
「俺、何か手伝うことは?」
「大丈夫ですよ。ゆっくりしていてください」
「男子厨房に入らずよ。アンタに出来ることは何もないわ」
にやついたイザナギの顔と少女の曇りのない笑顔が同時に振り返る。イザナギはともかくとして、少女の方は名前も知らないのだ。訊くタイミングを失ってしまったというか。
知らない人間に料理をさせているというこの状況は何だか心苦しいものがある。信用できな。いという点において。
しかし、ああ言われてしまってはレイスとしても台所に入るわけにはいかない。イザナギも一緒だし、大丈夫だろうと台所から離れ、リビングへと舞い戻る。
ソファに腰かけ、テレビのリモコンを手に取る。電源を点け、チャンネルを変えて行くと、興味深いニュースが流れていた。
国営のニュース番組だった。
つい先ほど、レイス達が飯を作ってくれだのといったやり取りをしているまさにそのとき、『天国』の魔族区画で何十人もの人が行方不明になったという。目撃者によると、全員とある場所に向かったっきり帰って来なかったので不審に思った地元住民が探しに出たところ、大きな魔法陣のようなものが地面に描かれているのを発見したらしい。それは、消えた住民が向かったのと同じ方角にあったということだった。
これは果たして偶然なのだろうか。この魔法陣のようなものは関係あるのか。謎は深まるばかりです、そう締めくくり、次のコーナーへと移った。
ちょうどそのタイミングで、イザナギと少女が晩ご飯を運んで来た。
「今日のメニューはカレーよ」
「すみません、大したものが出来なくて」
「いや……」
レイスとしては、得意と言いつつ食材を焦がしたり、包丁で指を切ったりといったことが起こるのではと考えていたが、どうやら杞憂だったようだ。
意外そうに見つめるレイスの視線をどう思ったのか、少女が申し訳なさそうにはにかんだ。
「本当にお料理は得意なんですよ。ただ、今日は時間も食材もなかったんです」
「それはいいんだけど……」
レイスは視線を運ばれて来たカレーに落とし、一口食べてみる。
「むっ、上手い」
「本当ですかっ、よかったですっ!」
「当然よ。私も手伝ったんだから」
イザナギがさも当然といったふうに胸を張り、少女がホッと胸を撫で下ろす。
「にしてもシルトの手際はホントよかったわよね。凄い鮮やかだったわ。私見惚れちゃったもん」
「いえ、そんなことはありませんよ。イザナギさんの方がお上手でした。本当に」
互いに褒め合う少女達。
レイスはそんな二人をカレーを食べながら見ていたが、やがて口を開いた。
「シルトって?」
「この子の名前よ。さっき台所で訊いたの」
「申し遅れました。シルト・ベフィットです」
言って、シルトがうやうやしく頭を下げる。レイスもつられて頭を下げ、自分は名乗っていないことに思い至った。
「レイス・トライトンだ」
「さっきイザナギさんから聞きました」
「……そう。ところで、さっき手際がいいとか言ってたけどカレー作っただけでそんなの分かるのか?」
「初心者の意見ね。カレーには料理の基礎がたくさん詰まっているのよ」
イザナギは指を一本立て、得意げに説明を始める。まずいスイッチを押した、と即座に後悔したレイスだったがもう遅い。
「まず、ご飯の炊き方ね。ふっくらといい感じに焚くためには、時間や水の量なんかが大切なわけ。特にアンタは固い方が好きだから速めに切り上げないといけないし、水の量も少なめがベストね。あと、野菜の切り方にも違いがあるの。ニンジンやタマネギも切り方一つで火の通りが変わってきたりするから、その辺りも気を付けないといけない。アンタはジャガイモが嫌いだから、その辺りにも配慮したわ。煮方にもコツがあって、こんなふうにカレーにはたくさんの基礎がつまっていて、料理の腕を見るにはもってこいなの。簡単だしね」
「調理を行って行く上でレイスさんのことをよく考えてあるんだなって思いました」
「まあね。幼なじみだもの」
イザナギが得意顔でシルトを振り返る。
シルトは可笑しそうに笑って、
「それじゃあ、食べましょう」
レイスを挟み込むようにして二人が座り、カレーを口に運んで行く。その間も、食べるのと同時にお喋りが止むことはなかった。
女ってどうしてこううるさいんだろう。
レイスはテレビに視線を向けたまま、無心でカレーを胃に流し込んでいく。美味いのは美味いのだが、横の二人のせいであまり味わうことはできなかった。
レイスがテレビを見ていると、先ほどの魔法陣のニュースの続報が入ったらしく、一瞬にして画面が切り替わり、キャスターの無表情が映し出される。
『えー、新たな情報が入りました。先ほどお伝えした消えた魔族区画の住人達の遺体が、正反対の方にある神族区画から発見されました。ざっと数えただけでも十五、六体は見つかったらしく。魔族区画と神族区画の間には緊張が走ります。なお、明日にでも話し合いの場が設けられ、捜査機関が設置されるようですが、どうなるか分かりません。魔族対神族の構図にならないよう祈っています』
カレーを口に放りながら、イザナギが興味もなさそうに呟く。
「物騒ね。どうして魔族が消えたりなんかしたのかしら?」
「分かりません。ですが彼らをこのままにしておくわけにはいきません。明日の話し合いできちんとお互いに納得出来ればいいんですけど……」
イザナギとは対称的に、シルトが神妙そうな顔付きでテレビを見ている。それは目の前のことだけではなく、何か別のものを見ているようでもあった。
そのことが気にかかりつつも、レイスはシルトの呟きに答える。
「難しいだろうな。魔族どもの性格から考えて、ちょっとやそっとの賠償金じゃ納得しないだろう。これを幸いと神族達に一生寄生するつもりかもしれない」
「神族区画の住人達も、納得いかなければとことんまで戦うだろうからね。もし死体神族区画に置かれていただけで、神族の誰も手を下していない、なんてことになったら、お互いに納得なんて望めない。……最悪、戦争に発展しかねない」
「戦争……」
その一言に、シルトは眉根を寄せ、目を伏せる。鎮痛な面持ちの彼女を見て、レイスがイザナギの頭を軽く小突く。
「悪りい、シルト。別にそんな顔させるつもりじゃなかったんだ」
「ごめんね、シルト」
「いえ、大丈夫です。気にしないでください」
シルトが引きつった笑みで取り繕おうとする。その様子に、レイス達も次の言葉が見つからずに黙り込む、
数秒後、口を開いたのはレイスだった。
「カレー、すっかり覚めちまったな」
「そう……ですね。食べてしまいましょう」
「そうね。そうしましょう」
三人が同時にのこったカレーを胃の中に流し込む。シルトが三人分の皿を流しに持ってき、リビングに戻ってくるなり、
「わたし、そろそろ帰ります」
「そうか、送って行こうか?」
「大丈夫です。そんなに遠くないので」
「でも、最近物騒だから」
「……では、お願いします」
レイスはソファから立ち上がり、シルトの隣に立つ。イザナギに留守番を任せ、夜の街に出て行く。
春先とはいえ、この時間帯になるとさすがに肌寒い。レイスは肩を抱くようにして身を震わせているが、慣れているのかシルトは顔色一つ変えない。
すぐに近くにいるシルトの顔ですら、目を凝らさなければ見えない中、本当に襲撃者があったりしたら俺で守れるのだろうか。そんな考えがレイスの脳裏をよぎったが首を振ってその考えを頭から追い出す。
大丈夫、俺は最強なのだから。
「先ほどのニュース」
レイスが自身を鼓舞していると、横合いからシルトの透き通るような声が聞こえて来て、ドキッ、と心臓が脈打つ。
「なんだ」
「先ほどの魔族の方が死んでいたというニュースですが、続報ということはその前にも何か伝えられていたことがあったんですか?」
「ああ、何でも魔法陣のような文様が描かれていたとか言ってたな」
「魔法陣……!」
シルトが立ち止まり、驚いたように目を見張る。が、レイスにその表情の意味を察することは出来なかった。
レイスは怪訝そうな表情で、
「どうかしたのか?」
「……いえ、何でもありません」
シルトが再び歩き出す。不思議、というよりは違和感のようなものを覚え、レイスは首を傾げる。
なんだ?
考え込むようにして俯きながら歩くシルトの背に目をやり、レイスもまた考える。
(シルトのあの態度は一体何だ? どうして魔法陣のような文様があったと言っただけであんなに深刻そうな顔をするんだ。火を噴く龍やホウキを使って空を飛ぶ魔女と同じで、魔法陣を使って何かを起こそうだなんてことを考えるやつなんかおとぎ話の世界だろう)
レイスはこれまでの経験からそう判断する。
何冊もの魔術書を買い集め、実際に魔術を行使しようともした。空を自由に飛び回ることを夢見て何時間もホウキで飛ぶ練習を課覚めたこともある。だが、結局のところそれらの努力は全て徒労にしかならなった。
魔術なんて使えないし、ホウキで空を飛び回ること何か出来やしない。そう結論付けたレイスはそういったオカルト系のものとは一切縁を切ることに決めた。
所詮は、神族や魔族といった選ばれし者にしか出来ないことがあるのだということを学んだのだ。それだけでも、十分な収穫と言えるだろう。
以来、レイスはそういった不確定な『未知の力』に頼ることなく、ひたすらに己の能力を伸ばすことだけを行ってきた。そうして、大抵の敵とは殴り合えるだけの力を手に入れることに成功した。
だから、もしその手の話を信じているやつがいるのなら目を覚まさせてやりたいと思う。
「なあ、シルト」
「……何でしょう?」
前を歩いていたシルトが振り返る。その表情には、純粋に疑問の色が浮かんでいた。
「お前、魔術とかそういうの信じているのか?」
「信じている……というよりは、もしもそういったことが本当にあるのだとしたら、何も対策をしていなければ一方的にやられるだけじゃないですか。だったら、ちゃんと何かしらの対策を打っておきたいと思っているだけですよ。わたしだって本当にそっち方面のお話を信じているわけではありませんが、もしもということも考えられます」
「もしも?」
「はい。そのときになって一方的にやられて、この国が壊滅するようなことになったら『ただのおとぎ話だと思ってました』じゃ言い訳にもなりませんから」
「……なんつうか、お姫様みたいだな」
「お、お姫様、ですか……」
「ああ、すげえよお前。そんなふう国のことを考えているなんて。普通そういうのって国王とかのお偉いさんが考えることじゃねえか。俺達みたいな庶民が考えるようなことじゃねえっていうか。少なくとも、俺は一秒だってそんなこと考えたことねえよ。だから、お前はすげえやつだなって」
「……ありがとう、ございます」
シルトは何故か顔中を真っ赤に染めて、俯き加減にそう呟いた。彼女のその行動にレイスは首を傾げたが、答えが見つかるはずもなくシルトを追い越して歩いて行く。
シルトはその背中を小走りで追いかけ、並んで歩く。
しばらく行くと、シルトが足を止め、
「ここまでで大丈夫です」
「そうか? あの花屋までまだ少し距離あるぞ」
「いえ、ここまでで結構です。本当に大丈夫ですから」
シルトが前に出てクルッと回る。衣服の裾がふわりと広がる。
目を細め、にこりと微笑む。
「レイスさん。あなたのおかげでやる気が湧いてきました。本当にありがとうございます」
「いや、俺は何もしてないと思うけど」
「そんなことはありません。先ほどのあなたの言葉で、わたしがどれだけ救われたことか。おそらくあなたには分からないかもしれません。ですが、たとえ分からなくとも覚えておいてください。あなたの一言で、心から救われたと思った誰かがいたということを」
そう言い残し、シルトは暗闇の向こうへと消えて行った。
レイスは頭の中にクエスチョンマークを量産しながら、彼女を見送る。姿が見えなくなると、レイスも帰ろうと踵を返した。そのときだ。
爆音が轟いた。
さっきまで頭の中にあったクエスチョンマークが消え、次にどこから聞こえたかと視線を走らせる。
煙が上がっていた。レイスの家の方角だ。
レイスは一も二もなく駆け出した。イザナギが留守番をしていたはずだ。
来た道を肺が破裂するかと思うほど全速力で駆け戻り、家の前に立つ。
レイスの家は瓦礫の山と化していた。リビングも、ダイニングも、台所も、レイスの寝室も、全て跡形もなく消え去っている。
が、彼が怒りに震えたのはそんな些末なことに対してではない。
イザナギが空中で吊り上げられていたのだ。
「イザナギ!」
叫ぶが、イザナギからの反応はない。意識を失っているようだ。
彼女の首元を吊り上げるようにして握っているのは、先の折れた三角帽に黒いマントを着た人影だ。まるで神話の伝承やおとぎ話に出て来るような典型的な魔女スタイル。空飛ぶホウキこそ持ってはいないが、宙に浮くその姿はまさに彼が先ほど否定した魔術師そのものだった。
男か女かも判別のつかない人影に向かって、レイスはあらん限りの声で叫ぶ。
「てめえ、イザナギを離しやがれ!」
レイスの叫び声を無視して、人影は品定めでもするかのように上から下までイザナギの全身をくまなく観察していた。
間もなく、なにか結論が出たらしく、人影はイザナギをまるでゴミのポイ捨てでも行うかのように軽く、その辺りに放り投げる。
「こいつじゃ、ない……」
どさり、とイザナギの体が力なく瓦礫の山へと落下する。レイスは慌てて駆け寄り、彼女の体を抱き起した。
「おい、大丈夫か、おいっ!」
返事はない。
反応のないイザナギの頬を何度も叩きながら、幾度となくレイスが呼び続ける。
そんな彼の背へ、三角帽が声をかける。
「そこのお前……イシリア・リィ・モルテはどこだ?」
少年とも少女ともとれる中性的な声音で、人影はレイスに質問する。レイスは顔を上げ、敵意むき出しでその人影を睨みつけた。
「誰だ、そいつは!」
憎しみと怒りのこもった、鋭い眼光でもって三角帽子を睨み上げるが、三角帽子は表情一つ変えず、帽子の隙間から冷徹な視線でレイスを見下している。
「私の質問にだけ答えろ。イシリア・リィ・モルテはどこだ?」
三角帽子は再度、レイスに同じ質問を投げかける。レイスはその質問に答えることなく、イザナギを横たえるとゆっくりと立ち上がった。
レイスのその行動に、三角帽子は一瞬動揺したように肩を震わせた。
人影はレイスを警戒しているのか、宙に浮いたままジッとしている。もごもごとなに事かを口の中だけで呟いたが、なにを言っているのかレイスには聞きとることができなかった。
人影は油断なくレイスを見つめたまま、口を開いた。
「これが最後のチャンスだ。彼女がここにいたことは確かだ。言え、イシリア・リィ・モルテの居場所を」
「そんなやつ知らねえって言ってんだろうが!」
レイスが激昂の雄叫びとともに地面を蹴る。一瞬にして人影と同じ高さまで飛び上がった。人影は慌てて後退するが、それよりも早くレイスの右拳が三角帽子の顔面目がけて放たれる。
地面にいるときは暗くてよくわからなかったが、彼の周囲を黒い炎のようなものが取り巻いている。それは邪悪な悪霊のようでも、牙を剥く大蛇のようでもあった。
まずい。
そう思い、両腕をクロスさせて防御態勢を取るが、振り抜かれた拳によって腕の骨にまで痛みが浸透し、三角帽子の体は勢いよく吹き飛ばされる。
後に轟音が鳴り響いた。
隣家の壁に大きな穴が空き、瓦礫が辺りにまき散らされる。事前に薄くシールドを展開していなければ、今の一撃でやられていただろう。
ぎり、と歯軋りし、三角帽子はなにやらまた口の中だけで唱える。
粉塵が止み、視界が開けて来た。
そのタイミングを見計らって、三角帽子は先ほど崩れた家の瓦礫をレイス目がけて蹴り上げる。
体術強化の術式。いくら簡略化しようとも、魔術を行使する上で詠唱というものは必要になってくる。そして、あれだけの高速行動をしてくる敵ならば、その僅かな時間で確実に致命傷となるダメージを与えられるだろう。
ならば、ここはあえて拳を交わらせる方が得策だ。そういうふうに判断する。
今の自分ならば、目の前の敵と同等かそれ以上の高速行動が可能となる。相手がどの程度の実力かはわからないが、これでスピードにおいての優位性は消えたということになる。
という三角帽子の計算はまったくの無駄だった。
レイスは飛んで来た瓦礫を拳で受け止め、砕く。そして、足場のないはずの空中から一瞬にして三角帽子の許へと行動する。で押さえ
三角帽子の額に、レイスの左手が軽く添えられた。抗いようもないもの凄い力で隣家の壁に押しつけられる。膨大な圧力が三角帽子を襲い、凄まじい衝撃と痛みが体全体を蝕んでいく。
「がっ……はあ……」
三角帽子は吐血し、額や腕、体のあちこちから血が流れ、一部骨が砕けていたりもした。視界の端で火花が散り、三角帽子の意識が細かく寸断され、一瞬の気絶しては起き起きては気絶しが繰り返される。左手に力を入れると、ぴくりと小さく震えた。
まだ、動く。
「おいお前……」
民家の壁に貼り付けにされた状態にされたまま、三角帽はレイスの声に鼓膜を震わせた。使い物になる方の目をぎょろりと動かし、レイスの怒りに満ちた表情を注視する。
「一応聞いといてやる。何故こんなことをした、何が目的だ?」
「もく……てき……」
三角帽子が、くぐもった声でレイスの言葉を反芻する。
どうして自分はこんな目にあっているのだろう。何か目的があったはずた。目的は……。
そう思ったところで、自らの目的を思い出したのか、三角帽子の目に生気が戻った。
「ま、だ……こ、んな、ところ、で……おわ、れな、い」
三角帽子は体中に力を込め、超高速で蹴りを放つ。それによって、レイスの体が数センチ後ろへ下がり、三角帽子の額から彼の手が離れる。
その一瞬の隙をつき、三角帽子は飛び上った。レイスを振り返ることなく、どこかへと飛んで行く。
「待てっ!」
三角帽子を追おうとしたレイスだったが、足が動かなかった。足許を見ると、凍りついていた。
どういうことだ。
レイスが苛立たしげ氷から足を抜こうと躍起になる。が、どうやっても足を凍らせている氷から抜け出すことが出来ない。レイスは舌打ちし、しばらくそのままでいた。
数分後、氷が解けて足が自由になるころには、レイスから三角帽子を追おうという気は失せていた。
それよりも、イザナギの状態が気なる。
レイスは彼女に駆け寄り、その小柄な体躯を抱き起した。気持ちよさそうに寝息を立てているイザナギを見て、ホッと安堵の息を吐く。
「ん……レイス?」
「ようイザナギ。こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」
「こんなところって、ここリビングうおっ!」
目を覚まして最初に見たのが倒壊したレイスの家だったからだろう。イザナギは心底驚いたように目を見開いて、鯉のように口をぱくぱくさせている。
「何、どうなってんのこれ?」
理解出来ないというように眉根を寄せ、レイスを見上げるイザナギ。
レイスは肩をすくめ、
「俺にも何がなんだか分からん」
言って、レイスはイザナギの頭に手を置いた。イザナギはくすぐったそうに目を細めたが、彼の手を払い除けたりということはない。
「お前が無事で、本当によかったよ」
「何よ、それ」
照れ隠しのつもりなのか、イザナギがおどけたような口調で返すと、レイスもおかしそうに笑った。
笑顔の裏で、レイスは考える。
(三角帽子のあいつ。あいつは一体何者なのだろうか。何か目的があるみたいだったけど……)
イシリア・リィ・モルテという名前も引っかかる。どこかで聞いたことがあるのような気もするし、ないような気もする。
それに、三角帽子と戦ったときに現れたあの妙な力。怒りにまかせて振るっていたが、あれはいったい何だったのだろう。
不思議なことが一度に起こり過ぎて、レイスの頭はパンクしそうだった。
とにかく、今『天国』内でよくないことが起きている。それは間違いないだろう。
3
翌日、早朝。
レイスとイザナギは一時皇宮の一室に入れられ、そこで夜を明かした。警務省に連絡したところ、何故か皇宮直属の親衛隊が現れて、昨夜はここで大人しくしているよう言われたのだ。イザナギを病院に連れて行きたいと申し出たが却下されたことが、レイスとしてはあまり面白くない状況だった。
「何だってんだ、あいつら」
「まあまあ、そうカリカリするもんじゃないの。崩れた家で一夜を明かさなくてよかったじゃない」
「俺はともかくとしてイザナギ、お前は自分家に帰ればよかったんじゃないか?」
「それ、言ってみんだけど駄目って言われちゃった。色々と調べることがあるんだって」
「調べること? 何だそれ?」
「さあ? 私に訊かれても」
イザナギがテーブルに置かれていたお茶菓子の包みを開け、中身を口に放り込みながら答える。レイスは大の字になってベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
「せめて別々の部屋を用意してくれりゃいいのにな」
「何? レイスは私と一緒じゃ不満なわけ?」
「……そういうわけじゃねえけど、なんつうか年頃の男女が同じ部屋ってなんだかなーって」
「えー、レイスってば私のことそんなふうに見てたのー。不潔ー」
「不潔って何だよ。そういう雰囲気にならないとも限らないだろ」
「有り得ないって。この状況で」
イザナギがレイスに向けていた視線を部屋の中に転じる。レイスもそれにつられるようにして部屋中を見渡した。
全体的に金成分の多い部屋だった。壁から床から天井から、全てが金箔で覆われている。ここまで来ると、レイス達のような一般人はむしろ具合が悪くなりそうだった。唯一金色でないダブルベッドも高級そうな木材でできあがっていて、正直あまり落ち着かない。
「んにしても、どうしていきなり皇宮に呼ばれたんだろうな」
「昨日、先の折れた三角帽子を被った人がレイスの家を壊したって言ってたよね。それ関係じゃないの?」
「そんなの刑務省の仕事だろ。刑事に取り調べを受けるって言うなら分かるんだけど、皇宮に連れてこられた説明にはなってないだろ」
「……分かんないわよ。私には」
イザナギが唇を尖らせそっぽを向く。何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうかとレイスは先ほどの会話をさらってみるが、どうにも思い当たる個所が見つからない。
沈黙が二人の間を支配する。レイスがイザナギのうなじ辺りを見つめながら話題を探っていると、二人が黙り込むそのタイミングを見計らったかのように部屋の扉がノックされた。
返事を待たず、大柄な男が入ってきた。昨夜レイス達を連れてきた皇王直属の親衛隊の一人、ラインズ・ハッセと名乗った男だ。
ラインズはベッドで寝そべっているレイスを一瞥し、イザナギの方に視線を向ける。
「皇王様がお呼びだ。すぐに謁見の間に来るようにと伝達があった」
「分かりました。ほら、行くよレイス」
「マジかよ……今から二度寝しようと思っていたのに」
昨夜はよく眠れなかったのか、レイスが大きな欠伸を一つして、眠たそうに目の端に溜まった涙を拭う。どうやら本気で寝ようとしていたようだ。危なかった、とイザナギが内心で冷や汗をかいた。
ラインズに案内され、二人は謁見の間に向かう。広大な空間の中央に深紅の絨毯が敷かれ、奥に簾のようなもので顔を隠した人物が座っているシルエットだけが見える。
ラインズがうやうやしく片膝をつく。イザナギも姿勢を低くした。レイスだけが眠そうに体を揺らして立っている。
「レイス、イザナギの二人を連れて参りました、皇王様」
「ご苦労、下がってよいぞ」
皇王と呼ばれたシルエットは落ち着いた、しかし腹の底に低く響くような威圧感に満ちた声でそう言った。ラインズが下がるのを見届けると、皇王が口を開く。
「本日は我の召集に応じてくれて、まずは礼を言う」
「いえ、あの……お会い出来て光栄です、皇王様」
イザナギが緊張からか、やや上ずった声で言い、頭を下げる。レイスは重い瞼を必至で持ちあげ、
「こんにちは、皇王様」
「ちょ、馬鹿」
イザナギがすかさずレイスの頭を叩いた。無理矢理の跪かせると、慌てて謝罪を口にする。
「すみません皇王様。この馬鹿にはあとでちゃんと言って聞かせますから、命だけは勘弁してください」
慌てた様子のイザナギに向かって、皇王が愉快そうに笑い声を上げる。
「そんなことはせんよ。慣れないことが続いて疲れているんだろう、そっちの彼は大分眠そうだな。あなたもそうではないかな?」
「いえ、私は大丈夫です」
「そうか。気丈な娘さんだな。私の娘達にも見習わせたいくらいだ」
「はあ……」
イザナギが困惑の表情を浮かべると、皇王は咳払いを一つし、神妙な口調で、
「さて、本題に入ろう。今日君達を呼んだのは昨夜のことで話を聞きたいと思ったからだ。昨夜、君達は魔術師と思われる人物の襲撃を受けたそうだな?」
「それは……私は気を失っていたので詳しいことは分かりません。でも、魔術師っておとぎ話の世界のことじゃないんですか?」
「ふむ……その認識は致し方あるまい。そうなるよう、我らも八方手を尽くしているのだからな。だが、事実なのだよ。魔術師と呼ばれる人々は実在する」
「それは、確かなのですか?」
「ああ。極少数だがな。言い伝えでは世界の人口にまさに三分の二が魔術師だったこともあるそうだが、時代の移り変わりとともに彼らも衰退して行ったのだろう」
皇王はそこで一旦言葉を切り、
「魔術師とはその名の通り魔術と呼ばれる特殊な技術、技能を習得し、それらを手足のように使いこなす者達のことを言う。彼らは様々な分野に別れ、己が得意とする魔術をより高度なものとするため、日夜修行を積んでおる。それこそ、神の領域にまで足を踏み入れようとする者もおるくらいだ」
「そこまでする魔術師の目的ってなんなのでしょう?」
「それは分からん。世界を己が掌中に収めようとしているのかもしれんし、もしくは愛した死に人を蘇らせようと考えているのかもしれない。いずれにせよ、我が『天国』にとってあまりいい状況とは言えない」
二人の話を半分くらい聞いていたレイスが、そこで話に割って入った。
「だから、俺達に街に侵入した魔術師を探す手伝いをしろと?」
「そうだ。先日の魔族が何十人と消えた事件は聞き及んでいるだろう? 実はそれも、侵入した魔術師の仕業であるということが分かっている」
「そこまでする魔術師の捜索を俺達みたいな何の変哲もない学生にまかせていいんですか? とても役に立つとは思えないんですが」
「そのようなことはない。実は我々はまだ魔術師について何も分かっていない状態でな。外見の特徴だけも教えてもらえると大いに役に立つ」
それに、と皇王は簾の奥から子供のように弾んだ声で、
「お主らにも知られたくないことの一つや二つあるだろう?」
「狂迫ですか? 一国の王のすることとは思えませんね」
「仕方がないだろう。こちらも国の運命がかかっておるのだ。多少人の道に外れようとも、侵入者を野放しにしておくわけにはいかないのだ」
「…………」
レイスが考え込むように黙り込む。ちらとイザナギを見ると、不安そうな目で彼を見ていた。レイスは溜め気を吐き、肩をすくめて、
「分かりました。手伝います。こっちも、幼なじみを痛めつけられたままというわけにはいきませんから」
「レイス……」
イザナギが熱の籠ったような瞳でレイスを見つめる明らかに先ほどの不安は消えていた。代わりに、今度は期待と尊敬の念が強く感じられる。
それが、レイスの居心地を更にわるくさせていた。
「話はまとまったようだな。では、よろしく頼む」
「嫌だ、とは言えない状況を作っておいて何言ってんですか」
レイスがにやりと口端を吊り上げ、簾の奥の皇王を見やる。皇王はレイスをたしなめるように、
「そういうな。綺麗言だけでは世の中は回って行かないのはお主だって分かっておるだろう? これはその祭たるものだと思っておいてくれ」
「分かりましたよ」
黒い炎のことは、イザナギには知られたくなかった。あれがたとえどんな力を秘めているとしても、禍々しい蛇か亡者のようなものであることに変わりはない。
嫌われるのではないか、という懸念があった。知られたくないという思いがあった。
だから、皇王に協力する。決して正義と呼ばれるものに突き動かされたのではないことは、はっきりと分かっておかなければならない。
単なる保身を、そんなものと履き違えることは許されない。
いつ何時であっても、決して。
4
先の曲った三角帽子に黒いマトを羽織った典型的魔女スタイルの通称ブリザードと呼ばれている少女は痛む右肩を押さえながら、人気のない洞窟の壁に背を預け、座り込んでいた。
口許から流れる赤い液体を拭いながら、ブリザードは考える。
昨夜、対峙したあの少年。黒炎を操るあの力の前に、自分はなす術なく敗走した。それはいい。率直に認めよう。
認めたうえで、なおあの力に対抗するためにはどうすればいいんだろう。あんな力、魔術師の里でも見たことがない。全くの初見だった。
亡霊の怨念のように少年に絡みつき、途方もない力を与える類いの能力であることは間違いない。しかし、あの少年は自信のそんな力に気付いていないようだった。いや、気付いていなかったようだったと言うべきか。
既に認識し、完璧に操るための算段を練っていることだろう。もしそうなら、ブリザードにとってますます不利な状況になる。
彼への対抗策が、見出せない。
ブリザードは目を閉じ、探索魔術を応用した術式で、身体中の負傷個所を精査する。
肋骨が二、三本と頭蓋骨にヒビが入り、内蔵はぼろぼろ。右腕は骨が折れ、神経がねじれて脳からの信号が伝わっていない。唯一無事なのは左腕だけだった。
「ぐっ……ふう」
全身の痛みに、思わず顔をしかめ呻き声を漏らす。が、その痛みをおしてブリザードは立ち上がり、洞窟の壁に手を吐きながらゆっくりと洞窟から出る。
あの少年との戦闘からどれくらいの時間が経ったのかは分からない。少なくとも一日前後は経過しているだろう。ならば、既に捜索隊がその辺りを歩きまわっていても不思議ではない。一か所に留まっているのは危険かもしれない。
負傷した部分を凍らせて応急的な手当てを行っているのとはいえ、この体ではいつまでも動き回れるとは思えない。安心出来るところとまでは言わないが、せめて仮眠がとれる場所が欲しい。
ブリザードはふらつく足を何とか動かし、人気のない場所を探す。
あまり他人の目に触れたいとは思わないのだ。彼女の格好は目立ち過ぎるので、すぐに見つかってしまう。
仮にすぐ捕まらなくても、騒ぎを起こされるだけでブリザードは窮地に立たされる。『天国』という国にどれほどの戦力があるのか分からないが、もし戦闘機が五機程度、編隊を組んで現れたのなら命はないだろう。
そこまで考えたところで、ブリザードの足が止まった。地面に膝をつき、その場に倒れ込む。
彼女の隠れていた洞窟から数メートルと離れていない場所だった。生え放題の雑草がブリザードの肌を撫でる。その感触に思わず顔をしかめるが、それをどうこうするだけの体力が残されていない。
ブリザードは歯噛みした。
(まだ、目的を果たせていない。なのに、こんなところで終わるわけにはいかない)
悔しさが鮮血となってブリザードの口許から流れ出て行く。
動きたいという気持ちはあった。だが、ブリザードの心とは裏腹に体は言うことを聞いてくれず、指先を動かすことすら叶わなかった。
もう、駄目なのか。そう思い、諦めかけていた彼女の耳が、透き通るような美しい声を聞き取った。
「大丈夫……ですか?」
体は動かないので、眼球だけを動かして声の主を見やる。ちょうど太陽に被る形になってしまっているので、詳細な表情を読み取ることは出来ないが、心配してくれているのだということは分かる。
声からして、おそらく女だろう。
唇を動かしてみるが、明確な言葉を紡ぎ出すことは出来なかった。単なる呻き声が漏れただけだ。
だが、それだけで十分だった。
ブリザードに声をかけた女は、待っているように言い、どこかへと駆けて行く。動きたくとも動けない彼女からしてみれば、いらぬ一言だったように思えてならない。
数秒後、大柄な中年男を伴って女はブリザードの許に戻って来た。男はブリザードに声をかけるが、話せないと分かると彼女を抱きかかえ、どこかへと運んで行く。
(何だ……こいつらは。何をしている?)
虚ろな表情で、ブリザードが彼女を抱える男を見上げる。男は唇をきつく引き結び、一言も喋ろうとはしない。
男の隣から、女が顔を覗かせて、
「もう、大丈夫ですよ」
またも、逆境でどんな顔をしているのか分からない。
ブリザードは全身に気だるさを感じ、まぶたが重くなるのが分かった。
むかし、とある人物に抱きあげられたことを思い出す。
5
協力すると言っても、一体何をすればいいのだろう。
皇宮の中にある一室のベッドの上で、レイス・トライトンは大の字に寝転がって考えていた。
「俺に出来ることって何かあるんだろうか」
ぼそり、と誰にも聞こえないような小さな声でそう呟く。
実際、レイスがいる部屋には、彼以外は誰もいなかった。だだっ広い室内に自分一人だけというのも、妙な感じがする。
レイスをこの部屋に案内したあと、ラインズはイザナギを家まで送ると言ってどこかへ行ってしまった。どこかと言ってもイザナギ宅であるが。
それ以来、レイスのいる部屋を誰かが訪れることはなく、彼は一人退屈な時間を思案に耽ることで紛らわせている。
これほど騙し騙しな作業も他にないだろうな、と思いつつ、レイスは今現在自分に何が出来るのかという思考を再開する。
昨日、未明。
崩壊したレイスの家で、イザナギをまるでゴミのように放り捨てた先の折れた三角帽子を被った人物に向かって放った力が、今のレイスが持つ最大級の戦力だと言えよう。
怒りにまかせて振るったあの力が、あの三角帽子を撃退することに役だったのは事実だ。
だが。
レイス自身戸惑っていた。
あのときは怒りに任せていたので何とも思わなかったが、時間が経つにつれてレイスの体に巻き付くようにしていたあの黒炎。あれが、何かとてつもなく禍々しいものに思えてならないのだ。
(ありゃ一体何だったんだ? 本当に、俺があんなことを?)
隣接する民家の壁を打ち壊すほどの衝撃でもって三角帽子を破り、イザナギを守ることができた。でも、あの力が今度はイザナギや彼の周囲にいる人達に牙を剥くということはないのだろうか。
「いや、そんなはずはねえ」
レイスは首を振り、一瞬でも芽生えたその考えを頭の中から追い出す。
きっと大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせるも、自身はない。不安だけが、彼の心の内をどす黒く覆って行く。
最強だ最強だと言いつつも、いざ強大な力を持つと両腕が震えてしまう。足ががくがくとなる。体中が小刻みに痙攣する。
怖い、と思ってしまう。
日頃、魔族の横暴な態度や神族の冷たい視線、龍人族の冷静沈着な態度に接してきたレイスだが、彼らにとって自分は『天国』にいる人口のおよそ一割にも満たない人々と同じだ。嘲り、見下し、憐れむことはあったとしても、恐れることはない。
畏敬の念を抱かせたいと思っていた。自分が恐れおののかれることを望んでいたはずだった。
なのに今、レイスは自分自身を恐いと思っている。三角帽子を探すと決断したのはいいが、方法も分からない現状では下手には動けない。
三角帽子を見つけ出す前に味方を滅ぼしてしまったのでは、何の意味もないのだ。
では、どうするか。
今は大人しく情報が入ってくるのを待っているより他にない。
「失礼します」
レイスが考えていると、ノックもなしにいきなり一人の女性が部屋の中に入って来た。純白にいくつもの装飾が施された豪奢なドレスを身に纏った、美しい女性だった。
女性はレイスに向き直ると、ドレスの端をつまんで一例し、視線を向けてくる。
完成された陶器を思わせる、見る者に冷たい印象を与える双眸で。
「……ノックくらいしてくれよ」
レイスは上体を起こし、やれやれといった表情で女性を見る。
女性は悪びれた様子もなく、
「どうして自分の家でノックをする必要があるのです?」
「そりゃ、今は俺が使わせてもらっているからだ。もし俺が着替えの途中だったりしたらどうするつもりだ?」
「別に、どうもしませんよ。ただ着替えが終わるのを待つだけです」
「そうかよ」
レイスが軽く肩をすくめ、息を吐く。
女性の周囲には彼女を守るためのボディーガードのような者はいなかった。皇宮の中だから、ではないだろう。普通、皇王や皇女は皇宮の内外問わず、命を狙われる危険性があるため、本人の意思とは関係なく常に二、三人は周りに張り付いているものだ。
だが、今の彼女は一人。恐ろしく無防備だ。
「まさか皇宮内をお散歩ってわけでもねえだろうし、一体何の用だ?」
「勘の鋭い方は嫌いではありません。お察しの通り、大事なお話があって参りました」
「ノックもなしに無遠慮に入ってくるようなお姫様の話なんか聞く耳持たねえな」
「実は、ですね」
「無視かよおい」
レイスが思わず立ち上がるが、女性は気に留めず、さっさと自分の用件だけを口にする。
「お話というのは私の妹のことなのです」
「あん? あんたの妹?」
何だっていきなりそんな話をするんだ、レイスの脳裏のそんな疑問が生まれたが、きっとまたさっきの調子で無視されるだろうと思い、口にはしなかった。
黙ってベッドに座り込み、女性の話に耳を傾ける。
「私の妹。名をイシリア・リィ・モルテというのですが」
「イシリア……そいつって……」
イシリア・リィ・モルテ。その名には聞き覚えがあった。
「確か、あの三角帽子野郎が言ってた名前だ」
「そうですか。やはり、かの者が探していたのは我が妹なのですね」
女性は納得したように一つ小さく頷くと、続きを話し出す。
「私の妹、イシリアは幼いころよりこの皇宮の外の世界に憧れを持っていました。ここも絶対に安全、というわけではありませんが、皇宮の外よりは安全だと思われます。なので、日常的に何者かに命を狙われていた私や、私の姉などはイシリアのことを変わった娘だと思っていました。外に出ても恐ろしい思いをするだけなのに、と。もちろん、イシリアも常に誰かから狙われていたのです。ですが、あの子だけが外に出たがった。イシリアにはそういう、好奇心旺盛なところがあるのです。いずれ皇位を継ぎ、政治の担い手となる者を私達三人の中から、父上である皇王がお決めになります。たとえ選ばれなくとも、国の重要な役職につくことは約束されているのです」
「就職氷河期なんて言われている近頃じゃ、羨ましい話だな」
「そうとも言い切れないのではないですか?」
女性は目許を伏せ、悲しげに微笑んで見せる。
レイスは内心で息を吐き、
「どうして?」
「私どもには自由がないのです。皇宮の外の人々が当たり前に教授しているであろう自由というものが」
女性は顔を上げると、今までの陶器ような表情から人間らしい一面を覗かせた。
それがなんらかの痛みと戦っているような表情であることに、レウスはなんだか悲しくなった。
「……それで、自由が欲しいと?」
「いえ、そうは申しません。先ほどあなたが申しました今の時代の風潮に照らし合わせてみれば、今の私の立場は相当に恵まれているものであるのでしょうし、それが運命というのならば甘んじて受け入れるつもりです。……ただ」
「ただ?」
「妹は……イシリアにはそういう、皇族の者が負うべき運命とは別の人生を歩んで欲しいのです。あの子は私や姉とは違う。ただの一人の街娘として、人並みの幸せを手に入れられるかもしれない」
でも、と女性は一旦言葉を切り、
「今、イシリアは浸入者によって命を狙われている。命を落としてしまっては、誰も幸せを掴むことは出来ないのです。ですから、あなたに、妹を守って貰いたい」
ともすれば冷徹とも取られかねないほど冷ややかな目でレイスを見る。しかし、その内側にはら真摯な願いが込められているということを、なんとなくだがレイスは感じ取ることができた。
感じ取った上で、レイスは一旦目を閉じ、また開ける。
「……断る」
「…………」
予想していなかったわけではないが、それでも実際に言われると胸にナイフが突き刺さったかのような痛みが走る。
女性はぎゅっと胸の前で手を握り、挑戦的な視線をレイスに向ける。
「理由を、聞かせて貰えますか?」
「……俺じゃ役不足だ」
レイスが簡潔に言うと、女性はほうっと息を吐いた。
まだ、説得の余地があると思っているのかもしれない。
「報告は受けています。あなたが黒い炎を纏い、侵入者を撃退したということは。その力があれば、我が妹を守り抜くことが可能です」
「アンタは、俺のこの力のことを何か知っているのか?」
「…………」
女性が、黙り込む。
言っていいものかどうか迷っているような表情で、視線を右から左へ、左から右へと彷徨わせる。
そして、結論が出たらしい。
「あなたは、『魔女の楽園』というお話をご存じですか?」
「ああ。子供向けの絵本何かに出て来るおとぎ話だろ? 俺も小さいころはよく聞かされたよ。それがどうした?」
レイスは戸惑いを表すように眉根を寄せ、首を傾げる。
有名な童話だ。だが、それがレイスの黒い炎と何の関係があるというのだ。
「ええ、有名なおとぎ話です。誰もが知っている。そして、それ以上の意味があるだなんて誰も思いません」
「何を……?」
「このお話が実話を元に作られていたとしたら、どうしますか?」
真っ直ぐにレイスを見つめ、抑揚の薄い声で女性が言う。
「そんなわけないだろ」
言葉では否定したが、内心では戸惑いが生まれる。
誰もが知っているようなおとぎ話。幼いころから聞かされ続け、一時期はその魔女に憧れもした。が、中学に上がる前には作り話だと思うようになったあの話が、
本当の話……だと?
レイスの理性は、そんなことはないと否定しているが、どこか違う部分であの話は真実であると告げていた。
ずっと、子供騙しのおとぎ話だと思っていた。事実なのかもしれないなどとは一瞬も考えたことはなかった。
それが、ここに来て……、
「〝魔女は恋人の死を悲しみ、彼の眠る丘の近くに小屋を建てて永遠に彼の側にいることに決めました〟」
女性が『魔女の楽園』の一節を口にした。レイスにも聞き覚えがある。一番最後に魔女が恋人の死を悼み、ずっと側にいると誓う場面だ。
「あなた達はここまでしか聞いたことがないはずです。私どもがそうなるよう手を加えましたから」
「どういう……?」
「簡単なことですよ。事実がそのまま露呈していれば、人々は魔術という馬鹿げた力を持つことになります。そうなれば、話合うより先に殺し合いが始まるであろうことはあらかじめ予測出来ていました。そうなることを避けるために、初代の皇王はこのお話に手を加えることにした。この事実を知るのは、皇族の者と魔術師だけです」
「じゃあ、あの話には続きがあるってのか?」
「そうです。お話しましょう。『魔女の楽園』、その真実を」
6
埃っぽい天井を見つめているうちに、ブリザードの意識は段々と鮮明になってきた。それと同時に思い出される痛みに顔を歪めながら、彼女は上体を起こす。
首を巡らせて、怪訝そうな声でブリザードが呟く。
「ここは……?」
見たこともない場所だった。部屋全体が木材で作られており、床には赤毛の絨毯が敷かれている。
そこで、被っていた帽子がいつの間にか消えていたことに気づいた。ついでにマントも。
ブリザードが慌てて辺りを見回すと、木製の扉のすぐに横にかけられていたそれらを見つけた。一先ず、ホッと息を吐く。
ノックされたあと、扉が開かれる。薄桃色のふんわりとした髪質の少女が入ってきた。手には水の入った桶と乾いたタオルが抱えられている。
どうやら、この少女がブリザードを看病してくれていたらしい。が、礼を言うよりも先に彼女の左手が少女の首許に伸びる。
「何をするんですっ!」
少女は水の入った桶を取り落とし、両手で必至に抵抗した。ブリザードの方は片腕だけでしかも怪我をしているというのに恐ろしいほどの力で締め上げてくる。
そんなブリザードに対し、少女は貧弱だった。
「……イシリア・リィ・モルテ……悪いがここで死んでもらう」
ブリザードの声は、怖気が走るほど平坦なものだった。
酸欠になりそうになりながら、少女は必至に手足をばたつかせてブリざ―ドの手から逃れようとする。
少女の右足が偶然、ブリザードの脇腹に当たった。ちょうど怪我をしている個所だ。ブリザードは少女の首から手を離し、呻き声を上げてその場にうずくまる。
少女はブリザードから解放されて、軽く咳き込みながらも彼女の側に膝を折る。
「大丈夫ですか?」
「触るなっ!」
ブリザードが自分に添えられた少女の手を乱暴に振り払う。その動作がまた傷口を刺激し、じくじくとした痛みを発する。
おろおろしている少女の背後から、慌てたような男の声が聞こえて来た。
「どうした、大丈夫か」
「おじさん、この子まだ怪我が治ってないのに動き出しちゃって」
「私は……まだ動ける。こんなもの、不要なんだ」
ブリザードは右腕に巻き付けられている包帯を忌々しげに睨みつけ、少女と男に向かって毒づく。
「何の、つもりだ。どうして私を助ける?」
「どうしてって、あなたが倒れていたから」
「シルトに言われて駆け付けたときにはびっくりしたよ。なんせ店の裏で人が倒れていたんだからね」
「……店? シルト?」
ブリザードは眉を寄せ、男の言葉を反芻する。
男は人のよさそうな笑みを受けべてブリザードを抱き上げてベッドまで運ぶ。横たわらせると、 男は誇らしげに胸を張り、
「そう、花屋『七色の麗花』。僕はここの店主、アルフレッド・ラザニエルって言うんだ。こっちのかわいい子はうちで働いて貰っているアルバイトのシルト・ベフィットだよ」
「シルト・ベフィット?」
「えっと、シルトです。よろしくお願いしますね」
そう言って、少女――シルトは深々と頭を下げる。その様子を見ながら、ブリザードは目を細め考える。
確かに見てくれはイシリア・リィ・モルテだ。声も姿も、彼女が知っているかの人物とよく似ている。本人だけが違うと言い張るのであれば疑わしいが、一般人であるはずの花屋の店主、アルフレッドまでも少女をシルトと呼ぶ。他人のそら似ということは十分に考えられることだ。
(やはり、別人なのだろうか?)
ブリザードの脳裏に、混乱が生じる。先ほどまでの確信が揺らぎ、ノイズのような不快感が彼女を襲う。
シルトをここで殺して、もし別人だということがわかれば目覚めが悪い。
ブリザードが考えを巡らせていると、横合いからシルトが顔を覗かせてくる。
「まだ動いてはいけませんよ。怪我をされているのですから」
いたずらっ子をたしなめるように優しく言い、シルトがウインクする。ほんの数分前までは殺しかけた相手に対し、何故そういう態度が取れるのか、ブリザードには不思議でならなかった。
シルトはアルフレッドを振り返ると、
「ここはわたしに任せて、おじさんはお店の方をお願いします」
「そうかい? じゃあ任せたよ」
そう言って、アルフレッドが階下へと下りて行く。シルトは部屋の扉を閉め、ほうっと息を吐く。
それは、殺されずに済んだという安堵の息だったのかもしれない。あるいはもっと別のなにかがあったのか。
どちらにせよ、確信が持てるまでは動けないだろう。
7
危なかった。
内心ではこの上なく焦っていたが、表面上は何とか取り繕うことが出来ただろう。
木造家屋の二階。今は花屋『七色の麗花』の店主、アルフレッド・ラザニエルが寝起きしているベッドに、彼ではない別の人物が横たわっている。
先の折れた三角帽に真っ黒なマント姿で倒れていた彼女を、イシリア・リィ・モルテは安堵の息とともに見やる。
先刻、自分の首に手をかけ殺そうとした人物を保護しようとするのは、いささか恐いものがある。だが、これが正解なのだとイシリアは思っていた。
彼女が何者かはおおよその見当はつく。あの奇抜な格好といいおとぎ話の『魔女の楽園』に出て来る魔法使いにそっくりだ。
つまり、彼女は、
「……本物の魔女、なのですか?」
「何故そんなことを聞く?」
イシリアを油断なく見つめたまま、彼女が問い返す。イシリアはふっと微笑んで見せて、
「この国に伝わるおとぎ話です。『魔女の楽園』って言うんですけどご存じないですか?」
「知らないな」
「そうですか」
顔色一つ変えず、抑揚の薄い声調で答える。そんな彼女に、イシリアは懐疑的な視線を送る。
そんなはずはない。
目の前で横たわる彼女は自分の名前を知っていた。そして的確に殺そうとまでした。ならば、これくらいのことは知っているはずである。
イシリアは警戒しながら、ゆっくりと彼女に近寄る。ベッドの端に腰を下し、
「少しお話しましょう。横になったままというのも退屈でしょうから」
彼女の顔や体全体に視線を走らせて、イシリアは微笑みを崩さないまま語り出す。
「昔々、あるところに一人の魔女がいました。魔女は大層美しく、傲慢で自身家でした。欲しいものは魔法で何でも手に入れ、彼女が望まないものは何でも魔法で消し去って行きました。
ある日、魔女の前に一人の旅人が現れました。怪我をし、身動きの取れない彼の傷を魔女は魔法で癒してあげました。旅人は魔女にたいそう感謝し、お礼にと木彫りの人形を作り、彼女にプレゼントします。欲しいものは全て魔法の力によって手に入れて来た魔女にとって、誰かからの贈り物というのは初めての経験でした。この上なく嬉しかった魔女は、その旅人に恋をします。しかし、旅人はもう行かなければと魔女のもとから去って行こうとしました。そこで魔女はいつものように魔法を使い、旅人を引き止めました。それがよくありませんでした。旅人には命に代えても果たさなければならない使命があったのでしょう。魔女の魔法を無理矢理に破り、旅に出ようとします。でも、旅の再開は出来ませんでした。何故なら、旅人は死んでしまったからです。無理矢理、魔法の力に対抗したのがよくなかったのかもしれません。魔女は大泣きしました。とても悲しかったのです。それから、魔女は小高い丘の上に旅人の墓を作り、一生彼を弔って生きることに決めましたとさ」
語り終えると、イシリアはふうと息を吐き、ベッドの上で横たわる彼女に視線を向ける。
「これが、わたし達の国に伝わるおとぎ話です」
性格には、その一部。
彼女は天井に目を向けたままだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「その魔女は旅人が手に入ると思ってしまったのか……」
「そうですね。何でも手に入れることの出来た魔女は旅人でさえも自分のものに出来ると思いこんでしまったんです」
「哀れなことだな」
彼女はふっと、嘲るような笑みを浮かべる。しかし、それが誰かに向けてではなく、自身を嘲笑しているのだというふうに、イシリアには感じられた。
まるで、自分もおとぎ話の魔女と似たような経験をしてしまったかのように。
「その魔女は、きっとこう思ったはずだ。〝もしもあのとき、自分が彼を無理矢理手に入れようとさえしなければ〟と」
「そう、ですね。きっと後悔したと思います。ですから、このお話はこの先誰かが同じように後悔することのないよう、最善の方法を常に考えて行動しろ、と言っているのだと思います。一時の感情や自分本位な考えに惑わされず、誰かが誰かのことを思って行動しろ、とそうわたし達に教えてくれているのだと」
「最善の方法……か」
彼女は目を閉じ、考える。
イシリアが語ったおとぎ話の魔女が、もしもう一度旅人と会うことができる方法を見つけることができたのなら、魔女は迷わずその方法を試すだろうか。たとえ何十人という誰かを犠牲にして、たった一人を生き返らせるような、そんな不等価交換を行おうとするだろうか。旅人や自分の人生とは関係のない一国のお姫様の心臓を差し出さなければならないとしたら、魔女は実行に移しただろうか。
もしも自分が、魔女のと同じ立場だったら、どういう選択をするのだろう。
彼女はゆっくりとまぶたを上げると、小さく息を吐いた。
考えるだけ、無駄なことだ。答えは決まっている。
彼女はイシリアに向かって問いかける。
「……もしも、魔女が旅人を蘇らせる方法を見つけたとしたら?」
「えっ……?」
イシリアが思わずといった様子で彼女を見た。ベッドにから上体を起こし、イシリアを見つめて彼女が言う。
「魔女が旅人を蘇らせる方法を見つけたのだとしたら、お前だったらどうする? お前が魔女の立場だったら」
「それ、は……」
そんなふうには考えたことがなかった。考える暇もなかった。
皇宮の外に出ることを許されるまでの十年間、イシリアにはあらゆる教育が施された。帝王学、蘭学、哲学、そして魔法学。前半二つは人の上に立つ者として当然のことだと思った。でも、魔法学については違った。
魔術師になるわけでもないのに魔法学など勉強して何の意味があるのだろう、無駄ではないか。そう思っていた時期も確かにあった。
でもそれは、いずれ国を治めなければならない立場からすれば仕方のないことなのだと最近になってようやく気づき始めた。今からほんの一年前のことだ。それからは徐々に、魔法学の勉強にも身を入れて取り組むようになった。
その一つとして、死人が再び生き返ることはない、というのがある。どんな高度な術式を用いようと、一度死を迎えた人が蘇ることはあり得ない。有から無を生み出すことはあっても、無から有を形づくることはできない。そのことは当たり前の知識として、イシリアの記憶にはそう刻まれている。
だから、彼女の言葉をイシリアは否定するしかなかった。
「そんな方法、あるわけが……」
否定の言葉を放ったはずの自らの声が震えているのが分かる。死人が蘇る方法なんてない。そんなものは存在しない。そう理屈の上では理解しているつもりだ。
だが、抗いようもないなにかがイシリアの脳内を侵食していく。
自分も知らない方法がある。知識がある。そのことに軽く目眩を覚えるほどだった。
そんなイシリアの様子を見て、彼女が軽く肩をすくめた。せ
「悪い。意地悪な質問だったな。そんな方法があるわけがない」
「えっ……ああ、そうなんですか……」
最初の氷のような冷たい印象からかけ離れた彼女の行動に、イシリアは全身から力が抜けていくのを感じた。目眩も収まり、平常通りの彼女に戻る。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね」
「名なんてない。知り合いからは氷のような女ってことでブリザードって呼ばれている」
「そうですか。ではブリザードさん、わたしちょっと体を拭くものを持って来ますね。少し待っていてください」
「いいよ。そんなに気を使わなくて」
「でも、二日間もお風呂に入ってないんですから気持ち悪くないですか?」
「この程度のことはしょっちゅうだ。慣れている」
「駄目ですよ、女の子なんですから。いつも綺麗にしていないと」
そう言い残して、イシリアは駆け足で階下へと下りて行く。ブリザードはその背を見つめたまま、呟く。
「悪いな」
聞こえなかったのか、あるいは聞こえない振りをしているのか。どちらにせよ、普段とは違う弱々しい声にブリザード自身体温が上昇するのを感じた。
聞こえていなければいいな、とブリザードは思った。
8
妹を守って欲しい。そう言うだけ言って、イシリアの姉はレイスのいる部屋から去って行った。レイスは困ったように眉根を寄せ、小さく息を吐く。
「つっても俺、あんたの妹さんとは面識すらないんだけど……」
自分にはどれほどのことが出来るか分からないが、守って欲しいというのであれば出来る限りのことはしたいと思う。思うのだが、対象の顔すら分からない状態で、何をどう守ればいいのか見当もつかない。
とりあえずベット横になってみる。聞かされた『魔女の楽園』の真実。丘の上で旅人を弔い続ける魔女の悲しき願いと、それを叶えるたった一つの方法。その二つについて考える。
「やっぱ、駄目だよなあ」
使者を蘇らせるなんて馬鹿げた目的を果たすために、侵入者は皇族の者、特に第三皇女イシリア・リィ・モルテという人物の命を狙っているのだとイシリアの姉は言った。冥界の王に彼女の心臓を差し出せば、代わりに他の者の魂を返してくれるのだという。そうして、おとぎ話の中の魔女も旅人を蘇らていた。
大切な人、愛する者と再び会いたい。その思いは、レイスにも想像できないことはない。だが、それは死者への冒涜なのではないだろうかとレイスは思う。どんなに悲しくとも、どんなにつらくとも、どんなに痛くとも、死者を蘇らせるなんてことはしては駄目なのだと。これは彼だけの意見ではないだろう。他大勢の、一般的な考え方にほど近いところにあると思う。
だが、同時に彼の考え方は大切な者を一人として失ったことのない者の考え方だ。悲しみを経験したことがなく、取り残される痛みを知らない者の認識だ。
だから、死者に蘇って欲しいと願うのは悪いことではないのではないだろうか。そう思う自分もいる。
まだ、明確な答えが導き出せないでいた。
「……分かんね」
ごろんと寝返りを打つ。どういうふうに考えればいいのか、いったいなにが正しい答えなのか、レイスにはわからない。その答えを導き出すには、レイスは知らないことが多すぎる。
そして事態は、彼の成長を待ってなどくれない。むしろ、レイスを置いてけぼりにしてどんどんと進行していく。
「レイス・トライトン」
ノックもなしに部屋の扉が乱暴に開け放たれ、親衛隊隊長、アザカ・モリスンが仏頂面を引っ提げて入ってきた。そのことに辟易しつつ、レイスがどこか呆れたような調子で言う。
「皇宮の連中ってのはどいつもこいつも礼儀を知らないやつらばかりなのか?」
「どういう意味だ、トライトン?」
「どうもこうも、そのまんまの意味だが」
レイスとアザカが互いに睨み合う。近くにいた取り巻きの親衛隊員が慌てて間に割って入る。彼らの行動により、アザカがこほんと咳払いをして、
「捜索状況に進展があったので知らせに来た。侵入者の居場所が分かった。すぐさま潜伏場所へ向かうぞ」
アザカが乱暴に言い放つと、レイスは舌舐めずりをしてぱんと手を打った。
「待ってました。いっちょ派手に暴れてやりますか」
最近、中学時代に集めてた漫画が面白かったり。