一章2「中年魔王の憂鬱」
魔王クラウジフルは朝に弱い。
魔族たるもの、朝に弱くて夜に強いのはもって生まれた生態のようなものではある。
しかし近頃、ちょっとしたことで年をとってきたと自覚することが多く、摂生と規則正しい生活を心がけている身からすれば、いくら努力したところで矯正のしようがないそうした遺伝子レベルの縛めがわずらわしくて仕方なかった。
まぶたをさす光が痛い。うるさい。……眠い。
「様。――です。おはようございます」
響いた声には張りもなく、声量もぎりぎりまでしぼられているのに、不思議と染み渡る心地だった。
眉間に皺を集めながら、魔王はうっすらと目をあける。
ぼさぼさの頭をした少女が、平淡な表情で寝台に横たわる彼を見つめていた。
「――おはよう、シユ」
喉を震わせた声は、自分でも驚くほどにしゃがれていた。
加齢とは日々が驚きの連続である。むろん、悪い方向への。
自虐的なネタを思い浮かべながら、よっこらせと上半身を起き上がらせると、今朝方に汲まれたばかりの水を注いだ少女が、黙ってグラスを差し出してくる。
「ありがとう」
少女はにこりともしなかった。
よく冷えた水が喉元を過ぎる。意識が覚醒し、しわびた細胞に活力が行き届いた、ような気がした。
さっとカーテンがとりはらわれて、室内が白く染まる。
急激な明量の変化に生理的な反応がおいつかず、魔王はまぶたを閉じた。すぐに開けば、もう視界の色は落ち着いている。
「……いい天気だ」
「はい」
窓の外には白々とした光があふれていた。
“魔界”と呼ばれる魔族領ハバルランは、年中を通して天候が優れない。
日の恵みの乏しい痩せた地。それが彼らの大地だった。
「シーツを。干させないと」
「はい」
「城中のものを、こんな日は滅多にないぞ……」
「はい」
独白じみた台詞は、寝ぼけているような気配でもある。主人の呟きに少女が律儀に答えていた。
「――魔王様。朝食の準備が整っております」
侍女役の魔物が、妖鳥族特有の歌うような声音で扉の外から語りかける。
「ああ。すぐに行く」
いくらか外向けにつくることに成功した声で答え、魔王は羽毛を敷き詰めた寝台からおりる。
衣装棚に向かい、陳列されたなかから適当にトーガをとって袖をとおす。
侍女役の者が手伝うことはない。
そうしたことを魔王本人がうっとうしがったし、それに少女もいる。
みすぼらしい身なりの少女はなにをするでもなく、部屋の片隅にたたずんで魔王の着替えを見つめていた。
彼女が魔王の手伝わないのは不遜ではない。
少女は侍女ではなく、奴隷だった。
侍女役が魔王の着替えを手伝うどころか、室内に入ってこないのはその少女の存在ゆえのことである。
人であれ魔であれ、それが集団となり、互いに役を担って生活している以上、そこには規律も必要になるしそれにともなった軋轢も生まれる。
職業意識に、牽制。敵視。
広大な敷地に膨大な魔物がはびこる魔王城だからこそ、日々を過ごすだけでそこにいる者たちから起きる摩擦は激しかった。
魔王クラウジフルはその頂点に立つ魔物であり、つまりは家長であり、ようするにそうした全ての面倒ごとはいつも山のように彼に降り注いでくるのである。
はあ、とため息をつきかけて、魔王はあわててそれを吸い込んだ。
――魔王ともあろう者が、弱気な態度を見せないでください。周囲が不安になります。
そう奴隷の少女から怒られたことがあるからだが、ちらりと様子をうかがうと、相手には聞こえていないようだった。あるいは聞こえていない振りをしてくれただけかもしれないが。
黙然としている少女の様子を眺め、魔王は今度は胸のなかで息をはいて、衣装棚の影から進み出た。
少女が彼を見る。
魔王は言った。
「今日は忙しいか」
魔王も決して暇な職業ではない。
別に自ら人間界に乗り込んで村を焼いたり、姫をさらったりするわけではないが(むしろそうした面倒なことは彼は絶対にやりたがらなかった)、領地を治める立場である以上、彼が決済しなければならないことは多々あった。
彼は少女に会合や謁見、陳情の予定などの今日の予定について訊ねたわけではない。
秘書でもない彼女はそうしたことを聞かれる立場になかった。
魔王の質問を受けた少女は、ゆっくりと一度まばたきをしてから、
「昨日の、お城の掃除をしてまわる予定です」
自分の予定をのべた。
「そうか」
魔王はうなずいて、ふと思いついたように言う。
「掃除は城の者で手の空いた連中にも手伝わせよう。昼頃、少し外に出ないか。丘の上まで。きっと風が気持ちいい」
無言。
じっと見上げてくる視線に、中年の魔王はあわてて言葉を足す。
「いや、嫌ならいいんだが。久しぶりにあそこからの景色を見てみたくなったんだ。忙しいなら、別にかまわないぞ」
「……なるべく早く、お掃除をすませておきます」
少女が答えた。
やはりにこりともしない少女の眼差しから逃れるように、魔王は目をそらす。
「そうか。そうしておいてくれ。食事にいこう」
「はい」
部屋を出る魔王に、少女は淡々と従う。
魔王のわがままで、食事の場所も彼の寝室に近い部屋に移されている。
採光性に乏しい城内はいつも暗いが、今日は外の天気がよいおかげで朝から篝火を必要とするほどではない。
会話なく廊下を歩き、扉をあけると、巨大なテーブルに一人分の食膳が用意されていた。
部屋の隅には給仕役の魔物が控えている。
少女の食事はないように見えるが、テーブルに隠れた床の上に配膳がされていた。
魔王が椅子に座り、少女が床に腰をおろして。
無言の朝食がはじまる。
魔王は用意された食事を半分ほど残した。
もともと食が細い方で、朝には特にそれが顕著だったが、すぐ近くの床で食事をする相手がいて旺盛な食欲が沸くはずもなかった。
妙なところで細かい。神経質ともいえる、魔王クラウジフルはそうした人となりの魔人だった。
彼は早くに妻を亡くし、それからは独身を貫いている。
子はいない。
だから幼子の気持ちは彼は理解できない。それが人間の少女であればなおのことだった。
彼のそばでは、質素な食事を終えた少女が両手をあわせて祈りを捧げている。
魔王の膝元で、いったいどこの神に、なにを祈るというのか。
それが冗談であるなら笑えもするが、瞳を閉じた少女の顔つきは真摯だった。
声をかけてからかうどころか、邪魔をするのもなんとなくはばかられて、魔王は少女の祈りが終わるのを息をひそめて待った。
強大な魔王がちっぽけな人間の子どもに気を遣っている。
その様子はどこか奇妙で、こっけいですらあった。
そうした自覚が本人にもないわけではないが、だからといってどうすることもできないというのが魔王クラウジフルの現状である。
端的にいってしまえば。
彼はこの奴隷の少女の扱いに困り果てているのだった。