一章1「奴隷少女の朝のおつとめ」
奴隷少女マジカルスレイブ・シユ――ではなく。ただの奴隷の少女であるシユの朝ははやい。
彼女の寝床は魔王城内の端にある。
石敷きの冷たい、便の悪さから長く使われていなかった倉庫の一室が彼女の居室だった。
居室という表現には御幣があるかもしれない。
その部屋には日差しがはいらず、半地下にあって湿気がひどい。暖炉もないため昼夜をとわず冷え切っており、息を吐けばいつも白いものが散った。
彼女はそこでもう一年近くのあいだ過ごしていた。
生活に必要なものが最低限そろっている以外はがらんとした、調度品のない室内。
彼女がここに寝泊りすることに、魔王城のほぼ全員が反対だった。反対論者の筆頭は誰あろう、魔王クラウジフルその人である。
基本的にはめんどうくさがりのくせに、変なところで生真面目で物事に細かいその中年の魔王は、人間の子どもにはあったかさと、なにより日差しが大切であると強くうったえて、相応の部屋を準備するよう部下に命じようとした。
それをいらないとつっぱねたのは他ならぬ少女だった。
私はあなたの客人ではなく、奴隷です。そう言って、彼女は魔王とその部下が用意した豪奢な部屋を固辞し、今いる部屋にうつった。
魔王を先頭に魔物たちがなだめすかし、脅し、最終的には半ば無理やりに彼女をあたたかい部屋に閉じ込めたりもしたが、そうすると彼女はなんとかして部屋から脱出しようとこころみた。
魔法で出入り口を封じられてしまうと、食事をとらなくなった。水さえ受けつけようとしない少女の体調が著しく悪化し、彼女になにか食べさせるためには魔法で無理やり言うことをきかせるしかない――そうした状況を前にして、ついに魔王は説得をあきらめた。
それから少女は、ずっとこの部屋に住んでいる。
彼女の私物はうすっぺらい毛布と、縁がぼこぼこになった皿の器。それから木の桶と花瓶の四つ。
あとは彼女がまとったぼろぼろにすりきれた衣服と、彼女自身だけだった。
はじめのころは魔王や城仕えの魔物たちから毛布や衣服が山のように贈られたものだが、彼女が決してそれらを受け取らないことがわかると、やがて少しずつその数は減っていった。だから彼女は今でも、ぼろきれのような服をまとっていた。
まったく住むのに適していない彼女の居室ではあるが、ただ一つ、部屋の警備だけは城主の魔王近辺と同じか、それ以上の厳重さだった。
魔王がそうしろと命じたことに加えて、本人非公認の『シユ様を生温かく愛でる会』の有志たちによって警護がされている。ちなみに、彼ら『生愛会』メンバーは、夜回りの際、彼女の部屋の外壁にそっと外側から炎をふきかけて、少しでも室内の温度を高めようとするのが日課になっていたりもする。
それが元になって魔王城で小火が起きることも一度二度ではなかったが、事情を察した魔王は渋い顔こそするものの、結局は彼らを罰さないのだった。
奴隷の少女はそうした環境のなかで、毎日の朝を迎えていた。
魔界の夜は凍えるように寒い。
実際、曇天の下には雪が降り積もることが大半だった。
人間ならば、大の大人でも厚みのない毛布一枚では耐え難い。彼女は四肢を抱き、卵のように丸まってその寒さをしのいだ。
最初の一月はまるで眠れず、ようやくかすめるような睡眠をとれるほどに身体が慣れたあとにも、自分の歯の根が鳴る音で目が覚めることがあった。
今でもそういうことはある。
だから彼女は、いつもとても早起きだった。
朝方というのには早すぎる時間に目を覚まして、彼女はまず木桶を手にもって外へ向かう。
城内を巡回中の魔物たちに頭をさげながら城外にでて、裏口近くの井戸から水を汲む。そうした行いは、彼女が魔王城に来る前から続く習慣のようなものだった。
木桶に水をはったら、それを両手で持って城内へ。
そ知らぬ顔で扉を開けていてくれる魔物に礼を言い、短くない距離を歩いて部屋に戻り、顔を洗う。桶の水はかじかむような冷たさだった。
頭に手櫛をとおして手と顔を清め、彼女はすぐに仕事にとりかかる。
魔王城は広い。一年近くいる彼女もまだ、足を踏み入れていないところもあるほど、縦に、横に、地下に広がっていた。
その広大な城内のせめて手に届く範囲だけでもと、毎日の掃除をするのが彼女の朝の日課である。
城にいる魔物たちの全てが綺麗好きというわけではないから、城内にはごみや汚物が落ちていることもある。そうした目につくものを片付けるだけで、けっこうな手間だった。
ちょこちょこと城内を掃除していて、そろそろ日が昇りそうかなという時間になったら、彼女は掃除道具を片付けて主の部屋へと足を向ける。
城主である今代魔王クラウジフルの寝室は魔王城の最奥、謁見の間の後方からさらに進んだ先にあった。
先代が使った豪奢な寝室は城の最上階にあるのだが、生来めんどうくさがりの魔王は執務場所への近さから、玉座に近い個室の内装をはりかえてそこを自分の寝室としていた。元々の寝室は、少女が使うようにと指示されたが、彼女が断ったために誰からも使われていない。
魔王クラウジフルは派手を避け、騒ぎを好まず、面倒を嫌う。さらにいえば、多分にひきこもりの気質があった。
彼女が向かった部屋の扉にもそれはあらわれている。
他の部屋とまったく異ならず、扉には豪奢な飾りも頑丈なつくりもされていなかった。
変わり者の魔王。
呆れや嘲り。そうしたものとともに囁かれる心無い言葉を思い出しながら、少女は扉の前で深呼吸をする。
そそうのないように喉の調子を整え、手の甲で木製の扉を軽く叩いて、
「――魔王様。おはようございます」
内心で数を数える。
数字や文字などを、彼女は魔王城に住むようになってから学んでいた。もちろん、奴隷として必要な知識として。
両手の数を越えたところで、もう一度ノック。
少しして、扉の向こうからうめき声のような返事がこたえる。
ノブに手をかけ、音をたてないようにひく。
身体をすべりこませるようにそっと室内に入った。
閉め切ったうす暗がりのなか、天蓋つきの寝台が目に入る。
彼女の主はそこに埋もれるようにして休んでいた。
声をひそめて寝台に近づく。
寝台をのぞきこめば、いつも疲れたような顔が、眠りながらも疲れたように苦悶していた。
――この人の疲れはいったいいつとれるのだろう。
そんなことを考えながら、彼女は声をかける。
「魔王様。朝です。おはようございます」
重たげなまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。
世の全てを疎んでいるような、ふてくされた子どものような。見るたびに違う感想を抱く深い色合いの瞳が、一瞬虚空をさまよってから、彼女に焦点を結ぶ。
「……ああ。――おはよう、シユ」
寝起きのときだけにみせる不機嫌そうな声。
はい、と少女はうなずいて、小さく微笑む。
笑うといっても、彼女の表情にはほとんど動きはない。
彼女以外には誰も気づかない、自分だけの笑み。
それを自分のために浮かべることが、彼女の朝の勤めのおわりであり、はじまりだった。