―Ⅷ―桜の影に
「ちっ――刻ううううううううううっ!!」
盛大に吠え、まだ慌てていなかった同級生から上級生まで驚いてこちらへと振り向いて、素早く道を開けてくれた。疾走する在人は、持ち慣れていない重たい鞄を背負って全力で駆けていく。
道行く同じ学校の生徒は、茫然と見送って、慌てたように後ろから走ってきている。
車の通行量が少なく、信号無視しても万が一接触しないだろう道を昨日のうちに調べ上げ、ショートカットできる通学路という通学路から、企業の駐車場のコンクリート塀を乗り越えて更に短縮できる場所など、便利な所は引っ越してすぐ、探検がてら調べつくしていたはずなのに。
初日から寝坊。そして弟はまだ小学五年なだけに、学校は違うしあいつのほうが家から目的地まで近くてゆっくり眠れるなんて。
「んの馬鹿翔矢……っ! 昨日散々ゲームで邪魔してくれたおかげで寝不足半端ないのにこっちは!」
本気で眠い。けれど時間は簡単に寝かせてなどくれない。
大体昔の漫画のように食パンを加えて全力疾走する、入学して二日目の女子中学生なんて絵にもならないだろう。それも大股で、力強い走りで。
朝起きれば七時半。徒歩四十分近い場所から行くのに、八時二十分には校門が閉まるのに、なんでこんな事に。
丁度近所になって、偶然公園で会って知り合った香奈とは違うクラスになるし、一緒に行くと約束していた時間には到底間に合わないから先に行ってと電話で伝える羽目になるし、呆れられるし、何が楽しくてこんなに走る必要があるんだろう。
そう思いつつ、まだ閉じかけてもいない校門を潜り、やっと膝に手をついて呼吸を整え始めた。必死になって息をしていれば、ふと思い出して顔が真っ青になる。
左右を見渡す。覚えていない。
どちらにあっただろう。っていうかその後何階だろう。
やっぱり覚えていない。
と同時、軽やかな四つの音色。
チャイムが……鳴った……!?
顔が真っ青になる。更に必死に顔を左右に振る、必死で振る。
「一年下駄箱は校舎の左奥!」
「あっ、ありがとうございます!」
「教室は三階!」
「はいいっ!!」
再び激走。後ろから笑い声が響いてきて、やっと恥ずかしさがこみ上げてきた。
下駄箱につくと同時、すぐに自分のクラスの棚を見つけて自分の所に靴を放り込む。上履きを入れ違いに取り出して足元に投げ置き、履くとすぐまた走り出そうとして……ふと気づく。
確か、朝のHRは二十五分から……だっけ?
後ろから下駄箱の靴を取り出す音が聞こえ、邪魔になってやしないかと振り返れば、相手と目が合って絶句された。
男子だ。黒髪が綺麗な、割と整った顔立ちの……
名前は忘れた。というか知らないけれど。
「何?」
「あ、別に……小学校飯田じゃないよな?」
「うん、県外だし」
「はっ!? 転入生!?」
ぎょっとされ、在人はむっとする。
「あによ。そんな驚き方されたって、県外なのは変わんないんだけど」
「そうだけど……どこ?」
「隣だよ。三神城市って知ってる?」
「ああ、ジャンクションある所だろ……は?」
また固まられた。ぽかんとした在人は、まじまじと眺められ怪訝な顔になる。
「何? てか時間平気なわけ?」
「いや……っつか、お前スカート」
視線を逸らされた。ぽかんとして見やり、後ろを向き、顔を赤くして押さえる。
あまりに早く走ろうとして、スカートを蹴り上げすぎていたのだろう。折れ目がついてめくれていた事にやっと気づき、勢いよく叩いて直した。小さく捲れていた程度だからよかったものの、もしかすれば走っている間中見えていたかもしれなくて顔が青くなる。
「もう翔矢のせいだ! ずっとゲームの邪魔してくれちゃって!!」
「……なすりつけやがった……翔矢って、兄貴?」
「弟……すっごい生意気」
何故見ず知らずのクラスメイト候補にこんな事を愚痴っているのか分からないけれど、悪い奴には……とりあえず見えないからいいだろう。盛大に溜息をつけば、廊下から笑い声。
「薙原、ナンパ? やっるーっ」
「ちげえよ。転入生っぽかったから俺と一緒の県か聞いただけだって!」
「は? あんたも転校生?」
尋ねれば、相手は素っ気無く「昔の話」と返してきた。すぐさま脇を通り過ぎて、話しかけてきた男子達の元へと向かう彼を見送り、しばしぼんやりと突っ立つ。
「変なの。そんな珍しいっけ、転入生……あっ、教室! 三階だっけ!?」
急いで走ろうとして、先生に怒られて早歩きに努める在人だった。
「おはようございます。八月朔日、無事に教室分かったみたいでよかったね」
教室に入ってきた担任と声にぎょっとする在人は、苦い顔で視線を逃がした。見た生徒もいたのだろう。忍び笑いを堪えようとして、吹き出す音が聞こえてきた。
道理で、教室まで教えてもらったわけだ。
「お、おかげさまで……お世話なりました」
「今年一年お世話するから、まだその言葉は早いんじゃないの? それで、皆もう名前は覚えてくれた?」
皆黙る。単純にまだ中学校に慣れていない、人見知り状態なのだろう。細々と声を出すのは可愛らしい、黒髪茶色目のおとなしそうな少女だ。
「住永素子先生……」
声も可愛らしい。いいなあと思いつつ、心の中でガッツポーズ。先生は頷いている。
「そうそう。下の名前まで覚えてくれるなんて嬉しいよ。アタシは英語担当だから、皆覚悟しときなさいね。最初だけは優しく入るから」
ちょっと待って。
全員顔が青くなる。威勢がよく、さばさばとして快活そうな先生の、笑顔での宣戦布告を何故今聞く必要があるのだろう。
「この後オリエンテーリングがあるから、廊下に主席番号純で男女一列に並ぶ事。まあ、簡単な歓迎会も含んでるから、羽目は少しだけ外していいんじゃないかしらね。学校の簡単なクイズも生徒会が用意してるから、頑張ってね」
数人が恐る恐る頷いている。早速廊下に出て整列が始まり、真ん中より後ろ気味の位置に経った在人は、隣より少し前の辺りに先ほどの男子を見つける。
候補ではなく、立派なクラスメイトだったらしい。確か……薙……沢? そんな名字あっただろうか。
ふと視線が気になったのか、男子はこちらに顔を向け、すぐにひょいと戻していた。一瞬だけギクリとしたように見えたのは、きっと気のせいだろう。前後の男子は知り合いなのか、けれど身長では前後の方が発展しているおかげで「お前ら体育館じゃ屈めよ!」などと必死で伝えているけれど。
あー、なんか覚えある。あたしもまだ翔矢に言っちゃうしね……。
小学五年にして現在一五五センチの翔矢。対する在人はといえば、百五〇。
抜く気配が見えてから一年。抜かれてから半年。まだまだ土筆のように伸びていく気配すらある弟を思い出し、思いっきり顔をしかめた。
「――薙原君? あー、公園の近くって聞いたよ。ほら、わたし達が会った」
三週間後。授業が始まって、もうすぐ宿泊訓練の時期だ。持って行くものを訪ねつつ、四組に馴染んできたという香奈は苦笑い。在人はメモを確認していた目を上げ、怪訝な顔になる。
「あ、うんそう薙原だ。あいつも転入生って聞いてさ。この地域って、転入生そんなに珍しいの?」
忘れてたんだ、名前……。
生温かい顔をされ、言いたい事も見えたが気まずさを向ける先は香奈ではないわけで。分かっているのか、そもそも在人以上にさばさばした性格なのか、香奈は表情を戻して考えてくれている。
「そうでもないけど、人によっては珍しいんじゃないかな? 在人の小学校って、珍しくなかったの?」
「少人数だったからねぇ……あたしの学年からはそこそこ多くなってったけど。地域開拓なんかで転入生多かったってだけらしいから」
ひょいと肩を竦めれば、香奈は意外そうだ。むしろ、一学年で六組まであるこの地域の中学校の規模も、凄いものだとは思うけれど。
「在人、荒波にもまれてそうなイメージなのに」
「……誰が船乗りか聞いていい? 人一倍経験ありそうとは言われたけど、どこにでもいるマセガキだよ」
「じ、自分で言うかなぁ。でも薙原かぁ……ちょっと意外。引っ越してきた時の事はよく知らないんだけど、結構喧嘩っ早いっていうか、人寄せ付けない感じがあったから。こっちに来たの、小四の終わり頃だったかな?」
まるで獣みたいだ。何があったのかは知らないけれど、同族と思われたのだろうか。……確かに喧嘩っ早い自覚はあるけれど。
けれど話をした限り、香奈が言うような雰囲気は欠片もなかった。むしろ人懐っこいというか、誰かを思い出させる感じというか。
「……ナンパかってからかわれるような奴がねえ……ま、宿泊訓練で何事もない事を祈んないとね」
「そうだねえ……え!? ナンパされたの!?」
「何っ!? どこのどいつだ、そんな美味しいネタを振った奴は!」
「お兄ちゃんはあっち行ってて! 入ってこないでよ変態!!」
吠える妹の直球に打ちひしがれ、撤退する社会人のはずの糸山敬一郎。在人は苦笑いが精一杯だった。
「へぇー、転入生だったんだね。じゃあまだ馴染むの、難しい難しい?」
「んー……そだね。結構雰囲気とか違うし、考え方も前住んでた場所より穏やかっていうか、明るいしさ。前の所が暗かった訳じゃないんだけど」
語尾の言葉を何故か繰り返す少女と話していれば、かわいらしい容姿の色白な少女も微笑ましそうに笑っている。入学式翌日に、住永先生の名前を言い当てた子だ。
「八月朔日さん、不思議な雰囲気あるもの。きっとみんな気になるんじゃないかな。でも大変ね、名前覚える人沢山いるんでしょ?」
「うんおかげさまで。元々人の名前覚えるのって苦手だからさ……」
苦い顔で頷けば、二人して笑っているではないか。在人は気まずげに頭を掻き、少女らと共に山道を登る。
宿泊訓練の初日は、午前中の山登りだ。水筒の蓋を開け、そのまま口をつけて飲む。
やや靄がかかっている。この間雨で道の一部が崩れたそうだから、ゆっくり歩かなければと思いつつ、山を登るのは久々でやや浮き足気味な在人は、そうそうと黒髪の少女が頷いたのを見てぽかんとする。
「じゃあ、私達の名前も教えなきゃね。新谷祈だよ。こっちは加島美優ちゃん。同じ篠杜小なの」
「よろしく。いいねぇ、女の子って……あっ、変な意味じゃないからね、名前がね名前!」
「名前? え、でも八月朔日さん――あれ、ごめん下の名前って」
思わず言うのを躊躇ってしまう。苦笑いしつつ、美優らに肩を竦めた。
「……存在の在に、人で在人。男っぽい名前だからさ……」
「ああー、確かにねー。じゃああーるってどう? それかあるるん。かわいくないかわいくない?」
「あ、あるるんて……」
顔が引きつりかけた傍、集合がかかった。
どうにもあだ名をつけ辛いから、普通に呼ぶという事は頭にないらしい美優は、やや苦手だ。あだ名なんてつけてほしくないのに。
……どうしてつけてほしくないかなんて、言えないし覚えてもいないけれど。
山を登るための諸注意を聞きつつ、崖の崩れている場所には近づくなとのお言葉。また途中の分岐点で間違って右に行くななど、迷子症なのだろう同級生らが不安そうな顔になる単語が連発している。
そうやって不安を煽るより先に、正解ルート教えて迷ってもいいようにメモさせればいいのに。なんのためのしおりなのだろう。
早速出発するらしく、クラス順で立ち上がっていく。準備をしつつ、山の上の靄に苦い顔になる。
自然科学なんかも独学で楽しんではいたけれど……
「……天気図確かめたかった……」
なんだか、前日家で確かめていた「降水確率三十%」の数値が、頭の中でけたたましく笑っていた。
「おい、転入生!」
さくさくと山を登り、ついには美優達を引き連れて先頭の担任まで追いつかんとし始めていた傍、後ろから声をかけられる。誰だと振り返り、ああと納得して速度を落とした。
「あによ昔は転入生」
「……お前早速喧嘩売るかよ」
呆れられた。肩を竦め、在人は別にと素っ気なく返す。
「名前教えてもらってなかったし、他の特徴ある情報ももらってなかったし? 薙なんとかって人で、隣の市にジャンクションがあるって事が分かってるぐらいには、今時珍しく車での旅行が多そうな人なのかなってぐらいには――だから何」
周りの男子までド肝を抜いたように表情を強張らせている。怪訝な顔をする在人は、ピンときてにやりと笑った。
「一応、人の名前を覚えるのは下手でも、情報は逐一集約するタイプだからね、あたし。洞察力鍛える練習してるから」
「なんでそこで洞察力だよ……っつか、ジャンクションどうのを言っただけでなんで」
「あれ、図星? まあ、洞察力鍛えたら空気ある程度読めるかなーって程度にしか考えてないよ。あとゲームの最速クリア、友達の兄ちゃんと競争してるから。トラップ一々嵌まりたくないから見抜く力鍛えてんの。
あたしが三神城市って言ったらあんたすぐに、ジャンクションの事切り出してたでしょ。車での旅行が多くなかったら、交通で便利なジャンクションなんてあんまり意識しないでしょ。家族でドライブが多くて、あそこを利用してない限りはね」
やや先のほうから拍手が聞こえてくる。振り向けば、美優と祈が感心した顔だ。
「すっごーい、それだけで分かっちゃうんだ」
「情報整理しないと最速クリア狙えないんだもん」
「うん、理由があるるんって感じがするわ」
「あっ……!? い、いや普通に名前でいいよ加島さん!?」
「あーそれだそれ。名前名前」
「いやそれ言うなら自分から以下略でしょ!」
真顔でさらりと要求してくる元転入生に突っ込めば、周りの呆気に取られた様子がどうにも変だ。男子はそれもそうだっけと、ややとぼけた様子を見せた後、荷物のナップザックからメモ帳とシャーペンを取り出して何やら書き、渡してくる。
薙原拓人……? ああ、名前書いてくれたのか。
「読め――」
「なぎはら たくとねぇ……へー、いい字持ってんじゃん」
顎を外したようにぽっかり口を開ける同級生。祈達が拍手してくる。
「凄いね、薙原君の漢字、みんな難しいって言うのに……」
「難しいの薙ぐって字だけでしょ? 多分ファンタジー系の小説を読んでる人ならある程度読めるんじゃない? 武器使ってれば横に薙ぐ事ざらにあるし」
「えっ、じゃあオレの漢字当てれる!?」
今度は薙原の隣の男子が、勢いよくメモ帳とシャーペンを奪って書き連ね、見せてきた。
那賀明と書かれた字を見て気が削がれる。
「なが あきらでしょ? さすがに分かるよ……って、あたしは名前通訳者じゃない!」
「すっげーっ!」
何が凄いのだろう。というか自分の名前を読み解かれない事が一番切ないはずなのに、それに慣れているってどういう……。
薙原から名前を催促され、仕方なしにシャーペンとメモ帳をもらい、書いてみせる。
「読めないでしょあたしのは。さすがに」
「ほづみ あると。だろ? ……かっけーじゃん」
目を丸くした。美優も意外そうな顔をしているではないか。
「うっそうっそーっ! 薙原ってば、漢字大の苦手なくせに!?」
「加島が頭いいだけだろ! たまたまでも読めるもんぐらいあるに決まってっし!」
「……うっそ」
「読めたのに嘘言われる筋合いねえだろ!! 合ってるんだろ!?」
こくこく頷く。頷くが、顔が引きつる。
嬉しいのに、なんだか今まで「はちがつついたち」だの「はちがつさくじつ」だのじゃないと、一生懸命叫び続けてきた自分が切なくなってくる。
憤然としている薙原は、それでも人差し指を立てて美優に「由来だって知ってるからな!」と捲くし立てているではないか。
「旧暦の八月一日は稲刈りの時期。朔日っていうのは月の最初の日、一日の事だろ。毎年その日を目処に稲刈りをしていたから、八月朔日って書いて『ほづみ』って読むんだよ。同じような由来で四月朔日はわたぬき。綿の収穫の時期から取られた苗字だって本に載ってたんだよ、文句あるか!」
「ないない。凄いね凄いねー、あーるも目が点になってるなってる?」
「な……なるよ、一発で読めた人そんなに覚えないし……幼馴染とかは、別として……」
その幼馴染も今は、随分と離れた場所にいるらしいけれど。
山道を進みつつ、分岐点間近で那賀が何を見つけたのか、右のほうへと駆けていった。すぐに戻ってきた彼は、にやりと笑って祈へと差し出している。鱗に覆われ、身をくねらせて牙を剥く姿に、彼女の表情が引きつった。
「新谷、持ってみろよ」
「ひっ……い、いやあああああああっ!!」
「あんた、女の子に蛇なんて最悪な根性してんじゃん……あとそうやって持ってると」
「いだっ!?」
「噛まれるよって言おうとしたんだけどねー。それ毒蛇じゃないから大丈夫とは思うけど、お茶で傷洗っときなよー」
怯えて在人の後ろに逃げ込む祈を庇いつつ、蛇を振り回して放そうとする那賀に、しっかりと牙を食い込ませている爬虫類の胴体を素早く掴む薙原。呆れた顔で、蛇が口を離して薙原に食いかかろうとしたその場で顎を押さえる。何度か逃げようともがく蛇に絡みつかれまいとしつつ、崖へと放る彼に、在人は平然と「お疲れ」と返した。
随分とまあ、手際のいい事だ。蛇で遊び慣れているのがよく分かる。
「おっまえ扱い方下手だろ。気ぃつけろよ」
「いってぇ……!」
「あははっ、自業自得ー?」
美優も美優で、フォローゼロ。那賀が不服そうに走っていってしまった。
一応、担任に怪我の報告をしにいったのだろう。薙原だけでなく、一緒に隣を歩いていた瀬崎という男子も苦笑い。
「あいつ頭はそこそこいいのに、色々残念だよなぁ」
「学習しねえからな。そういえば部活どこ入るか決めた?」
「んあー……テニス? お前は空手だっけ? 続けんの?」
「いんや、中学は空手やらね。でも推薦考えると部活三年続けたいよなー……空手だとどうしたって、他の部行くと動きがさ……サッカーだと蹴り方違うだろ? 剣道行くか……」
「動悸が随分と子供らしくないねーやっぱり」
本当に子供らしくない。人の事を言えない在人はといえば、部活に入る気はさらさらない。
それにしてもこいつも空手をやっていたのかと、思った以上に自分と共通点の多いこの男子に苦い顔になる在人だった。
ここでは昔空手をやっていた事は、隠さなければ。
「へえー、あーる、ミートボール好きなんだ? わたしもわたしもー」
「へえ、加島さんも? なんなら一個いる?」
「もらうもらうーっ! ありがと、あーる大好きーっ」
弁当箱に入れてやれば、嬉しそうにはしゃぐ美優。思わず笑いが零れ、いいなぁと言う言葉が口を突きそうになる。
山頂は予想通り、多少の霧は出ていたものの、想像していたほど酷い濃さにはなっていなかったようだ。
小さな公園で賑やかに食べているそば、鞄を漁っていた祈が困ったような顔になっている。在人は箸を置いて水筒に手を伸ばしつつ、ぽかんとした。
「どったのさ? 忘れ物?」
「かなぁ……ちゃんと入れたの見たのに……」
「途中で鞄半開きだったよね、だったよね? 落ちちゃったなんて事ないない?」
「やだっ、もしそうだったら大変……腕時計、お母さんから借りたのに……」
一生懸命鞄の中を漁っている。なるほどと、在人は苦い顔。
「それで鞄に入れてたわけか……半開きになったのに気づいたのって、分かれ道辺りでしょ? ここから近いし見てこよっか?」
「え、でも……」
「この霧ぐらいなら大丈夫だよ。けど厄介なのは雨に変わって、腕時計が濡れた時のほうじゃない? 防水性ならともかく、今日から三日間時計なしじゃ、行動に支障出るっしょ。山歩きならあたし慣れてるからさ」
本音を言うなら、早速集団行動で人酔いしかけている気持ち悪さから、少しでも解放されたいだけなのだけれど。
手をひらひらと振って立ち上がり、荷物を任せて入り口方面を下りていく。
すぐに三叉路が見えてきた。ほっとして向かい、周辺を見渡す。
時計らしいものは落ちていなかった。形状は朝見ていたし、もしかすれば誰かがひろったのだろうか。茂みへも目を向けるが、先ほどの蛇を思い出すと滅多やたらに近づけない。
「どうしよっかなぁ……先生に聞くのを先にしたほうが無難だったか」
そもそもその考えに先に至らなかった自分は、馬鹿ではなかろうか。
案の定雨粒が――え?
空を見上げる。霧一色。
けれど手に付着してきたこの冷たい透明な粒は、水とは言わないのだろうか。
「……あーめ……あーめ……降るなあああああああああああああああああっ!!」
――まずい。
雨が降り始めてきたようだ。