―Ⅶ― 残像
「弟君かっこいいねーっ! さすがというかなんと言うか」
楓がひとり深々と頷きながら語っているのを、実良が笑っている。香奈が悪戯っぽくこちらを見やってきて、在人は複雑な顔。
「格好いいのは認めるけど、あいつ口悪いよ」
「そこがいいんじゃん! ああーもう年上じゃないのが残念っていうかあ!」
タイプだったのか。顔が引きつり気味になるも、在人は翔矢が弟であった事に心から感謝したのは、今日が初めてかもしれない。
「今からでも遅くないんじゃない? 翔矢君結構大人っぽいしねー」
「なるほど、悪くないわ」
「いや勘弁して!? あたしが拒否る!」
「えーなんで? 在人の事お姉様って呼ぶの全然抵抗ないんだよー?」
「結婚前提!? 余計ストップかけたいんだけど!」
木陰に取ってあった八月朔日家の席。父が笑い飛ばし、母も笑いながら皿を配っているではないか。在人はぐったりとし、母から皿とコップをもらってふと気づく。
「れ、翔矢は?」
「和磨君見つけたらしいよ。遠ざけてくるとか言ってたけどね」
なんで親友を遠ざけにかかる? 在人はぽかんとしたが、カメラを和磨も引き受けてくれていたと母が言ったのを聞いて苦笑し、立ち上がる。
「なら受け取りついでにお礼言ってくるよ。あいつも何考えてるんだか――いった!?」
「なんでもいいだろ別に。カメラ奪ってきた」
頭を重たいもので小突かれ、在人はうずくまる。弟の声に苛立って見上げたが、翔矢は平然と八月朔日家のデジタルカメラを母に手渡している。在人へは絆創膏と消毒液。
ぽかんとして見上げていれば、足を指されて気まずくなる。
「……いつから気づいてたわけ?」
「遠目からでもはっきり赤くなってたの見えてたに決まってんだろ、馬鹿姉貴。どうせ保健室行く気なかったんだろ。和磨パシらせて次の席取らせに行ってるから早く自分で手当てしやがれ」
何故そんなにも親友を姉から遠ざけたがるのかはさておいて。在人は憮然としつつも礼を言い、換えの靴下を母からもらうとすぐに傷口を見てみる。意外と血が出ていたようで、香奈も実良も、楓まで不安そうだ。
「後ろ満知だったよね? 何これ、ひっどーい」
「いいよ、気にしなくても。怪我ぐらい体育大会じゃ普通っしょ。あたしと相手じゃ身長差結構にあったしね。歩幅も違うし」
苦笑いして宥めれば、実良も楓も納得はしてくれたようだ。消毒も終え、換えの靴下に履き替えた在人は消毒液を翔矢に渡した。一応礼は小さく添えて。
翔矢は何も聞こえなかったかのように、救護テントのほうへと歩いていった。楓と実良がうっとり気味な溜息を漏らしている。
「いいなぁーかぁっこいぃ……」
「ぶっきらぼうだけど優しいよねぇ、お姉ちゃん想いだしぃ」
今の所、不思議とそれに当てはまるのは在人にも分かるから、苦笑いをして肩を竦めた。
「あいつ何様」と苛立っていた理由が分かって、ほんの少しだけくすぐったい。
「在人さーんっ!」
少年の声が響き、在人だけでなく近くにレジャーシートを広げていた人々までも振り返った。大人しい感じの黒髪は柔らかそうな髪質で、翔矢より若干低い背。元気に満ちた顔で小学生と分かるも、中学生と間違われてもおかしくはないだろう。結構に整った顔立ちで、格好いいとさえとれる彼の姿に、在人は笑いかけた。
「やっほー、和磨君。ありがとね、カメラ持って走ってくれたんだって?」
「はいっ! 保護者のおじさん達が、結構でかくて上手く取れなかったんですけど」
元気のいい返事の後は、ややしょげた様子だ。喜怒哀楽は激しいも、弟よりも断然素直な和磨に、在人は笑う。香奈も笑顔を向ける。
「こんにちはー和磨君。お疲れ様ー」
「こんにちは。香奈さんも午前のプログラム、お疲れ様です。えっと、その人達、先輩ですよね?」
和磨の遠慮した言葉に、在人が思い出したように頷く。
「そうだ、初めてだよね。実良とカエ、あたし達の新しい友達だよ。同じクラスなんだ。二人共、こっちは和磨君。翔矢の親友で同じ小六だよ」
「カエだよよっろしくー! 礼儀正しいししっかりしてるねえ」
「来年一年かあ。入ってくるの楽しみに待ってるねぇ。実良です、よろしくー」
「和田和磨です。よろしくお願いします」
礼儀正しく頭を下げ、戻そうとした和磨の後頭部に、その辺に転がっていたのだろうテニス部の軟球が直撃する。上手い事上に跳ね上がったボールは、香奈が器用にキャッチ。
「和磨てめえ! 席どうしたんだよ!」
「いいだろ別に! 俺だって在人さんと話したいんだよ!」
「っざけんな人の姉貴にべたべたしやがってこの変態野郎が! こっちがいい迷惑なんだよ席取り早く行け! 飯持って行ってやるから一人淋しく食ってろ!」
変態と聞いて固まるのは、別にこの場には誰もいなかった。
むしろ在人はついていけなくてやや茫然とする。
「……なんで? 話するぐらいよくない? それに和磨君変態じゃないじゃん。ご飯だって皆で食べたほうが美味しいのにさ。どこ基準にもの言ってんの?」
「ですよね! さっすが在人さんお心広いです!」
「黙ってろ馬鹿姉貴。さっさと行くぞバ和磨!」
「えー嫌だー在人さんと話したいんだーっ」
「黙れこのド変態公衆わいせつ罪野郎が!」
「ひでっ。俺わいせつなんてした事ないぜ、濡れ衣反対!」
「下心抹消するまでてめえが姉貴と話すの誰が認めれるかっつってんだよ、浮気軽薄のお調子野郎!」
「在人さんが好きなだけだ悪いかよ!」
「開き直んじゃねえバ和磨ああああああああああああああっ!!」
香奈も実良も生暖かい笑みで、必死の形相で去る翔矢に引きずられていく和磨を見送る。楓は笑いこけているけれど。
「あはははっ、何あの子達、超うけるーっ!」
「あれで仲いいんだから不思議だよねぇ……ってか、なんで和磨君だけはあたしと話したらダメなわけ? 意味分かんないよ翔矢の奴」
やれやれと首を振れば、香奈や実良から呆れた目をされた。
「これはこれで、翔矢君も和磨君もかわいそうだよねぇ」
「ねぇー。在人、隅に置けなさすぎー。元から置けないけどぉ」
「へ?」
ぽかんとして聞き返すも、家族含め友人全員が様々な心情を笑みに乗せて首を振ってきたのだった。
『プログラム十四番、PTA企画玉入れ。参加される小学生、保護者の皆様は校庭にお集まりください。参加する在校生徒は退場門側に集合してください』
「あっ、在人。行こ行こ」
「もち。今年も優勝狙おうじゃん?」
「実良も実良もぉー」
「ウチも行くーっ」
にやりと笑い、両親に言ってくると伝え。香奈や実良、楓も両親へと礼を言った後一緒に走ってくれる。ややくすぐったくて、運動場に着いて優勝狙うぞとかけ声をして。心が弾んだ。周りの連中の嫌らしい目なんて全く気にならない。が、香奈の頭に手を置いてきた男性を見て在人は驚いた。
「えっ!? うっそお兄ちゃん!?」
「あれっ、けー兄ちゃん! お久です、今日仕事休み?」
「おっ久ー。元気そうだなーお前ら」
ニヤニヤ顔の青年は、さすがは香奈に柔道を仕込んだ張本人だ。やや痩せ気味な体格になっているのは仕事の関係だろうが、それでも引き締まった体に、香奈と同じ茶髪に焦げ茶色の目。背が高いのは男性ならではといった所だろうか。
「えっ、香奈ってお兄さんいたの!?」
「あ、うん。糸山敬一郎って言うんだよ。今二十一なの」
年齢差に驚きを隠せないでいる実良と楓。在人は慣れた様子で笑うも、頭をぐしゃぐしゃと撫でられて驚く。
「でかくなんねえなーお前も。また遊びに来いよ、レコード抜いてやったぜ」
ぎょっとする在人。話についていけないらしい実良と楓は、香奈の生暖かい顔を見やっているようだが気にしない。
「うっそどのゲーム!? けーちゃんずる!」
「カーレースギャラクシー・オーフェンス。いつでも挑戦受け付けてやる。あ、記録は最果てのインフィニティで一分五十四秒な」
「はあっ!? あれめっちゃ頑張ったのに! 二分切るとか神すぎっ、せこい手使ってないよね!?」
「……見ての通り、ゲーマーです。オタクです。在人がゲームの最速クリアで楽しんでるの知ってて、挑戦状叩きつけるのが趣味な酷い兄なんだよね」
「ついていける在人、凄いねぇ……」
話に持ち出された在人はきょとんとし、振り向く。頭から手がどけられ、香奈へと回ったかと思いきや、「じゃ、玉入れでも負けねえからせいぜいファイト」と去っていく男性に、香奈も在人もぎょっとして叫んだ。
「参加するの、その歳で!?」
「ははっ、現役スポーツサラリーマンを舐めてかかると火傷するぜ」
その台詞には、在人達は冷めた目で香奈の兄を見送った。
「……痛いよ、兄ちゃん」
「痛いよね、本当に。相っ変わらず厨二病エンジョイしてるのか……」
「よう、空手坊主にテニス坊主。元気してるな」
「うわっ!? 敬兄ちゃん来てたのかよ!? って参加する気満々かよいい歳して!」
「いいだろいいだろ、母校の体育大会ぐらい。香奈や在人もいるから負けらんねえぞ」
「うげっ、またかよ……」
「在人さーん! 俺頑張りまーっす!」
「バ和磨、黙れ」
どすの効いた声を出す翔矢。手を振ってアピールする和磨。偉そうにふんぞり返っている敬一郎。
静かに冷たい目で見ていた中学二年生の四人組のうち、香奈がはっきりと口にした。
「あのオタク、後で沈めておくね」
「あーうん、あたしも馬鹿な弟沈めてくるわ。付き合うよ香奈」
どす黒いオーラ。
実良も楓も、同調するように頷いてくれたのが視界の端に見えた。
「……一人っ子でよかったって、今なら思うよねぇ」
「いえすいえす」
そして玉入れ。中学生の篭はPTA、小学生組より一メートル高く設定されているが、そんな事を感じさせない玉の数で圧勝したという(人数も制限がかかっているにも関わらずだ)。
因みにその後、PTA側感想で適当に選ばれた中に翔矢と和磨と敬一郎がいた事に、在人も香奈も処刑確定したという。
『プログラム十九番、二百メートルリレーです。生徒入場』
なんだか先ほどから視線が集中しているような。気のせいと思いたいが――仕方ないのかもしれない。
普段は足が遅く見えるよう走っていたのだ。それでも女子で見れば普通の速さだったらしく、回りから白い目を向けられていたような。
那賀の代わりとはいえ、二百メートルリレーでよかった。スウェーデンリレーのように半周ずつ増えられたら堪らない。
所定の位置につき、順番を待つ。左足の痛みが少しだけ気になるが、支障はないだろう。
第一走者がスタートラインに並んだ。ピストルが鳴る。
狭いグラウンド。トラック一週分が選手一人に任された距離。その三週目を走る事になった在人は、ずらりと並ぶ一同を見て苦い顔になった。
徒競走も一緒だった美優は二週目。既にコースに立ってバトンパスを待っていて、緊迫した顔だ。先に動き出したのは三組。運動部に所属した人数は、クラス単位で見ると少ないほうだが、足が速い人間が軒並み揃っている事がよかったのだろう。続けて四組、二組と走り出し、バトンを受け取っている。美優もバトンを受け走り出した。
次はあたしか……。
空いたクラスの席。まだ半周も過ぎていない面々を眺め、表情を引き締める。
あらかじめ、第二走者である薙原と打ち合わせをしておいた位置に立った。先生達が引いたスタートラインよりやや前に出ておき、薙原にやや長めに走ってもらう算段だ。周りの声を閉め出し、三組の男子が次の走者である女子へとバトンを渡したのを視界の端に捉えつつ。薙原が走ってくる姿を見て構える。
近づいてきた。後ろを見ずにやや助走をつけ、左手を後ろに伸ばして徐々にスピードを上げていく。
手に感覚が走った瞬間、すぐにバトンを握り締めて勢いよく踏み出した。
沢山の人の顔を無視し、走る。四組の女子は思った以上に足が遅く、徐々に距離を詰める。
抜ける
確信したと同時、半周が過ぎた。手を思いっきり伸ばせば掠められそうな距離まで到達し、余力を残しつつ走る事だけに集中する。
追いつく
抜ける
もう少し――
コーナーを曲がり始めたその時、左足に激痛が走った。
「ぁぐっ――あっ!? いっつ」
一瞬だけ足がもつれ、バランスを取り損ねて転がる。周りのどよめきに冷や汗がどっと溢れた。
すぐに立ち上がり、必死で足を前に出すが、左足が言う事を上手く聞いてくれない。格段に遅れた速度のせいか、後ろからの足音が確実に迫ってきて
抜いた
抜いた。
走りつつ息も上手く吸えなくなりそうになり、無理やりバトンを右手に持ち替えると左腕に噛みついて痛みを走らせる。
途端に足が軽くなった。すぐに追い上げる。
結局元の順位には戻れずじまいで、次であり、最後の走者にバトンを渡し、トラックから外れてふらふらと自分のクラスの後ろについた。
心臓が、痛い。
苦し紛れに押さえ、大きく息を吸うも、楽にならない。周りの声援が耳を圧迫してきて、頭が回らない。
肩を揺すられ、下がっていた頭をゆっくり上げた。薙原だけでなく、その前に走った女子も不安げな顔をしてきている。
「お前大丈夫かよ」
「……平気……すぐ治る、から……全員リレーまでには、治す……」
退場する際。周りの目が自分に当たるのを、嫌でも感じざるをえなかった。
香奈達にも心配された。けれども出ると言い張った在人は、膝の震えをどうやって治すかを模索するばかり。
一学年全員が走る全員リレー。今は実良が陸上部のメンバーらしい走りで周りの女子を軽々と抜いている。
二組は運動部所属率が高い事が幸いだったのだろう。首位に立ち続けている。それでも青ブロックが勝つには最低でもあと二十点は必要で、この全員リレーとブロック対抗リレーで首位を奪わなければ勝ち目はないのだ。
実良が終わり、幾人もクラスメイトがバトンを繋いでいく。必死で、少し危なっかしくて。たまに他所のクラスと接触しそうになったり、バトンを落としそうになったりと、どのクラスも緊張した状態が続いている。
首位に立った。他クラスから引き離してさえ見せた。在人は何度か自分の太腿を叩いて気を引き締め直し、いつの間にか香奈へと回ったバトンを見て、冷や汗を拭いながら立ち上がる。
反対側で男子が受け取って、次は自分。トラックに入り、準備する。
最初と最後に足の速い面々を揃えていただけに、在人は後半の中盤を任されていた。先週散々走らされ、様々な女子と競争させられた結果、タイムをごまかす事ができなくなってしまっていたのだ。
どこのクラスも、バトンが回る時間が少しずつ短くなり始めている。反対側の男子にバトンが回った。
来る。もうすぐ、来る。
気持ち悪い吐き気を堪え、両頬を力強く叩いた。男子がコーナーを曲がりきったのを見て構え、少しずつ走り始める。
前を向いたと同時、バトンの感触が手に伝わって握り締めた。
癖で声援を遮断しようとして、けれど遮断できずに走る事に集中できない自分に気づいた。
うそ――
必死に走るのに、走れている気がしない。確かにコーナーを曲がり始めたのに、曲がっている気がしない。
走って走って、やっとコーナー中盤まで来た気がして、気がつけば視界が下がり始めて――
「いっつ!? ぃ……あっ、バトン!」
いつ転んだのだろう。分からないも前方に転がったバトンを追いかけると、小さな子が拾って渡してくれた。「ありがとう」と礼を言い、トラックに戻って走り出す。擦り傷などよりもと必死に足を動かしたのに、近くに走る人の姿を感じられなくて心が急く。
首位は、どこだっただろう。
やっと渡せた相手の目を見る事が、できなかった。バトンを受け取った女子は、必死で走っていった。
誰に渡したのか分からなくて、気づいた。
祈ちゃん……
クラス番号が書かれたコーンの列、最後尾に並び、座ろうとした瞬間に膝の力が抜けた。途端に前にいた香奈が不安げに体を向けてくる。
「救護テントに行こう! 足、血出てるよ!」
「……あ……え?」
見やって気づいた。
また靴下が赤く染まっている。両膝も両腕も掠り傷で赤くなっていて、とてもではないが断る事などできそうになかった。
トラックの内側にてサポートに回っていたのだろう。数学の先生が近づいてくる。
「八月朔日、大丈夫か?」
「あ、はい。もう痛みないです」
「うそっ、ひどいよこれ!」
嘘じゃない。本当に痛くない。
退場と同時、数学の先生と香奈に無理やり救護テントに引っ張っていかれ、翔矢達まで駆けつけてきた。
「怪我そのものは大した事はなさそうですね。細かい石が入っているかもしれないから、もう一度入念に傷口を洗ってからガーゼを貼りましょう」
「あ、はい」
「わたしもついていきます!」
香奈が右肩を支えるように手を添えてきて、在人は困惑した。翔矢も逡巡した後ついてくる。和磨も不安げだ。
「在人さん大丈夫ですか? なんなら背負いますけど――いてぇっ、下心ないぜ今の!」
「そっちじゃねえよ。後で教えるから黙ってろ」
なんの話だろう。見えなかったけれど、足洗い場で傷口に流水を当てるとさすがに滲みてそれどころではなくなった。
痛みが来ると同時、分からなくなる。
「……なんで転んだんだろ……」
「分かんないけど……在人、なんか走る時の姿勢がおかしかったよ?」
視界が下がった時だろうか。実良や楓が駆けつけてきて、二人揃って手で口を覆っている。
「い、痛そう……石とか砂とか入ってない?」
「分かんないみたい。もう一度洗ってくるようにって言われたから、洗ってみてるんだけど……在人、なんか変だよ? 先生に言って休んだほうがいいんじゃ」
「へ、平気。保健室って、あんまり好きじゃないしさ」
「保健室じゃなくてテントでもいいよぉっ、これで戻ったら大変だしぃ」
実良も不安げだ。担任の住永先生も来てくれて、怪我を見て顔をしかめられる。
「八月朔日、救護テントで休んでなさいね。先生も後から様子見に来るから。弟君、こんにちは。よかったら付き添ってあげてもらえる? 糸山達はそろそろ応援席に戻りなさい、ブロック対抗リレーが始まってるわよ」
「あ、はい」
「う……はぁい。在人、また後でね」
「あ、うん」
頷いて見送り、流水を止めてタオルで肌の水分をある程度拭き取った。翔矢が何やら迷っているような顔をしていたのを見て、曖昧に笑う。
「歩けるよ。平気平気」
「……そりゃ、歩いたのは見てたけど」
「無理は禁物ですよ。俺らみたいに怪我しなれてるわけじゃないでしょ?」
「んっと、どうだったっけ?」
不安そうな顔をされる。笑いつつ歩き出し、救護テントの後ろでずっと、翔矢と和磨に不安そうに見られていた事を、在人は気づいていなかった。
ブロック対抗リレーも大差で負けていた。青ブロックはもう、やる気のない雰囲気が目に見えて広がっていた。
最後の結果発表が聞こえてきて、少しだけ顔を上げる在人。
『総合順位。三位、青ブロック』
目に見えて陰鬱な雰囲気。盛り返せると思える場面がいくつもあったからだろう。黄色も赤も、至極嬉しそうだけれど。
『二位、黄色ブロック』
黄色からやや悔しそうな声と、嬉しそうな声と、ほっとした声と態度と。赤なんて既にはしゃいでいる生徒までいる。
『一位、赤ブロック』
爆発的な喜びが聞こえてきた。在人は茫然と見やりつつ、表情を動かす気になれない。
『応援合戦三位、青ブロック。二位、赤ブロック。一位、黄色ブロック』
当たり前だ。青ブロックは一年の態度がすこぶる悪かった。三年にも調子に乗って石を投げ合っている連中が目立っていたし、きっとパネルの並びも綺麗にできていなかったのだろう。
表彰式を見つつ、なんとも言えなくなる。
本当に、痛みを感じていなかった。
「あっ、在人、大丈夫!?」
全員が教室に戻り、自分も戻ろうと救護テントを離れた。その前にと応援席に戻れば自分の椅子は教室へと片付けられていて。遅く戻ってくれば、香奈が心配そうな顔。実良も楓も駆けつけてきてくれたではないか。驚いて頷く。
「あ……うん。ありがと、椅子持って来てくれたみたいで」
「いいよいいよっ、それぐらい。本当に大丈夫?」
「うーわー、でしゃばりが帰ってきたぜー」
はっきりと響く、至極嫌そうな大声。一瞬でも固まる在人達に、男子達は剣呑な顔。
「那賀不登校にしたくせにさあ。体育大会も一位取れなかったのこいつのせいじゃね? でかい顔してキモいんだよなー」
女子も数名嫌そうな顔。
「そうだよね。那賀来れなくなったの、八月朔日さんが蹴ったからだよね。あんなにする必要ないのに」
「体育大会だってやる気なかったしー。代理だってできてなかったよねー。人の事言えないのに言うなんてひどいしー」
「ちょっ、ちょっと」
「それに本当に嫌味言われてたの? 紀衣ちゃん、八月朔日さんがまた暴れたら怖いから言われてたって言っただけなんじゃない?」
実良が戸惑っている。楓は露骨にむっとしているではないか。
「ずっとリレーだって一位取ってたのに、八月朔日さんこけちゃうから最下位だもんねぇ」
「でも在人、左足怪我してたのにずっと頑張ってたよ? アキレス腱の近くを怪我してたのに、迷惑かけたくないからって頑張ってくれてたんだけどぉ?」
「でも迷惑かけたじゃんよ。最下位、全部八月朔日がこけたからだし」
「佐竹に何が分かるってわけぇ!? じゃあ在人のこの怪我、全部在人が悪いのぉ!?」
楓がついに怒った。香奈も在人を支えつつ睨みつけている。困惑する在人は、咄嗟にこみ上げてくる吐き気を耐えるしかできなくて。
「ひっどい。足の怪我だってムカデ競争の時にできたのなのに。皆在人のせいにするなんて……」
いい
「一位取れなかったの、本当に八月朔日が悪いのにおれらが悪者っすかぁ? 被害妄想はんたーい」
もういいよ
「どっちが被害妄想!? なんで皆在人の気持ち分かってあげないの!?」
いいってば
「じゃあオレ達が負けたのはどうしてくれんだよ! 那賀の時は責任とれって不登校にしたくせに、八月朔日は責任取らなくていいのかよ! いっつもでかい顔してむかつくんだよこいつ!」
分かってる
分かってるから……
「八つ当たりじゃん! じゃあ在人が不登校になれば皆いいって思ってるの!?」
吐き気が襲ってくる。立っている気がしない。
「実際そうじゃね? そいつが不登校になったら那賀も来れるぜーきっとー」
いつだったか、こんな吐き気を感じた事が、ある気がして――
「あーあーあー。信じらんねー。なあ、和磨」
聞き覚えのある声が降ってきた。ぼんやりと振り向けば、後ろに見覚えのある少年が二人、いるではないか。どちらもいい加減な顔をして、やや薄っすら笑みを浮かべている。
「本当だよなー。責任転嫁がこの学校の伝統? 俺来たくねえなぁー。先輩達のいじめ現場目撃しちゃうなんてな」
「しょ、翔矢……和磨君……? なんで? わっ」
頭の上に硬いものが置かれた。痛みに思わず驚き、咄嗟に掴むと、氷嚢だと気づいて茫然とする。同時に全身の痛みが復活して顔を強張らせた。翔矢が面倒くさいと言いたげな顔をしてきたではないか。
「やっと感覚戻ったのかよ、馬鹿姉貴」
「えっ、八月朔日さんの弟?」
数人が顔を強張らせているのが、振り向き様見えた。けれどすぐに翔矢を見上げ、戸惑う。
「あ、あんた帰ってなかったの?」
「母さん達は帰ったんだよ。車取りに行くらしいぜ。その足じゃ家までもたねえだろ」
「え、いやもつけ――いーっ!? うわあっ!?」
腕を抓られ、振り解こうとした途端にバランスを崩して後ろに倒れてしまう。凄まじい音と共に机に体をぶつけてしまって、クラス全員が茫然としているようだ。翔矢が呆れた様子で見下ろしてくる。
「空手習ってたくせに、バランス取れなくなるぐらい血抜けてりゃ、そりゃー転ぶよな。なんのために昼休みに消毒液持っていったか分かんねえだろばーか」
「っ……あんたねぇ……!」
「ほ、八月朔日さん空手習ってたの……?」
恐る恐る女子から聞かれ、在人は思わず固まる。翔矢が頷いている。
「姉貴が小二の時まで、俺ら一緒にやってましたよ。俺は小四まで続けてたけど。最近まで、喧嘩したら俺のほうが負けてたぐらいには強いし」
さらっと言う内容に、一同が強張ったのが分かった。それなのに楓が嬉々としているのは何故だろう。
「ええっ、弟君空手やってたんだあ! かっこいーっ!」
「へ? あ、はあ。どもっす」
「あははっ、照れてる照れてる! いいなー、こういう彼氏ほしーっ!」
「……は?」
「か、カエ!? 何言って――うわっつ!?」
立ち上がろうとしてまた転んだ。頭を強く打ちつけてしまい、痛みに呻く。実良と香奈に助け起こされ、ついでに椅子に座るよう強制された。落ち込みつつ、全身の痛みには代えられず、おとなしくする。
まさかとは思うけれど、楓は翔矢の事を本気で狙ってやいないだろうか……。
もしそうならば拒否だ。断固拒否だ。何がなんでも拒否せねば。
「でもでもぉ、本当ごめんねー。大切なお姉ちゃんをいじめる人ばっかりこの学校にいて」
今、もの凄い勢いでクラスの怒りを買った楓は、周りが一部始終を聞かれていた事で逆らえないのをいい事に言いたい放題だ。
「ムカデ競争の時、いっぱい足当たってたみたいだもんねえ。在人、ずっと調子悪そうだったのに頑張ってくれてたしい。絶対皆風邪気味だったのも知らないのに文句ばっかりで情けないよねぇ。こんな先輩ばっかりだけど、お願いだから嫌いにならないで入学してきてね、カエ全力でお姉さん守っちゃうから!」
「……は、はあ……」
そのお姉さんがどの意味で言われたのか、知りたくもないけれど途方に気になる在人がいるのだが。
しかも翔矢がここまで退くなんて、珍しすぎる気がする。和磨なんか笑いこけているではないか。
「モテる男は大変だよなー」
「モテない絶頂期のバ和磨に言われるなんて、俺も随分落ちたよなー」
「……裏切るか親友」
「は? 裏切る所か手すら組んでねえよ」
本当に親友なのだろうか。この二人は。
溜息をつくと同時、「本当ごめんねぇ」と女性の声。うっかり流しそうになったが、在人はぎょっとして教室の入り口を見て絶句。
「す、住永先生!?」
笑顔が怖い。いつにも増して笑顔が怖い。翔矢が平然と会釈している事が凄く気になるが、とにかく怖い。
「八月朔日、救護テントで待ってるよう言ったでしょう。探したわよー、あんた倒れてもおかしくないんだからね。あ、弟君。さっきの録音分のコピー、お願いするわよ」
「す、すみま――え?」
頷く翔矢が姉をちらりと見、取り出したのは母の携帯。きっちり録音中のマークがついているだけでなく、その経過時間はなんと、在人が教室に着いた辺りの時刻からではないか。
「……あ、あんた、盗聴してたの……!?」
「こうなるって予想ついてたから。感謝しろよ、馬鹿姉貴」
「この子達にはきつく言っておくから。本当、先生も呆れたわよ、今の内容には」
っていうか聞いてたのか先生も。一同の顔が強張っている。
「人のせいにして鬱憤晴らすなんてどこの幼稚園児? 八月朔日が確かに那賀を不登校にしたかもしれないけれど、あんた達も知らないわけじゃないでしょう。那賀は十人以上を不登校にしてるわよ。だからしていいわけじゃないけど、今回のあの子は自業自得。不登校って言っても、一昨日学校がある日にゲーセンにいたっていう報告もあるわ。いいように八月朔日の怒りを利用するなんて、やってくれるわよねぇ。きっちり指導してあげないと」
信じられないと言いたげに顔を引きつらせている一同。在人もそれは知らず、耳を疑う。
「え、あの」
「それで、あんた達は八月朔日に言う事はないの? 今まで谷之浦達が言ってた事が正しいように、先生には感じられるけどね。もちろん、皆に黙って無理して、ある程度でも迷惑をかけた八月朔日だけは悪くないなんて思わないわよ。那賀の不登校も責任がないわけじゃない。結局集団にいる以上、ある程度自分の限界を見定めて周囲に伝えるのは、個人の責任になるものなんだからね」
クラスメイトのほとんどが、顔を見合わせている。最初に溜息をついたのは、なんと薙原だ。
「悪かったな。ごめん」
「えっ!? 薙原は何も言ってなかったよね?」
「風邪気味なのは知ってたけど、こいつが無理してるの知らなかったなら一緒だろ」
茫然とする一同。おずおずと頭を下げるのは、最初に男子に同意していた女子だ。
「わ、私達もごめんなさい」
「あっ、あたしも! ムカデ競争で足蹴っちゃったの、あたしだし」
「えっ!? あ、いや全然気にしてないし……身長差あるじゃん? あたし達。それだけ一生懸命だったんでしょ?」
フォローを入れれば、女子は泣いているではないか。どうすればいいものか悩んでしまったが、周りが慰めてくれているので任せる事にした。
渋々謝る者、心から申し訳なさそうな人。悔しげな顔をする人や、誤りはしてもいい加減なクラスメイトもいて。
逆に申し訳なくなって、在人まで謝って、香奈達に突っ込まれて。
「なんで在人まで謝るのっ」
「……いや、やっぱあたしも原因あるしさ。出しゃばってたのは多分、本当だと思うし」
「出しゃばってるっていうか、姉貴のは無茶しすぎで人が求めてる範囲超えてやりすぎてるんだよ」
苛立った言葉に苦い顔。身に覚えはないけれど、翔矢に返す言葉がないという事は、心の隅で自覚はしているのだろう。
――なんで小学六年生からこんなに言われなければならないのか、そこは複雑だけれど。
「はい、もうすぐ期末だよ。いがみ合いはこれっきり。次からはテスト対策の勉強やるんだから、土日はしっかり遊んでしっかり寝てきなさい。勉強忘れたら後が怖いわよ」
一同からげんなりした声が聞こえてきた。思い出したくないと盛大に吠えたある男子に、皆同意して。
住永先生と目が合い、笑顔を返された。
思い出す。
入学式を終えたあの頃も、宿泊訓練の時も、この先生に救われた事。
翔矢が薙原を見つけて、いつになく鋭く睨んでいた事に気づくまで。在人はずっと、その記憶を思い出そうとしていた。