―Ⅳ― 新たな剣
暑い。
毎朝の草むしりは本気で暑いし、からかってくる連中を睨む暇もない。
何より朝起きるのが遅い在人には酷で堪らなかったし、正直クラスでまだ殴り倒していない調子に乗った連中をぶっ飛ばしたくて仕方がなかった。
けれどこれも訓練だ。自分で自分を律するのは、どの武道でも基本中の基本。
なのに……。
それが出来なくて空手を止めたはずが、自分で事を大きくしてしまったらしいのだから嘆きたくなる。鍛えていた主な理由は弟と喧嘩した際に負けないようにしたかっただけなのに。
校内の雑草は、これ見よがしに自分の陣地を主張して頂点を競い合っている。
ってか、こんな雑草って花あるのかな。種をつけて子孫を繁栄させてんの? あ、でもそうじゃなきゃこんなにむかつくぐらいに生えてないかってそもそもあたし何のために草むしりしてるんだっけ?
昨日朝一番に叩き起こされ、学校でやる事があるんでしょうと朝食を無理やり胃に詰め込まれ(寝起き状態である在人の機嫌の悪さをコントロールできるのは現在母親しかいない)。走って学校に行けば、何故か草むしりを担任に言いつけられる有様に。
納得行かなかった。それというのも、一昨日の出来事をほとんど覚えていないのだ。
剣が見えるようになって、その後香奈に三日前の紛らわしいメールによる弟との喧嘩を愚痴ったまではなんとなく分かる。香奈とその話を昨日したから。
けれど、その愚痴から寝るまでの記憶が綺麗さっぱりないのだ。
単純にど忘れしているだけだろう。そんな気がする。
気がして雑草を引っこ抜きつつ、根と一緒に掘り起こされた土も落とす自分のマメさに、通りかかる教師が褒めてくれるのも聞きつつ。そろそろ終わっていい時間と悟り、雑草をゴミ袋の中に放り込んで伸びをした。
生徒は大半、教室に上がった頃だろう。
「いいか、二次方程式は文字の右上に小さく2を――」
ノートを写しつつ、今日もまた那賀が欠席した事に、在人は珍しいとすら思っていた。あいつの頭の良さは転校当時から聞いていたし、同じぐらい欠席数も少ないほうだったのだ。そいつが二日続けて休むなんてと思いつつ、数学は板書を写すだけ写して、溜息。
本当に、自分はどうなったのだろう。触れられもしない、鏡に映ればそこにはないと言いたげに映らない刀剣が見えるなんて。
昨日も香奈と考えたが、結論は出なかった。珍しく香奈が剣にまつわるイメージをすらすらと言ってのけたのには驚いたけれど。
それを言った時の香奈も、かなり驚いていたっけ。
背中を小突かれ、小さく後ろを振り返る。真後ろの女子から手紙を回され、次は誰に渡すのかとあて先を見ると、自分宛だった。
四角形で、対角線上の二つの角だけ内に織り込まれたような形の手紙。綺麗に折られているところからして、手紙を回し慣れている女子――吹奏楽部とか美術部とか、体育関係の部活の連中だろうか。文字からして目立っている女子グループに思えてならないが。
机の下で、片手だけを使って手紙を開き、ノートを見ている振りをしつつ手紙を読んだ。
『八月朔日さん一昨日凄かったネ! 感動したヨ!』
……えーと、その前にどちら様。
『男子に向かってあんなに言い返せるのってカッコイイ!』
一昨日なんか言ったっけ、あたし。ってか片仮名多いなー。
『今度一緒に遊ぼうヨ、糸山サンも一緒にネ! 実良』
やっと人名が出てきて納得がいったが、在人は同時に首を捻った。
……実良って誰?
「在人……クラスの人の名前早く覚えようよ」
給食が運ばれてくる間に声をかければ、見事に呆れられた声。机を動かす音もあるためか、やや大きくなった溜息を聞き、やっと机を他のクラスメイトのそれと繋げた在人は彼女へと振り返った。半眼で睨まれても、正直空腹で動じる気になれない。
「残念だけど無理無理。友達の名前覚えるので精一杯だってば」
正直香奈の名前も結構かかって覚えたのに、普段苗字だけで呼んでいるクラスメイトの名前まで覚えられるはずがない。在人は手を振って苦笑い。
「だいたい、あたしが香奈のフルネーム覚えたのだって二週間かかったじゃん」
「あれ信じられなかったよぉ、最初。糸山香奈って、一日で覚えられる名前だねって評判だったのに」
そんな評判、あっていいのだろうか。水筒を取り出して麦茶を飲みつつ、思わず在人はなんとも言えない表情になる。ごまかしついでに本題に戻ろうと、昼手前に届いた手紙を指す。
「で、これどちら様」
「古町実良ちゃん。〝ふるまち〟さんとか、〝こまっち〟とか呼ばれてる子だよ。口調はイケ軍だけど、誰にでも優しい陸上部の子……早く覚えなさい、お姉ちゃん悲しくなっちゃうよぉ」
自分の顔が「分からん」と訴えていたのだろう。香奈は首をやれやれと振っている始末。
もてやすいとか、目だっているとか、明るいとか。クラスの人気者的集団が、イケ軍だ。逆にあまり目立たなかったり、クラスで浮き気味だったり、生徒から見て悪目立ちをしている、絡みにくいと判断される男女がシケ軍。
イケ軍とシケ軍はそれぞれが独立したコミュニティを築いているらしく、どちらのグループに所属しているかでクラスからの扱いは一目瞭然な、深い溝まで築き上げているのだ。
そのシケ軍に分類されているらしい在人は手紙を読み返し、肩を竦めた。
「そう言われてもねぇ……体育祭の応援団長の名前も覚えてないし、あたし」
「それは上級生だからまだ許す」
許すのか。もうすぐだぞ体育祭。
そもそも自分は手紙を回すなど、他人のものを中継した事しかない。どう返事を書くべきか悩んだ末、溜息。給食当番、まだ帰ってこないのだろうか。
「とりあえずその〝ふまち〟さんだっけ?」
「〝こまち〟さんね」
「あ、うん古町さん。その子と遊びに行けばいいの?」
「……自分の事でしょ? 行きたいの行きたくないの?」
呆れられたようだ。香奈の首が脱力したような傾ぎ方をしている。
「……どっちでもない、かな。少なくともあたし、その子の事よく知っているわけでもないしさ。香奈はどうする?」
「わたしは古町さんとはたまに話すけど……呼ばれた主役はわたしじゃないでしょ。本当、自分の事は禁句以外なら興味ないんだねぇ、在人」
痛いところを突かれた。そっぽを向いてごまかしつつ、在人は溜息。
「しゃあないって。自分でも時々思うんだよ? こんな男っぽい性格なら言われても仕方ないかなって。……けどさ、それはそれで屈してる感じがして嫌じゃん」
「意地っ張り、加減出来ずに、すれ違い」
「五七五に無理やり繋げなくていいって。……まあ、その通りっちゃその通りなんだけどさ」
しばし迷った後、在人は小さく笑みを作った。
「まあ、たまには人の輪を広げる機会、自分で作んなきゃかな」
「よろしい。ならお供いたしましょうか?」
「当然。ついて参れ?」
大した身長差もないくせに、わざと上から目線でふざけて言うと、二人で笑った。
ついでに今日の給食がポトフと知って、男子との奪い合いに参戦した在人は、きっちり香奈に「いい加減女の子らしくなりなさい」と鉄拳制裁を食らっていた。
「へぇーっ、八月朔日さんって体育得意だったんだ!?」
「はは……まあ、ね。あんま目立ちたくなかったからさ」
「けど、体育以外は悪目立ちの勢いで成績いいよね」
「うっさい、人が教えてんのに成績伸びない香奈も悪い! 返せあたしの講義時間!」
隣でそれを聞いていた古町実良は腹を抱えて笑っている。初めて家に来たというのに、香奈よりも早く慣れたようだ。リビングに彼女の声と、香奈の声が軽快に響く。
本当によく笑う子だ。陸上部には思えない穏やかな顔つきと、日本人特有の黒髪に焦げ茶色の目。見ている人の心まで和む顔なのに、大きく笑うその様は子供さながらの可愛さがある。
羨ましくて心の中で拳を固め、しかし笑顔を見る度にその拳はガッツポーズに変わっているのは、きっちり香奈に見抜かれたようだ。
その可愛らしさに相反して、彼女が帯剣する武器は、前腕に装着されたテレクと呼ばれる短剣。とある部族が使用していたという、直進で両刃を備え、握りが十字型をしている、典型的な刺突用の武器だ。
それこそ在人も思い出すまでに時間がかかるほど、今ではほとんど姿が見られないだけでなく、ゲームにも登場しないだろうもの。刺突というだけで、彼女が実は結構にずばっと言う性格なのではないかと考えてしまう自分は、もう帯剣された世の中に慣れきってしまったのだろうか。
――そんな慣れ、全然嬉しくもないが。
「ホントホント、凄いよね! 八月朔日さん成績優秀じゃん。高校とかもう決めちゃってる?」
「ぜーんぜん。あたし引っ越してきたから、学区内の高校にまだ疎いんだよね。って、今二年でしょ」
あれ、在人知らないの? オレンジジュースを飲んでいたらしい香奈が、ぽかんとして口を開く。
「もう実良ちゃん、推薦狙って猛勉強してるんだよ?」
それを聞いた在人はジュースを落としそうになった。
「はぁっ!? えっ、早くない!? 高校なんて三年の二学期に決めれば」
「それ遅すぎ」
二人に呆れられた上突っ込まれ、在人は顎を外す。
「だっ、だってなりたいものとかまだ決まんないじゃん、普通」
「在人はねー。実良ちゃんは医者か整体師になりたいんだっけ?」
あれ、香奈に話したっけ? 舌を小さく出す実良は本気で可愛いと、在人はやはり心の中で拳を作ってガッツポーズ。
「まあね。イケ軍のみんなからは早いって言われるけど、実良、お母さんの体治したいし」
「ええ話やん……!」
「在人ー。人変わってるよ」
またも笑う実良。クラスでは浮いている自分の表情が、こんなにも変わる事が意外なのだろうか。
「本当、八月朔日さんって面白いね。クラスじゃいっつも不思議なイメージがあるから、こんなに可愛い子だって早く知っておけばよかったよ」
「ええっ、ちょ、ま! あたし可愛くないって、実良ちゃんの可愛さの方が絶大だって!」
慌てて手を振れば、それを見た実良は微笑ましく、香奈はにやにや顔で笑ってくる。
「えー、随分と可愛らしい反応ですけどー?」
「十分女の子だよ?」
「そんっ、だあから女らしくないじゃん、あたし人生で初対面の人に女と言われた経験皆無なのに!!」
「えー」
「いやそこ『えー』って言うとこ違うって!」
ばたばたと手を振って必死に否定するのに、二人は笑顔。しまいには同時に笑っているのだから、在人は困惑顔で二人を見る。
「在人がそこまで混乱するの珍しーっ。実良ちゃん、今日は誘ってくれてありがとうだよ」
「ううん、こっちこそだよ。これみんなが知ったら、八月朔日さん人気者だね」
「いやそんな人気者嬉しくねえっつの!」
「よーっし、次在人の服買いに行くときは二人でコーディネートしちゃおうよ!」
「香奈ぁああ!」
「いいね、やろやろー!」
「古町さああああんっ!」
吠えた。
いつも以上に家で吠える自分を見てか、廊下から弟が、一瞬目を据わらせた状態でこっちを見てきた事に気づく。
やがて見下した目でハッと笑ってきた小学六年生に、在人は指の骨を鳴らしながら立ち上がろうとして――香奈と実良に笑いながら止められる。
「ほらほら、お姉ちゃんこわーい」
「怖くて上等こっち来い翔矢!」
「大人気ねぇなー、オ・ネ・エ・サ・マ」
……。
在人の堪忍袋の緒が切れた。
「んじゃ行ってきまーす。母さん、飯前に帰ってくっからー」
「はいはーい」
「ぶっ飛ばす!!」
「落ち着けー、ほらお菓子お菓子ー」
「やだあいつぶっ潰す! 翔矢戻ってこい!!」
「はっ、挑発に乗るほうが悪いだろ」
またも鼻で笑われ、在人の拳を笑いながら止める香奈を振りほどききれず。玄関の戸が閉まる音と同時にテーブルに突っ伏した。実良が笑っているのを聞き、気の抜けた顔を上げる。
「八月朔日さんの性格がどうしてそうなったのか、納得しちゃった」
「……あんな弟いたら普通はこうなるって……」
「やー、どっちもどっちだよ」
そうかもしれないけれど。在人は溜息をついた。
「あれ、八月朔日さんゲーム好きなんだ?」
テレビ台にゲームが置いてある事に気づいたのだろう。実良が不思議そうに見ている。
「うん。どっちかって言うとそれ、弟のゲームなんだけどね。RPGものだとあたしには簡単でさ。香奈から育成系――って言っても武器鍛えたりとかするのが多いんだけど。そういうの借りて遊んでるぐらいだよ。たまにスローライフ系とか、動物の育成もやるかな」
凄いねー。実良の感心したような声。香奈が笑っている。
「本当凄いよー。在人のお父さん、機械関係だっけ? とりあえず工業系の人で、在人も負けず劣らずなんだよ。というかおじさん、結構面白い人なんだよね」
「中身小学生低学年レベルだけどね。娘が生まれてくるのに男みたいな名前つけてるし」
「そういえば、どういう意味があるの?」
実良に首を傾げられ、在人はぽかんとした。
そう言えば、随分前に聞いた覚えがあるような……。
「なんだったっけ……今と未来に在る希望を見出し、人々に安らぎと光を与える子。だったような……」
「うわあ、すっごいいい意味だね」
そう……なのかな。
自分の事のように喜んでくれる実良を見て、在人はぽかんとした。
男みたいな名前で凄く嫌で。そればかりが頭をよぎっていたから、名前の意味なんて深く考えていなかったのに。
香奈もこちらを向いて微笑んでくる。
「ほんとだよね。わたしも初めて聞いたよ。そんなにいい意味だったんだ」
「……あたしは男っぽくていやなのに?」
「女の子みたいな名前に出来る場所、いろいろあるもんねー」
実良が初めて苦笑をしている。その後口元に人差し指を当て、考えこんでいるようだ。
「名前を嫌がるのは、誰でもある事だよ? 実良もね、最初は嫌だったの。よく名前読み間違えられるしね、意味知ってから好きになれたんだ。どんな時でも一番輝く実を結ぶ子に育つようにって意味って聞いて、それで好きになったの」
わあ、すっごくいいね。香奈の声が弾んでいる。在人は首を傾げた。
「香奈は?」
「えっとね、わたしのは自分で調べてみたんだけど。名前つけてくれたおばあちゃん死んじゃってるから。奈って言う字、木の名前でからなしとか、べにりんごって出てきたの。あとね、どうしたらいいだろうっていう意味もあるんだって」
初耳だった。「奈」という文字はよく女子の名前で好んで用いられるが、深い意味は聞いた事がなかったのだ。
「ほとんどマイナスの意味の感じだったんだけど、人名に使う時の意味をお母さんが教えてくれたんだ。唐梨とか、花梨とか、どうしてって意味なんだって。『どんな香りを育むだろうか。たくさんの香りに惑わされず、どうして自分の香りがそうなったのか。そうして気づいた自分の香りをずっと大切にしてほしい』って。香りを人生に例えて、そう名づけたんだって」
みんな持っている、名前の意味。
羨ましかった。
ちゃんと女の子な名前をつけてもらって、綺麗な意味を持っていて。
眩しくて少しだけ目を細めれば、視界が僅かにぼやけてきた。
「みんないい名前だよねー。ねね、八月朔日さん。これから在人って呼んでもいい? 糸山さんも香奈って呼びたいけど、いい?」
「え……あ、うん」
「ぜんぜんいいよ、わたしたちも実良って呼んでいい?」
「うんっ。呼んで呼んで、おねがーい」
嬉しそうにはしゃぐ実良と香奈。
名前を呼んでいいかと聞かれるなんて、今までなかった。
ほんの些細な事なのに、距離を縮めていいか確認を取られたような、もっと近づきたいと言ってもらえたような。
在人は一人だけぽかんとしていたが、二人に手を繋がれ、楽しそうに手を揺すられて。
――ほんの少しだけ、仕方ないなぁと表情を緩めた。
「――母さん。あたしの名前の意味ってさ、なんだったっけ」
夕飯の手伝いに呼ばれた傍、台所の戸棚から食器を取り出しつつ。細長い台所の奥、ガスコンロの前に立つ母に尋ねれば、食材を炒める音と共に間延びした声が返ってきた。
「んー? どうしたの、急に」
「ちょっと、さ。今日来てくれた子が、あたしの名前の意味ってなんなのかなって聞いてきてくれたんだ」
少しだけ、長箸を動かす音が止まった。もう一度動き出す音を不思議に思って振り向くと、母の顔が笑みを浮かべている。昨日の白髪染めは上手く使いこなせなかったらしい、母の髪につい目が行ってしまったけれど。
「そう、聞いてくれる子いたんだ」
「へ? うん……」
「在人はどう答えたの?」
質問をしているのはこっちなのに。在人は少し脱力したが、食器は絶対に落とさなかった。もう一度枚数を確認し、箸も手元に人数分寄せつつ答える。
「『今と未来に在る希望を見出し、人々に安らぎと光を与える子』。前に、母さんか父さんかがそう言ってた気がしたから」
「おお、凄いっ。よく覚えてたわね。ほとんど正解」
どんどんと広がる母の笑み。在人は訳が分からずに小皿を持っていこうとしつつ、母の声がまたかけられて振り返って立ち止まった。
「『今と未来に在る希望と誰かの願いを見出し、人々に安らぎと光を与え、自分らしく在る子』。『誰にでもある強い意思を、誰にも負けないよう、より強く輝かせて心に宿し、今に在る子』。
最初はお父さん、後ろはお母さん、両方の願いを込めてつけたの。どっちも同じ事を言っているけど、どっちも、同じぐらい在人の名前に思い入れがあるのよ」
言葉が出なかった。
言葉だけじゃなくて、声も。
しばらくじっとしていて、やがて顔をふいとそむける。
「親バカの永遠新婚気分夫婦っ」
「あははっ、褒め言葉どーもー」
「褒めてないっ!」
食器を手に廊下を突っ走る自分の顔まで。
母の笑い声につられて、自然と笑みを作っていた。