―Ⅲ― 刻まれた牙
思わず持ち上がった暗い鎌首に、在人は体操服に着替えた後に待たされている校長室で、ぼんやりとしていた。
「大丈夫……?」
「ん……まあ、悪くて高校行けないくらいじゃない? 二回目だし」
香奈の不安げな声に、ぼんやりと天上を見上げたままの在人は答える。校長の業務用の椅子と机の前、対談のためのソファにこんなに湿った男女が座っていいものか、最初は躊躇したけれど。
重く落ち着きのある茶色を壁にも天上にも塗られ、床も焦げ茶色。ワックスの関係だろうか。
壁にかけられた歴代の校長の姿を見つつ、在人は軽く伸びをした。妙に体が凝っているのは、久々に呼び出された先が校長室だからだろう。
「二回目って……」
「あ、言ってなかった……か」
うっかりしていた。随分と隠してきた事でもあったのに。
質素に装飾された程度の棚に飾られた、優勝杯や写真などを適当に眺めつつ、在人は諦める。
もう口に出た以上、ごまかしようもない。
「その、さ。……あたし人一倍切れやすいじゃん?」
「うん、いつもの事」
余計な一言にかちんと来るも、いつものまったりとしつつもやや覇気がある声から、元気が奪われている事に気づいた在人はそのまま続けた。
「切れやすくて、小学校の頃教室で大暴れしちゃったんだよね。今以上に」
「……想像つくなぁ、窓ガラス割って」
「うっ」
「教室の机全部なぎ倒して」
「ぐっ」
「挙句教師に抑えられても急所ことごとく突いて」
「……げぼぁ……」
「二十分以上にも及ぶ大格闘を演じた小学生って、県外の学校にいたってニュース、聞いた事あるなぁ……」
もう挙手をする他なかった。教師にバケツで水をぶっかけられた時以上に意気消沈してしまう。
「あたしです……」
「うん、教室であれだけ暴れたの見て確信したよぉ」
「ですよねーっ」
もう半泣きだった。言い当てられたんじゃなくてニュースの内容思い出されたという事でもう泣きたかった。
「……ニュースじゃ、女の子が急に暴れだしたって話しか出てなかったけど……」
それを聞いて、在人は黙り込んだ。
香奈に聞かせたくなかったし、それ以上聞かれたくなかった。
もう自分にとって無意味な理由。それを今尋ねられた所で――
「在人、強いね」
「はっ?」
拍子抜けして香奈を見やれば、元気なんて本当に抜け落ちたような弱々しい笑みの香奈。
「誰かのために、あれだけ拳振るえるんだもん。自分の事に怒るより、誰かのために怒って殴ったんだもん。凄いよぉ」
「……凄くないよ」
たまたま、小学校の頃まで空手を習っていた。
それで今みたいに、感情の花火を盛大に点けられて、止まらなくて。
気がつけば相手を病院送りにまでしただけでなく、武術の心得がなかった教師まで巻き込んで。
今以上に手が負えなかった、獣みたいな自分が嫌で。
気がつけば独りになって、独りのまま卒業した。
卒業して、今の学校に転入学して。
住永先生の言うとおりだ。正当な理由であっても拳を振るっては、暴力で事を片付けては、相手と何ら変わらない非が生まれるだけ。
負の感情を怒りで洗うなんて出来ないって、小学校の頃嫌というほど知ったはずなのに
「――ごめん。問題児だって事黙ってて」
ダメだなぁ
もう誰にも拳向けないようにって、体育でも女らしく出来るよう頑張ってたのに。
何のために体育の成績低く保とうとしてたのか、さっぱり分からなくなってきた。
あいつ、顔変形してなきゃいいけど……。
「うん、黙ってたのはムカついてる」
当たり前だろう。在人は静かに視線を叛ける。未だ来ない校長ら含め教師らを待つために、ずっと同じ態勢を取っていた在人は肘を膝の上に置いて顎の支えを作る。
「そういうわけで、これからは隠し事徹底的に吐いてもらうからね」
漫画さながらに、顎が頬杖から外れた。慌てて顔を挙げると、もう香奈は笑顔に戻っている。
「今までどれだけ隠し事してきたか、手に取るように分かるなぁ。お姉ちゃんかなし~い」
「……や、ひとつ言うけど、毎度の事だけどあんたとは血ぃ繋がってないし」
問答無用の空気が流れた。
冷や汗が流れる在人は、思わず校長室と外界とを繋ぐ重い茶色の扉を必死の形相で振り返る。
まだ来ない!
「さあ、まずはいつ頃からいつ頃まで空手を習ってたかかな」
「いっ、いやちょっと待とうか! あたしトイレ行きたいトイレ!」
「えー、先生が待ってなさいって言ってたのに? あと、わたしの柔道部の勧誘どうして断ったのかなぁ」
「そりゃ空手と柔道じゃ剛と柔、やり方が違うからでしょうよ! っつか小学校の低学年まで習って後全部独学だから、武術に近い感じでやっただけだから、これでいいでしょ、ねえ!」
必死で捲くし立てるも、香奈の笑顔は留まる事を知らない。
「まだ聞きたーい」
「もう泣きたーい」
「じゃあ泣く前に話し合いしようか、八月朔日」
住永先生の姿を扉の前に見つけ、さらに気が重くなる在人。げんなりとした顔を隠しもせず、堂々と溜息までつく。
「もう帰らせてくださいよぉ……事情聴取なら警察でしますから」
「そこまで事荒立てたかったの」
「違いますけど、そういうもんじゃないんすか? あたし二回目ですよ」
住永先生はいつも通りの笑みを貼り付けたまま。中年女性とは思えない屈託のない笑みには、毎度腹の底が知れなくて在人は苦手だ。日本人特有の黒い髪をうなじで束ねているというスタイルはともかく、三十代後半を過ぎても未だに白髪染めを使わなくていい教師は珍しいのではないだろうか。
そこから、彼女の精神の太さは見てとれるのだ。
「まあねえ。普通なら警察沙汰、なんて考える保護者は多いかな」
まあ、普通は。在人だけでなく、隣で香奈も頷いたようだ。
「けど、この学校昔からのスタンスでやって来ててね。学校の事は学校でやるタイプなのよ」
在人は流し気味に聞く。
どう転んだって、自分の将来は本格的に潰れるだろうから。
「そうそう、そろそろご家族が来るから。那賀のご両親もね」
「……そりゃいいですけど。あたしも謝んないといけないですし……」
妙に担任の言葉に引っ掛かりがある。
ちらと見上げれば、住永先生は手に持っていた紙を自分たちの前にあるテーブルに置いてきた。在人も香奈も思わずバツが悪い顔になる。
「これ考えてた時に、いちゃもんつけられたんでしょう? なぞなぞみたいね」
「……まあ、そんな感じ……ですね」
大人じゃ余計に信じてくれないだろう内容。どう転んでも、やはりこちらが不利な気がする。
先生はじっとメモを見て、やがてこちらを向いてきた。
「剣で連想されるもの。特定の人にしか見えない。触れてもすり抜けて、鏡にも映らない。まるで亡霊みたいね」
「……あたしもそう思います」
「これ、なぞなぞを考えていたというわけでもなさそうだけど。なぞなぞを持ってきたわけでもないみたいだけど、違う?」
頷いた。そうするしかできなかった。
どれだけ馬鹿にされようと、事実を捻じ曲げるなどやるだけ無駄だ。
「じゃあ、八月朔日。私にはどんな剣が憑いてるの?」
「刃渡り一メートルぐらいのタック……あ、突き専門の武器で、鎖鎧が発達した時期に活躍した剣なんだけど……」
「タックか……案外古風ねぇ。どんな意味があるんでしょうね……うーん」
――え?
在人は思わずぽかんとする。
大の三十路過ぎな女性が、考えこんでいる。
明らかに錯乱した子供の戯言と思われても不思議じゃない事を、真剣な眼差しで考えこんでくれている。
やがてこちらをちらりと見やり、先生は小さく舌を出して笑った。
「弱ったわねぇ、こういう時に頭が悪い教師って役立たないもんね」
「信じるんすか……? だって、子供の戯れ……」
それは違うでしょ? すぐに口をふさぐようにかぶせられる言葉に、在人は戸惑う。
「少なくとも、那賀に対して切れていた時のあんたの言葉に嘘はない。二年間担任やってきたけど、八月朔日は嘘を付けるほど狡賢くもないし、むしろ正直者よ。
人のためを思って自分の感情を素直に出していける。主張がしっかりとしたあんたに、もしこんな嘘をつけたのだとしたら、先生も先生としての修行をしなおさないといけないくらいでしょう?」
顔が動かなかった。
表情がひたすら固まって、顔の筋肉が全部緩みきったように、力が入らない。
「ま、同じぐらい勉強に頭費やしてほしいとは思うんだけどなぁ」
「無理っすよ、あたし英語嫌いだもん……」
「点数取れてるのに?」
香奈の横槍に、在人は気の抜けた笑みを作る。これでも意地悪な笑みを作ったつもりだった。
「どっかの誰かさんに教えてたら、自然と点数が中の上に食い込んだだけだって」
「そういえば、糸山の点数に貢献してたのが誰か探してたんだけど、あんただったの」
在人は苦笑して肩を竦めた。
どう転んだって、猛勉強の意味はなくなる。そんな気もする。
「それで、あたしの処罰はどうなるんですか」
「校長先生とお話して、一週間朝の草むしりね」
この暑い時期にそれはないも、罰則というのはわざと酷な事をやらせるのだから仕方がないと思い、不承不承頷く。
「それから、那賀には監督つきで旧校舎の掃除を一週間、夕方にあんたと同じ時間分やらせる事になったから」
「は――えっ!? あいつにも罰則させるの!?」
不服かと尋ねられ、在人は首を振りつつも納得が行かない。
殴ったのは自分だ。いくら相手にも非があるからといえど、那賀は自分を殴ってきていない。
一方的な暴力ならどちらに非が重くあるかといえば、在人のはずなのに。
「あんたが那賀に言った台詞、覚えてる? 『何人の心を傷つけて不登校にさせた』ってやつ。あれね、私も疑問だったのよ。うちの学年不登校生が四人でしょう。その内のほとんどが、学校に行きたくない理由がクラスの人に会いたくないだったのよ。勉強が嫌じゃなく、人が怖いって。ほとんどの共通点は、最後に多く接触していたのが那賀や、クラスでよく騒ぐ男子たち」
それは知っている。
新谷祈が一時期不登校になっていた時があり、在人はその頃には彼女の事も、彼女が苦しんでいた理由が那賀からのいじめであった事も知っていたから。
それが一年の頃の話だ。
投稿拒否を起こしていた生徒たちに確認を仰いだのだろうか。けれど祈がそうであったように、彼らは自分を苦しめた相手の報復を怖れて主犯どころか共犯者の名を口にすら出来なかったのに。
そう思ってはっとした。
それを逆手に取ったのなら――?
「もしかして先生、全員の反応を家族に見てもらったの?」
「さすが心理を独学してるだけに鋭いわね。その通り」
悪戯っ気を含んだ笑みで笑った後、今度は申し訳なさそうな顔をする住永先生。
「正直酷な事ではあったけどね。先生としての盲点は、クラス全員を見る必要があるって事。副担任の先生も二クラスに一人しか配属されないから、先生全員が生徒を見るにしたって、単純計算でも一人で二十六人以上を同時に見なければならないのは、八月朔日も知っているわね?」
頷いた。
その中で生徒を教え、他のクラスの生徒たちの授業も周り、学校行事の予定やテスト範囲の決定、職員会議、文部科学省などへの報告、学校・校区内の見回り、不登校児宅への訪問――様々な職務を一手にこなさなければならない。
決して自分たちの状況把握に手を抜いている先生ばかりではないと、在人も分かっていた。けれど怒った時に出た台詞はそれを全て否定するもので、今更ながらに壁の色の重みが増した気がした。
「生徒を安全に次の高校に送り出すのが私たちの役目。人数が多いから把握できない子がいても仕方がないじゃ、仕事は通らないもの。何より、いじめを行う連中の大半は先生の前じゃ大人しかったり、最近は妙に狡賢いわよね。そういうのを見抜けない事も含めて、私たちに一番の非があるわ。生徒に心を開かせる事ができないのが一番情けない所ね」
自分の事だからだろうか。
先生が一言言う度に、タックの滑り止めの布がどんどんと摺れて、ぼろぼろになっていくのが見えた。
剣も傷ついていく。先生の心を訴えるように。
「今回一番辛い思いをさせてごめんね、二人とも」
「――先生、罪滅ぼしってわけじゃないんでしょ」
少なくとも住永先生は、生徒と接する事を仕事とは思っていない。
自分が今やるべき事で、やりたい事だと感じている先生だ。
在人は笑みを作った。
「あたし、住永先生の事好きだよ。あたしみたいな口やかましくて怒りっぽい奴相手できるぐらい堂々としてる先生、小学校の頃も見た事がなかったよ。いくら怒ってたからって、あんな酷い事先生たちに言って……あたしこそごめんなさい」
小さくしか下げられなかった頭に、力強く手が押し付けられて髪を乱す勢いで撫でられた。
驚いて踏ん張って、終わった後に首を上げて。
先生の嬉しそうな顔が、香奈のほっとしたような、やっぱり嬉しそうな顔が。
一番心地よかった。