─ⅩⅠ─ 回廊
課題曲は、故郷。中学二年は必ずその歌を校内イベントの合唱コンクールで歌う決まりがあった。
自由曲はクラスごとに違う曲目を選択し、それぞれに歌って競う。総合した成績と当日、前日までの態度含め、全体的に評価された結果、金賞、銀賞、銅賞までが送られる。
去年の合唱コンクールは、在人が覚えている限り、当時のクラスの行事で最悪だった。
女子は声変わりで声が出ない男子にもっと声を出せと言い、無理やり声を出して喉が枯れた男子や、元々歌う際の声量が少ないためやはり喉を痛めてしまった女子達に、自己管理もできていないのかと八つ当たりした。それで自分のせいだと、クラスが怖いと学校にこれなくなったのが、新谷祈だったから。
祈だけではない。男子達はまともに練習に参加しなかったし、部活があるからと早々に帰り、そう言い訳する連中を捕まえようと女子達が飛び出していって、クラス練習もまともにできなかったのをよく覚えている。香奈は当時違うクラスだったが、向こうは先生が割としっかりしているほうだったために、ひどくはならなかった。
住永先生がいる時はしっかりしていたクラスだったが、元々体育会系の人間が強く、文科系の生徒は弱い者扱いされていた学年の一クラスだ。しかも別々の小学校がより合わさってできた中学の最初の学年では、今まで溜まっていたストレスがピークに達して爆発したのだろう。
当然、銅賞どころか、当時の在人のクラスは最下位だった。
その事をこっそり伝えてくれたのは、審査員として出ていたピアノの子で。一生懸命指がつりかけても頑張ってくれたその子は、泣いていた。
確かにあの時、祈の事で不平ばかりだった女子達に呆れて「それでいいんだ?」と声をかけはした。その後集中砲火を浴びたのは自分らしいが、それもよく覚えていない。
仲がよかったはずの飯村さんや、渡部さんともそれを境にめっきり話さなくなったような……やっぱり覚えていない。
薙原がひどくきれて、机思いっきり蹴飛ばして薙ぎ倒して帰ったって話もあったような。――その時いたはずだが、忘れている。
自分の部屋のカーテンを閉めて机の蛍光灯を点けた。ほの暗さの中に、切り取ったような光の白が広がる。
机の本棚から取り出した日記を広げ、渋面を作った。
何度も破かれたページ。残っているのは楽しい話を書いていたところだけ。
こんなもの、本当に日記なのだろうか。
「……変わったっけ。何か」
変われただろうか。
いやそもそも、あの時はどうだったのだろう。
小学校四年。ずっと楽しくて楽しくて、仕方がなかったはずの小学校時代。
……なんで、覚えていないのだろう。
どうして四年の二学期頃から、こんなにも覚えていないのだろう。
――変なの。日記破いた覚えもないのに。
色々考えても仕方ないと、今のうちに学校の事を日記に纏め始める。今日一番記憶に残っているのは――やっぱり、合唱コンクールの事だろうか。
すらすらとペンは滑った。小さい頃から続けていた事だから。
やっぱり今日も遅刻すれすれで門に入った。けれど遅刻扱い。一緒に男子と掃除をさせられて、監督はまさかの親友。うわお逃げらんないね!
掃除は手馴れてるからいいけど、その掃除の前はといえば、合唱コンクールの話し合い。
正直、話に加わるのも億劫だったけど、今年は香奈と祈ちゃんが助けてくれた。
女子低音だから、女低。……男子が笑ってたの、むかついたけど。でも、香奈が名前で馬鹿にするなんてガキ以下でしょって叫んでくれて、なんかほっとできた。
祈ちゃんが提案者だって聞いて、嬉しかったし、どれだけ勇気出してこの事を言ってくれたのか。怒って立ち上がろうとしたあたしを止めてくれたのか。あの子、ずっと怖かったはずなのに。目立つ事。
逃げずに、頑張ってた。でも意外だったな、薙原と祈ちゃん、従兄妹だったのか……顔全然似てなかったし、学校で話してる姿なかった気がするけど――
ここまでペンを走らせて、はっと思い出して去年の二学期頃の日記を開いた。何度もページが破かれている中、この辺りだろうと何度かページに手を滑らせて読み返すも、残っていない。
溜息をついたが、頭がズキズキと痛む中に、確かに覚えがある。
「薙原が切れたの、そういう事か……」
体育祭の時、自分に謝ってきたという記述が、日記にあったのも。
いくら親が駆け落ちで連絡を取っていなくても、親戚なら度々顔を合わせていたはずだ。在人だって引っ越した後も交流を取っている親戚は、家族ぐるみでかなりいる。
同い年ならきっと、昔は仲良く遊んでいたのではないだろうか。薙原は元々男女関係なく仲がいい奴だし、マセガキではあるが人を大事にしているし。
祈へ向かう言葉を止められなかった事も、その言葉を毎回聞いていた合唱コンクールの練習も、嫌だったから。
だから机を蹴り飛ばすぐらい荒れたんだ。
体育大会の時謝ってきたのも、思い出したの? あいつ……
在人は首を振り、溜息をついて背もたれに大きく体を預けた。ぼんやり目を開け、呻く。
だめだ、頭が痛い。風邪引くような時期でもないのに。
「在人ー、ご飯よ!」
「……マジ……あー……」
「在人? 在人ー!?」
分かってる
分かってるってば、もう……
あははっ、あはっ、おかしーい……翔矢どうしたの? 一緒遊ぶんじゃないの?
兄ちゃんもいっしょはいや!
なんで? お兄ちゃんといっつも仲良しでしょ?
――
嫌ってないよ。ほーら、翔矢ちゃんと謝らなきゃだーめ
……お姉ちゃんいっつもおにいちゃんとばっかり遊ぶ……
そんな事ないよ、菜月ちゃんとも、詩織ちゃんとだって、遊んでるよ?
菜月お姉ちゃんと詩織お姉ちゃんは……遊んでる、けど、でもね!
後で、みんなで一緒に空手行くでしょ? どうしてだめなの?
なんかダメ!
――
……ね。変なの
変じゃない、変じゃないもん!!
変だよ翔矢。ね、
「だーれが変だおいこら馬鹿姉貴」
ビシッ
額に鋭く入った衝撃にはっとし、痛みに呻いて目を開けると同時。不機嫌まっしぐらの弟の顔が見えて、在人は戸惑いながら渋面を作った。
「な、何さ急に……あ、勝手に入ってくるな!!」
「じゃあ扉何回ノックさせたら出て来るんだよ! 飯っつってるだろ、食わねえならそう言え!!」
「ぃつっ……うっさい食べる、食べるから先行っててよもう……」
頭が痛い。先ほどのデコピンが嫌というほど効いているのか、痛い。
翔矢が苛立ちながら「あ、そ」と部屋を去ろうとして――扉の前で立ち止まり、振り返ってくる。
「日記、まだつけてたのか」
「んー……? ああ、うん。小さい頃の習慣って恐ろしいよねー……ちょい待った覗き込んだの?」
「んなの誰がするかよ。名前呼ばれて変だのなんだの言われてデコピン食らわす以外してねーっつの」
「誰が変って……え?」
言った。言った気がする。
いつ言った? 翔矢が来る前? え、いつ?
しばし黙考し、弟の冷めた目を存分に受けて――
あははっ、あはっ、おかしーい……翔矢どうしたの? 一緒遊ぶんじゃないの?
顔が、真っ青になった。
何夢の中で小さい頃の記憶絶賛リフレインしてたのあたし――――――――――!
「……よ、呼んでないよ? べっつにあんた呼んだってなんかあったっけ? あっははー自意識過剰も」
「へったくそな自己防衛するぐらいなら泣き寝入りでもしとけば? ブラコン」
冷めた声で言われ、扉をパタンと閉じられ。
しばし固まった在人は、ぎこちない動きでゆっくりと扉を睨みつけた。
ブラコン……
あいつ、今なんて言った? ブラコン?
は? ブラコン? 誰が? 誰がブラコン?
「っざけんな馬鹿翔矢ああああああああああぁっ、痛いいたっ、ぅぅ……!」
叫んでも頭痛に邪魔され、とてもではないが頭を押さえるしかない在人。
呻いて廊下に向かうと同時、顔をしかめた。
――
……遊んでた男の子……誰?
「女子ソプラノ、もうちょっと高い音頑張って! 全体的に声を大きくできる? 男声、大きな音頑張らないとみんなのやる気落ちちゃうよ!」
各クラス、放課後の合唱コンクール練習。
自由曲はまだ決まっていないが、音楽の授業でも少しずつ始まっている練習は、毎日放課後に引き継がれた。その度に剣が人や自分に当たりそうなほど密着するせいで、どうにも在人はそわそわとして溜まらない。
本当はこの練習が一番怖いはずの祈は、顔を真っ青にしながらも高い音を頑張っている。震えている声が隣から聞こえ、在人は背中を優しく叩いた。祈が微かに頷いている。
「大丈夫……が、頑張る……!」
「ありがとね。――あ、ねえねえ藤堂さん! 今のどの辺がよかった? 直す場所の指摘も大事だけど、よかった場所も知りたいなーっていうか。そこも伸ばしていけるかもっしょ?」
文化委員の女子がはっとした顔で、「あ、ごめん必死になりすぎてた?」と返してきた。在人は笑って「文化委員が必死じゃなかったら練習続かないよ」と突っ込み、他の女子も笑っている。藤堂が照れたように笑い、男子の余計な茶々は男声パートリーダーの薙原が呆れ顔で「真面目にやらないと明日の冷凍みかん没収コースな」などと勝手にペナルティーを設けている。
「そうだねー……男声は音が綺麗に合ってたかな。女子は、多少遅れてる子はいたかもだけど、ほとんどリズムがよかったよ」
「おっしゃ音感褒められた! 変声期に負けるなよ俺ら!」
「そういえば薙原の変声期やたら遅いよね。見捨てられてるんじゃね?」
とある男子のにやりとした言葉に、薙原は本気で顔を真っ青にしている。笑い飛ばすクラスのメンバーに、ピアノ担当の女子が伸びをして肩をほぐしているではないか。
「ごめん、一度休憩入れてもらっていい?」
「うん、じゃあ全員十分間休もっか。喉渇いてる人は給水器争奪戦頑張ってね」
ダッシュ。
誰が一番早く飛び出していったかよく見れば、那賀ではないか。後姿でもあいつだと一目で分かる、同族殺しの短剣が腰で乱暴に揺れて過ぎ去っていき、廊下に走る音が響いた。那賀の隣だったのだろう男子が笑っている。
「っはは、あいつトイレ我慢しすぎ! 隣で『大、大!』とか言ってやがったよさっき!」
途端に大爆笑が巻き起こった。女子の何人かは「はしたない」と注意していたが、在人は苦笑いしかできない。
言えばいいじゃん、危険信号だったんなら。
「八月朔日さん、歌う時声高かったんだね」
「ん? ……あ、そうなの? とりあえず小さくなり過ぎないように意識してたから、あんまり……」
言いかけて、ふと気づいた。
隣の女子が興味津々の顔で見てきているのだ。
「ねえねえ、一番高い音どのぐらい出せるの?」
「はいっ!? いやたんまっ、今は分かんないって」
「気になるよーっ」
「あ……えっと、あ、ごめん喉に負担かかるからっ。先に飲み物飲んでくる!」
慌てて列を飛び出せば、女子は不服そうな顔だ。香奈が不思議そうに近寄ってきた。
「大丈夫? そんなに声出してたっけ?」
「……分かんなかった……」
「はい?」
香奈に聞き返され、呆然と水筒の蓋を緩める在人は困った顔になる。
「自分でもどのぐらい出せたか、分かんなくなって……うん」
「うん、じゃないよ。分からないんだったら出してよかったんじゃないの?」
言われて見ればそうかもしれない。
けれど、なんだか……なんとなくだけれど、出す気持ちになれなかったというか、不意に頭の中が変に――いや、パニック気味になってしまったというか。
「あ、そういえばね、実良が土曜日一緒にショッピング付き合ってって。在人もちょっとお金持ってきてほしいかなって言ってたよ」
「あー了解」
「で、祈ちゃんも誘いたいんだけどどうかなーって」
「いいと思うよ。上の段だし声かけるよ。たまにはみんなではっさ――って、ショッピングってどこ? 文房具店?」
香奈がげんなり顔をしている。コップに注いだ麦茶を飲み干した在人は怪訝な顔になった。
「……そんなショッピングで女の子が楽しめるなんて、どう考えてできるのかなぁ。お姉ちゃん不思議なんですけど」
「だからあんたとは血ぃ繋がってないって毎度毎度ね――あ、休憩終わり?」
集合の号令がかかり、さっさと茶を飲んだ在人は、一度だけ薙原と目が合ったが、首を傾げてすぐに列に戻ったのだった。
「えー本日はお集まりいただきまして!」
「恐悦至極にございます、って?」
「え、何それすっごい難しい字ぃっ、実良全然分かんないよ!」
香奈と成り行きできた美優、楓までが腹を抱えて笑っている。祈もくすくすとおかしそうに笑いつつ、在人のそばでちょこんと頭を下げたではないか。
「あ、あの、誘ってくれて、ありがとう……」
「こっちこそ来てくれてありがとーっ。祈ちゃんも一緒にお洋服選んで楽しもうねっ」
「あ、うんっ」
はにかむ笑顔が正しく女の子らしい。心の中でガッツポーズを決めた在人は、はっとして美優へと目をやった。
にんまりと変な笑顔を作って、祈を見ているではないか。
「祈ん変わらずかわいいー超かわいいーっ! 食べちゃ駄目? 駄目?」
「え? ええっ?」
「美優っち、食材じゃないんだからそれアウト」
「大丈夫あるるんはデザートだからっ」
「全然大丈夫じゃないじゃん!」
香奈が呆気に取られているではないか。そういえば去年も今年もクラスが違うためにほとんど顔を合わせたことがない二人に、在人は苦い顔になる。
これはまずい。人選ミスも甚だしい。
「美優ちゃん初めましてー、楓だよ、カエって呼んでねっ」
「よろしくよろしくーっ、あたしの事は美優っちでどーぞどーぞ!」
どうぞというか、仲良くなるの早。
実良も祈に優しく声をかけ、おずおずと頷く祈にかわいいと抱きついて驚かせてしまっている。香奈が苦笑いしているのは、きっと在人と同じ理由だとは思うけれど。
本気で、この人選ミスはいけない。いけないと言うより、危ない。
「それで、ショッピングどこ行くんだっけ?」
一人だけポロシャツにジーンズと、男子顔負けなファッション興味なしスタイルを貫く在人。帽子もモノトーン調のロックスタイル風で、唯一マシに見られているアイテムはそれだけだ。
改めて確認され、実良と楓が生温かい顔でうなずいている。
「うん、決めててよかったね」
「ホントーにねー。裏切らないセンスだね在人」
「失礼な。事実だけどさ……」
顔をひきつらせて言い返すも、ついいつもの癖で肯定してしまう。そして今更ながらに気づいた事が一つ。
なぜ今ファッション確認を? 確かに皆、女の子らしく可愛い服だけれど(楓と美優はスポーツ系だけれど)、今改めて、集合した後に言う事だろうか。
しかもショッピングは文房具店というわけでもなく……
冷や汗が流れる。言葉にならない心の軋みがひどい音を奏でる。
…………まさか。
「あ、あのさ因みに、皆様本日はどちらへ……」
「さあレッツショッピング!」
「ゴーゴーッ!」
「待って! 誰か話を、話を聞いてええええええっ!」
聞いてもらえなかった。