9話 本物の聖女
王宮の一室。
白いベッドに横たわる王太子カイル・アストレアは、穏やかな顔で眠り続けていた。
傍らに立つ聖女リーリアの顔は蒼白だった。レイモンドの逮捕は既に伝わっている。共犯者である彼女もまた、もはや逃げ場はない。
「……カイル殿下は、起きないの。私の治癒では、何をしても」
リーリアが消え入りそうな声で言った。
私は鑑定眼をカイル殿下に向けた。
「当然です。殿下の症状は病気ではありません」
「え……?」
「殿下の体内に、微量の偽聖銀の粉末が蓄積しています。あの紋章ブローチ——最初の夜会で私が気づいた異常。あれは偽聖銀製で、装着者の魔力を徐々に吸い取る仕組みでした」
カイル殿下は半年間、レイモンドから贈られた偽のブローチを身につけ続け、魔力を吸い取られていた。魔力が限界まで枯渇した結果、昏睡状態に陥ったのだ。
「リーリアの治癒が効かないのも道理です。偽聖銀の干渉で、外部からの魔力供給が殿下の体に届かない」
「じゃあ……カイルは、どうすれば……」
「偽聖銀の粉末を除去すれば、自然に魔力は回復します。そして——」
私はカイル殿下の胸元からブローチを外した。鑑定眼で精査し、偽聖銀の成分分布を特定する。
「ここ。ここと、ここ。三箇所に偽聖銀の粒子が集中しています。本物の聖銀を近づけて共鳴させれば、偽物だけを排除できる」
懐から取り出したのは、エルディア銀鉱産の聖銀の欠片。リヒトに渡したものとは別の、もう一つの方だ。
聖銀の欠片をカイル殿下の胸元に置く。蒼い燐光が灯り、偽聖銀の粒子と共鳴を始めた。
本物が、偽物を識別し、排除する。
私の鑑定眼と同じ原理だ。
数分が経過した。
カイル殿下の顔色に、わずかに赤みが戻る。指先がぴくりと動いた。
「……ぅ……」
「カイル!」
リーリアが叫んだ。
カイル殿下の瞼が、ゆっくりと開いた。焦点の合わない目が天井を見つめ——やがて、傍らの人物を捉えた。
「セラ……フィーナ?」
目覚めて最初に呼んだ名前が私だったことに、少し驚いた。
「お目覚めですか、殿下。お加減はいかがですか」
「俺は……なぜ……。——そうだ、レイモンドが。リーリアの聖印が偽物だと——俺は、気づいて——」
カイル殿下の記憶が急速に蘇っているようだった。
「気づいていた、のですか?」
「断片的に……おかしいと思い始めたのは、倒れる少し前だった。レイモンドに問い質そうとした矢先に意識が——」
つまり、カイル殿下はレイモンドに気づかれ、意図的に昏睡させられたのだ。
「殿下。お伝えしなければならないことがあります」
私は、これまでの経緯をすべて話した。偽聖銀のこと。結界石のこと。逆召喚術のこと。そして——あの夜会での婚約破棄が、すべてレイモンドの筋書きだったこと。
聞き終えたカイル殿下の顔は、苦渋に歪んでいた。
「すまなかった、セラフィーナ。俺は——レイモンドに操られていたとはいえ、お前を疑い、傷つけた。その罪は——」
「殿下」
私は穏やかに、けれどはっきりと言った。
「謝罪は受け入れます。でも——婚約を元に戻すつもりはありません」
広間に、沈黙が落ちた。
「お前……」
「殿下は操られていた。それは事実です。でも、操られやすかったのも事実。側近の言葉を鵜呑みにし、婚約者の弁明も聞かず、公衆の面前で私を断罪した。——あの時の殿下の目には、疑念はあっても、私を信じようという意志はなかった」
カイル殿下が唇を噛んだ。反論できないことを、自分でもわかっているのだろう。
「偽物を見抜けなかったことは、殿下の罪ではありません。でも、本物を大切にしなかったことは——殿下自身の問題です」
「……ああ。その通りだ」
「ですから、殿下にはこれから、ご自身の目で本物を見極める力を養っていただきたい。この国を立て直すために。それが、殿下にできる償いです」
カイル殿下は長い間目を閉じ——そして、頷いた。
「わかった。——お前は、立派な女性になったな、セラフィーナ」
「最初から立派でしたよ。殿下が見ていなかっただけです」
少し意地悪が過ぎたかもしれない。でも、言わなければならないことだった。
リーリアが、おずおずと口を開いた。
「セラフィーナ……さん。私——私のしたこと、許してもらえるとは思っていません。でも——」
「リーリア」
私は聖女の顔を、鑑定眼ではなく、ただの目で見つめた。
「あなたは、帰りたかっただけなんでしょう。元の世界に」
「……うん」
「その気持ちを利用したのはレイモンドです。あなたが自分の意志でやったことの責任は取らなければならないけれど——帰りたいという願い自体は、偽物ではなかったはず」
リーリアの目から、今度は本物の涙が溢れた。
夜会で見た計算された涙とは、まるで違う。
「帰還の方法は、正規のルートで探しましょう。この王国には、あなたを利用するのではなく、助けてくれる人がいるはずです」
「……ありがとう。ありがとう、セラフィーナさん……」
部屋を出ると、廊下でリヒトが壁に寄りかかって待っていた。
左腕はきちんと手当てされて、包帯が巻かれている。
「……聞いていたの?」
「壁が薄い」
「全部?」
「全部」
「……感想は?」
リヒトはしばらく黙り——それから、不器用に口を開いた。
「婚約を断ったのは、正しいと思った」
「そう?」
「王太子では、お前の隣に立てない」
……それは、誰なら立てるという意味ですか。
聞きたかった。聞けなかった。
代わりに、手帳の最後のページにこう書いた。
『鑑定結果——カイル殿下の偽聖銀除去、成功。魔力回復の兆候あり。レイモンドの陰謀、全容解明。残る案件:王国結界の復旧。偽聖銀の全量回収。宰相府の粛清。リーリアの帰還方法の調査。そして——』
ペンが止まった。
そして、の先が書けない。
書けないけれど——リヒトの隣を歩く自分の足取りが、辺境に来た時よりもずっと軽いことだけは、鑑定眼がなくてもわかった。




