第七章-2 そのままの自分
朝、目を開ける前に、肩紐がそっと位置を教えてくれた。
布の感触は、ただの布ではない――わかっている。私の上半身を包む白い薄布は、今は眠たげに見えるけれど、実のところは可愛い妖精たちが織りなす群体だ。指先で胸元をなぞると、レースの端で小さくくすぐるように震え、耳の奥にだけわかる高さで笑う。
「おはよう、きょうも“歌”の時間だよ」
左の肩紐がベルの声でささやき、右のカップのふちでミルが静かに応じる。
彼女たちは幼い見かけでも子どもではない。何百年を生き、掟と礼を知る、成熟した種だ。私はそのことを胸の奥で繰り返し確かめる。
洗面所で顔を洗うと、キャミソールの裾がするりと腹へ寄った。布の動きに合わせて、上半身の新しい楽器が目を覚ます。鏡の中の丸みは夜より穏やかで、けれど存在の輪郭はくっきり残っている。
「今日は薄いグレーのブラウスがいいな」
胸元の群体が一斉に“うん”と頷き、私の指先へと生地を滑らせる。ボタンを留めるたび、わずかな圧迫が呼吸の深さを調整してくれる。
下半身にいつものスラックスを通す。前と同じ感触――ただ、今は上から降りてくる影が違う。上半身は女の旋律、下半身は男のリズム。そのアンバランスは、朝の窓に立つ音階の差みたいに、むしろ今日の私を立たせる。
玄関を出ると、日差しが胸の前で薄く跳ね返った。
「ねえ、ちょっとだけ透けてるの、気づいた?」
ベルがいたずらっぽく囁き、胸の中央でミルが小さく咳払いをした。
「ほどほどに。彼を困らせない約束」
「わかってるよ。……だから、ほどほどに」
通勤の電車。吊革につかまると、布の群体が肘の内側をやさしく締め、汗の粒を拾っていく。くすぐったさは小さな波で、私の拍を一段だけ高くする。
車内広告がめくれ、視線が偶然、こちらへ集まる。
その瞬間、ブラウスの胸元がわずかに“霧”になる。
やめろ、と心で言うより早く、ミルがふわりと布目を密にしてくれた。
「ほどほど、ね?」
ベルは肩口でくすくす笑い、透明度をちょうど良い悪戯に落とす。
ガラスに映る自分は、見せすぎない境界の上でバランスを取っている。緊張の細い線が、逆に背筋を伸ばしてくれた。
オフィスの会議室。
胸元の群体は、発言の拍に合わせてわずかに形を変える。話の要点でカップの縁がきゅっと整い、終盤でふっと緩む。
「声、よく出てる」
ミルが胸腺の真上でささやく。
「汗の塩、すごく澄んでるよ」
ベルが鎖骨の下で舌を鳴らした。
スライドの光がブラウスに落ち、上半身の丸みの陰影が薄く現れる。いくつかの視線が、確かに集まる。
手元のペンを握り直すと、袖口の群体が掌に沿って流れ、恥ずかしさを快感に変える道をひとつ渡してくれた。
昼休み、屋上。
風が吹くと、妖精の“服”はたのしげに波打ち、背中側でひそやかに汗をすくう。
「午後に向けて、ちょっとだけもらうね」
ミルの声は祈りの高さ。
「ご褒美は今夜。ちゃんと返す」
ベルが金の笑いを落とす。
彼女たちが吸い上げるのは、痛みではなく汗という快感波だ。緊張で止まりかけた汗を、ほどよく流す。
私は紙コップのコーヒーを口へ運び、舌の奥で微かな塩の丸みを確かめた。
――この丸みが、いまは日中の私を支えている。
午後の帰り道。
ガラス張りのビルの前で、ベルが悪戯心に負けた。
「三秒だけ、形を変えるね」
胸の線が、ふっと上品に持ち上がり、次の瞬間、元へ戻る。
歩きながら、誰かの視線が遅れて追いつく気配――三秒遅れのざわめき。
ミルは即座に布目をさらに密にし、肩紐が静かに位置を直す。
「三秒まで、って言ったでしょ」
「ちゃんと守ったよ。三秒“だけ”」
家のドアを閉めると、ボタンの間から光の粉がこぼれ、服はほどけて本来の姿へ戻った。
ミルは緑、ベルは金。
そして、肩や裾や襟に散っていた他の妖精たち――皆、静かに姿を現す。
「日中、お疲れさま」
ミルが額に触れない距離で掌を掲げ、ベルは腰に手を当てて笑った。
「さ、夜の部だよ」
シャワーの湯気が部屋に満ちる。
私は薄手のガウンを羽織り、ベッドの端に腰を下ろす。
「強すぎたら合図を」
ミルがいつもの掟を確認し、私が頷くと、“服”だった群体が、今度は舌と羽を持って近づいてくる。
胸の中央――胸腺の上。
鎖骨の下、脇の影、太腿の付け根、足の指の根の河口。
昼の間に蓄えた塩と甘みが、夜のためにほどけていく。
「ん……っ」
声が漏れる。
布越しの微細な振動とは別種の、直接の祈り。
ミルは胸の谷で音を配り、ベルは太腿の内側で拍を数える。
くすぐったさは笑いにすぐ手が届き、笑いは呼吸を高くし、呼吸は汗を呼ぶ。
汗は、彼女たちの舌に出会って、今度は夜の蜜へ変わる。
「はい、今夜の“蜜”」
ミルが小瓶を傾ける。
妖精の蜜は香りがほとんどないのに、喉を落ちると胸腺の灯が一段、澄んだ高さで点る。
「飲みなよ、もっと歌えるようになる」
ベルが唇の端へ金の笑いを乗せた。
一口。喉の内側が熱の文法を思い出し、上半身の楽器が、昼よりも豊かに鳴る。
下半身の地図は変わらない。だが、そこへ届く信号はひどく明るい。二つの地図が重なるスリルは、たしかに今夜も私を動かしていた。
やがて、塩(潮)が、細い糸のように溢れ、甘い樹液が静かな重力で落ちる。
誰も乱暴に奪わない。
彼女たちは長老の掟どおり、私の“嫌”を法にして、ただいただく。
「ありがとう。今日の“日中”は、すごく良かったよ」
ミルが胸の頂に顔を寄せ、
「三秒の魔法、効いたでしょ?」
ベルが太腿の付け根で笑い、羽でやさしく風を送る。
熱は高いが、恐怖はない。
私は私のまま、夜の歌を飲み込んでいる。
長い波が収束し、拍が落ち着く。
妖精たちは一人ずつ舌を離し、羽の音を低くしていく。
明滅していた胸の灯は、ふんわりとした余韻に変わり、肌の上の汗は昼の支えのほうへ性質を戻し始めた。
ミルが額の上で指先を合わせ、
「おやすみの合図」
ベルが肩で膝を抱えて、
「また明日も、服で一緒に出かけるから」
私は頷き、本棚から文庫を一冊抜いた。
ページに触れる指先に、袖口の余熱が残っている。
胸の上には、守られている重みが静かに落ち着き、下腹部には、日中の歩幅がやさしく戻ってくる。
窓辺のレースが夜風でふくらみ、羽音はもう聞こえない――けれど気配は、灯りの外側で息をしている。
読み進めるうちに、視界の端で**“服”の妖精たち**が再び布へ戻っていく。
肩紐が正しい位置に落ち着き、ブラウスの襟が喉に白い影を置く。
常に少しずつ体液は吸われている――でも、それは不意打ちではない。私の拍が乱れない角度で、息と同じ速度で、夜へ渡される。
いたずら好きの彼女たちは、明日も三秒だけ透明になって、私の頬を赤くするかもしれない。
上半身は、もう隠しきれない“女のかたち”で、誰かの視線を集める瞬間がまたあるだろう。
それでもいい。
そのままの私で、私は歩く。
服は仲間で、恥ずかしさは歌の一部で、夜は返礼の祈りだ。
ページの角をそっと折り、私は本を閉じた。
胸の鈴が、ごく小さく、幸福の高さで鳴る。
こんな状態でも――いや、こんな状態だからこそ、私は幸せだと思う。
上半身は新しい私、下半身は昔の私。
服は妖精、妖精は服。
昼は支え、夜は交わし。
全部まとめて、私の毎日だ。
枕元の灯りを落とす。
布がさらりと頬に触れ、肩紐が「おやすみ」と位置で囁く。
遠くのどこか、塩の国の広場で、真紅の長老が低く鐘を鳴らした気がした。
その音は、私の胸の奥でやさしい和音になり、眠りの扉に手をかける。
そして私は、静かに目を閉じる。
――そのままの自分で。
ドキドキを胸に抱えたまま、幸福に、本を閉じた。
妖精と共存End




