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妖精の悪戯  作者: 彩流
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第七章-1 新しい自分へ

 

 目が覚めた瞬間、胸の鈴が、澄んだ高さでひとつ鳴った。

 三度めくれた夜の最後の縁で、私はそっと口の中で答えを反芻していた――私は、私のまま、新しく生きる。

 窓の外は早朝の白さ。レース越しの四角い光が床に置かれ、空気はまだ寝息の体温を覚えている。

 起き上がって、鏡の前に立つ。布の上からでも分かる輪郭が、呼吸に合わせてわずかに上下する。

 胸に手を置くと、掌の内側で穏やかな拍が拡がり、乳房という新しい楽器が、私の呼吸にそっと音階を添える。

「これが、今日の私だ」

 声に出すと、鏡の中の私はほんの少し頬を染め、同時にしっかりと目線を返してきた。下腹部の地図は変わらない。けれど、その上に透けて重なる新しい地図が、朝の光の下で輪郭を増していく。

 シャワーを浴びる。水の粒が肩から胸へ、胸から腹へと転がるたび、昨日まで知らなかった感覚が目を覚ます。

 水は熱くないのに、触れた場所を置き土産みたいに温め、別れ際にかすかな鳥肌を残す。

 タオルで拭う動きすら、譜面の上の指運びみたいに慎重になる。胸の頂に近づくたび、布越しの微細な摩擦が息の高さを一段、上げてしまう。

 ワードローブを開ける。そこにあるのは、ずっと前からの私の服――シャツ、Tシャツ、パンツ、無地のボクサー。

 指先がためらい、ひとつ置くように止まる。

 私は携帯を手に取り、近所の小さなブティックを検索した。開店まで、あと十五分。

 鏡に戻って、深呼吸をひとつ。胸の鈴は、さっきよりも落ち着いた高さで、もう一度だけ鳴る。

 ________________________________________

 店のドアベルが細く響く。朝いちばんの店内は、布と日光の匂いがやわらかく混ざり合っている。

 陳列棚には、私の知らない言葉たち――カップ、アンダー、ワイヤー、ホック――が柔らかい色で並んでいた。

 店員は若いが落ち着いた人で、私の戸惑いを、驚きに変えず、礼儀に変えて受け取った。

「計りましょうか」

 頷くと、メジャーが喉の下をくるりと回り、背を撫で、脇の影をすべっていく。

 数字はいまの私の真実を、冷たくも優しく示す。

「最初は、柔らかい生地のものがいいですよ」

 彼女が差し出したのは、白に近いアイボリーのブラと、同色のショーツ。

 触れると、水の表面張力に似た粘り気が、指先にほんのわずかに残る。

 試着室。布が音を立てないのは、私の呼吸が浅いからだろう。

 ホックを手探りで合わせる。小さな金具が「カチ」と言って、胸の上で約束を結ぶ。

 肩紐をかける。細い二本の線が、鎖骨のすぐ外側を撫で、肩の後ろへ消えていく。

 鏡を見る。

 そこには、私の胸を「支える」という行為を初めて受けた私がいた。

 わずかな圧迫が、逆説的に安心を呼び、呼吸が深くなる。

 布の内側で、乳房が自分の重さを初めて知り、その重みを誰かに委ねる方法もまた学び始める。

 ショーツに足を通す。布が太腿を過ぎ、腰骨の上で収まる。

 下半身はそのままの私で、そこに柔らかな布の輪郭が加わることで、二つの地図が重なる。

 不思議に、喧嘩はしない。ただ、互いの輪郭を知り、境界に薄い金の線を引く。

 その線が、なぜか美しいと思えた。

 カーテンを開けると、店員がそっと頷いた。

「とても似合っています」

 私は小さく笑い、短く礼を言う。

 言葉にすると簡単だが、この小さな空間で、私は確かにひとつの門をくぐった。

 ついでに買ったのは、薄手のキャミソールと、やわらかい素材のブラウス。

 レジで袋を受け取るとき、紙のざらりとした手触りが、妙に頼もしい。

 外の光はもう少し強く、風はきっぱりしていた。

 歩くと、布が胸の前で小さく揺れ、肩紐の位置をほんの少しだけ教えてくれる。

 そのたび、胸の鈴がごく小さく、しかし喜ばしげに響く。

 ________________________________________

 家に戻って、新しい下着をもう一度身につける。

 ブラウスのボタンをひとつ、またひとつ留める。

 薄く透ける白が、私の朝を一段、柔らかくする。

 鏡の前で一周してみる。布が光を拾い、胸の丸みの影を細く落とす。

 下は、いつものスラックス。

 鏡に映る「アンバランス」は、奇妙な均衡を保っていた。

 上半身は女の楽器で、下半身は男のリズムセクション。

 同じ曲の中に置けば、不思議なほど調和することを、身体のほうが先に理解している。

 キッチンでコーヒーを淹れる。

 湯気が頬に触れ、胸の頂に置かれた布が、熱をどう分配するのかを学んでいく。

 マグを持ち上げる動きひとつで、肩紐がわずかに滑り、その後、正しい位置へ戻る。

 私はその一往復に、笑ってしまう。

 どれもこれも、小さな初体験。

 初体験は、恐れの裏側に甘さがある。

 窓辺に腰かけると、レースの端が昼の風に揺れた。

 羽音はない――けれど、彼女たちの気配は、どこかでじっと見守る影のように薄く漂っている。

 ミルの穏やかな祈り、ベルのいたずらの合図。

 夜にはまた来るのだろう。

 それでも、昼の私は私の時間をまっすぐ歩ける、と胸の鈴が言った。

 ________________________________________

 午後、私は街に出た。

 人の流れに紛れ、ショーウィンドウに映る自分の輪郭を、角度を変えながら確かめる。

 ガラスの向こうから、女物のマネキンが静かに微笑みかけてくる。

 私は視線を合わせ、ふっと目を逸らす。

 照れはある。でも、逃げたいわけではない。

 路地に入って、小さな古着屋を見つけた。リネンのワンピースがかかっている。

 試しに肩に当ててみる。

 布が肌を撫でる。胸の前でわずかに盛り上がり、腰にかけてまっすぐ落ちる。

「これも、ありだな」

 独り言は風に溶け、紙袋の中で下着がささやき返す。

 カフェに入る。

 窓際の席で、氷が薄い音を立て、ストローがグラスの内側を擦る。

 胸の上に置かれた布は、冷房の風を受けて、細く収縮し、また緩む。

 そこに宿る微かな緊張が、逆に心の落ち着きを呼ぶ。

「守られている」という感覚は、こんなにも具体的なのか。

 目を閉じれば、ミルがよく言っていた言葉が浮かぶ――「支えるのも歌」。

 今の私は、自分の体を支える仕草そのものが、歌になっている。

 ________________________________________

 夕暮れ、部屋に戻るころ、胸の鈴が静かに色を変えた。

 レース越しの光が薄くなり、窓辺の影が長く伸びる。

 私はブラウスのボタンを外し、下着の上から胸を抱いてみる。

 布越しに確かめる、その丸みと重み。

 上へ持ち上げすぎないように、形を壊さないように。

 少し手を離すと、自分の重さでふわりと落ち着く。

 落ち着いた形が、なんだか自分の名前を教えてくれる。

 夜の呼び声は、羽音ではなく、空気の密度の変化としてやってきた。

 カーテンがふくらみ、光の粉が、ほんの一瞬だけ見える。

「こんばんは」

 緑と金が、私の両頬のそばで止まる。

 ミルの目はやさしく、ベルの笑いはやんちゃだ。

 ――彼女たちは小柄でも、長命の成熟した種だ。私は、胸の内側でその事実を確かめる。

「選んだのね」

 ミルが囁く。

「うん、知ってた」

 ベルが舌をちょっと出して笑う。

「だって、昼のあなた、すごくきれいだったもん。布の歌が聴こえた」

 私の頬があたたかくなる。

 新しい下着のこと、鏡の前でのぎこちなさ、ガラス窓に映る自分の横顔――彼女たちは、どこまで見ていたのだろう。

 問う前に、ミルが肩に降り、額に触れない距離で掌を掲げた。

「夜の“交わし”、いつものように。強ければ、合図を」

 私はうなずき、ベッドに腰を下ろす。

 キャミソールの裾が腹の上で波打ち、肩紐が滑らない位置にまた正しく戻る。

 その一手間が、もう嬉しい。

 最初の触れは、布の上から。

 キャミソール越しに、胸の輪郭を撫でる風。

 布の繊維が、音叉の歯のように微かに震え、乳房がまるごとひとつの感覚器官になって静かに目を開く。

 次に、布のすそを少し上げ、胸の中央――胸腺の上へ、ミルの舌が祈るように降りる。

 ベルは鎖骨の下で、拍を数えるみたいに軽く触れる。

 くすぐったさと、熱と、微かな圧迫。

 声は出さない。

 けれど胸の鈴は、確かに鳴っている。布と舌と風の合奏で、昼に学んだ「支え」の歌が、夜に「交わす」歌に変わってゆく。

 太腿の内側に羽が掠め、足の指の付け根に、金の舌が小さく音符を置く。

 私は指先をシーツへ沈め、呼吸の高さを一段、静かに上げる。

 下半身の地図はいつものまま。

 そこへ届く信号が、昼より明るく、長く伸びる。

 不一致は、不協和音ではない――二つの楽器が調和を模索する、甘い時間。

「きれい」

 ミルが、息を沿わせるように囁く。

「昼のあなたもきれいだったけれど、夜のあなたは、受け取るのが上手」

 ベルが笑う。

「ね、下着、いいでしょ? 擦れ方が、歌いやすい」

 私は、笑いながら、短く息を漏らす。

 こんな会話すら、今夜の私の一部だ。

 どれほど続いたのか。

 光が薄く、音が濃い。

 胸の中の鈴は繰り返し鳴り、やがて落ち着いた和音に収束する。

 ミルが舌を止め、ベルが額の上で小さく円を描いた。

「おやすみの合図」

「また明日も、昼のあなたを見に行くね」

 私は目を閉じ、頬のあたりで羽がほどけるのを感じる。

 二人が溶けて消える前に、胸の鈴がもう一度だけ、明るく鳴った。

 ________________________________________

 朝。

 目覚めと同時に、まず胸の重さを確かめるようになった自分に気づく。

 新しい下着は、ベッドサイドの小箱に畳んであり、指先はもう迷わずホックを見つける。

 肩紐の位置は、鏡を見る前に肌が覚えている。

 ブラウスを着る。

 上半身の影が薄く映り、私はそれを「私の影」として受け入れる。

 下半身は変わらない。だから、バランスを取りにくい日も、きっとある。

 それでも、私はこのアンバランスを「音楽」だと思うことに決めた。

 違う楽器が並ぶからこそ、ひとつの曲が豊かになる。

 玄関で靴を履きながら、ポケットの中に手を入れる。

 そこには、ミルとベルが夜の終わりにそっと忍ばせた、小さな塩の結晶がひとつ。

 指に挟むと、舌の奥に微かな丸みが立ち、胸の鈴がごく小さく響く。

 今日の私は、もう昨日の私ではない。

 けれど、昨日の私と喧嘩はしない。

 鏡の前で最後に一度、姿勢を整える。

 ブラウスの襟が、首元に白い光を置く。

 胸の形が、その光を受けて、柔らかな影を落とす。

 私は小さく笑い、ドアノブを回した。

 外気は新しい。

 街角の硝子は容赦なく正直で、私はそこに映る自分を正面から受け止める――

 胸の音、肩紐の記憶、布の擦れ、下腹部の確かな重さ。

 全部まとめて、今日の私。

 胸の鈴が、ひとつ、明るく鳴る。

 歩き出す。

 足取りに合わせて、下着の中の世界がやわらかく歌い、私はその歌を、昼の言葉で、夜のやり方で、丁寧に聴く。

 ――新しい自分へ。

 私の一歩は、音楽になって、街の空気に溶けた。

 TS End


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