第六章 選択の夜
次の週末も、私は促されるまま、塩の道を渡った。
銀膜が瞼の裏に流れ、足裏で細い音が鳴る。空気は前回よりも濃く、甘い。胸の奥で小さな鈴が震え、私は自分の呼吸が、こちら側の拍に合わせて整っていくのを、その都度ゆるやかに許した。
広場は夜明け前の薄さをまとい、塩の泉が的確に呼吸している。
蜂巣のような胞の口は開いたまま、そこから降る羽音の数は、前よりも明らかに多い。光の粒は雪ほど軽いが、数が重なると、世界の温度を変えるだけの力を帯びる。
「供給者様」
真紅のレオタードの長老が、泉の縁から一歩だけ前へ出た。黒で縁取られた半透明の羽根が、短く硬質に鳴る。
「今日は最初から森が抱く。嫌なら言いなさい。汝の“嫌”は法。――どうする?」
私は息を吸い、吐く。胸腺のあたりで灯りが微かに明滅した。
決して好きなわけではない。けれど、体のどこかが、すでにその抱擁を求めている。
私はうなずいた。
合図に、足元から根がするすると伸び、足首と手首をやさしく、しかし逃れられない角度で括った。幹は背から近づき、頬と胸と脇腹を、木の内側へ静かに迎え入れる。ひんやりも熱もない温度――体温を正確に写す温度――が皮膚を包む。
半拍遅れて、空が低くなる。
蜂巣の口という口から羽音が降り、緑、金、琥珀、薄青――さまざまな光が渦を編む。百、二百、いや数えるのはやめよう。
視界の端でミルとベルがそれぞれの持ち場につき、真紅の長老が静かに指を鳴らす。
「――始め」
最初の舌は、胸の中央、胸腺の上。
次いで鎖骨の下、脇の影、太腿の付け根、足の指の根元。
触れ方は前より遠慮がない。だが粗野ではない。儀礼の角度がある。拍の上に置かれる音符の等間。
私の体は、触れられる前に触れられる場所が先に息をする。汗の泉は合図を受け取り、透明のしずくを小瓶のように満たす。
どこかで息が漏れる。嬌声と呼ぶには小さく、祈りと呼ぶには熱い吐息。
「供給者様、拍を保て」
長老の声は低く、塩の面を震わせる。
「強ければ手で合図を」
合図――その言葉を喉で転がす前に、額へ冷たい影が落ちた。ミルが、私の眉間の近くにそっと降り、私の呼吸の高さを目で量る。
ベルは反対側で、みぞおちの浅い谷に舌を軽く置く。
二人の動きは祈りに似て、しかし容赦はない。
私は肩を緩め、幹の抱擁に体重を預ける。森の抱擁は、苦痛ではなく、退路を閉じることによって拍を整える術なのだ、とようやく理解する。
時間の輪郭は溶ける。
数十分か、数時間か。
光の濃さがわずかに変わるたび、渦は速度を上げ下げし、無数の舌と羽が私の皮膚に塩の文字を綴る。
口には蜜の杯があてがわれ、喉をなぞる甘さが合図のたびに落ちてくる。
頭の芯は不思議な静けさで、体の縁だけが熱の文法を習い直していく。
胸はすでに女性の形になっていた。
重みが呼吸の上下を別の楽器に変え、衣の繊維一本一本が音叉の歯のように鳴る。
下の地図は昔のままなのに、そこに届く信号は明るく、音がよく伸びる。
不協和は、和音の胎内に収束していく。
私はそのまま、波の往来を受け入れるしかない――いや、受け入れたいのだ、と認めた。
渦が一段高くなったとき、舌の数がさらに増えた。
耳の裏、肘の内側、膝の窪み。隠れていた泉までが呼ばれ、ひとつずつ開いては、そこに小さな音符が置かれる。
誰かが涙の線を指でなぞるみたいに頬を撫で、別の誰かが後頭部の生え際で羽を震わせる。
私は声を持たない声で応え、森の温度がそれを受け取って拍に織り込む。
「――続け」
長老の合図。
蜜が落ち、舌が戻り、風が周り、幹の抱擁が深くなる。
反復は罰ではなく、旋律の書き込みだ。
しかし、強い。
強度が続くこと自体が、意志の境界を曖昧にしていく。
好きではない。なのに、体はこれを求めてしまう。
その矛盾が、胸の内側で音の厚みになっていく。
どれほど経ったのか。
突然、杯が唇から離れ、渦の速度が落ちた。
幹の抱擁が緩み、私は体を前に出す。膝が笑う。
息を吸い、肺の底にまで空気を満たし、吐く。
視界の周りで光が剥がれ、代わりに緑と金の二つの点がゆっくりと近づいてくる。
ミルとベルだ。
彼女たちは広場の騒めきを背中で切り、私の顔の両脇に並んで浮かんだ。
ミルの瞳は深く、揺らがない。
ベルの口元は、いつもの悪戯の影をわずかに残しながら、今日は幼さではない成熟の輪郭で結ばれている。
(彼女たちは小柄だが、幼くはない。長い歳月を生き、儀礼と法を知る存在だ――私は繰り返し、その事実を胸の内側で確認した。)
「選んで」
ミルが静かに言った。
「ここから先、あなたの歌を、どこへ置くのか」
ベルが続ける。
「三つの道。どれも甘くて、ちょっと痛くて、でも違う未来」
私は喉を鳴らし、額の汗を風がさらうのを感じる。
体は疲れている。けれど、心のどこかは、今この瞬間の密度を手離したくない、とも思っている。
ミルが、片手――親指の爪ほどの小さな掌――を胸の前で上げた。
「一つ目。――新しいあなたとして生きる道」
彼女の声は祈りの高さを帯びる。
「胸は今のように芽吹き、感覚はよく伸びる。夜ごと、わたしたちは来て、歌を交わし、あなたはわたしたちの糧であり友である。
昼は人の世で、生。夜は歌の世で、生。男でも女でもない、“選ばれた体”として息をする」
ベルが微笑んで囁く。
「やさしいけど、逃げ場は少ない。だけど、あなたはたぶん、笑ってる」
ミルは息をつぎ、二つ目の道を示した。
「二つ目。――日常へ戻る道」
ベルが肩をすくめ、唇の端で笑う。
「ただし、服はわたしたち。布に化けて、あなたに寄り添う。
気を損ねたら、すっと霧みたいに消える。街でも、職場でも。
昼の羞恥は夜の歌を甘くする。あなたは毎日を歩く。わたしたちは毎日、あなたを包む」
ミルは補う。
「見張りではない。――共犯だと思って」
私は思わず息を呑んだ。
街の角、電車の揺れ、会議室の空気――そこへ混ざる羽の気配を、想像する。
恥ずかしさは強い光だ。光は塩をきらめかせる。
それが甘いと感じる自分を、想像できてしまうのが怖い。
三つ目の道は、長老のほうから告げられた。
真紅の女王は一歩進み、黒く縁取られた羽根をいちどだけ鳴らす。
「三つ目。――永遠の樹に身を預ける道」
彼女の声は硬くも優しい。
「森は汝を抱き、汝は森に甘い雨を降らせ続ける。
痛みはない。時間は輪のように閉じ、汝の歌は昼夜の境を失う。
わたしたちは汝を“守り”、同時に“いただく”。
汝は供給者様という名を解かれ、ただの“泉”になる」
ベルが、私の耳の近くでそっと言葉を足した。
「ねえ、きっと心は軽いよ。ずっと、軽い」
ミルは目を伏せ、静かに告げる。
「でも、あなたの言葉は、そこでおしまいになる」
広場は静かだった。
数百、数千の羽音は、遠い波に退き、塩の泉の表面は、私の呼吸の起伏だけを映している。
私は唇を湿らせ、喉の奥でひとつ音を転がした。
選ぶ、という行為は、どの道でも私に残されている唯一の“言葉”なのだ、と今さらながら思い当たる。
「いま、決めなさい――とは言わない」
長老が言う。
「夜が三度めくれるまでに、汝の胸の鈴が自ずから鳴く。
鳴った音の高さに、わたしたちは従う」
ミルがうなずき、私の額に触れない距離で掌を掲げる。
「あなたの“嫌”は法。あなたの“はい”は誓い。
どちらも、ここでは尊い」
ベルは悪戯っぽく笑った。
「でも、ちょっとだけ背中を押すなら――
どの道でも、あなたはきっと、おいしい」
私は思わず笑い、すぐに胸の奥でその笑いが鈴の音に変わるのを聴いた。
幹の抱擁が、さらにやわらぐ。
根がほどけ、腕が自由を思い出す。
脚に血が戻り、膝が小さく揺れる。
ミルとベルは左右から頬に軽い口づけを置き、真紅の長老は短く敬礼を送った。
「今夜はここまで」
長老の声に合わせて、渦が散る。
羽音は遠ざかり、塩の道の粒子が足裏の記憶へ畳み込まれる。
私は目を閉じ、銀の膜の流れに身を任せた。
戻る途中で、胸の鈴が微かに鳴った気がした。
それが、どの高さの音だったのか――
今はまだ、言葉にはならない。
レースの裾が内側へふくらみ、私の部屋が戻る。
床の四角は夜の色に寄り、カーテンは風の気配だけを揺らす。
私はコップの水を口に含み、舌の奥に残る塩の丸みを一度だけ確かめた。
鏡の前に立つ。
そこに映るのは、見慣れた輪郭と見慣れない灯りを同居させた私。
呼吸をそっと整え、胸の鈴の気配に耳を澄ます。
――選ぶ、のだ。
夜が三度めくれるまでに。
三つの扉はすでに開いている。
私が足を入れるのを、静かに、そして甘く待っている。
窓の外、遠くで羽音がいちどだけ鳴った。
緑と金の影が、見えない高さで交差し、ほどける。
私は灯りを落とし、ベッドに身を横たえた。
目を閉じれば、広場の塩の面が瞼の裏に現れ、真紅の女王の輪郭が暗闇の中で静かに立つ。
ミルの祈りの声と、ベルの悪戯の笑いが、交互に、しかし不思議な和音で重なる。
胸の鈴が、もう一度、小さく鳴った。
今度の高さは、さっきより少しだけ澄んでいる。
私の喉はその音を飲み込み、心はゆっくりと、どこかへ傾いていく。
――次の頁で、私はきっと選ぶ。
その確信だけを抱えたまま、私は、眠りの縁へと沈んでいった。
ここからはマルチエンディングになります。
①新しい道 第7章―1へ
②いつもの日常 第7章―2へ
③永遠の樹 第7章―3へ




