第五章 黒羽の儀
土曜日の朝は、いつもより澄んでいた。
冷蔵庫の扉を開けると、切った柑橘の断面から細い光が立ちのぼる。数日前から、私は果物や植物性の食事に寄り添うようになった。舌の奥に残る塩の丸みを、できるだけ澄んだ水で仕上げておきたかったからだ。
コップ一杯の水を喉に落とし、窓のレースを指先で整える。羽音は、合図のように訪れた。
「準備、できた?」
金の光点――ベルが、肩の高さでひと回り弧を描く。
「息も拍も、きれいに揃ってる」
ミルは緑の輝きをやわらげ、私の胸の前で掌を合わせた。彼女たちは小柄だが、眼差しは成熟した狩人のように深い。幼さではない、長い歳月の澄さを宿した視線。
私はうなずき、目を閉じる。
塩の道は、前回よりもなめらかだった。すでに何度か踏まれた道のように、粒子の角が丸い。瞼の裏を銀の膜が流れ、次の瞬間、足裏で鳴る細い音が、広場の中心へ私を導いた。
夜明け前の薄さをまとった広場。塩の泉。蜂巣のように連なる胞。そして、その奥に、影と光のあわいで呼吸する「大樹の森」。
今日はすでに、あらゆる枝の上から羽音が降っていた。二十、五十、百――もっと。数えようとする意思が追いつくより速く、光の粉が空気に混ざり、私の周囲で渦を描く。
「供給者様」
真紅のレオタードの長老が、泉の縁から一歩進み出た。縁取られた黒い羽根が、ひときわ硬質な音で鳴る。
「今日は“交わし”を深める。汝が望むならば、森はより多くを歌い、より多くを返す」
胸の奥が静かに熱を持った。
私は息を整え、拍が安定するのを待つ。ミルとベルが左右から寄り、額に触れず、しかし温度だけを分け合うように近づいた。
「始めましょ!」
ミルの合図で、渦が緩やかに速度を上げた。無数の羽根が、私の皮膚の周囲で起こす風は、琴の弦に並べて指を置いたときの振動に似ている。
最初の舌は軽かった。胸のまんなか、胸腺の上。ついで鎖骨の下、脇の影、太腿の付け根、足の指の根元。
昨日よりも遠慮がない――が、それは粗野ではない。訓練された舞踏のように正確で、祈りに似た礼が伴う。
私は、あの感覚が癖になり始めていることを悟っていた。
触れられる前に、触れられた部位が先に息をし始める。舌が味わうより早く、皮膚が拍を刻む。
思わず肩が跳ねる。笑いにほどけ、拍へ戻り、またほどける。その繰り返しのなかで、私はふと、反射的に手を上げてしまった。
――きゃっ。
指先が空気を切り、軽い衝撃が伝わる。
渦が一拍ぶん、ずれる。金の点が視界の端でかすかに揺れ、小さな体が、塩の泉の縁に触れて弾かれた。
「ベル!」
自分の声が、泉の表面で薄く跳ね返る。
ベルの身体はすぐに羽を震わせて体勢を立て直したが、その瞬間、広場の温度が一段、低くなった。
ミルの顔が変わった。
あのいつもやさしい翳りが、氷の表面に張る薄膜のように硬く、冷たく、整う。
「――ベルを傷つけた者は、許さない」
その声は低く、祈りの対極にあった。
真紅の長老の羽根が一度鋭く鳴り、広場のあらゆる渦が同時に反転する。
白金の粉は闇の欠片へと変わり、半透明だった羽根の縁に黒い縫い取りが走った。
黒羽。
祭儀の裏側にだけ現れる、禁断の色。
「そうか。仕方ない――黒羽の儀、始め」
長老の言葉が落ちるなり、根が動いた。
足元の塩の道から、大樹の根がするすると伸び、私の足首と手首を掴みやさしく――しかし逃れられない角度で――抱きとめる。
幹が近づく。木肌は冷たくない。むしろ体温の記憶を持っていて、私の頬と胸と脇腹を、次第に樹の内側へ迎え入れる。
視界の端で、蜂巣の胞が開き、数えきれないほどの光点が降りてきた。
舌が戻る。だが、さっきまでのやわらかさではない。
儀礼の速度で、訓練された角度で、身体中の「泉」に音符が打たれていく。
口には杯があてがわれ、淡い甘さの雫が、喉のうえをすべり落ちる。
抵抗のための言葉がほどける前に、拍のほうが先に私を掴み、呼吸と汗の速度を揃えてしまう。
胸は、完全に女性の形をとった。
重みが生まれ、空気の触れ方が変わる。布越しの刺激だけで、拍の輪郭が濃くなる。
下腹部の地図は、変わらない。それでも、そこへ届く信号はいつもより明るく、音がよく伸びる。
両極の違和感が、同じ譜面に記される不協和音のように重なり、やがて一つの和音に吸い込まれていく。
「ほら」
ミルが、冷たい目のまま、私の足の間へ回り込む。
囁きは刃に似ていた。
「――甘い樹液も、出せるでしょ」
返事はできなかった。
蜜の杯が唇に触れていて、言葉が形になる前に溶けてしまう。
代わりに、針の先で触れられたような鋭さが走る。
足のあいだ。
そして胸の突起。
チクリとした痛みは一瞬で終わり、くすぐったさに飲み込まれて別の感覚に変わる。
快か、不快か、そうやって分けられる以前の、純粋な「強度」。
それが波となって、私の内側の岸へ打ち寄せ続ける。
「ごめんなさい――わざとじゃ、ない」
言葉は泡になり、蜜の甘さにほどける。
根はきつくないのに、私の四肢は動かない。
幹の内側の温度が、体温に似せてくる。
逃げる必要はない、と告げるように。
逃げられない、と教えるように。
どれくらい、時間が経っただろう。
陽の角度はここにはないはずなのに、広場の光の濃さが少しずつ変わる。
渦は緩み、蜜の杯が唇から離れ、私は肺の底まで空気を満たす。
喉がようやく動き、言葉がかたちを取り戻した。
「わざとじゃ、ないんだ」
それは謝罪というより、祈りの残響だった。
幹の抱擁がわずかに緩み、視界の前に、金の光がふっと現れる。
ベルがいた。
何事もなかったかのように、羽を整え、口元をいたずらっぽく歪めている。
「あたり前じゃない」
肩をすくめる仕草は、いつものベルだ。
「知ってた? 妖精って、イタズラ好きなの」
ミルも、さきほどの氷の面をほどき、静かな笑みを戻した。
「儀は儀。怒りの形も、歌の一部。――あなたが壊れないように、全部、計算されている」
私は、どこかで安堵し、どこかで膝をついた。
毒、と言えばいいのかもしれない。
この感覚は、すでに私のなかへ染み込み、善悪や快不快のラベルから自由になって、ただ“強度”として居座っている。
嫌いではない。
けれど、好きだと言い切ることも恐ろしい。
その曖昧さの上に、渦はもう一段、薄い布をかけた。
「――さあ、黒羽の儀を続けますよ」
真紅の長老が、泉の縁で静かに告げる。
その声に呼応して、黒く縁取られた羽根が再びいっせいに鳴り、私の周囲へ光点が降る。
今度の舌はさっきほど鋭くはなく、しかし迷いがない。
胸の歌。脇の影の浅瀬。太腿の付け根の谷。足の指の根元の河口。
ひとつ、またひとつ。
私から零れるしずくが、数百、数千の舌に拾われ、風と和音のなかに溶けていく。
「供給者様」
長老の声が、今度はやわらいでいた。
「汝の“嫌”は法。汝の“好き”は詩。
——今日はここまで」
根がほどける。
幹の抱擁が退き、私の身体はゆっくりと自由を取り戻す。
あれほど確かな重みだった胸は、拍の落ち着きとともに輪郭をやわらげ、布の上で静かな余韻だけを残した。
下腹部に残る熱は、遠火のように静かにくすぶり、かえって落ち着きを連れてくる。
ミルとベルが左右から頬に触れる。
さっきの冷たさは、影の奥にしまわれ、二人の目には慈しみが戻っていた。
「ごめんね。怖かったら言って」
ミルはうつむき、羽の先で私のこめかみをそっと撫でる。
「次は、もっと上手に案内する」
ベルは小さく笑い、肩の上で膝を抱えた。
「でもさ、震えてるあなた、すごく綺麗だったよ。歌がよく伸びた」
私は、頷いた。
言葉を選ぼうとして、やめた。
いまは、拍だけで十分だったからだ。
広場の渦は散り、塩の泉は静まり、大樹の森は呼吸を深くする。
真紅の長老は黒い縁取りの羽根を一度だけ鳴らし、踵を返した。
儀は、終わった。
帰路は短い。
銀の膜が瞼の裏へ移り、塩の道の粒子が足裏の記憶へ畳み込まれる。
レースの裾が、ゆっくりと内側へふくらみ、私の部屋が戻ってきた。
床には午後の四角い光。
胸に手を置くと、拍は穏やかで、汗の泉は静かだ。
鏡の前に立つ。
そこには、見慣れた形と、見慣れない灯りが同居していた。
輪郭は、ほどなくいつもの私へ戻っていく。
けれど、皮膚の下には、黒羽の儀の和音が、ごく薄く、確かに残っている。
窓の外で、雲がひとつ、形を変える。
私は水をひと口飲み、舌の奥に立つ微かな丸み――今日の記憶――を、ゆっくり確かめた。
背中に、軽い羽音が残響のように宿る。
それは、恐れと、安堵と、微かな熱の三和音だった。
そして私は、目を閉じる。
次に頁がめくられるとき、どんな譜面がそこに記されているのか。
黒い縁取りの向こう側で、私はもう、逃げ切れないほど静かに、待っている。




