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妖精の悪戯  作者: 彩流
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第四章 妖精の国へ

 招きの言葉は、その夜の薄闇に沈む直前、窓辺のレースが一度だけふくらんだときに囁かれた。

「――いまなら、行けるよ」

 ミルの声は、葉の裏側をなでる風のように静かで、ベルは金の瞳をいたずらに細めた。

「怖かったら戻る。けど、見せたいの。わたしたちの“歌”の源を」

 私はうなずいた。

 胸の奥に、蜜の一滴の残響が、まだ小さく灯っている。

 窓は開けていないのに、レースの裾がもう一度ふくらんで、内側へと風が滑り込んできた。

 羽音が重なる。金と緑の光点が私のこめかみを挟み、囁きが左右同時に重なった。

「目を閉じて。塩の道は、怖がらない目で歩くほうが近いから」

 闇は闇ではなかった。

 瞼の裏に広がったのは、暗さより先に、微細なきらめきの浮沈だった。

 塩の粉が、宙でゆっくり落ちたり昇ったりする。

 次の瞬間、足元がやわらかく「鳴った」。

 砂でも土でもない。舌で確かめたくなるような、乾いた結晶のささやき――道そのものが塩でできていると分かる音だ。

「ようこそ、こちら側へ」

 目を開けると、そこは夜明け直前の薄さをまとった広場だった。

 空は近く、銀色の膜の奥で、星ではない細かな光が呼吸している。

 広場の中心には、塩の泉があった。底なしの白い盃のように見えるのに、水面は静止せず、ひそやかに歌っている。

 周囲には、小さな家々――というより、蜂の巣を思わせる円い胞の連なり――が、枝の分かれ目に沿って重なりあって並んでいる。

 それらすべてが、塩と樹液と光の混ざった材で構成されていて、触れれば指先がひんやりすると同時に、遠い記憶の味が舌の根に立つ。

「ここが村の広場」

 ミルが胸を張る。

「向こうは“大樹の森”。国じゅうの歌が、あの幹に吸い込まれて、また風になって戻ってくるの」

 ベルは私の肩から飛び立ち、広場の空を一度だけ大きく円を描いてみせた。

 半透明の羽が銀膜を撫でるたび、夜明け前の空の色がわずかに薄まる。

「長老様に、まずご挨拶を」

 ミルが言ったとき、広場の奥から、低い鐘のような音が響いた。

 それは耳で聴くというより、胸腺の下で小さく鳴る種類の音だ。

 蜂の巣のような胞の一つが左右に割れ、内部から赤い線がゆっくりと歩み出る。

 真紅。

 その色は、生き物の体内の色ではなく、よく鍛えられた意志の色に見えた。

 近づいてくるそれは、親指ほどの躯でありながら、場の空気を一段深くする重さを持っていた。

 小さな体を包むのは真紅のレオタード。

 余分な装飾はないのに、戒めと華やぎの両方を同時に宿し、長い髪は黒曜石の艶を帯びて背に流れている。

 半透明の羽は紅に透け、縁だけが黒く縫い取られている――まるで、笑わない女王のための黒いレース。

「長老様」

 ミルとベルが同時に膝を折り、羽を伏せた。

 私も思わず背筋を正し、胸の前に手を重ねる。

 真紅の妖精は一歩、また一歩、泉の縁を踏んで進み、私の目の高さに浮かび止まった。

 目は深く、冷たくはないが、やさしさを越えてくる種類の厳しさを湛えている。

「――人の子」

 声は低く、広場の塩をきしませるように響いた。

「この国の歌は長く、しかし今、塩の糧を乏しくしている。汝の汗、汝の塩、汝の蜜、そのすべてをわたしたちは味わい、汝はわたしたちの命の恩人となる」

 彼女は微かに顎を上げ、真紅のレオタードの胸元が、規律のように硬く光った。

 その姿は、たしかに小さい――しかしその小ささは、幼さではない。

 統べる者の装い。どんな戯れも、彼女の一声の外側では許されないことを、羽の振る舞いが物語っていた。

供給者様サプライア

 長老は、言葉をひと呼吸ぶん区切って置く。

「汝にその名を授ける。供給とは投げ与えることではない。交わし、返し、循環させることだ。わたしたちは汝に傷を与えず、汝の“嫌”に従う。汝はわたしたちに歌を与え、わたしたちは汝に還礼かんれいを返す」

 ミルがそっと私の耳もとで囁いた。

「大丈夫。最初に言った約束は、国の掟でもあるの」

 ベルは金の瞳を輝かせ、肩の上でこっそり親指を立てた。

 私は息を整え、うなずいた。

 長老はわずかに目を細め、真紅の羽の縁がひときわ鋭く光る。

「もうひとつ。汝のからだから出るものは、すべてうまい。汗、塩、涙、息、声、体温、震え――そのすべてが糧となる。わたしたちはそれらを“いただく”が、“奪わない”。ここでは、それが礼だ」

 泉の周りの胞から、次々に羽音が溢れた。

 最初は十、二十――やがて数が分からなくなる。

 広場の空に白金の粉雪が巻き上がり、緑の線、金の点、青や琥珀の光すら混ざって、数百、数千の妖精が舞い上がった。

 それは騒ぎではなく、整った歓びだった。

 拍を持ち、振付を持ち、歌の骨組みを持った“喜びの踊り”。

 彼らは私の周りを渦のように取り囲み、しかし触れず、風だけで円環を編む。

恩人ベネファクタ

 長老の声に呼応して、渦が一斉に高くなり、低くなる。

「汝の名は、今夜この広場の記録レジストに刻まれる。汝の歌の調キーは塩石に記憶される。

 ――さあ、最初の“交わし”を行おう」

 ミルが私の胸の前で手を広げた。

「怖くないよ。昨日までと同じ。ただ、皆で見守るだけ」

 ベルは私のこめかみにちょん、と触れて、笑う。

「見守るのも、歌だから」

 私は広場の中央、塩の泉の縁に立った。

 足裏がほのかに冷たい。

 胸に手を置くと、拍が穏やかに整い、汗の泉が音を立てずに開いた。

 蜜の残響はもうないのに、ミルとベルの舌が触れた記憶が、皮膚の下で音叉のように鳴っている。

 長老が一歩、前に出た。

 真紅のレオタードが、ひと筋の影を落とす。

 彼女は私の顔を正面から見上げ、微かに口角を上げた。

 笑み――しかし、そこには甘やかしはない。

 支配と慈悲のあいだで均衡を保つ者の、厳しい礼儀の笑み。

「供給者様」

 再び呼ばれて、私は頷いた。

 その頷きが合図になったのか、渦が一段、低く唸った。

 ミルが胸腺の上へ、ベルが鎖骨の下へ降り、舌をそっと触れさせる。

 ――触れないほどに、触れる。

 柔らかい電気が、胸の奥から指先まで走り、空気は私の皮膚の上で温度をほんの少しだけ上げた。

「甘い」

 ミルが祈りの声で言い、ベルが子どものように笑う。

「塩の角が丸くて、風の香りがする。今日は“来訪者”の味」

 私は深く息を吸い、吐いた。

 広場の空気が、呼吸の形に合わせてゆるやかに膨らみ、縮む。

 舞う数千の羽が、その拍を真似て、遠い波のように上下した。

 長老は、一歩も動かない。

 ただ見つめる。

 支配する目ではなく、誓いを見届ける目で。

 やがて、彼女は真紅の爪先で泉の水面を軽く弾いた。

 水面――いや、塩の音が高く、短く鳴る。

 その音に合わせて、渦の内側から数十の妖精が下り、私の周りに星座のように配置された。

「手出しはしない。ただ、聴く。歌を刻む」

 長老の声が広場を渡ると、妖精たちは同時に羽を畳み、顔を上げた。

 空気は静かに、しかし密度を増す。

 ミルの舌が胸の中央で小さな円を描き、ベルの舌がみぞおちの浅い谷で拍を数える。

 脇の影へ、太腿の付け根の浅いくぼみへ、足の指の付け根へ――昨日までの「泉たち」が順に呼ばれていく。

 触れ方は慎重で、儀礼的で、しかし喜びに満ちていた。

「あなたのからだから出るものは、すべて美い」

 長老がもう一度、明確に言葉にした。

「汗も、息も、体温も、声も、震えも。涙も、笑いも。ここでは、すべてが糧」

 私は、その言葉が胸の内側の固い部分をやわらかく叩くのを感じた。

 人間の世界では、汗は拭うもの、隠すものだった。

 ここでは、汗は歌であり、礼であり、糧だと言う。

 価値の反転――それは恐ろしくも、救いでもあった。

 渦がさらに高くなった。

 数百、数千の羽音が、ひとつの低い和音にまとまる。

 妖精たちは踊り出す。

 喜びの踊り。

 足は軽く、身のこなしは尖らず、けれど一糸乱れず、拍の上で跳ねる。

 その中心に私がいて、私の汗が拍の芯になっている。

 滑稽でも、傲慢でもなく、ただ不思議な必然として。

「恩人」

 長老の呼びかけに、私は思わず目を向けた。

 真紅のレオタードの小さな女王は、ほんの一拍だけ微笑みを深くし、静かな敬礼を私に送った。

「汝の歌は刻まれた。今日はここまで。

 ――帰りたいときは、必ず帰す。ここは汝の牢ではない。だが、汝の家でもある」

 ミルとベルが顔を上げる。

 胸の前の空気がすっと軽くなり、舌の温度が一瞬だけ下がる。

 儀式の終わりの合図だった。

 私は背を伸ばし、泉の縁から半歩離れた。

 渦は速度を落とし、喜びの踊りは余韻へと移る。

 羽音は囁きに変わり、塩の道はふたたび静けさを取り戻し始めた。

「ありがとう」

 ミルの声は、最初にここへ来たときよりもずっと深く、広場の塩石にやさしく沁みた。

 ベルは胸に手を当て、誇らしげに笑う。

「ね、来てよかったでしょ?」

 私はうなずいた。

 胸の拍は落ち着き、汗の泉は静かに閉じる。

 けれど、何かが確かに、ここに置かれた。

 私の名が、見えない文字で塩石に記されたような感覚。

 返礼と誓いの両方が、胸腺の下で小さく結び目をつくる。

 長老が最後に一言だけ添えた。

「供給は、命を削るためにあるのではない。命を巡らせるためにある。

 ――汝の“嫌”は法だ。汝の“嫌”を聴かぬ者は、わたしが罰する」

 真紅のレオタードの女王は、黒い縁取りの羽を一度だけ鋭く鳴らし、踵を返した。

 その背は小さく、しかし絶対だった。

 帰り道は、来るときより短かった。

 ミルとベルが両側から羽ばたき、塩の道の粒子が後ろへ流れ、銀膜の空が瞼の裏に移る。

「またおいで」

 ミルが言い、

「いつでも、歌の続きをしよう」

 ベルが笑う。

 レースの裾が、内側へふくらみ、私の部屋が戻ってきた。

 床には午後の四角い光。

 窓は閉じたままなのに、草の匂いがほんの少し残っている。

 胸に手を当てると、拍は確かに人間の生活に戻っていた。

 汗の泉は静かに眠り、皮膚の下の音叉は、押し入れに片付けた楽器のように黙している。

「ねえ」

 ベルが肩の上でひそひそと囁いた。

「今日の“皆”の顔、見た? あなたの汗の歌で、羽の色が一段明るくなったの」

 ミルが続ける。

「あなたは、ほんとうに恩人。だから、焦らなくていい。来たいときに来て。

 そして――“嫌”は、いつでも嫌って言って」

 私は笑ってうなずいた。

 彼女たちが溶けて消える前に、もう一度だけ広場の光景を思い出す。

 真紅の女王。塩の泉。大樹の森。

 数百、数千の羽が描いた渦。

 そこに自分の汗の拍が芯として通っているという事実が、妙に心を落ち着かせた。

「また来る」

 声に出すと、部屋の空気が小さく鳴いた。

 約束の音は、塩の国の鐘の音に似ている。

 ミルとベルは、頬に軽い口づけを置いて、羽をいっせいに鳴らした。

 緑は鉢植えの葉脈へ、金は床の木目の陽だまりへ――

 妖精はそこに溶け、見えなくなる。

 静けさが戻る。

 私は深く息を吸い、吐き、胸の前の空気を撫でる。

 何も変わっていないようで、確かに変わっている。

 “供給者様”という見えない名札が、胸腺の奥で静かに温度を保っている。

 そして、私のからだから出るものすべてが、美味いと言われたこと――

 それは、羞恥と誇りの両方を、奇妙な均衡で私に残した。

 窓の外で、雲がひとつ、ゆっくり形を変える。

 私はコップの水を口に含み、舌の奥に立つ微かな塩の丸み――広場の記憶――を確かめた。

 やがて私は、目を閉じる。

 昼の守りはまだ厚い。

 けれど、夜の頁の余白には、もう小さな譜面が書き込まれている。

 その譜面を、どの速度で、どの声で歌うのか――

 選ぶのは、たぶん、私だ。

 


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