第三章 妖精の蜜
昼の光は昨日より一段、白くやわらいでいた。
窓を半分だけ開けると、草の匂いが薄く入り込んでくる。コップの水を一口、喉に落としたとき――空気の手触りがふっと変わった。
鈴を二つ、遠くで弾いたような響き。
緑と金のきらめきが視界をかすめ、半透明の羽が光の粉を散らす。肩の上に、重さよりも軽い気配が降りた。
「約束の、お礼を持ってきたよ」
金のレオタードのベルが、背のうしろから小さな瓶を抱えて出てくる。
「長老様の許しを得た、特別な蜜。今日は、一滴だけ」
「無理はさせない」
ミルが、緑の衣を揺らして控えめに微笑む。目の奥の色は澄んでいるけれど、そこに漂う静けさは、どこか儀式の前のように厳かだった。
彼女たちは小柄で、親指ほどの身体なのに、その仕草は成熟した祈りを思わせる。私の目に映るのが小さな姿であるだけで、年齢という尺度がここでは意味を持たないことを、私はもう知っていた。
ベルが掲げた瓶は、米粒ほどの雫で満たされているわけではなかった。
むしろ、空のままのように見える。しかし傾けると、瓶の内側に、蜂蜜よりも遅く、光そのものが流れているみたいな筋がひとつ見えた。
香りはほとんどない。ただ、瓶口が開いた瞬間、部屋の温度が半歩ぶん上がり、胸の真ん中に小さく灯りが点る。
「舐める前に、約束をもう一度」
ミルが私の目を見て、指を一本立てた。
「嫌だと思ったらすぐ言って。やめるよ。……でも、もし受け取ってくれるなら、今日だけは少しだけ、わたしたちの歌に、身体を貸して」
「受け取る」
言葉にしてから、喉の奥にわずかな緊張が走る。
それでも私はうなずき、舌を少しだけ出した。ベルが瓶口を寄せ、ミルが栓を押さえ、世界はひとつの点に収束する。
――一滴。
それは舌の上に落ちたとき、味より先に色をもって広がった。
透明な金。金でありながら透明で、温度としては冷たくも熱くもないのに、舌下で確かに熱の芽を噴いた。
遅れて香りが来た。香りと呼べるのか迷うほど淡いのに、遠い森の根から水が上がる音や、夜明け前の塩の匂いが、記憶の底を伝って立ち上がってくる。
胸骨の裏で、鈴が音を変える。
拍がひとつ増え、指の先に光が移る。
体の地図のあちこち――昨日、小石のような静けさが置かれていた泉――そこに、温かい水が満ち始める感覚が走った。
「……熱い」
言葉が漏れる。
喉から肺へ、肺から心臓へ、そして皮膚の下を走る細い道へ。熱は寸分の差で遅れながら巡り、追いつき、追い越し、また巡る。
胸の前に置いた掌の内側がじわじわ濡れていく。汗が湧く速度が、さっきまでと違う。
ヒポクリン腺――あの特殊な泉たちが、一斉に目を覚ましたようだ。
「大丈夫?」
ミルが、肩の上で私の頬を覗き込む。
「苦しかったら、すぐに――」
「大丈夫。……ただ、すごい」
声が震える。舌先に残る甘さは微かだが、身体は明らかにそれ以上の“信号”を受け取っている。
胸の真ん中、胸腺のあたりに置かれた見えない灯りが、ゆっくり強くなる。
乳首の輪郭が、自分でも驚くほどはっきりと意識に浮かんだ。そこに空気が触れるだけで、針先で優しく突かれたみたいな微細な電気が走る。
「始めるね」
ベルが私の鎖骨の下へそっと降り、ミルは胸の中央へ。
二人の舌は、昨日よりもさらに慎重で、そして確信に満ちていた。
胸の谷に沿って、微小な円を描き、音符を並べるみたいに味を刻む。
汗は、自分のものなのに別物だ。角が丸く、甘いというより“まろい”。
舌が触れると、そこから熱が逆流し、汗がまた湧き、熱と汗が互いに合図を送り合う。
胸は、みるみるうちに張り出した。
脈と呼吸が、乳房という新しい鼓を得たように、別の場所から拍を発し始める。
伸びる皮膚は痛くない。むしろ、広がることで楽になる。
私は思わず背を少し反らし、胸の前で空気を受け止めた。
生地が擦れる。Tシャツの繊維の一本一本が、まるで音叉の歯のように感覚を響かせる。
乳首は、触れられてもいないのに、存在そのものが触覚になったみたいに明滅している。
「きれい」
ミルが、祈りの声でそう言った。
「あなたの胸、羽の影を映すのにちょうどいい」
ベルは悪戯っぽく微笑んで、しかし舌は敬虔に、乳房の根元をすくいとる。
「ねえ、ねえ、歌が変わった。昨日の歌と、今日の歌の合奏だ」
私は息を細く吐き、両手を膝の上に置いた。
下腹部に、別の熱が落ちる。
下半身はそのまま――その事実が、いまは奇妙に安定をもたらす。
しかし、そこにも蜜の余韻が降りてくるのが分かった。
呼吸が一段遅れるたび、脚の付け根の泉がひとつ開く。
空気の触り方が、皮膚の受け方が、すべて増幅され、まるで部屋じゅうの温度と音が私の体表で調律されていくみたいだ。
「強すぎたら、言って」
ミルが胸の中央で舌を止め、目だけで私の呼吸を測る。
「……続けて」
自分でも驚くほど穏やかな声が出る。
私は、昨日よりもはるかに敏感になっているのに、恐怖はない。
違和感はある。鏡を見なくても、身体の輪郭が変わったことが分かる。
でもその違和感は、拒絶と同じ場所にはいない。まだ名のない感情の箱に、すとんと収まっている。
ミルは胸腺の上で小さく円を締め、ベルは乳房の縁を浅く撫でていく。
舌先の湿りは、蜜の熱に呼応して、ひとつの旋律にまとまる。
くすぐったさは笑いに、笑いは呼吸に、呼吸は汗に、汗はまた舌を呼ぶ。
私はその循環の真ん中で、ただ拍の数を数えることにした。
数え始めるたび、指の間の泉や、太腿の内側の影の道が、ひとつ、またひとつ、音を灯す。
「ねえ」
やがて、ミルが顔を上げた。
その緑の瞳は、光の粒を集める皿みたいに澄んでいる。
「いずれ、村に来てほしい。あなたの歌を、泉のほとりで聴かせて」
ベルがうっとりと頬を押さえ、私の耳のそばに寄る。
「神殿の柱は、塩の結晶でできてるんだよ。そこにあなたの汗を一滴落としたら、柱が歌を覚えるの」
「村に……」
言葉を反芻する。
見たことのない門、塩の泉、羽音の合唱。想像の中でだけ存在していた景色が、急に、手を伸ばせば触れそうな距離に降りてくる。
胸の鼓動が、そこで跳ねた。乳房の下の拍が、一瞬だけ速まる。
私は自分の変化を自分で驚きながら、同時に、驚かない自分にも驚いていた。
「もちろん、急がせない」
ミルが言う。
「あなたの時間は、あなたのもの」
ベルはにやりと笑って、言葉に砂糖をまぶすみたいに囁いた。
「でも、来てくれたら、もっとおいしいこと、たくさんあるよ?」
ふたりはまた、胸の歌へ戻った。
今度は、胸の谷間だけじゃない。脇の影や、太腿の付け根の浅いくぼみ、足の指の付け根……昨日から今日へ、私が“泉”と信じられるようになった場所たちに、順番に降りていく。
蜜を舐めた私の身体は、汗を「作る」ことそのものが喜びへ変わってしまったみたいだった。
舌が触れれば、湧く。湧けば、触れる。
私は身を任せ、時々、胸の前の空気を受け止めるために肩を緩めた。
熱は、頂点に達したあと、ゆっくりと平原になっていく。
それでも感度は高いままで、言葉を挟む隙はあまりない。
ミルは祈りのような手つきで私の胸を抱き、ベルは無邪気な笑みで太腿の付け根の「谷」を跳ね、指の間の「河口」をすくう。
二人は喜び、私もまた、喜びの中に違和感をひとかけら溶かし込んで、拍に身を合わせ続けた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
窓の光は少し角度を変え、レースの四角が床の上で薄く歪む。
やがて、ふたりは同時に顔を上げ、私の頬に並んで降りた。
半透明の羽が、合図のように一度だけ鳴る。
私は呼吸を整え、胸に置いた掌の下で、拍の形が元の滑らかさへ戻りつつあるのを感じた。
「ありがとう」
ミルの声は、いつもより少し深い。
「あなたの歌、とてもよく聴こえた。泉も乱れなかった」
ベルが小さく両手を叩く。
「今日の汗、すっごくまろやか。蜜がよく馴染んだんだね」
「……からだは、どう?」
ミルが慎重に訊ねる。
私は胸をそっと抱き、言葉を探した。
「熱は、まだある。でも――痛みはない。違和感はある。ここに、何か新しい楽器が置かれた感じ」
ベルが嬉しそうに笑う。
「似合ってるよ。光の受け方が、とても綺麗」
ふたりは肩の上から私の顔を覗き込み、同時に囁いた。
「ねえ、いつか村に来て」
「案内する。塩の泉まで、いっしょに」
私は答えを保留にして、目だけでうなずいた。
胸はまだ柔らかく、確かに女性の形をしている。
下半身は、相変わらず私の知っている私のままだ。
ふたつの地図が重なり合った身体を、私はゆっくりと受け入れる手順を学びはじめているのだと思った。
別れの合図の準備に入ると、ベルがもう一度、胸の根元に顔をうずめ、ミルが胸腺の上で最後の音符をそっと置いた。
それは祝祷に似ていた。
羽がいっせいに鳴り、光の粉が朝露のように舞い、緑は鉢植えの葉脈へ、金は床の木目の陽だまりへ――
妖精は溶け、見えなくなった。
静けさが戻る。
私は背凭れに体を預け、胸に置いた掌で、変化の余韻を測る。
熱は、まだ薄く残っている。
乳房の重みは、呼吸の上下に合わせて揺れ、胸の前の空気を少し変える。
私はゆっくりと立ち上がり、鏡の前へ移動した。
そこには、私の知らない形の私がいた。
知らないのに、見ていられないほど異物ではない。
見慣れない楽器が、部屋の片隅に置かれている――それくらいの違和感。
やがて、拍はさらに落ち着き、胸の重みが少しずつ軽くなる。
皮膚の内側で、蜜が沈殿していくみたいな静けさが広がり、張り出していた形が、ゆっくり、もとへ戻っていった。
鏡の中の胸は、やがて、昨日までの私の胸になり、乳首の明滅も、普通の鈍さへと引いていく。
私は息を吐き、掌を胸から離した。
下半身は最初から最後まで、変わらない。
けれど、変わらない輪郭の内側に、今日の熱の名残は、確かに灯っていた。
口の中に、ごく淡い甘さが残っている。
水を一口飲んでも、その甘さは消えない。
喉の下に置かれた微かな灯りは、完全には消えず、じわりと温かいままだ。
――いつか、村へ。
耳の奥で、ミルの声が静かに反復する。
――もっとおいしいこと、たくさん。
ベルの笑いが、金の粉になって胸の内側をころがる。
私は窓を閉め、カーテンの裾を整えた。
レースの四角は、午後の角度で床に薄く伸びる。
部屋は同じで、私も同じだ。
けれど、たしかに何かが変わった。
それは、胸の上の楽器が跡形もなく消えてしまっても、耳が覚えている旋律のように――
身体のどこかで、いつでも呼び出せる音として残っている。
私はしばらく、何もせずに立っていた。
鏡の中の私と目を合わせ、目を逸らし、もう一度合わせる。
やがて、目の奥に、わずかな期待が灯った。
それは恐れと同じ場所にいない。
恐れを抱えたまま、別の箱に生まれた新しい灯り。
明日は、どうだろう。
もし、彼女たちがまた来て、村への誘いを口にするなら。
私は、どう答えるだろう。
胸の奥の鈴が、小さく、ひとつ鳴った。
遠い水面に輪が広がるように、その音は静かに部屋じゅうの空気を揺らした。
そして私は、ソファへ戻り、浅く目を閉じる。
昼の守りはまだ厚い。
けれど、影のインクはいつだって、頁の余白にこっそり滲み始めるものだ。
蜜の一滴が落ちた場所から、見えない物語が、もう始まっている。