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妖精の悪戯  作者: 彩流
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第二章 再訪


翌日の昼も、部屋の明るさは柔らかく、レースのカーテンで程よく調節された影が床に並んでいた。

私はコップに常温の水を満たし、窓を半分だけ開ける。風がささやくと、薄いカーテンがふくらんで、昨日の約束を思い出させた。

羽音は、思ったより早くやって来た。

鈴を爪ではじいたみたいな軽い音が二つ。私の肩の高さで金と緑が同時にきらめき、半透明の羽が光を砕く。

「おはよう」

先に挨拶したのはミル。緑のレオタードが、鉢植えの葉の色と溶け合う。

「ただいま!」

ベルは金のレオタードの裾を指でつまみ、くるりと一回転して見せた。陽だまりが小さく回る。

「約束どおり、来たよ」

ベルが私の頬にひと撫でしてから、匂いを確かめるみたいに鼻先をすんと鳴らす。

「ねえ、今日の汗は、昨日より歌ってる気がする」

ミルの瞳が、湖のふちみたいにやさしく笑った。

「お礼は……もちろん用意してある。でも、その前にね」

ベルが私の胸の中央――鎖骨の下、胸骨の上を指さした。

「ここ。胸のまんなかの泉。胸腺のあたりからの汗が、とってもいいの。羽の根が、すーっと伸びる味」

胸腺、と口の中で繰り返す。理科の時間に聞いたきりの言葉が、急に身体の地図として浮かび上がる。

Tシャツの襟を指で少し下げると、二匹は同時に息を呑み、半透明の羽を一度だけふるわせた。

カーテン越しの光が、彼女たちの羽根の縁に沿って細く走る。

「触れても、いい?」

ミルが両手を胸の前で合わせる。

私はうなずいた。

緑の小さな唇が、胸の中央へそっと降りた。

湿った石に、冷たすぎない雫が触れるみたいな感触。すぐに、指先へ音が伝わっていく。

ベルはその少し下、みぞおちの浅い谷に降り、このあたり、と小さく舌で丸を描く。

「胸の真ん中の塩はね、心臓の歌といっしょに弾むの。ほら、どきん、どきん」

くすぐったさが胸の裏側から浮かび上がり、思わず息が浅くなる。

ミルは舌先をすこし広げ、ほんのわずかな面積でゆっくりなぞる。

その動きに合わせて、胸骨の下で薄い鈴が鳴った気がした。

音の正体はもちろん生理学の何かだろう――そう思いながらも、私は心のどこかで、その鈴を妖精の鐘だと認めてしまう。

「塩の角が丸くて、やさしい」

ミルが囁く。

「少し果物の香り。昨日、柑橘を食べた?」

「朝に、オレンジを」

答えると、ベルが得意げに笑った。

「やっぱり! ねえミル、私たち、だんだんこの人の歌が分かってきたよ」

二匹は胸の中心から左右へ、ゆっくりと移動した。

ミルは胸骨の上を、ベルは少し下を、小さな弧を描きながら味を拾っていく。

舌先が胸の谷に近づくと、皮膚の上の温度がかすかに上がり、汗の出る速度が目に見えないほどに変わっていくのがわかった。

そこから立ちのぼる塩の気配に、二匹がほとんど同時に「うん」と小さくうなずく。

「ねえ、今日はもう少し、他の泉も見せて」

ベルの金の瞳が、いたずらの光を含んで私の足元へと流れた。

「足の指の付け根。谷のいちばん浅いところ。あそこは歩く歌を持ってるの」

ミルが続ける。

「それから……お尻の谷間。あの細い陰の道は、風の塩をよく集めるの」

私はソファの上で姿勢を整え、片膝を立て、靴下を脱いだ。

足の指が光に並ぶ。指の付け根の線は、自分で見ても「谷」と呼びたくなるくらい細い川だ。

ベルがそこへ降りると、羽の影が指の間に薄く落ちる。

彼女は両脚をぴたりと揃えて小さく礼をし、舌先で「とくん」と押すように触れた。

「……っ」

予想よりも鋭く、しかし痛くはない感覚が踵のあたりまで走り、ふくらはぎの筋肉がひとりでにかすかに震えた。

ベルはすぐに顔を上げ、「ごめん、ここは敏感だったね」と囁いて、今度は羽でやさしく風を送る。

風の冷たさが、舌の温度をうまく中和して、感覚が笑いにほどけた。

「指の根は、今日よく歌う」

ベルが舐め、離れ、舐め、離れ、まるで拍を数えるみたいに一定のリズムで谷をたどる。

そのたびに、足の甲の骨が薄くきらめくような錯覚があった。

ミルは私の背後へ回り、ソファの背もたれに両手をついた私の腰の辺りに降りる。

「触れますね」

囁きと同時に、腰の骨の出っ張りを避けて、お尻の谷間の入口にそっと唇が降りた。

そこは、ふだん意識の外に置いてしまうほど目立たない場所だ。

けれど、ミルの舌はそこに、細かい路地の地図みたいな凹凸を見つけて、ゆっくり辿っていく。

汗の粒がきらりと増えるたび、空気が塩の匂いでやさしく濃くなる。

私は肩の力を抜き、膝の角度を少し浅くして、二匹の動きに呼吸を合わせた。

「くすぐったかったら言って」

ミルの声は変わらず柔らかい。

私は笑い、短くうなずく。

「大丈夫。昨日より……少し慣れた」

「えらい」

ベルが足の指の谷から顔を上げ、親指の爪ほどの掌で私の足の甲をぽんと叩いた。

彼女の笑いにつられて、胸腺のあたりの緊張もほどけていく。

二匹は丁寧に、そして楽しげに、汗の歌を拾い続けた。

胸のまんなか――心臓の拍に寄り添う塩。

足の指の付け根――歩くたびに生まれる微かな渓流。

お尻の谷間――風の影が集めたしずくの道。

舌先、羽、鼻先、おでこ。彼女たちは身体じゅうの感覚で歌を聴き、味を読み、香りを撫でる。

私はそれを受け入れ、呼吸と姿勢を、見えない指揮者の指先みたいに整えていく。

「ねえ」

しばらくして、ベルがふっと真顔になった。

金の瞳が、いつもより少し深く揺れる。

「お願いがあるんだ」

ミルも、胸の中央から顔を上げ、両手を胸の前で揃える。

「昨日、約束したお礼のこと。その前に……きょうは、すこしだけ、お土産をもらってもいい?」

「……お土産?」

ベルが腰の後ろから、小さなガラス瓶を取り出した。親指の爪ほどの小瓶だが、栓には細い目盛りが刻まれている。

「一キュービックセンチ。たった一滴分。わたしたちの泉に混ぜるの。羽の艶が、すこしだけ戻る」

ミルが、申し訳なさそうに続ける。

「もちろん、お礼は必ず。長老様の許しを得た、特別な蜜を、明日」

一キュービックセンチ――そんな小さな単位を、妖精の口から聞くことになるとは思ってもみなかった。

私は一瞬だけ目を閉じ、自分の胸の拍を数えた。

昨日、彼女たちの舌が触れた場所に、見えない印が残っている。印は音のように明滅し、いまも小さく光っている気がした。

私は、ゆっくりと息を吐いて言った。

「……いいよ」

二匹は同時に息を呑んだ。

ベルが小瓶を抱えて私の胸の上へ戻り、ミルが空の栓を外す。

目盛りは、薄い刻みで「0.2」「0.4」「0.6」「0.8」「1.0」と刻まれている。

「じゃあ、順番に。胸の泉からすこし、足の谷からすこし、陰の道からすこし」

ミルが段取りを囁き、ベルが「了解っ」と肩に拳を当てた。

まず、胸の中央。

ミルが胸骨の上に降り、舌でやわらかく円を描く。

ベルはそのすぐ横に小瓶の口をかざし、透明な一滴が、光を吸いながら口縁にかかるのを待つ。

汗は思ったより早く、けれど控えめに、瓶の内側にすべり落ちた。

目盛りが「0.2」を過ぎたところで、ミルが顔を上げる。

「ありがとう。胸の歌、少し分けてもらった」

次に、足の指の付け根。

ベルが今度は瓶を抱えたまま降り、ミルが舌で谷の縁を愛おしむみたいに撫でる。

風の微かな冷たさと、舌の温もりのバランスがちょうどよく、笑いと安堵の境目がひとつに重なる。

目盛りは「0.5」を越え、「0.6」に触れたところで、ベルが「オーケー」と親指を立てた。

最後に、お尻の谷間。

私は姿勢を少し変え、余計な緊張が出ないように息を深くする。

ソファの布がひんやりと触れ、部屋の音が一段階静かになる。

ミルは羽を畳んで降り、ベルが瓶の角度を慎重に合わせる。

汗は、ほんの少し、けれど確かな速さで、ガラスの内側に細い線を描いた。

目盛りが「1.0」にぴたりと触れた瞬間、ベルが嬉しそうに目を輝かせ、ミルが深く礼をした。

「……ありがとう」

ミルの声は本当に小さく、胸の奥に柔らかく落ちた。

「たしかに、一滴。約束の分だけ」

ベルが栓を閉め、小瓶を胸に抱く。

「すごくいい香り。ねえミル、帰り道、羽が軽くなるよ」

瓶は掌より小さいのに、部屋の空気に目に見えない余韻を残した。

塩の匂いがほんの少し濃くなり、それがかえって空気を澄ませる。

私は背もたれに体を預け、胸の中央に残る微かな涼しさを確かめた。

くすぐったさは、さっきより静かだ。音符は落ち着き、拍は穏やかに戻る。

「今日の私は、よくがんばった?」

自分でも少し可笑しい質問をしてみる。

ベルは即座に頷き、ミルは笑いを目に浮かべた。

「えらい。とても。泉を乱さず、呼吸を合わせてくれた」

「一緒に歌ってくれた、って感じ」

二匹は肩の上へ戻り、左右から頬をそっと押した。

半透明の羽が一度鳴り、床に散るレースの四角がかすかに震える。

窓の外を薄雲が流れ、光が少しだけ鈍る。

昼の守りが、昨日と同じように、耳に聞こえない手紙を送り始める気配がした。

「お礼は明日、必ず」

ミルが言う。

「長老様の蜜。あなたの泉を守って、もっとやさしく歌わせる蜜」

ベルが唇を尖らせ、しかし目は嬉しさで満ちている。

「楽しみにしてて。すごく、すごくおいしいよ……あなたにとっても」

「私にとっても?」

問い返すと、ベルは小さくウィンクした。

「うん。舌だけじゃなくて、からだぜんぶが“おいしい”って思うやつ」

ミルがそっと肩に触れ、耳元で囁く。

「でも、怖かったら、やめてね。約束のとおり。わたしたちは、あなたの“嫌”を聴く」

私は少し考えて――そして、うなずいた。

怖さが全くないわけではない。

昨日から今日へ、優しい童話の頁の余白には、細い影が確かに書き足されていく。

それでも、いまのところ、その影は私の呼吸を乱さず、むしろ拍を整える方へ傾いている。

「明日、待っている」

言葉にすると、部屋の空気が小さく鳴った。

別れの挨拶は昨日と同じだった。

ふたりは私の頬に同時に口づけを置き、羽をいっせいに鳴らす。

光の粉が朝露のように舞い、緑は鉢植えの葉脈へ、金は床の木目の陽だまりへ――

妖精はそこに溶けて、見えなくなる。

静けさが戻り、私は深呼吸を二度、三度。

胸の真ん中が、やさしく熱い。

足の指の付け根には、見えない風の道が開いたみたいな軽さがあり、お尻の谷間には、ほんの少し湿った影の記憶が残った。

机の上のコップの水をひと口飲むと、舌の上に、さっき瓶に集められたものと同じ“塩の丸み”を感覚だけでなぞれた。

窓の外をまた薄雲が横切り、影が長くなる。

レースの四角は、さっきより柔らかく歪む。

明日、彼女たちは「お礼」を持って来るという。

長老の許しを得た蜜。

舌で舐めるだけのものか、喉で受け入れるものか、皮膚で聴くものか――そのどれでもあり得る気がした。

私は掌を胸の上に置き、目を閉じた。

胸腺の下で、拍が落ち着いている。

体の地図のいくつかの泉に、白い小石が一つずつ置かれたような静けさ。

その静けさの下で、音はゆっくり育つ。

童話の朗読の声の後ろで、別の譜面がひっそりと広がっていくのを、自分でも分かってしまう。

――お礼は必ず。

耳の奥に、ミルの声がやわらかく反復する。

――すごく、すごくおいしいよ。

ベルの無邪気な笑いが、金の粉になって胸の内側をころがる。

いいことばかりではない。

どこかで、影は濃くなるだろう。

けれど、今日の私は、確かに“任せる”という選択をした。

体の深いところにある鍵を、ひとつ、誰かに手渡した。

その手が緑か、金か、まだはっきり区別できないままに。

私はソファに体を沈め、目を閉じた。

窓の四角は瞼の裏で溶け、胸の真ん中に小さな鈴がひとつ、静かに置かれた。

明日の音色を、確かめるために。




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