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妖精の悪戯  作者: 彩流
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第一章 出会い

──あえぎ声が止まらない。

自分の声だと信じられないほど、嬌声が途切れなく喉から溢れ出している。

胸は女のように膨らみ、指先がかすかに触れるだけで火花が散るような快感が走る。

下半身はまだ男のまま残っているのに、その部分すら異常な感度を持たされ、震え、熱に濡れていた。

「ほら……もっと汗を出して」

冷たくも甘やかな声で囁くのはミル。かつて優しかったはずの緑の妖精が、今は悪魔のように私の乳房へ舌を這わせている。

「フフ……お兄さん、いや“お姉さん”かな? どっちでもいいよ。だって、どっちもおいしいんだから」

金色のベルは無邪気に笑いながら、下半身を指先でくすぐり、樹液のような液を垂らさせていく。

逃げられない。

大樹の根が絡みつき、腕も足も顔の半分までも木に埋め込まれ、ただ快楽に晒される人形と化していた。

嬌声は自分の意思ではなく、与えられる刺激に応じて勝手にあがってしまう。

やがて二人は私の顔の間近に舞い降り、半透明の羽を黒く輝かせながら、左右から囁いた。

「選んで」

「そう、どの未来で生きたいのか、いま決めるの」

ミルの声は冷たくも神聖な裁きのように。

ベルの声は子供の悪戯のように甘く。

だがどちらも悪魔のささやきであることに変わりはなかった。

三つの道があると告げられる。


私は嬌声に震える喉を押さえ、必死に息を吸い込む。

なぜ、どうしてこんな選択を迫られることになったのか・・・。



昼下がりの光は、ミルクをひとしずく垂らしたみたいにやわらかく、レースのカーテン越しに床へ四角い模様を落としていた。

私はひとり、枕に頬をあずけて浅い眠りの縁を漂っていた。時計は呼吸を忘れ、外の道を渡る風鈴だけが、遠い水面の輪のように一度鳴った。

――そのとき。耳の傍で、硝子玉をころがすみたいな、かすかな声が弾けた。

「ねえ、起きてる?」

「……ほんとに、見えてる?」

まぶたを上げると、光の中にふたつの小さな影が浮かんでいた。

影といっても黒くはない。薄緑と薄金の色を帯びた親指ほどの人影で、半透明の羽がひらめくたび、部屋じゅうに粉砂糖みたいな光の欠片が舞う。

左でふわりと旋回した子は、やさしい葉の色のレオタードを着ていた。柔らかな眉と、水辺の影を宿したような瞳。

「ミル」と名乗るその声は、雨上がりの若葉を撫でたときの音に似ている。

右でくるんと回った子は、陽だまりを縫いとめたみたいな金色のレオタード。

口元に悪戯の気配を残した無邪気な笑い。「ベル」と名乗ると、鈴の粒を弾いたみたいな音が部屋に跳ねた。

「やっぱり見えてる!」

「人の目にちゃんと映るなんて、何百年ぶりかも」

ふたりは私の目の高さを輪舞のように回り、そっと肩へ降りた。

重さはほとんどなく、けれど羽ばたきの風が頬に触れて、胸の奥で小さな笑いがほどける。

「はじめまして。わたしはミル」

「わたしはベル!」

緑と金の点が、私の視界の端でちいさく光る。

「君たちは……妖精、なのか」

問いに、ミルがこくりとうなずき、ベルが胸を張った。

「森の向こう、泉のもっと向こうから来たの。でも今日は遊びじゃないの」

二人は一瞬だけ顔を見合わせ、まじめな表情で言葉をそろえる。

「お願いがあって来たの」

ミルが、両手を胸の前でそっと組む。

「わたしたちの世界では、いまミネラルを含んだ塩が足りなくなっているの」

ベルが唇を尖らせる。

「泉の塩が痩せちゃって、羽の艶も声の伸びも少しずつ弱くなってきたの」

私の肩の上で、金と緑の小さな体が、風にゆれる葉先みたいに不安げにふるえた。

「ねえ、知ってる?」

ベルが私の耳に近づいて、囁きを落とす。

「人間の汗って、あったかい塩の味がするの。とくに……ヒポクリン腺からの汗は、いちばんおいしい」

聞き慣れない言葉が、眠気のぬるい水面に輪紋をつくる。

ミルが、静かな声で続けた。

「脇の下、足のつけ根、指のあいだ……その泉は、わたしたちにとって、とてもたいせつ」

私は少し息を吸い、昼寝の熱がのこるうなじに手を当てた。

窓の外で風が変わり、カーテンの四角が床の上をすべる。

くすぐったい予感が、皮膚のすぐ下で小さく跳ねた。

「お願い。すこしでいいの」

ミルの声は祈りに似て、目の奥の緑が潤む。

「ちょっとだけ、舐めさせて。あなたの塩を。あなたの汗の歌を」

ベルはにっこり笑って、指ほどの両手を広げる。

「ちゃんとお礼もするよ。約束!」

私は喉の奥で小さく咳をし、冗談めかして――でもほんの少しだけ真剣に――言った。

「……そんなに欲しいのなら、少しくらい舐めさせてやる」

「やった!」

ベルが小さく跳ね、半透明の羽から光の粉が朝露みたいに散る。

ミルは胸に手を当て、ほっと息をこぼした。

「ありがとう。あなたは、やさしい人」

「でもね、ちょっとだけ決まりがあるの」

ミルが指を一本立てる。

「痛くしないこと。嫌だと思ったら、すぐやめること」

「それから、最初は味見だけ。ね?」

ベルが片目をつむって、いたずらの合図みたいに笑った。

私はうなずき、Tシャツの襟を指で少し引いた。

昼の部屋で、誰も見ていないのに、その仕草は妙に慎ましくて、自分で少し可笑しくなる。

最初に動いたのはベルだった。

襟足に近い髪の影へ顔を寄せ、すん、と小さく息を吸う。

「うん。太陽と枕のにおい」

舌先が、金糸みたいに細くのぞいた。

ちろり、と一度。紙の端でなぞられたみたいな、ほそい刺激が走り、背中の呼吸がひとつ跳ねる。

「順番、順番」

ミルが笑い、私の腕へ近づく。

羽を畳んで、わきの浅いくぼみに、そっと唇を置く。

石を撫でるように軽く、祈るみたいに静かに。

くちびるがふれるたび、汗の粒の奥で見えない弦がひとつ鳴り、胸の内側に小さな波が寄せた。

「ここ、借りますね」

ミルは目を伏せ、味わうように舌をひとしずく動かした。

ベルは手のひらへ降り、指のあいだに沿って小川をたどるみたいに進む。

そのたび、皮膚の下を通る電流が、見えない星座を結び直した。

「すごい……」

ベルが息をこぼす。

「甘い塩。朝の果物みたいな微かな香り。昼寝の夢の縁の味」

ミルが目を細めてうなずく。

「あなたは、よく水を飲む人。汗の音がやわらかい」

私は笑って、なるべく動かないように呼吸を整えた。

胸の上下が、ふたりの羽ばたきを乱さないように。

くすぐったさは、笑いになる直前で丸くほどけて、安らぎに形を変える。

ベルは指の骨の間を跳ねるようにたどり、手首へ。

脈を確かめるように顔を寄せて、「どきんの泉」と囁く。

ミルはわきの浅瀬から離れ、胸の上から鼓動を眺めた。

「拍の間に、塩のきらきらが落ちて、消えていく……きれい」

ふたりの声は、薄いガラスに水を注ぐみたいに澄んでいて、部屋の空気の温度まで変えてしまう。

私は、未知の生き物が肩に座り、未知の舌が汗を味わっているはずなのに、不思議と恐れはなかった。

むしろ、長く噛みしめたまま言葉にならなかった小さな硬さが、塩に溶けるみたいにほどけていく。

「ねえ」

ベルが顔を上げ、金色のレオタードの胸元を指でちょんと弾く。

「お土産、ちょっとだけもらってもいい? ほんの一滴。明日、ちゃんとお礼を持ってくるから」

ミルが、控えめに私を見あげる。

「約束は守る。だから、少しだけ……」

私は肩で笑い、枕の端をつまんだ。

「一滴なら、まあ」

ベルはぱっと輝き、ミルは深く礼をした。

その仕草は、どこか神殿の儀式めいていて、私は奇妙な厳かさに息をひそめた。

ふたりは短い手順を確かめあい、舌先で小さく、音符を描くみたいに印をつけていく。

脇の影、指の谷、足の付け根の浅い窪み――ヒポクリンの泉を、丁寧に、乱さないように。

私は目を閉じ、くすぐったさと安堵のあいだに漂いながら、ふたりの小さな呼吸を感じていた。

ふと、窓の外を薄雲が横切った。

光がわずかに鈍り、床の四角が色をすこし落とす。

影は音を立てないけれど、影の伸びにはいつも微かな冷たさがある。

ミルの緑の瞳が、そちらへふっと揺れ、ベルの金の瞳も、ほんの一瞬だけ細くなった。

「……そろそろ」

ミルが囁く。

「昼の守りが薄くなる前に帰らなきゃ」

ベルは、名残惜しそうに私の指のあいだをひと撫でしてから、笑顔を戻した。

「明日、また来るね。お礼、ちゃんと持ってくる」

「お礼って、何を?」と訊ねようとして、私はやめた。

ふたりの顔に浮かんだ光は、秘密を包むときの子どもの目だったから。

その無邪気の奥に、薄い刃の影を私はまだ知らないふりをした。

「約束」

ミルが差しだした小さな指に、私は人差し指をそっと重ねる。

ベルも重ねて、指先が三つ、光の粒を散らした。

別れの合図に、ふたりは私の頬へ同時に軽い口づけを落とす。

塩のきらめきの音が、きわめて小さく鳴った。

羽がいっせいに鳴り、光の粉が朝露のように舞い、ふたりの輪郭が薄くなる。

緑は鉢植えの葉脈へ、金は床の木目の陽だまりへ――

彼女たちは、そこに溶けて見えなくなった。

静けさが戻る。

私は頬の跡を指でなぞり、そこにほんのり残る涼しさを確かめた。

胸の奥では、さっきの小さな鐘がまだ鳴っている。

窓の四角はさっきよりわずかに淡く、影はさっきよりわずかに濃い。

昼は、気づかれないほどの速さで傾きはじめている。

「……また、来るのか」

独り言は空気にほどけ、すぐに消えた。

けれど皮膚には、彼女たちの舌が触れた場所ごとに見えない印が残っている。

そこが、音のように薄く明滅していた。

私は目を閉じ、もう一度、浅い眠りの縁へ身を沈める。

童話の頁は静かに重なり、しおりは確かに挟まれた――

明日の約束の場所に。




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