記憶の中の 女の子
私は尊子を部屋へと連れて行った。ふすまを開け部屋に入る。
女達は新参者である尊子を物珍しそうに眺めた。新参者に好意的な者もいれば 、あからさまでないとしても否好意的な者もいる。
興味を伴う眺める視線には、幾つかの意味合いが込められているものだ。
尊子はゆっくりと辺りを見渡し、自分に注がれている視線を確認した様に見えた。
私は黙って彼女の行動を眺めていた。
「尊子と申します。ここへ置いて頂く事になりました。どうか宜しくお願い致します。」
尊子は廊下で見せた姿を一切感じさせないほど整った口調で言った。
これがさっき
私の右腕に食らいついた娘だとは思えねえ。
そして
尊子は跪いて頭を深く下げた。多くの女達は無視した。
怯え泣く姿が見られない、そう分かると同時に関心を失っていたに違いねえ。
哀れさが食いもんだからな。好奇は消える。
「尊子ちゃん 宜しくね」
何人かの女達は好意的な言葉を投げかけた。出る言葉は体を現す。外っ面を現すもんだ。
好意的な言葉を投げかける女達は、皆目元が優しく 口元は上がっている。
尊子はそんな好意的な言葉を耳にしても顔を上げない。時間をかけて頭を下げ続けている。 皆が尊子から視線を外す頃、尊子はゆっくりと顔を上げてみせた。
そして私の顔を下から覗き込むように見た。
下がった眉のまま、お礼のつもりか私に小さな笑顔を見せた 。
「これで間違っていない?」
彼女の視線は
そう私に尋ねているようにも感じた。それに答えるように、私も小さく唇を上げて見せる。
「間違えてねえ」
私も視線だけで返した。
賢い娘だ
この娘は賢い娘だ
賢いが故
ここへ来ることも誰かのためにと 選択したに違いない。
ここに来た多くの娘達と同じだ。
事情が、状況が この場へ来ることを娘たちに頷かせたんだ。
姿形は違っても
この娘はいつかの私とここに居る女たちと同じに映る。
「名をお尋ねしても良いでしょうか?」
尊子は私に歩み寄ると控えめに聞いた。
「久子だ あんたより六つばかし上だ。」
それを聞くと尊子は
「六つ上のねえさんね。」
そう言って笑顔を見せた。
「あんたさんは、十そこそこだろう?」
「はい 十になったばかりです」
娘は嬉しそうな顔を見せた。懐いた子犬の様だ。あどけない。
彼女のあどけない顔を見た瞬間、噛まれた右腕が急に痛み出す。何もしてやれない罪悪感がうずきだす。
罪悪感なんていう言葉を使うには、目の前に居る娘っ子に申し訳ねえ。
罪悪感っていうものは、いつだって正義の振りをして、己を満足させるためだけにあるようなもんだ。
はき違えてはいけねえ。
ここでは
心を添わせたら、相手は駄目になっちまう。
そして
いずれ
自分自身をも殺すことになる。
「久子ねえちゃん」
久子ねえちゃん
尊子が私を呼ぶ小さな声が聞こえた。
私は聞こえてない振りをした。
そうしないと
記憶の中に居る 二人の幼い女の子と尊子を
勘違いしてしまいそうだからだった。
この娘の嬉しそうな顔、ススキ林で見たかったなあ。
ふと思った
こんなどうしようもねえ場所じゃなくて、狐の尾っぽが自由にさ、
右左と揺れているみてえな、そんなススキ原でさ。
右に揺れて、左に揺れて 自由に揺らされる。放ってやりたいな。
そんな自由の中で
この娘に
久子ねえちゃんと呼ばれてみたかった。
こんな娘っ子を
金魚鉢みたいな、こんなせまっこい場所に入れとくなんてな。こんな場所似つかわしくない。私は目の前に居る尊子を眺めながら思った。
尊子の姿、声、仕草、身の丈は 、私がまだお父とお母と妹と一緒に居た頃
近くに居た女の子と似ていた。
その女の子はまだ、小さいにも関わらず売られてきたんだ。
買われた家で朝から晩まで働かされていた。お父もお母をまだ必要とする年頃なのにな。
親のいない所で一生懸命働く
小さな手は年中切れていて、手入れされていない髪はぎっちりと ただ縛り付けられていた。頬はカサカサで割れていた。笑うと皮膚に亀裂が入る。
私はその女の子を見ていた。
水を運んでる姿を見れば
少しばかり声かけた。邪魔にならねえ程度にな。
名は知らなかった。
細っこい足を出して身振り構わず働いていた。泣かねえんだ、この女の子は。
文句さえ言わねえ。聞いたことがねえ。我慢しているのか、それは分からなかった。
ある夕暮れ
女の子は家の外に居た。
壁に背中を付けてむくれている。こんな時間に外にいることなんてない。
私は声をかけた
「どうした 何かあったのか?」
女の子は
口を堅く閉じたまま首を振る。ひどくむくれていた。
頬には時が経った涙の痕が白く残っている。
「そうか」
私はそう言って横に並んだ。
「散歩 行くか?」
私がそう声をかけると女の子は驚いた様子で私を見上げた。その様子を見て私は 慌てた。
大きな期待を持たせちゃいけねえ。
「そんな遠くじゃない。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、そこの空き地に行くだけだ。」
女の子は大きく頷いた。嬉しさが顔いっぱいに広がっていった。
私達は夕日に向かって黙って歩き、 空き地に着いた。
そこにはススキがめいっぱい生えていた。ゆらりゆらりと風の思うままに 揺らされている。
「わあ・・・きれい」
女の子は好き勝手に揺れているススキを見ながら言った。思わず口から飛び出た言葉の様だった。子供らしさが現れた言葉だった。私は横に居る女の子を見ていた。
女の子は私に見られている事に気が付いていない。
誰かに見てもらうことなんて
この子は無かったんだろうな
視線に気づかない女の子は 、夕日に照らされているススキに心が奪われている様子だった 。
「こんなにきれいなもの初めて見た。」
そうなんだ
女の子という生き物は
本来こういう表情をしているものなんだ。歯を食いしばって、口を横に結んでる姿なんてしていない。女の子という小さな生き物は、めいっぱい綺麗なものをその瞳に映しこんで
感嘆とすることが好きな生き物なんだ
笑顔だけで作られるべき生き物なんだ。朝から晩まで汗水たらして働く様に出来ちゃいねえ。
女の子も夕陽に照らされていた。大きな瞳が精一杯輝いている。
「ねえちゃん」
女の子は私を見上げた。
そして
「お狐さんの尾っぽみたいね。」
そう言ってススキを指さし、弾ける様な笑顔を見せた。
「うん。そうだな、狐の尾っぽみたいだな。」
弾けた笑顔が私の胸を覆う。
「あのね、私の名前ね ‘とこ’ っていうの。」
「とこちゃんか」
女の子は頷くと再び風にたなびくキツネの尻尾を眺めた。
そして
そっと私の手を握った。
秋風が冷たい
小さな手だな。私の手でもその全部を包み込めてしまう。私はギュッと力を込めた。
西日がとこの影を背伸びさせている。
同じだ。
私の影をも背伸びさせる。
大人にならなきゃいけない
早く大人にならなきゃならない
そんな急く思いを忘れた気がした。
影が私達の焦らなければならない成長を引き受けてくれたようだ。
背伸びをして生きなければならない。
そんな私達を今だけ 子供 として在ることを許してくれている様だった。
忘れない様にしよう この時を
急ぐ背伸びを
引き受けてくれたこの時間を忘れないようにしよう
私達は手つなぎのまま帰った。
それから、とこは私を見かけると笑顔を見せ、気づかれない様に小さく手を振って見せた。 私も手を振り返す。言葉はない。
だけど
‘いるよ’
‘いるね’
‘いるね’
‘いるよ’
とこ 居るね。
姉ちゃん居るよ。
存在を確認し合うように視線を合わせだけをしていた 。
お互いにはお互いを気に掛ける人がいる 。見えない信頼の中、その確認を誰にも気づかれない中で私達は行っていた。
それがお互いの心の拠り所だったんだ。
次の秋が来る頃 、とこは いつ間にかいなくなった。
一つも姿が見られなくなっちまった。
どこに行ったのか、誰も教えてはくれなかった 。誰もあの娘を知らなかった。
後に風伝いに聞いた。
とこはな
女の住処へと売り飛ばされたってな。
教えてくれたのは
去年吹いていた秋風だった。
私はその知らせを聞くと、夕方空地へと向かった 。たった一度だけ、とこと訪れた場所だ。ススキが地一杯に揺れている。
あの時と同じだ。
‘ねえちゃん、おきつねさんのおっぽみたいね’
無邪気に笑うあの子が私の記憶の中に居る。弾けた笑顔が私の胸の中で散らばって
あちこちへと突き刺さる。 西日が今伸ばせる影は私一人だけだ。
あの子は隣にもう居ねえ
知った名だけを残してあの子は行先も告げる事無く
売られて行った。
とこ という誰も知らない女の子
涙が落ちた。
売り飛ばされて 、買われていくだけが あの娘の人生なのか。
なにしたっていうのか
」
あの子は
ただ
ただ
生まれ来ただけじゃねえか
あの子の元には神の欠片さえ 落ちてやしないじゃないか
平等さを謳えない神が命なんて 扱うもんじゃねえ
泣いた。 私は泣いた。地に突っ伏して泣いた。声を聞かない神の理不尽さを地に泪して罵倒した。まだ大人になっていない私は、誰もいないところで
小さな子供の様にしゃくりあげて泣いていた。
とこ
ごめんな
その手を離さなければ良かった
ごめんな 。
ここでは 誰の邪魔も入らねえ。湿った土の匂いが鼻を突きさす。
どれくらいこうしていただろうか。日はいつの間にか家路についたようだった。
遠くに見える山の裏側だけが赤い空気を背負っていた。
私は地べたから立ち上がった。そして、いつか見たお稲荷さんを思い出した。
稲荷神社はここいらには無い 。小さい頃お母と遠出の用事で行った先に稲荷神社があった。
「ちょっと寄らせてもらおうか」
お母は私にそう言った。石段をあがり私達は一つお辞儀をしてお邪魔させて頂いた。
稲荷神社にはお狐さんが二体座っていた。
お日様が昇っているにも関わらずうっすらと昏い境内は、歩くと足元をしっとりと湿らせるようだった。初めて見るお狐さんには深い緑色をした苔が付いていた。
私は記憶を見ていた。
そうだった
確か向かって左のお狐さんは
口に巻物を咥えていた。
「狐さんは賢い。口にくわえている巻物は知恵の証なんだよ。」
お母はそう言ってたな。
どこか笑っている様にも見えるお狐さんは、何でも知っている様に見えた。
あの狐さん達には
私達のこれから進む後の事さえも見えていたのかもしれない。
私は揺れるススキの前で、右手の人差し指を横にし唇に挟んだ。
そしたら
あの時見たお狐さんが
どうにかしてくれそうで
そしたら
あの時見たお狐さんの巻物が
何か教えてくれそうで
お稲荷さんの真似っこをした。
お狐さん
どうかあの子が元気で居ますように。
お狐さん
どうか
あの女の子が幸せでありますように 。
心弾ませられる日を
一日でも持てていますように。
揺れる沢山の狐のしっぽを眺めながら 胸の中でそう願った。
巻物に例えて咥えた人差し指は湿った 。
「久子姉ちゃん、ねっちゃんってば」
呼び声で我に返った。 昔の事を思い出していた。
木連格子が目に飛び込み、私は自分の今いる場所を思い出す。 尊子が私を見上げ呼びかけている。
似ている
私が手を離してしまった女の子と
この目の前に居る尊子は、そっくりに見えちまう。
昔の記憶が
今を創り出そうとしちまう。
「あんま 馴れ馴れしくすんな。」
私はぶっきらぼうに突き放す
久子姉ちゃん、なんて馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ。
心が境界線を引く。どちらにも偏っちゃならねえ。
胸に飛び込ませちまったなら両者破滅す。
この場所じゃあ 、決して成り立ってはならないものっつうもんがある。
成りたてが許されねえもの。
お狐の尾っぽみたいね
言葉が頭を掛けめぐる。 ここに来ての三つの季節は廻った。お父お母妹を思い浮かべる事も少なくなった。少なくなったと言ったら噓になる。年月と共に感情が濾過され、薄い蝋引き紙越しに お父とお母妹を眺めている様だ。
存在していたのかさえ
分からなくなる時が在る
たった三つ巡りの季節が
私から鮮やかさを奪ったのかもしれねえな
涙を流す事はもうない。感情が肉体を覆うこともない。
ただ
とこの事は別だ。
いつまでも空地で咥えた人差し指の湿り気は忘れられない。
あの娘の声は時折私の鼓膜を揺らす。
「安易に懐にいれるんじゃないよ」
姉さんが良く言っていた。
「酔った客なんてえ
懐に入れても痛くも痒くもねえもんだ
覚えちゃいねえ
久子
うまい具合にお前の懐は 使い分けなきゃなんねえんだ」
情を持ったら自滅する。だからといって薄情で在れば男は寄らねえ。
ここでの法則は外とは違う。
尊子が挨拶した本物の女。男を煙の様に巻き黙らす女。
それがな
私が姉さんと呼ぶ 本物の女だ。