その日
姉さんの許可はある。
安治の許可もある。尊子の許可もある。
必要な許可は下りた。
今日という日 昏いの訪れ時 尊子は女になる。
他の女達に知られてはならねえ。
これは
四人だけの秘密ごとだ。
調整は本来行われない。行われてはならない。
ここで何かを 叶える ということは本来されてはならないことだ。
例外は認められない。一つ許すことは二つ目を生み出すことになる。
認められたのは
姉さんの罪悪感の大きさからだ。
姉さんの罪悪感が下した許可だ。
私を床師から守り切れなかった姉さんの罪悪感
切り離されていないものを抱いていたからこその飲み込みだ。
私は
姉さんの傷を利用したんだ。
私は布団を敷いていた。
尊子と安治のためのものだ。
床師に抱かれた時 敷かれていた白い布団を敷いたのは私自身だった。
あの日これから何が起きるのか分からないまま無防備に 無邪気に
自分で自分の墓場を作っていたことを思い出す。
惨めさは未だ 私の中から消え切ってはいない。
布団を整えながら感じた。私はぶつけ様のない感情を布団にぶつけるように
力強く整える。
尊子にはさせやしねえ。同じ思いを抱きかかえさせやしねえ。
尊子には
私の踏んだ道とは 別の道を歩んでもらう。
敷かれた布団を眺める。
ここは
墓場じゃねえ。
安治が尊子を抱く。尊子が安治に抱かれる。
安治が尊子を抱く場所だ。
その実感が私を覆う。
安治は私のものじゃない
私のものでもない安治だけれど私じゃない女を
例え私の大切な尊子を抱く安治を
今に至るまで想像さえもしていなかった。
私ではない女を抱く安治
浅はかさがすっと血管から血を抜き取ったように感じた。胸の骨が軸を失う。
こんな感覚が今更私に覆いかぶさったとしても
それが
私にどう影響を与えるのか
進み切った取り取り返しのつかない状況に今更感情が追い付いたからって
一体
私に何を望むというのだろうか
私は敷かれた布団を見つめていた。
安治は裏口から入って来た。今夜は正門からは入れねえ。それは了承済みだった。
姉さんは知っていながらも 知らねえ振りを通し切る。
「久子 あんたの始めたことだ あんたが手を付けたことだ
あんたで始めたなら あんたで終わらせな」
そう念を押された。
いいんだ それで。姉さんは目さえ瞑ってくれさえすればいい。
私で始めたことだ私で終わらせる
迷惑をかけるわけにはいかねえ。
これは私が唾つけたもんだ。
安治は廊下を擦るように歩いた。誰にも見られないように安治を部屋へと通す。
尊子はまだ居ない。
安治は袖の中に両腕を隠したまま天井を見上げた。
安治の目に映っているのは見慣れた天井だったのだろう。
安治の振る舞いは
まるで 自分の居る場所を実感するために起こしたように見えた。
私は静かに戸を閉めた。安治と二人きりだ。
銭の介入なしで二人きりになるのは これが初めてだった。
言葉が見つからねえ。
何でだろう。言葉が一つさえも用意出来ねえ。皮肉なもんだ。
銭が在れば私は 普通に振舞える。
銭の介入がなければ 気の利いた言葉一つさえも吐き出せねえ。
そんな私を見かねたのか安治が口を開いた。
「なあ 久ちゃんよ 尊子ってどんな娘なんだ?」
安治は辺りをきょろきょろと見渡しながら聞いた。
そうだった。
安治は尊子を知らない。
尊子は安治にとって全く知らねえ 娘なんだ。
尊子
私は安治の問いかけに気持ちが少し緩んだ。尊子を想う。
「尊子は 大事な子 私にとって とても大事な娘っ子」
私は安治にそう伝えた。
安治は そうか と言うように幾度がうなずいてみせた。
そして
心もとないように辺りを見回していた。
そうなんだ。
尊子は大事な娘なんだ。
守らなければならない存在で 誰かが守ってやらなけりゃならねえ小さな存在で
尊子という娘は
私が助けることの出来なかった
あの日の とこ であって
尊子という娘は
誰かに守られたかった
いつしか 昔の私なんだ
そう思いが順に並んだ瞬間 私の中で何かが滲み出た。
尊子はね 私なんだ
安治さん
助けてほしいのは
本当はね
あなたの目の前にいる 私 守ってもらいたいのは私なの
どうしたっていうのか
馴染みのない思いが狂ったように零れだす。見覚えがねえ。
一体誰の想いがこみあげてるっつうのか
憑依されたように私が乗っ取られる。
こんな私が
この私の中に居たというのか
認知と共に過去の私が現出しようとする。
今の私という存在が危うくなる。
安治は私を見つめていた。その目は一つの感情をも見逃したくない その想いで私を捉えているようだった。表層にて動かない私の深層をどうにか みようとしている。
こんな私を見せるわけにはいけねえ。私は安治からあからさまに目を逸らした。
「尊子は大切な娘だから だからな 安治さんになら 尊子を任せられる」
私は胸の内を安治に見破られないように振舞った。
これは本当のことだ。
大切に想う安治にだから
大切に思う尊子を とこを 私を 任せられるんだ。
私は自分自身を丸め込んだ。
私の持っている感情と
ここまで突き動かす衝動が一体誰に焦点を合わせたものなのか
誰のために 起こされているものなのか分からなくなっていた。
四方に跳ねた毬が糸くずまみれになって
意味なく跳ね続けている様に思えた。
信頼している安治に 大切な尊子をお願いする
本当に
それだけなのだろうか。
望みもしないその問いかけは
私の頭の中に今まで私の身に起きた出来事を駆け巡らせた。
自分の居る場所を思い出という中にて再確認させられる。
回想する。
私は遊郭に属する女だ。抱かれることは大切な男と交わることだ という幻想は
捨てている。そう 捨てたんだ。それに相違はない。
この場所では
誰かを好きになっても その好きが生きることはない。
羽の生えた初々しい初恋を演じることさえできない場所だ。
その羽は引きちぎられる。
誰かを好きになることで
この場所を恨み 自分の境遇を嘆くことになるならば
好きという感情は 私の敵になる。
それを
敵に回したいと思う奴はいるのか
私は敵に回したくない。余計な感情に苦しめられるくらいならば要らない。
恩だってな
どんなに小さい恩だってな
胸に刻んだって ここでは返せやしねえんだ。ここでは返す術がねえ。
思うように振舞えない。
そんな返せねえ恩を胸に留めたって 手つかずのまま記憶の中に浮遊し続け腐敗する。
腐るのが分かり切って持つことなんて出来ねえ。
私は返せなかったいくつもの恩に舌打ちをする。
この場所に居る限り 出来ることには制限がかけられている。
だから
制限を受け入れるために
自ら精神に制限を最大にかけなければならなかった。
ここでは 全てに許可がいる。
目をかけてもらったって 優しさを感じ取ったって
それを
自分のもんだって両手広げればな
この場所にいる自分を この場所で男の相手をする自分を
手渡された命運を
自分の置かれた境遇を ここへ来た経緯を恨まずにはいられなくなる。
誰かを好きになること
誰かに愛される
誰かを愛する こと
知ってるんだろうな
欲しくて堪らないものだから
それに触れたら
それを許したら
私は私では居られなくなる。ここで生きられなくなる。
浸ることのない思い出が私を引き込む。
安治のふと見せた視線を
安治の優しさを 他の男とは違う安治を
安治の
言葉のない中で私を想う その気持ちを
私への愛だと受け取ってしまったら
私はもう他の男に私を抱かせることは出来なくなる。
肉体が 精神が それを拒絶する。
指切りげんまんなんて 小指を差し出し合うことなんて
出来やしないんだ。
そんな 軽々しいもんじゃねえんだ。
私の中で荒魂が姿を現す。
抑え込まれていたものものが 暴れ出す。
暴れ出すものを私は抑え込もうとする。
私は
安治を好きにはなれねえんだ
好きになっちまったらいけねえんだ。
いけねえんだって言ってんだろう
あれだけ あれだけ いけねえって分かってるのに
なのに
私は安治のことを好きになっちまっていたんだ
私が認めちまった。
今まで認めてはならなかったものを今認めちまった。
その途端今まで 私が目を背けていたものものが 襲ってきた。
安治の左腕の中の温かさ 安治の皮膚
安治の首筋の匂い
安治の視線 安治の声 安治の笑った顔
安治の鼓動
安治の私への想い
私の安治への想い
足元が震えた。こんな安治を今まで私は 私のどこへ隠し持っていたのか。
これを
好きと呼ばずになんと呼ぶのか。
本当の自分の内側と外の世界を生きていくために現れた自分。
私は二つの矛盾を持って生きていくことになる。
胸が二つに引き裂かれ分離した。
私は安治が尊子抱いてくれることを願っていない。
今進んでいる道に疑いが高波の様に覆いかぶさってくる。
無い波に肺が潰されそうだ。
もう引き返せねえって言ってんだろ
私は心に怒鳴りつけた。ぶつけ様のない怒りは私の心を好きなだけ引っ搔いた。
出せ
ここから出せと
暴れる。
外側のために生きてきた私が力の限りを振り絞って 偽る。
「安治さん ここで待ってて 尊子を今呼んでくる」
暴れる思いが血反吐のように上がってくる。抑えきれる自信がない。
抑えなければならない。抑えきれない。
分離した感情は激しくぶつかり合った。
私は足早に部屋を後にしようとした。すると安治は私の右腕を強く掴んだ。
私の足がすくむように止まった。捕まれた右手が震える。
「久ちゃん」
安治は私の名を呼んだ。
「久ちゃん 本当にこれが ひさちゃんの望みなんだな」
安治は私に念を押すように聞いた。私は安治の方へ顔を向けた。
「ん」
私は頷いた。
「久ちゃん 俺は 」
私の右手を掴む安治の手に力が入る。ぎゅっと更に強く掴んだ。
「俺は」
そう言うと言葉に詰まった。
「何でもねえ」
掴んでいた右手を緩めた。私は安治の右手を左手で包み込み
掴んでいた私の腕から静かに離した。
そして安治を一人部屋に残し 尊子を呼びに部屋を出た。
遊郭というこの場所が
どれだけ私達の前に立ちはだかっているのか。
私達二人へ どれだけの影響を与えていたのだろうか。
廊下を駆ける。私を取り巻く感情を振り払いたい。
安治は
毎夜変わる男の一人 他の男と大差変わりねえ
そう思う込もうとする私と
久ちゃんにとって俺は 毎夜変わるお客の一人にしか過ぎねえ
そう思う安治
きっと二人とも同じだったのだろう。足が止まった。
同じ分の想いを
私たちはきっと持っていた
場所というものがかけた制限によって
男に抱かれることは 幸せを感じることではない
男に抱かれることは 銭のため
そう思い込もうとする私と
ここでなら久ちゃんを抱ける
ここでなら久ちゃんに会える ここでなら
そう思う安治
何をどうしたら
私達の前に立ちはだかる こんな壁を叩き壊せたのだろうか
私はその場から動けなくなっていた。
確証の無い中で 保障の無い中で 愛する資格なんて持てない場所で
愛は
生まれる許可を
神からもらえるものなのだろうか
それとも
神は
要らないと言いながら物欲しそうに愛を見つめる
私を楽しんでみているだけだったのだろうか。
今日はその日だ。
尊子の日。
それであって
今日は
私が私の持つ想いに抱かれたい日でもあった。