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吉原遊狐  作者: kumi
14/23

代わり

尊子は可愛かった。


覚えている。

尊子が初めてこの場所へやってきた日のこと。


大門の前で見せた怯えた瞳。 


それが


大門を潜り抜ける時

小さい胸が覚悟を決めた膨らみに変えられた瞬間


今目の前に在る恐怖を通り越し その先を見据えた瞳へと変わった。


見えぬ先へ女になる自分を託した瞬間だった。


前をまっすぐ向いて歩く尊子の姿は 私の胸の中に居る女の子と重なった。


怖いに決まってるじゃねえか。

怖くなんてない なんてこと あるはずねえじゃねえか。


尊子の胸の内は

いつかの私の胸の内だ。

だから

分かるんだ。


尊子は私の中に持っている

手放せないものを見せてくれる存在だった。


尊子は格子を両手に力を込めて拭いていた。

水で湿らせた布を格子の角へ ぎゅっと合わせ丁寧に拭いている。


「角っちょは 埃がたまる 丁寧にな」

私の言葉を忘れていない。力の込められる指達は子供らしさを残している。

まだ開ききらない蕾が力ずくで開こうとしているように見える。


少し大人になっているのは事実だが

私にはまだ 幼い 幼い 女の子に見えちまう。


「久子姉ちゃん ねっちゃんってば」


尊子が私を呼ぶ。我に返った私を見て


「何見てた?」

ころころと毬が転がるように笑う。物思いに更けていた私をからかうように笑った。


「なんでもねえ」

ぶっきらぼうに毬を投げ返す。尊子は肩をすくめてみせた。


肩が上がる。


ああ

その肩は大門前で

ちっこい尊子を大きく見せようと味方となっていたものだ。

私は尊子の両肩を見つめた。

尊子の覚悟を迷う心を 肉体達が押し出したんだ。


正しい選択だったのだろう。


あの時心が

肉体の言うことを聞いていなければ

尊子は自らの恐怖に負け

惨めさを門前 曝け出していたのだろう。


今肉体は

尊子の使われものになっている。


尊子


探さなくてもあどけなさは露呈している。

私にとって誰にも触れさせたくない娘だ。 


この娘は

守ってやらなければならない存在なんだ。


尊子に頼まれたわけじゃねえ。

尊子が 助けてくれ なんて 縋ったわけじゃねえ。


勝手に私が思い込んだもんだ。

そうしなければ

昔とこに対して してやれなかった罪悪感が生き続けちまう。

私の中で尊子は とこ でもあるんだ。

それと同時に


とこで在りながら 

いつかの 昔の 私なんだ。


「ねっちゃん これ 喰う?」

尊子が尋ねる。似てくるんだな 言葉っつうもんは。

「悪りい口の使い方だ」

少しばかり笑うと尊子も笑う。


「ねっちゃんは いつもこうよ お互い様っつう言葉があるのよ」

そう言い口元に手を当て笑う尊子の姿は

娘っ子から女になるところにもう位置し始めている。うなじに残るおくれ毛は すでに幼さに化け切れてねえ。


遅かれ早かれ

近いうちに この娘は女になる。


女になる


ぞっとした。


この娘にはその覚悟があるのだろうか。今まであった笑顔は私から逃げ去る。


床師が尊子を奪うのか。


私がされたように

見境のない年老いた男に尊子は差し出されるのか。

張りを失った肌がヘドロのように尊子の肌を覆うのか。


尊子の肌には見合わねえ。


死肉から湧いて出る蛆のように 

込み上げた不安は 昔の私が抱いた嫌悪と結びつく。

嫌悪にどんな類のものが入り込んでいるのか 分からねえ。


ただな


娘を人間として見れねえ

欲のためならば 

私利私欲のためならば

娘っ子一人 

どうしたって構いやしねえ

どんな 扱いしたって構いやしねえ


尊子を通すと そんな男というものに対して

酷く嫌悪が湧くことを実感させられる。


這い上がれねえくらい

見下してやりてえ気になるもんだ。


ここは遊郭という場所だ。


快楽と欲望の処理だけに女を使う男

金さえ在れば女を買う男

外じゃあ出来ねえことをここでする。


ちっせえ男達 見下してやりてえな。

私がな

生かされている立場じゃなけりゃあ 

こき下ろしてるだろうな。


現れる嫌悪が男を馬鹿にしたがる。


そして思い直す。

そんな男達が私を生かしている。


矛盾が私を黙らせる。


生かされている感謝先がそんな男だ。


そんな男に抱かれることで生かされている自分

その存在を嫌いながら

嫌悪に生かされている自分に縋る。


嫌悪は胸に沈んだままだ。

それは海に沈む錨みたいに存在している。


引き上げられる予定のない錨は 

時の流れとともに錆びついて 忘れ去られ

自分という本来の形も

自分が何者であったのかも

曖昧になっちまうんだろうか。


尊子もいつかそうなるのだろうか。


吐き気がした。


格子越しに入り込む日差しが尊子を包み込んでいる。


可愛い娘だ。


私は尊子を見つめた。


この場所で

この制限の在る中で この娘が持ち得る最善はなんだ。


尊子の最善


その中には 私が昔出来なかったとこへの償いをも入り込み

それは

昔の私への救いまでもが含まれているのかもしれない。


尊子

この娘だけには 私と とこ のようにはさせやしねえ。


制限の在る中であっても

せめて

怖い思いをすることなく

尊子が女になることが出来たなら


せめて

少しでも怯えることなく

尊子が身体を預けられることが出来るのならば


来る日も来る日も

私の頭の中は 尊子のことでいっぱいだった。


でも

答えがなかった訳じゃない。


一つだけ私の中に在る考えが


正しいのか

正しくないのか

繰り返すように

念を押すように


実行するに値するのか

慎重に見定めていたんだ。


どうするか

その答えは既にこの時私の中で出ていたんだ。


尊子のためだ


そう思いながら

本当は

誰のために物事を私は動かそうとしているのか

この時の私には見えていなかった。


この答えを明確に私が知ることになるのは

後のことになるんだ。


今この場所は姉さんが仕切っている。

大姉の時代じゃねえ。

姉さんに話を持ち掛けることが一番早い。物事の動く速さが違う。


翌朝

私は姉さんの所へと向かった。戸を叩く。


「誰だい?」

声だけが扉を超えて逢いに来る。


「姉さん 久子です」


少しの間があり

「開けえ」

姉さんの許しが訪れた。私は戸を開ける。急いじゃいねえが気持ちが急く。


「なんの用だい 久子」

「姉さんに 話したいことがある」


私がそう言うと

姉さんは吸った煙草の煙を左っ側にすうっと吐き出した。赤い紅は横に結ばれている。

姉さんがこっちを見る。

私を観察する。姉さんは私の腹ん中を覗こうとしている。


そして

横に居る男達に鋭い目配せを一つした。


あっちへ消えな


姉さんの目はそう放った。言葉でも無いのに何故こんなに力を持っているのだろう。

男達は姉さんの顎の動きと同じ方向へと動く。男達は無言で片膝を立て姉さんに頭を下げると足早に部屋から去っていった。姉さんは部屋から消える男達の後姿を見届けると

再び私の方へ向き直した。肘置きに左腕は託された。


「それで」

姉さんが口を開く。そして右肩をしなやかに前のめりに動かした。姉さんの首元が露になる。

「話しって何だ 久子」

「尊子のことだ」

間髪入れずに答える私に 少し驚いた様子を見せた。姉さんは左へと首を傾げると同時に怪訝そうに右眉を上げた。

「尊子が どうしたって言うんだい 面倒はごめんだよ」

姉さんの右眉は下がらない。


「尊子は幼さがまだ残る娘っ子だ」

 

姉さんは黙ったまま私を睨みつけている。

私が嚙みつくんじゃねえか そう警戒しているのが分かる。


「だけど 

そのままじゃいけねえのが ここでの決まり事だ」


私は続けさせてもらった。


「遅かれ早かれ 

尊子は女として男を相手にすることになる」


姉さんは何も言わず 私をまっすぐ見つめ耳を傾けている。私の言葉一つも聞き逃しがないように 全ての感覚を私に向けている。姉さんの目は 私の吐き出す息にさえ嘘が混ざり込んでねえか見抜こうとしていた。両目は私をとらえたまま動かない。

姉さんの右の指先は遊びながら 私の中から吐き出される次の言葉を待っている。


「私を女にしたのは床師だった」


この言葉を聞くと姉さんの瞳は左側下へ一瞬動いた。その様は動揺していることは明らかだった。私は姉さんから目をそらさなかった。


「覚えてる」


姉さんは罰悪そうに口先で呟いた。


「姉さん 

尊子にだけは あの想いをさせたくはねえ

今も私の中にはな あの男が居座り続けてる。

腹の上に出された白いもんが 

まだ へばりついている気さえする。

無知が故抱いたものだ。


尊子にだけは  

尊子だけには


私と同じ想いをさせたくはねえ」


私は姉さんに頭を下げた。


「久子 あんた 何かあるのか」

姉さんは尋ねた。


「あんたの 頭の中 何があるんだ」


姉さんは私を問い詰める。私は顔を床に向い合せたまま 姉さんには顔を向けないで答えた。


「尊子にとって何が最善か 考えてた。

最善っつっても たかが知れている。

この場所では限られた中での最善でしかない  だけど」


言葉が喉に留まりたがった。上がりたがらない。


「だけど   なんだ」

詰まった私を急かすように姉さんが声をかける。私は一つばかし大きく空気を吸った。

そして顔を上げた。

姉さんの視線と私の視線は再び合わさった。


「私は安治を信頼している」


姉さんはそれを聞き右へ首を動かし眉をひそめた。

姉さんが予想していた言葉とは大きく異なったようだ。


「安治さん 

あの男なら尊子を大切に扱ってくれるに違いねえ」


私の鼓動が大きく打つ。

もう戻れねえ。唇を噛む。


「久子 あんた 

本気でそんなこと 言ってんのか」


姉さんは身を起こし私に声をあげた。勇む右膝は今にも私の前へ向かってきそうな勢いだった。


「なんで おめえ」


「嘘っぱちなんかじゃねえ」


私の声が部屋へ響いた。

姉さんは黙った。私の呼吸は大きく乱れていた。


「嘘っぱちなんかで 

嘘っぱちなんかで 言えるはずねえじゃねえか 


本気だ」


とんでもないことを言っちまった


突如底知れない不安が突き上がってきた。

皮膚の下が小刻みに震えている。

その震えが私の肩を大きく上下させる。


もう戻れねえ。


私は出来るだけ呼吸を整えた。突き上げてきた不安を姉さんに感じられたくねえ。


「安治さんの私への扱い方は他の男と違う

あの男はな 姉さん 他のとは違うんだ」


姉さんは一度 

私から目を逸らし真っ赤な紅の乗った右側の唇を噛んだ。立てた右膝を元へと戻す。姉さんは何も言わねえ。


「本気だ」


私は真っすぐ姉さんを見て言った。姉さんは大きく息を吸った。


「久子 おめえはそれで 構わねえんだな」


腹の底から絞り出した声は姉さんの感情を隠した。冷静さを保とうと姉さんは 腹の下に力を込めている。


「本当だな それで 久子 本当に いいんだな」


瞳を逸らし姉さんはもういっぺん私に尋ねた。合うことのない姉さんの視線を求めることなく 

私は真っすぐ姉さんを見据えていた。私の呼吸は既に鎮まっていた。


「姉さん それが いいんだ」


私の答えを聞くと姉さんは 私の方を向いた。そして今度は真っすぐ私を見つめながらこう言った。

「あんたの気持ちは分かった」

姉さんは私の思いをその喉奥へと通した。私はそれが姉さんの喉元を通過するのを確認すると 頭を下げて姉さんの前から消えようとした。


「だけどな」


私は動きを止めた。


「久子 あんたの想う尊子への最善が 

尊子が願う最善とは限らねえ


尊子の最善が 久子 あんたにとっても 

最善にならなきゃ意味がねえ


意味がねえんだよ


私はあんたに 

この件については物言える立場にない

あんたを

あの時 守り切れなかったんだからな


だけど

尊子を想うあんたの想いと

久子 

あんたを想う私の想いは同じ類だっていうこと


今もそれは変わらねえということ

忘れるんじゃないよ」


吐き捨てるような言葉たちの中 

姉さんが私を心配しているのが分かった。


本音は

止めたいと思っていることも痛いほど分かった。


言いたいことは山ほどある

でも 私には

もの言う権利はない


姉さんの内側だ。


姉さん 私やっぱ やめとくわ


私がそう自ら

匙投げることを心の底で願っていることも分かった。


姉さん

あのな

私ずるしたんだ。


姉さんが

私を止められないっつうこと 分かってた。

だってな

姉さんにとって 私を床師へと渡してしまった

あの罪悪感が

姉さんの中に在る限り


私を止められやしないと見据えていたからだ。


もの言う資格がねえ

止める権利はねえ


そう思う姉さんを

私は手玉にとったんだ。


私は姉さんの部屋から静かに出た。


「久子 あんたの好きにしい 

ただ もめ事は もうごめんだ」


姉さんは私の背中に呟いていた。その呟きには自分の無力さに対する情けなさが込められていた。


もめ事は もうごめんだ


その言葉は


あんたのな 傷つく姿は もう見たくねえ

久子 あんたのな 傷つく姿を見て 

傷つく自分には もうな 会いたくねえ


その化けた姿のように感じた。


姉さんの許可はもらった。


安治に尊子を託す。

安治なら尊子を大切に扱ってくれる。

安治なら 信頼 出来る。


私と同じ扱いを 

安治なら尊子にしてくれるはずだ。


この時の私には 

それだけしか見えていなかった。


もしかしたら

姉さんには 別のものがみえていたのかもしれねえな。


尊子には床師は要らねえ 


尊子の相手は私が用意する

尊子を傷つけることのない男

信頼のおける男


尊子のために用意する男は 

私が信頼した男に限られる。


頭の中で繰り返していた。

まるで

正当性を根付かせているみてえだな。


でも

繰り返してなければ 違う何かにへし折られそうになるような気がしていた。


尊子には


他のとは

他の男とは違う男が必要だ


それだけが今

私の中で唯一 持つことが許された正義だ と思い込みたかったんだ。












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