ちっこい 喜び
ここの女達にも喜びは在った 。
この遊郭は
五つの稲荷に囲まれるようにして在った。
ここの女達は
狐に見守られていたのか
狐に見張られていたのか
分からねえ。
でもな
女達にも喜びっつうものは在ったと思っている。
一時しのぎの様な限定的なものであっても
その時だけは
忘れる。
喜びに浸かる。
そんな一過性の喜びだ。
不器用な女は
ちょっとした喜びにも警戒しちまうが
命運に自分を捧げた女は
繰り返される毎日を苦しみだけに
自分の人生を陣取らせるとは限らない。
でも
ちっこい ちっこい 喜びはそれぞれの
胸ん中持っていたんじゃねえかな。
普通に生きてりゃ感じもしねえ。
普通に生きてりゃ見えしないもの。
普通だったら見えてないだろうもの。
そんな小さい喜びであっても
ここでは光輝く様に見えるんだ。
大きなものでなくていい
大それたものでなくていい
それは女達の置かれた状況がいつしか女たちのそんな
控え目さを創り出す。
ある女は自分の髪結師に 恋心 というものを持っていた 。
そんなの鏡に映る女の姿を見てれば誰が見たって分かるだろ。
鏡に映った
女の瞳
あれは普段の目ん玉じゃなかった
恋心を現わしちまっていた 瞳 というもんだったな
髪結師の指が女の髪を撫でる。幾度もすいては自分の指に髪を絡める。
髪は女の命みてえなもんだからな。
生きてきた分の長さだ。
命を丁寧に大事に扱われる。
結師だからな。
髪を結う。
ただ当然のことをしているに過ぎない。役割にしか過ぎねえ。
だけど
肉体以外に目を向け扱われることがない女にとってはな
そんな指先にでも恋しちまうんだ。
大事
大事
そう指先に撫でられているって錯覚が起きるのかもしれないな。
肉体を重ねることのない 男と女という間柄 。
身体を重ねることが 役割 そんな女には淡いものが 特別なんだ 。
何にもなくていい。
期待もない。
ただ
優しく丁寧に扱われてみたい。
この髪が今その手に扱われている様に。
肉体に触れられないことを感じてみたくなる。
肉体抜きにしたものを感じてみたくなっちまう。
精神が優位に立ってみたいと前のめりになる。
そんな時だけ 商売女が
そこらに居る 単なる一人の娘っ子になれるんだ。
身体を売っているからって純粋さが全く消え失せるわけじゃないんだな。
どこかに隠れるように居る 純粋さ。
それが
思いもよらないところで現れる。
鏡越しに見たそんな女の喜びは可愛いもんだったな。
ほっぺた
赤くしちまってさ。
笑っちまうくらい ちっこいものでもこの場所では別格だ。
普通の地じゃ 感じられねえ。
外の世界じゃ他のものに埋もれちまって見えやしねえ。
いいものが沢山転がっているからな。
自由という場所には選べるものが多すぎる。
髪結い師に結ってもらった髪を撫で
女は大事に扱われた自分を愛しそうに鏡に映し
そして祭りへと出かけて行った。
年にいっぺん 外で行われる酉の市を楽しみに女達はめかし込んだもんだ。
外へ出たって
男の目が自分にかかれば
普段の 商売っ気が出ちまう。
そんな女もいたっけな。
狐の舞いが踊られる。
外の世界と内の世界
明確に在るはずの隔てがこの日だけは曖昧になる。
もちろん
遊郭から出ない女にも楽しみはあった。
狐面をつけた男達は
遊郭へ入ってくるなり女を追いかけ始める。
女たちは逃げ回る。
笑い転げながら逃げ回る。きゃーきゃーと高い声を出して笑う。
この時ばかりは
普段とは異なる声が部屋中に響き渡る。
狐面
触られちまったら大変だからな。腹ん中に赤子を身籠っちまう。
そんな馬鹿なって思ったってな
ここじゃあ
それが何よりもご法度だ。
「来た来た」
女が後ろを振り返り振り返り逃げる。
「やだやだやだ」
そう言って
他の女の後ろに隠れる女も居る。
狐面らも女をからかいながら追いかけ回す。
捕まりそうになった女から
ふと離れて
油断した女をとっつかまえる。
笑っちまう。
男と女の駆け引きだ。
腹がよじれる駆け引きだ。
着物の裾を持ち上げ逃げる女を追う狐の面。
狐面の下はどんな顔しているのか見えやしない。
でも
見定めた 獲物 を逃さない。
女達は笑った。
悪いもんじゃねえ。
笑い声っつうものは。
本当に悪いもんじゃねえ。
ここでは聞きなれないものであっても
やっぱり
楽しさから現れた声はいい。
女達は床に座り襟元を少し開かせ
掌で首元をあおいでいる。
狐面は外されることなくいつの間にかいなくなっていた。
私の中に残っている
女達が ただ楽しむ姿 だ。
私は壁にもたれたまま
女達のだらけた姿を眺めていた。
私にも在った。喜びに似たようなもの。
安治は
時折私の元へ訪れる様になった 。
運び屋の取れる金なんてたかが知れている。
気になりはしたが すぐにその思いを消した。
商売女が男客の銭の心配したらお終いだ。
女は男客の懐事情を気にしちゃあいけねえ。
男の銭事情が気になりだしたら 感情が入っちまってることになる。
それが
ふと 沸き立つように現れた単なる疑問であってもだ。
相手に興味さえ持たなければ
そんなもの浮かびあがりゃしねえもんな。
自分の立場さえ弁えていれば浮かんじゃこない。
どんな情でも自分の中に見つけた時点で
そう遠くない日に苦しむことになる。
銭事情は切らねえといけないもんだ。
銭と体 この場所は切り離せない。
今成り立っている関係性を感情で壊しちゃならねえもんだ。
それは
初めて大姉の前で膝ついた時から承知のはずだ。
それが
この場で生きるために 調整しなければならねえことなんだ 。
それであってもな
それであってもな
どうすることも出来ねえ
ある時
安治が襟を逆さにして着物を着たことがあった 。
思わず笑っちまった。
笑った私を見て安治は驚いた顔を見せた。私は安治に歩み寄り
間違えている襟元を両手で掴んだ。
そして
襟元を掴んだまま再び笑ってしまった。
安治の胸に額を置くようにして笑った 。
「もう 安治さんってば」
そう 私が見上げると安治は私を見つめていた。
その瞳はひと時も離したくない
そんな思いが込められている様に思えて
私は見上げた視線を慌てて着物へと落とした。
怖くなる
一時の期待を持ってはいけない。 一時の期待を持たせてはいけない 。
もしかしたら
なんていうものはここにはない。あってはならないんだ。
女は感情を調整できる。
男っていうもの は 特に純粋な男っていうものは感情に調整されてしまう。
感情というものに鈍感だから
自分自身がそれに 動かされていることに気づきやしない 。
ふとした時に あからさまに現れてしまう。
男にとって目ん玉は感情の眷属だ。
安治の瞳は
私を捉えたがる。
私はその瞳から
離れたがる。
女っていうものは
そんな男の動作にすぐ気づくもんだ。
そして 気づかない振りを うまい具合に装える。
悲しい生き物だな。
どっちがいいかって聞かれたって分からねえ。
男にも
女にも
どっちにも
同じ分量の苦しみはある
そう思う。
気づかない者には
気づかない者が故の苦しみが
気づく者には
気づく者が故の苦しみが
無言の中に在るもんだ。
私は安治の着物を脱がし着せ直した。
襟を正し安治の体に 私の体を添わせ 帯をぎゅっと巻き付けた。
安治は動かず私に身を任せていた 。帯を締め付ける度に安治の身体に私の身体が
更に密着する。
見下ろす安治の視線を感じていたが
私は無いことにして着物を黙々と直し続けた。
今安治の視線に自分の視線を重ねる勇気が私にはなかった。
「これで いい」
私は安治の胸元を軽く叩いた。
それからだ
安治は 着物の襟を逆さにして
私の前へ現れるようになった。その度に私は笑う。
私が笑うのを見て安治も笑う。
「また 間違えてるか」
安治は そう言って
右の人差し指で自分の鼻の下を強くこすった。
この人
わざと
間違えて着てる
安治の着物を着せ直しながら そう感じていた。
一度見せた 私のあの笑顔を安治さんは見たがったんだ。
作りものじゃない
笑った私に会いたい
私を笑わせた自分に会いたい
安治が着物を着間違えしてくる度
私は気づかないように振舞った。
だってな だってな
安治の嬉しそうな顔が見られるからだ。
私を喜ばせたい
この人の襟の間違えには
そんな思いが居た様に感じられていたんだ。
本物の間違えだと信じるふりをして でも安治の喜ぶ姿が見たかった。
幾度も幾度も見たかった。
だから
幾度も幾度もふりをした。
安治の喜ぶ姿。
笑っちまう
たかが着方の間違え。
期待かもしれねえ
おごりかもしれねえ
でも
少しぐらいの
自惚れは許してもらったって構わねえだろ。
どっぷりなんて
漬かりはしねえ
こんなこと
誰かに話していたら
笑い飛ばされていたかもしれねえな。
姉さんなんかに言ったら
懐に入り込むんじゃねえ
なんて怒られてたな。
誰にも話やしない。
私の大切なものだ。
この格子の中で 感じられたちっこい ちっこい 特別だった。
確信の無い 形の無い 黙りこくった私の宝物だ。
宝物はただ閉まっておくものだ。
もっともっとと 欲出すもんじゃねえ。
なのにな
いつしか
安治と私は
格子越しに目を合わせる様になっていた。
交じり合うのが肉体だけでは無くなっていた。
外に居る
安治が先に私を見ている。
その視線に私が気づくと 安治は背伸びをして
私に向かって顎を上げる。
手を振るでもない。
声をかけるでもない。
ここに居るからな。
存在を遠くから見せることだけで伝えている様だった。
格子越しに安治さんと目が合うと 私は小さく頷いた。
安治は遠くで笑顔を見せる。
私たち二人の間に言葉は存在しない。
ただ
居るからな
うん
居るな
うん
分かったか
うん
分かってるだろう
うん
存在を確認し合う
存在が教え合う
お互いがお互いのために
存在していることを視線が繋いでくれている。
格子を越して繋いでくれる 信頼だった。
昔近くに居た
とこ
あの娘と同じだ。
ある日の夕暮れ
安治が格子越しに 私を探しているのが見えた。
私は
別部屋に居たものだから 安治には私が見えていない。
安治は
背伸びをしながら私の姿を探している。
見つからない
私は安治の様子を離れた部屋から見ていた。
私を見つけられなかった安治は 視線を自分の足元へ落とした。
そして
再び顔を上げ
もう一度格子の中を背伸びして覗いた。
やっぱり居ない
私の姿を確認できないと分かると
安治は顔をそっぽ向け すねたように唇を横へ結んだ。
そして
唇を尖らせた。
その仕草は
まるで小さい子供の様だった。
そうか
私があの場所に居ないということは
私が男の相手をしていると思うのだろう。
別の男の相手
そうだった。
私は遊郭に居る普通の女じゃないんだ。
忘れていた自分の立場を 安治の 落とした
視線から
表情から思い出す。
身分を思い出させられる。
自分の持ち場を思い出させられる。
目を合わせれば
私は
一時でも
ここの女であることを忘れる。
それは
安治も同じだったのかもしれない。
商売女である私を
商売女という身分から切り離せる気がしていたのかもしれない。
交ざり合う視線が
囲いの中の私達を
自由にしていたのかもしれない。
格子に邪魔されない自由。
物理的なものに邪魔されることがない。
心理的自由がそこに居たのかもしれない。
誰かに気にかけてもらえる。
そんな
喜び
遊郭に入っちまえば
もう
無いって思っていた。
諦めていた喜びだったのにな。
視線合わせ一つが
格子の内に存在する女を自由にする。
視線合わせ一つが
格子の外に存在する男を
中に存在する女を自由にした気にさせる。
そんな可能性を目の前に吊り下げる。
もしかしたら
なんて
そんな淡い期待が御霊の様に二人の前に
ふわりと浮かび上がる。
そして
現実を思い出し
生まれたばかりの二御霊を握り潰す。
現実に戻されると
私はただの
遊郭に居る女一人にすぎねえ。
日々変わる所有者が在る女。
安治一人の女じゃない。
天地が逆さになったとしても
魚が空を泳いだって
鳥が海を飛んだってなれないものはなれねえんだ。
そう
喉元を通して無理やり飲み込んだ。
喜びは
先を期待させる案内人じゃねえ
ここでの喜びは
単に
ここでしか通用しねえ もの でしかないんだ。
喜びっつう話をしていても
私は
やっぱり
喜びを完全に自分の懐には入れきれねえんだんだな。