整という男
遊郭には
その夜だけのために来る男と
その夜だけではなく 幾度か来る男
その二つの種類の男が常に居る。
その夜だけのために来る男は
その夜だけのためだから
人間らしい繋がりを見せることはねえ。
人間らしさを わざわざこの場所で現す必要はねえ。
ただ
人間臭さは露呈させる 欲 というものだ。
その夜だけではなく幾度か来る男は
その夜だけのために来たものの
何かが着物の裾に引っかかっちまったみたいに
糸くずみたいなもんでも 自分に触れたものを
気にかけちまった
というものだ。
それは
惚れたなんていう軽いものじゃねえ。
容姿云々じゃねえ。
情というほつれかもしれねえし
それは
同情っつう類の共通の糸くずかもしれねえ 。
分からねえ。
男と女という隔たりをも超えて
人間同士という たった一つの共通点が
心と呼ばれるものを介して繋がるのかもしれねえな。
幾人かの男は
私に目をかけてくれた。
触った糸くずを放っておけなかった男達だ。
女に目を掛ける男というものは 大抵は 遊郭には相応しくない男だ。
必要のねえものをつけちまうんだからな。
かける必要のねえものを引っかけちまうんだからな。
夜の戯れが似つかわしくない男
女に慣れてない男
女を扱うことに恐れを持っている男
心を開く場所のない男
優しすぎる男
目をかけて貰った男達は私の目ん玉の裏でそう映っていた。
そんな男の中に
幾度も来た男じゃねえが 二度ほど来た男が居た 。
その男の名は整と書いて せい と呼ぶ男だった。
熊の様に体格は大きいが、動作は小さく物静かだった。
足音さえ立てない。
肉体の大きさが 動作を決めるんじゃねえんだ。
初めて客として来た時には 整の見せる動作に驚かされたものだった。
私が見てきた男がしてきた素振り一つそこには無かったからだ。
荒ぶるものが一つも見えてこない。
凪の海の様な男だ。
この男はここに似つかわしくない。
ここの空気を吸い込むのさえ 相応しくない。
汚すのを申し訳なく感じさせる。
唾つけることに躊躇する。
そんな男だった。
整は簪の職人だった。
二十近く歳の離れた親方に学んでいると聞いた。
見た目からは想像がつかない。
整からその話を聞いた後
私は自分の髪から簪を抜き取り細部まで眺めたことがあった。
整の大きな体と幅の広い掌、太い指先で
どうやってこの繊細な簪を作れるのだろうか
好奇心っつうやつが私をそうさせた。
欲だけを吐き出すこの場所で
そもそも 普通の男 に出逢うこと自体珍しい。
そもそも この男はこんな所に居る必要はねえ。
そもそも 遊郭に居る女と交流を持つべき男じゃない。
整の親方が私のところに来たことのある客だったため
整は私のところに連れてこられた。
そもそも 整は親方に言われたから 来た それだけだった。
整の親方は
私との事後 ぽつぽつと雨月に降る雫の様に整の話をしたもんだった。
「でけえ体だけが取り柄な男でな」
「一言返事で言うことを聞く奴だ」
「もう少し勢いがあればな あいつは」
整という男に私は会ったことがなかったが
親方の話から整がどんな男か頭ん中で描かれていた。
言葉の欠片欠片から親方がこの男を大切に思っていることが
伝わってきた。
まるでな
自分の息子の様に映っちまってる。
息子の様に思ってる なんて 親方自身は思ってねえと思う。
気遣っていることさえ気づいてねえ。
気づいていねえから話す言葉には
整に対する思いが そのまんま 現れちまってたんだろうな。
「全く何も出来ちゃいねえ 何年も何年も 教えてやったって
何も出来やしねえんだ あいつは」
優しく目を細め 嘘っぱちなため息をつく。
さも
手のかかる奴だと装いながら
その成長を 誰よりも 嬉しがっている様に見えた。
出来損ないの息子
でもなあ
放っておけねえんだ
なあ
そういうもんだろう
整を語る親方の瞳は
そう
いつも私に問いかけるように見えていた。
出来損ないを手放したくない
目を離したくない
出来損ないのままでいて欲しい
出来損ないなんだから
ここから
俺から
離れないでくれ
そうやって
整を出来ないままにしておいて 見ていたいんだろうな。
可愛くて仕方がねえんだろうな 。
真っすぐに口にしねえ
そんな言葉こそ本物が隠れてる。
私は黙って ただ 頷いていた。
親方がこんな風に自分の事を
私に語っていることなんて整は知らないのだろう。
この場所は時に条件の無い話場にさえなり得る。
普段話せねえことを話せる場。
誰も文句言わねえ。
誰も咎めねえ。
懺悔だって構わねえ。
話しちまっても漏れやしない。
外と繋がっちゃあ いねえからな。
漏れるとすれば耳の立つネズミが食い物との
引き換えに差し出すくらいだ。
ここで交わす肉体達とも同じだ。
普段出来ねえことを 条件無いままにする。
無かった条件は
条件の在る外へは決して滲み出やしねえ。
流れ出すことはねえ。
「整 あいつはな いい奴なんだ」
親方は目を瞑りながら言った。
「本当にあいつはな いい男なんだよ」
整は親方によって私の所へ連れてこられた 。
そうだろうな。
この男は自ら勇んでここへは来ねえ男だ。
親方の言うことには
黙って連れてこられることを自分に許す。
親方の託した男だ。
ちゃんと扱わせてもらう。
整は私と顔を合わせると大きな肩を 小さく窄めた。
そして
控えめに頭を下げた。
優しい男だった。
私の身体に触れる時も
手の位置を少しでも変える時でも私を気遣った。
その気遣い方は
壊れ物に触れるみたいだった。
自分の肉体の大きさを承知しての行動か
いいや
この男は
私を壊すことを怖がっているのではなく
私を壊してしまうことで
自分が加害者になることに恐れていることが分かった。
粉々にしたものを
目の前で
見る勇気がないのかもしれないな 。
蟻んこを踏まないように道を行く男と同じだ。
時に
男というものは
慎重さを捨てて 蟻んこを踏んででも
道を歩まなければならないもの。
足元を気にしていては歩けねえ。
誰一人として
傷つけないよう生きることは不可能だ。
真の強さの持つ意味を知らないと強さというもの全てが
何人をも傷つける
それがいくら正しい強さであったとしても
強さは人を傷つけるもの
そう思い込む。
その思い込みの裏側にこそ
真の強さは
誰かを守り得るものだと知る機会があるものだ。
知ろうとする
勇気さえ在ればの話だけどな。
整の大きな手は
何を包みたいと思っているのだろう
この大きな掌は
何を守りたいと願いたいんだろう
私は整の掌に唇を当てた。 整はビクッと揺れる。
私が身体を捩らせると
その手は
身体から跳ね上がって 退くことを選択する。
居座りを怖がる。
私が左首筋を整の左首筋に合わせようとすると
頸動脈の拍と共に退く。
そして
退いては
恐る恐る戻ってくる。
時間をかけて
行き来を繰り返す。
整は恐々も最後まで
その夜中に
私を抱き切った。
「あんたさん
そんな大きな掌とその太い指先であんな小さい簪 創るの?」
「はい」
私の問いかけに
整は消えそうな声で返事をし 目さえ合わせず頷いた。
それだけだった。
表情は変えない 多くは語らない 無駄な言葉もない。
この男の寡黙さは嫌いじゃねえ。
そう思った。
だから 私もそれ以上何も聞かなかった。この男との間に
いつも在る様なお喋りは必要ねえ
そう思ったんだ。
親方の引き合わせだった。
久子
お前はいい子だ。
こんな所お前には似合わねえ なあ
いつだったか
親方が前触れもなくそう言ったのを思い出した。
あの言葉には
同情なんていうものは入り込んでいなかった。
いい子だ
なんてな
もしかしたら
親方は
整を息子みたいに見るように
私を一瞬でも
娘に見えたことが在ったのかもしれねえな。
親方
子供なんて
持ったこともねえはずなのに
何が分かるって言うんだい
私は親方の言葉を思い出し心の中で笑っちまった。
知ったかぶりしやがって
なにが
なにが
久子
お前はいい子だ だ
普段聞けない言葉が胸の中で跳ねた。
いい子か
いい子
か
小さく畳み込んだ背中を向け 眠る整を見ながら
そんなことを想っていた。