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吉原遊狐  作者: kumi
10/23

ちこ と呼ばれた女の子


「ちこ」


地鳴りのような声が響く。


「ちこ、おめえ、どこにいる」

男は胡坐をかいて酒を喰らっている。男は酒に負けているのか、それが男の姿なのか。

焦点の合わない目玉の動きに上半身が道連れとなっている。


「ちこ」


「おっ父、ここにいる」


4歳か5歳くらいの女の子が男の横に正座している。畏まるように肩を閉じ座っている。

男は横を向き姿を確認すると鼻で笑った。

そして興味などないように視線をそらした。


居なければ怒鳴る

居ても気に食わねえ


虫の居所によって男の態度は変わるのだろう。

男は顔を上に向け酒をくっと飲む。男の喉元が大きく上下した。


「おめえなんて」

男は手にした酒を眺めながら女の子に言った。


「ちこ で十分だ。ちいこ なんつう名なんてもったいねえ。

おめえは、二つ文字で十分だ。三つ文字なんてもったいねえ。」


ため息とともに吐き捨てた。左腕で口元から流れた酒をふき取る。

女の子はただきつく体をかため正座を崩さなかった。


「ちいこ なんてな もったいねえ」


今にも倒れそうな小屋は震えている。

まるでこの女の子の胸の内を現わしているみてえだ。ガタガタと音を鳴らす。

その時ガタンと一際大きな音がして、ちいこは飛び跳ねそうになったが、どうにかその衝動を抑えた。

お父の気に食わないことをしたならば、お父を怒らせかねない。


娘は父親をどう扱うことが良いのか知っていた。


ヒューヒューと風が唸る。

風に取り込まれ運ばれた砂が小屋の壁に吹き付けられる。

この壁がなかったら・・そう想像するといつもちいこを怖がらせた。


ここは漁師町だ。海のすぐそばにちいこの住む小屋は在った。海が荒れる日は

お父は家にいる。それが長引けば長引くほど、お父の機嫌は悪くなる。

機嫌が悪くなったお父は、海が凪へ向かったとしても漁には行かなくなる。


そんな時、この娘は朝うんと早く起きる。そしてお父に気付かれないように息を止めて

扉に手をかける。


「お願いだから、いい子にしていてね。黙っていてね」

ちいこはそうきしむ扉にお願いする。


そして外へ出ると裸足で朝の冷たい道を息を切らせてかけていった。

空はまだ朝の訪れを容認していない。十ほどある階段をかけ上げる。顔の削れた駒狐と苔に身を包む駒狐が暗闇をかける音に耳を傾けているように見える。


「はあ、はあ」

呼吸を整える間もなく、ちいこは本堂の前につくとお辞儀を一つした。そして顔を上げると小さな両手を顔の前で合わせた。


「どうか、お父が元気になりますように」


こもるような声で言う。小さな手にぎゅっと力がこもる。そしてお辞儀をすると

今来た道を再びかけて戻った。


お父が起きていませんように。

お父が起きていませんように。

かける足の動きと胸の鼓動が重なる。

お父のためにと祈り終え、今お父を怖がり始める。


そうだよな、幼い娘っ子が生きていくには


たとえ

どんな男であったとしても お父 が必要だもんな。


どんなにひどい父親だって嫌うことはできねえ。

嫌うという感情さえ持つ選択肢は疾の昔に捨てていた。


生きるために従う

生きるためにいい子でいる


生かしてもらうために


嵐の日があったとしても

凪の日があったとしても 海を嫌う漁師はいないようなもんだ


家から追い出されたら

こんなちっこい娘っ子は生きていかれねえからな。


慣れちまったんだろうな。


幾日かして

お父は海へ出ることになった。それを聞くとちいこは再び朝早く起きた。

そして

神社さんへと足を向かわせた。


息を弾ませ階段を駆け上がる。

ずっとそこに居る駒狐達には目もくれず、本堂へ走り寄る。


「お父が無事に帰ってきますように」


そうお願いした。そして駆けながら戻った。弾む息を出来るだけ落ち着かせながら

いつものように静かに扉を開けた。

すると


そこには父親が立っていた。

ちいこは、驚いて思わず声をあげてしまった。身体が跳ねると同時に心臓も跳ねた。


「ちこ、おめえ、どこへ行ってた」


口元を動かすことなく言葉は吐き出された。大きな男だ。ちいこがちっこく見える。

みえたんじゃねえかもな、本当に縮こまったのかもしれねえな。


ちいこに向けられている男の目は単なる怒りとは違う。


蔑みと支配者の欲が満たされなかった怒りが現れていた。


支配下に居るものが

自分の意図とは異なる動きを見せた時の怒りだ。厄介なもんだな、この怒りは

自分が見下されたと思う時に起きちまう。

自分が裏切られた気持ちになる


娘は口を結んだままだった。

この男のために神社へ行ったとは口にしない。


海鳴りと共に小屋をガタガタと揺らす。


こいつらは今男の味方なのか、ちっこい娘の味方なのか。

黙りこくる娘と男の間に沈黙が流れた。娘は下を向いている。


「好きにすりゃあ、いい」


男は吐き捨てた。


娘は顔を上げる。男は顔をそむける。


お互いの視線が合わないように、神遊びが行われているみたいだ。



「波にでもさらわれちまえ。人さらいにでも、なんにでも連れら去られちまえ」


娘はただ黙っている。


「おめえなんて」


「おめえなんてな、ちこ、いなくなればいいんだ」


いなくなればいいんだ。


男の背の丈分、ちいこは顔をあげ男を見つめている。合わない視線の安堵から

きっと男の顔を 父親の顔を 見ていたのだろう。


男が顔を背けている時が

男を お父を 見る機会


こんな幼い娘っ子つうもんは、上手に顔色を見極める。見ることだけが長けるんだ。

機嫌を損なわないように、波風たてねえように

海風で倒れそうなこんな小屋の主であっても


生きるためには隈なく親の顔色を見定めなきゃならねえんだ。



なんでなんだろう。

なんで

お父は

こんなに苦しそうなんだろう。


なんでだろう。

お父は

いつも私に何か言った後

苦しそうなんだろう。


見ることに長けた幼い娘っ子っていうもんは

嫌いにさえなれりゃ楽なんだけどな。


自分のことを雑に扱い、欲の下に置かれてさ、

嫌な事言われて 嫌な事されて

なのにさ


嫌いになったりしねえんだ。


嫌いになれねえんだ。


嫌うということが何よりも不可能なことになっちまってる。


お父の苦しみを想うとちいこの胸は痛んだ。


痛みっていうものは不思議だ。


痛いと泣き叫ぶ者もいりゃ、痛いと気づかない者もいる。

自分の痛みよりも他人を痛みに敏感な奴もいる。


痛みをどう捉えるかは人それぞれだ。

痛みをどう感じるか、その深さはひとそれそれだ。


他人の痛みには敏感なくせに

自分の痛みには鈍感な者もいる。


こんな幼い娘っ子であっても、それに慣れちまうんだな。

本当はまだ、お母もお父も必要としている年頃なのにな。


いいこだ。

いい子だ。


何やったって

そう頭撫でられながら日々を過ごすことが、お役目だっつうのにな。


他人の痛みに敏感で自分の痛みに鈍感な奴ってな。

痛みに耐えられるから放っておかれる。


他から優しさをかけられることはねえんだ。

それが

たとえ幼い子であっても

たとえそれが、兄弟の間に在る違いであったとしても


こいつにはぶつけられる


そう理解したとき

自分に害が無いと分かった時


痛みに耐えられる側は

ごみ捨て場になるもんだ。


ちいこは

背を向け歩き出したお父を見つめていた。男は机の前に腰を落とした。


そして、

酒に手を伸ばした。


ちいこは急いでかけていき、さほど残っていないだろう、酒瓶を力強く取り上げた。


お父は

今日海へ出る。

酒は飲ませねえ。


飲んじゃならねえ。


小さな胸はそんな思いでいっぱいだった。男は酒を取り上げた娘をにらみつけ

左の掌でひっぱたいた。

小さな体は床へと転がった。両足が着物から露になる。


だめだ。

お父

酒は飲ませねえ。


身体は九の字を描くようにぎゅっと丸まった。その腕には酒瓶が固く抱かれている。

男は立ち上がると容赦なく娘をはたいた。

はたいて

蹴り飛ばした。


「よこせ」

怪物のような声を唸らせ娘にせまる。


娘は首を強く振る。男は力任せに髪をひっぱった。娘の顔が引っ張られた髪に縋り、床からあがる。


「おめえなんて、おめえなんて」


そう繰り返す男の言葉には

行き場のない怒りが鼓動と共に吐きだされている。



これは

この娘に対する怒りなのだろうか。



娘は歯を食いしばり横たわっている。その胸から決して酒瓶を放すことはない。

引っ張られていた髪は乱れていた。手入れされていないが、幼い娘特有のきれいな黒髪は

娘の顔をところどころ覆っていた。


せめて

せめて


この可愛いお顔だけは守ってやろう


この可愛いお顔だけには

手出しさせないようにしよう


何の助けにもならねえだろうけど

何の力にもならねえだろうけど


助けてやりてえ


そう思う 味方 がこの娘にいればいいなと思う。


男はあきらめたのか舌打ちをしながら娘から離れ、扉を開けて何処かへ行ってしまった。

海風が入ってくる。

さっき神社から帰ってくる時と同じ風だった。


ちいこは

自分の今持っている許される権利 呼吸 によって風を感じていた。


もう男はいない、お父はいない。


ちいこには

それが分かっていた。


でも

娘はまだ体を団子みてえに丸めたまま動かねえ。

酒瓶をかたく抱きしめたまま動かなかった。


娘は最後の最後まで酒を渡さなかった。



お父は

優しさに感づくと


私を叩く。



横たわったまま

ちいこはそんなことを考えていた。


そして

ようやく体を起こすと顔に張り付いた髪の毛を結わいた。

小さな指先が黒髪の間を滑る。慣れた手つきだ。髪を結い終わると酒を机へと置いた。


そして


どうか

お父が安全に海から帰って来れますように


そうつぶやいた。



そういうものなのだろうか。

どんなにひでえ父親であっても


娘というものは性懲りもなく


想うのだろうか。


支配によった得た副産物であった方がよっぽどましだ。


今夜からちいこはこの小屋に独りぼっちとなった。


幾日か経った明け方男はのそのそと帰ってきた。その手には新しい酒瓶を持っていた。

ちいこは駆け寄った。

男はちいこに一瞥をくれたが、言葉は何も発さないまま寝床へと向かった。


慣れたことだ。

ちいこは両手で着物をきゅっと掴んだ。


死なないで帰ってきてくれただけでいい


この思いはちいこの胸を安堵で包んだ。


この娘は砂浜でたった一粒しかねえ 星の形をした砂を探すみたいに


いいところを

見つけ出すんだな。



明くる朝

知らない男が一人家を訪ねてきた。その男はお父と一緒に話している。

仲が良いように見える。酒を共にし笑いあっている。お父の機嫌が良い。

ちいこの気持ちは安心した。


その時お父がちいこを呼んだ。


「ちこ、来い」


お父の言葉にちいこは二人のいる場所へ向かった。

ちいこは、初めて会うその男に頭を下げた。

「気の利かねえ娘だな」

お父は不快そうにちいこに舌打ちをした。


「まあまあまあ」

そう言って横の男は片手を振ってお父を宥めた。


「まだまだ幼い娘さんじゃないですか」


ちいこは

男の言葉に少しばかり嬉しさを感じてしまった。子供として扱ってもらえたことは

初めてだったからだ。ちいこは膝をつき名を名乗りながら頭を下げた。

その姿を訝し気にお父は見ていた。


そして

「ちいこという名だけどな」


お父は続ける


「三文字はもったいねえから、ちこ、二文字で呼んでる」


そういうと鼻で笑い酒を口にした。


「ちこちゃんか

どっちがいいのかな、ちいこちゃんと呼ばれるのと

ちこちゃんと呼ばれるのは」


男は優しく尋ねた。

「どちらでも」

ちいこは答えたが胸はドキドキした。こうやって 何かを尋ねられることは

初めてだったからだ。選んでいいと言われたことは初めてだったからだ。


「ちいこちゃんだな」


男はそう言って笑った。ちいこは頷いて笑みを見せた。お父は黙って二人の様子を

見ていたが それが気に食わなかったのか


「ちこ、おめえ

今日この家から出ていくことになった」


さも何でもないように言い放った。

今まであった

ちいこの笑みを切り裂いた。お父の言葉を聞いてちいこは固まった。


「おめえは、もうこの家の娘じゃねえ、この人と一緒に行くんだ」


お父の冷たい言葉とは真逆に男はにこにこと笑みをこぼしていた。


「分かったか」



捨てられた


ちいこは固まったまま動けなかった。泣くこともない、嫌だとも言わない。

少し時間をおいて


「はい」


ただそう頷いた。


「分かったならな 分かったならな」


「とっとと支度にかかれ」


お父の言葉が突き刺さる。


それと同時に


私が悪い子だったから仕方がない

私がちゃんとしていなかったからいけなかったんだ

幼い胸は自責で溢れた。


他責に転換出来るほど年かさ増してねえ。



悪い子はお仕置きされて当然だ

悪い子はお父に捨てられて当然だ


駄々こねることなく

現実をすんなりと受け止めるため自分に言い聞かせる。


悪い子だから仕方がない


いつかそうなる様な気がしていた

それを避けるため

いい子でいた


恐れによる創り出された 言うことを聞く ちいこ


その子が積み上げてきたものは

過ごしてきた日々は


無意味であった


ちいこはそんな思いに背を向けた。



娘には持っていくものは何も無かったが ただ一つ、お父が昔

「これはおめえのお母が置いていったものだ」

そう言って手渡した古い小さな巾着袋があった。貝殻の様に丸みを帯びていた。

ぼろぼろの布は元が何色なのか分からない。ちいこはそれを抱きしめた。


どうしてこんなにぼろぼろなんだろう


そう思ったことを覚えている。


きっとお父がずっと

持っていたに違いない。

いつか私に渡すために

ずっと持っていてくれたに違いない



娘っ子はどうしてもお父を悪者に出来ねえんだな。


お父を

悪く者にしちまったら


大嫌いになっちまうもんな。



ちいこは巾着袋を着物の襟もとに入れた。そして


落ちないでね


そう言うように着物の上からポンポンと優しく叩いた。


そして二人の居るところへと戻っていった。


「いい子にします 一緒に連れて行ってください」


ちいこは丁寧に頭を下げた。


男はその姿を見て笑みを見せ

「さあ、行くか」

そう言うと男は腰を上げた。ちいこは頷いた。


聞き分けのいい子だ。

男の後ろについて歩く。

文句の言いどころ無いほど 


いい子だ。

お父は右手を上げ

早く行っちまえ

そんな素振りを見せた


外へ出た。

この海風ともとうとうお別れね。


ちいこはその目に焼き付けるように海を眺めた。

そして

出来るだけ

胸いっぱいに海風を取り込んだ。


この場所で生きてきた分ね


そして息を止めた。


このまま一緒に持っていけたらいいのに


無理な希望を持つ。

特に思い出もない場所なのに離れる時には胸が

独りでに泣こうとする。


でもね

それを許可しない

止めた涙に何を押しとどめたのだろう


男は前を行く。

足早に歩く男の背を眺めながらちいこは足を止めた。


お父が見てくれているんじゃないか


そんな一抹の希望を一瞬持ってしまった。


ちいこは振り返った。



そこには誰も居なかった。

誰もいない空間を風が自由に行き来する。


うん

これで良かったんだ。


ちいこは

風に踊らされているおくれ毛を耳にかけた。ちいこの着物の裾はハタハタと音を立てている。


これで良かったんだ。



お父

さようなら


お父


ごめんなさい




声にはならない言葉は

届けることは不可能という枠の中に葬られた。



ちいこは駆けて男の後についた。




生きるって何だろう


生きるために

そこに居なければならない


生きるために従うしかない

生きるためにいい子でいなければならない




大人は

幼子達の 心の駆け引きを なぜ観れないのだろう


子供はな

大人のごみ捨て場じゃねえんだ


生まれながらにして賭けというものによって生かされる


命運が自分にない



このお父は後の後の世に、後悔とか自責とか持つべき罪悪感を

しっかりと

神の下


配分されることになる。


生きている時と死んでいる時 生まれ変わる時でさえ

全ての人間は

真っ当平等に出来ているもんだからな。



これは後の話だ。


この娘の後の姿はな


遊郭にて左の首元に簪を突き付けられる。

雪子を馬鹿にした女として


私にな。



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